2月23日の礼拝説教

ヨハネによる福音書11章の1節から16節

マルタとマリアの姉妹が、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と主イエスに人を遣わして伝えて来ました。しかし主イエスはラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じところに滞在されます。愛しておられたラザロが病であると聞いても、そこを動かれませんでした。

「この病気は死で終わるものではない」と主イエスがおっしゃるのを聞いた弟子たちは、「死ぬほどの病気ではないのだろう」と思います。急いでラザロのもとに駆け付けることをせず、二日間同じ場所に滞在されたのだから、わざわざ主イエスが行って癒しの奇跡を行われなくても、寝ていれば治る程度の病気なのだろう、と理解したでしょう。

ラザロのところへはなるべく行かない方がいいのです。ラザロがいるベタニアは、エルサレムのすぐ近くにあります。エルサレムでは主イエスを捕えようとしたり、石を投げつけたりしようと、待ち受ける人たちがいました。今はヨルダン川の反対側まで避難してエルサレムから離れた場所に身を置いている方が安全です。ラザロが自然に治るのであれば、危険を冒してエルサレムの近くのベタニアまで行くことはありません。

しかし主イエスは三日目になって突然、「もう一度、ユダヤに行こう」とおっしゃいました。2日間なぜそこにとどまったのかの説明もなく、突然そんなことを言い出された主イエスに当然弟子たちは驚きました。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で撃ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」

弟子達は、自分たちの先生の心境に一体どんな変化が起こったのかを知りたがりました。しかし、主イエスのお答えはよく意味が分からないものだった。

「昼は12時間あるではないか。昼の内に歩けばつまずくことはない」

ラザロの病気と、昼が12時間あるということは何の関係があるのでしょうか。古代では1日を日の出と日没で2つに分けていました。一日の半分は昼だ、という当然のことを通して主イエスは何をお示しになろうとしたのでしょうか。

主イエスは9章でも同じようなことをおっしゃっています。「我々は、私をお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。誰も働くことのできない夜が来る。私たちは、世にいる間、世の光である」9:4

主イエスが世にいらっしゃる間の時のことを、主イエスご自身「昼」と呼ばれています。「昼」のうちに、つまり主イエスが世にいらっしゃるうちに、ラザロを市の暗闇から起こす必要があるとおっしゃっているのです。

弟子たちは主イエスの言葉の意味を、表面的にしかとらえることはできませんでした。

主イエスが死んだラザロのところに向かわれるのは、弟子達のためでした。「あなた方が信じるようになるためである」とお伝えになっています。

「私たちの友であるラザロが眠っている。しかし私は起こしに行く」

それを聞いて、弟子たちはラザロがただ単に眠っているものだ、と勘違いしました。そして「ただ眠っているだけなら先生がわざわざ行かなくても彼は一人できちんと回復するだろう」と考えました。それよりも、エルサレムの近くに行って、主イエスが石を投げられたり捕えられたりする危険の方が怖かったでしょう。

主イエスの言葉の表面しか捉えられていない彼らに、主ははっきりとおっしゃいます。

「ラザロは死んだのだ」

ヨハネ福音書は、4つの福音書の中で一番理解しにくいものかもしれません。イエス・キリストはいつでも、霊的な言葉でお話しなっています。字義通り、額面通り、表面的に受け止めても、主イエスが何をおっしゃっているのかよくわからない言葉が多いのです。この福音書に込められた霊的な意味を、私たちは探っていくことを求められています。

ラザロは眠っている、とおっしゃる主イエスの言葉を聞いて、弟子たちはそのまま受け取りました。しかしキリストがおっしゃるのは、ラザロは死んでしまった。それでも、キリストの前では一時の眠りにしか過ぎないということでした。

私たちはイエス・キリストの復活を知っています。だから、十字架の死という悲劇も、悲劇と絶望で終わることはなかったということを知っています。キリストの死と復活という信仰者の視点に立つと、この弟子たちの無理解は滑稽に映るでしょう。

しかし、ヨハネ福音書が今の私たちに伝えているのはこれなのです。「世は光を理解しなかった」、という福音書の冒頭の言葉を、私たちは弟子たちやユダヤ人たちの姿を通して見せられています。

そして、私たちが生きている今のこの世の中にも、一体どれだけのキリストに対する無理解があるか、ということを見せられるのではないでしょうか。私たち自身も、この世の無理解に流されていないかどうかを問われています。

イスラエルの教師ニコデモは、キリストから「新しく生まれなければ神の国に入ることはできない」と言われたら、「もう一度母の胎に入って生まれることが出来るでしょうか」と言いました。サマリア人女性も、主イエスがおっしゃる「命の水」のことを単なる井戸の水と考えました。

皆、そうなのです。イエス・キリストのことを表面だけで理解しようとし、知ったつもりになっているのです。だからこそ、キリストをまだ知らない人たちのために、いろんな形でこの世を超えたしるしをお見せになるのです。

主イエスは弟子たちにおっしゃいます。「私がその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなた方が信じるようになるためである。」

イエス・キリストのことをどのように信じ、従えばいいのかまだわからなかった弟子たちにとって、死んでいる人を蘇らせるということほど大きな奇跡はありません。弟子たちはこの後、ラザロが墓の中から呼び出されるのを目撃することになります。そしてゴルゴタの丘で殺された主イエスご自身の墓が空っぽになるのを見ることになります。

彼らは復活なさったキリストに出会い、キリストが蘇られたように、自分たちも復活へと導かれていることを知るようになるのです。終わりの日に、ラザロよ、出てきなさい、とおっしゃったあのキリストの御声が自分に向かっていることを、聖書を通して知らされるのです。

