10月15日の礼拝説教

ヨハネ福音書1:1~18

「初めに言があった」(1:1)

ヨハネ福音書の始まりの部分を読みました。1:1の、「初めに言があった」という言葉はとても有名で、読む人を引き込む力があります。しかし、有名な言葉であると言っても、この一文がどういう意味なのか、ということになると、私達は考えさせられるのではないでしょうか。何か深い真理が隠されていそうな言葉ですが、そこに隠されている真理とは何でしょうか。

最初の一文だけでなく、今日読んだヨハネ福音書の冒頭部分は謎めいた表現が続いています。この1:1~18の言葉については、学者の間でいろんな議論がされています。これは福音書の序文なのか。これはもともと讃美歌だったのではないか、これは詩文だったのか。14節までがひと固まりなのか、それとも18節までを一つの塊として読んだ方がいいのか。これはイエス・キリストの紹介文なのか、それとも洗礼者ヨハネのことを説明している文なのか。

聖書学者の間で交わされている専門的な議論はさておき、少なくとも言えることは、私達が今日読んだ冒頭部分がこの後続くヨハネ福音書のキリストの証言を理解するための手引きとなる、ということです。

この冒頭で、ヨハネ福音書のキーワードとなる言葉が中でたくさん出てきます。「初め、命、光、暗闇、証、この世、血、肉、独り子、栄光、恵み、真理」・・・これらの言葉は、福音書の本編の中で繰り返し出てくることになります。私達が正しくこの福音書のイエス・キリスト証言を受け取るために、この冒頭部分を丁寧に見ておきたいと思います。

そもそも、この福音書は何のために書かれたのでしょうか。新約聖書には、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書が入れられています。このヨハネ福音書は、他の三つの福音書が書かれてから少し時間が経って書かれた、と考えられています。三つの福音書が既にあったにも関わらず書かれた、ということは、他の三つの福音書とは異なった視点・異なった文体を用いて、改めて何かを伝えようとした、ということでしょう。

このヨハネ福音書は何のために書かれたのか、福音書の中にはっきり記されています。

「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」20:31

イエスこそキリストである、と信じて、命を受けるためである、と言っています。それでは、ヨハネ福音書が私達に伝えようとしている、「イエス・キリストの名によって与えられる命」とは何なのでしょうか。

私達は既に命があります。今、生きています。しかし、聖書が示そうとしている「命」は、私達が普段考えているのとは何か違う・何か特別な意味をもった「命」のようです。

主イエスはご自分が逮捕される夜に弟子達の前で最後の祈りを捧げられました。その祈りの中でこうおっしゃっています。

「永遠の命とは、唯一真の神であられるあなたと、あなたのおつかわしになったイエス・キリストを知ることです」

神を知り、キリストを知ることがそのまま永遠の命なのだ、と主イエスは祈っていらっしゃいます。聖書が私達に伝えようとしている「命」はこれなのです。

「永遠の命」は、私たちが思い浮かべるような不老不死のようなことではありません。神と共にあることです。私たちが生きるにしても死ぬにしても、神が共にいてくださる、キリストと共にいる、ということなのです。「永遠のインマヌエル」、それが永遠の命です。

イエス・キリストは、ご自分の使命について、ヨハネ福音書の中でこうおっしゃっています。

「私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をおつかわしになった方の御心を行うためである。私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである」6:38

肉体の死では終わらない、終わりの日の「復活」という希望をキリストはおっしゃいました。

福音書は2000年前、ゴルゴタの丘で十字架の上に上げられて処刑されたイエスという方を私たちに伝えています。この方を通して私たちは「永遠の命」を知り、「復活」を知り、肉体の死に勝る希望が見せられるのです。神の独り子イエスを知ること以外に神を本当に知ることはできません。

十字架で殺されたナザレのイエスとは、一体何者だったのか・・・これが、1世紀の人たちに残された謎でした。キリストの使徒たち、教会のキリスト者たちは、「十字架で殺されたイエスという方こそキリストであった」、と証言しました。

十字架刑の三日目の朝、復活なさったイエスに会った人たちがいました。その人たちが、誰にも信じてもらえないような死者の復活という神秘の出来事を証言し続け、そしてその数々のキリスト復活証言が集められて福音書が編み上げられていったのです。

もし、ナザレのイエスがただの政治犯であったというのであれば、誰も福音書など書いて後世に残そうとは思わなかったでしょう。「あの方の十字架は、旧約の預言者たちが、預言してきたメシアの到来と救いの実現だった」と、1世紀のキリスト者たちはイエス・キリストを指さしながら世に向かって証言し続けたのです。

しかし、世の人々は、キリスト者たちの証言をなかなか受け入れませんでした。今日読んだ冒頭の部分、1:5に「暗闇は光を理解しなかった」という言葉があります。その通りでしょう。これから私たちはヨハネ福音書を通してイエスという方のお姿を見ていくことになります。そして、福音書全体を通して描かれているのは、イエスがキリストである、ということを理解できない世の人々の姿なのです。

世の人々は、この方を神だと分かりませんでした。創造主だと分かりませんでした。救い主だとわかりませんでした。そして、この方が自分たちの罪を背負ってくださっていることにすら気づかず、十字架で殺したのです。

私たちはキリストのお姿を通して、光を理解しなかった暗闇、世の罪を見ていくことになります。それは私たち自身の罪に向き合うことでもあります。福音書の証言を通して、私達は自分自身に問うていきたいと思います。自分が信じたいようにキリストを信じていないだろうか。自分は、キリストに関して、信じたいところだけを選んで信じていないだろうか。誰にとっても、自分が信じやすいようにキリストを信じたほうが、都合がいいのです。

福音書には、分かりやすいことが書かれているのではありません。楽しいことだけが書かれているのでもありません。都合よく、わかりやすく解釈したくなってしまいます。

踏まえておきたいのは、この福音書は何よりもまず、神の招きに対する私たちの無理解を描いている、ということです。そして我々世の人間が、神の招きの言葉そのものであられたイエス・キリストを十字架へと追いやって行く様が証言されているということです。目を背けず、ヨハネ福音書を通して自分の罪に向き合っていきたいと思います。

さて、ヨハネ福音書は、他の三つの福音書と比べると独特の視点でイエス・キリストを描いている、ということをお話ししました。マタイ、マルコ、ルカ、それぞれの福音書は、主イエスがこの世にいらっしゃった時点から書いています。

しかし、このヨハネ福音書は、「初めに言があった」と、この世界の初めに遡って、そこからキリスト証言を始めています。天地創造以前に、「言」というものが神と共にあり、そしてその「言」は神であった、という、謎めいたことが言われるのです。

古代のギリシャ世界では、宇宙の理、世界の秩序の背景にあるものを「言」と呼んでいました。古代のユダヤ教では「知恵」という言葉で神の創造の秩序を呼んでいましたが、それとよく似ています。

1:18まで読むと、「言」とはイエス・キリストのことであることがわかります。1:1の「初め」は、創世記1:1と同じ言葉です。ヨハネ福音書はまず私たちを世界の初め、いや、天地創造の前にまで連れて行き、そこからキリストの証しを始めます。

そして天地創造の前にイエス・キリストがいらっしゃったこと、そして万物は全てキリストによって造られ、この方が人間を照らす光であられた、という根源に遡ってキリストを証しするのです。

ヨハネ福音書は、イエス・キリストのことを、単なる人間としてではなく、この世界の秩序の根源そのもの、「言」であると最初に私たちに示します。このことが、ヨハネ福音書を読む大前提となるのです。

創世記の初めで、神が言葉によってこの世界の秩序をお創りになったことが書かれています。「光あれ」、という言葉でこの世界に光が与えられ、そこから創造の秩序が整えられていきました。

万物はキリストによって創造され、キリストの内に命があり、その命が人間を照らす光であった、と冒頭で言われています。ヨハネ福音書は、イエス・キリストが世に来られたことを新しい天地創造の始まりであると告げるのです。

預言者イザヤは、神の言葉を伝えている。

「天が地を高く超えているように、私の道は、あなたたちの道を、私の思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も、空しくは、私の下に戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす」55:9以下

神はおっしゃいます。神の言葉は、空しいものではない。必ず、神がお望みになる実りを結ぶ。神は、ご自分の「言」に使命をお与えになりました。「言」であるイエス・キリストにお与えになった使命とは何だったでしょうか。

十字架でした。ヨハネ福音書が描いているのは、「光あれ」という神の創造の言葉によって、世の中が全て明るくなって皆が幸せになった、という幻想ではありません。この世に来てくださった光が、この世を照らして闇を浮き彫りにし、その闇を背負って十字架で死なれた姿です。

キリストは十字架の上で、「成し遂げられた」とおっしゃって息を引き取られます。何を成し遂げられた、のでしょうか。神の許しです。自ら人の罪を担い、神の元へと立ち返る道を切り開かれました。キリストは罪の許しを成し遂げられたのです。

神へと立ち返る道とは、すなわち、永遠の命に至る道です。復活の希望に至る道、永遠のインマヌエルの道です。

イザヤは預言しています。

「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。私の僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。・・・多くの人の過ちを担い、背いた者たちのために執り成しをしたのはこの人であった」53章

イエス・キリストがこの世にもたらしてくださった実り、それは私たちです。キリストを通して神を知り、神の元へと立ち返るキリスト者、永遠の命を知る者のことです。今、この世の中で、キリスト者が世の光となってキリストを証しし、神への立ち返りの道を示しています。これが、キリストがもたらしてくださった「実り」です。

キリストの使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の中でこう書いています。

「世界が造られた時から、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることが出来ます。」

私達は今、神がお創りになった世界に、自分の命を生かされています。そのことを神の言であるイエス・キリストを通して、知ることが許されました。私達の信仰の道は、キリストに示された永遠の命へと続いています。その道へと導き入れられた幸せをかみしめたいと思います。

希望をもって、これからヨハネ福音書を読んで行きましょう。