使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の中でこう記している。

「神を愛する者たち、すなわち神の計画に従って召された者たちにとっては、万事が益とされるように共に働くということを私たちは知っています」8:28

私たちには、神がどのように私たちを信仰へと導き、そして私たちが次の人を信仰へと導かせるのか、その全て自分の目で見ることはできません。ただ、神の見えざる手が私たちに及び、私たちの思いを超えて、ご自分の救いの御業を進めていらっしゃるのです。

ラザロの病・ラザロの死が、やがて弟子たちをキリストの使徒としてその信仰を強めることになるとは誰にも予測できなかったでしょう。

主イエスは、後に弟子たちにこうおっしゃいます。

「麦の種が地に落ちて死なないなら、それは一粒のままで残る。だが、もしも死ぬなら、多くの実を結ぶ」12:24

ご自分の十字架の死が、世の人々のために神への立ち返りの道を切り拓くことになることをそのようにおっしゃったのです。

この歴史の中でキリストの死がなかったらどうだったでしょうか。神を知らずに生きるか、神を自分で作り出して生きるか、どちらかだったのではないでしょうか。

しかし、神は独り子をお与えになるほど世を愛してくださいました。そして、私たち信仰者がキリストの死に与る者であるなら、私たちの死も、一粒の種が地に落ちてやがて実を結ぶように、用いていただけるはずです。

ラザロの死はそのように用いられました。信仰者の生と死は、必ず神が深み御計画の内で用いてくださいます。

弟子たちはイエス・キリストがおっしゃっていることが、その時はよくわかりませんでした。彼らはただ単に、「ラザロは眠っているだけだろうし、ユダヤに戻ることは危険を冒すだけのこと」だと考えました。

しかし、弟子のトマスは主イエスの弟子として、最後まで従い抜こうとほかの弟子たちに言います。「私たちも行って、一緒に死のうではないか。」危険をおかしてまでラザロのもとに行こうとされる主イエスのお姿に感動したのでしょう。勇ましいことを言っています。

トマスをはじめ、弟子たちは主イエスがおっしゃっていることがよくわかっていませんでした。トマスが主イエスと一緒に死ぬほどの覚悟があったのかどうか、また主イエスのことをどれほど理解していたのか、ということは、後になって明らかになる。トマスも、他の弟子たちも、主イエスが逮捕された時、散り散りに逃げ去ってしまうことになる。

そして主イエスの墓が空になった時、他の弟子たちが主イエスの復活を証しても、トマスだけは信じませんでした。「私たちは主を見た」と言うほかの弟子たちに向かって、トマスは言います。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘後に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない」20:25

人はどうしてもキリストの言葉を、聖書の言葉を、その表面だけで判断してしまいます。しかし、その時わからない言葉でも、またわかったつもりになった言葉でも、本当の意味を時間が教えてくれることがあります。

イエス・キリストの復活の後、弟子たちはそれを体験したのではないか。

「先生があの時おっしゃった言葉は、こういうことだったのか。あの時なさった御業にはこういう意味があったのか」と、キリストの復活を通して一つ一つを思い出すと、その意味を新たにとらえなおすことが出来たのでしょう。

私たちも同じです。自分の生活の中に起こる様々なことが、キリストの十字架を通して、キリストの復活を通して、後にその意味を知る、ということはあるだろう。

弟子たちの前にラザロの死が置かれたことは、弟子たちにとって意味があることでした。キリストの死が一粒の種であったように、ラザロもまた今、一粒の種として神に用いられているのです。

皮肉なことですが、「一緒に死のうではないか」と勇ましかった弟子たちは、主イエスと一緒に死ぬことにはなりませんでした。主イエスが逮捕される最後の夜、主イエスご自身に足を洗っていただいたペトロは「主よ、あなたのためなら命を捨てます」とまで言いました。

しかし、結局十字架の上で死ぬことになったのはイエス・キリストお一人でした。弟子たちは皆散り散りに逃げ去ることになります。

「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃった主イエスの死が、弟子たち全員を、またこの世のすべての人を生かすことになるのです。

私たちにとって死とは何でしょうか。確かに恐ろしいものです。誰も避けて通ることが出来ないものです。できれば、考えたくないものです。

しかし、聖書は私たちを死に向き合わせます。そして死が全ての終わりではないことを伝えようとしているのです。肉体の死の向こう側にまで、キリストと共にある命が続くことを教えているのです。

使徒パウロは、コリント教会にこう書いている。

「キリストが復活しなかったのなら、あなた方の信仰は空しく、あなた方は今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、私たちはすべての人の中で最もみじめなものです」1コリ15:17

私たちはイエス・キリストへの希望を抱いています。しかしそれはどんな希望でしょうか。この世の生活の中「だけ」でキリストに望みをかけているのだとすれば、確かに空しいでしょう。全て、死で終わってしまいます。

しかし、イエス・キリストは、ラザロについて「この病気は死で終わるものではない」とおっしゃった。死は全ての終わりではない、ということこそ、私たちに伝えられている神秘に満ちた希望なのです。終わりの日に自分の名前が呼ばれるまでの眠りです。

私たちの名を呼んでくださるのは、イエス・キリストです。死に打ち勝たれた方が、私たちに永遠の命を、復活の希望を約束してくださいました。私たちには、この世の生活の向こうにまで続く喜びがその方から与えられていることを、しっかりと覚えて生きていきたいと思います。