8月31日の礼拝案内

次週 礼拝(8月31日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書

 交読文:詩編19:8~11

讃美歌:讃詠546番31番、194番、396番、頌栄539

【報告等】

◇9月21日 田園調布教会の方々が訪問してくださいます。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後 Continue reading

8月24日の礼拝説教

ヨハネ福音書15:22~27

ヨハネ福音書のはじめに、「暗闇は光を理解しなかった」と書かれています。「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。

神は世を照らす光としてこの世に独り子を送られました。イエス・キリストは「この世を暗闇のままにはしておかない」、という神の救いの御心そのものでした。

福音書の序文にあるように、イエス・キリストはこの世に神の招きの言葉を伝えに来たにも関わらず、反対と憎しみをお受けになりました。しかし、ここまで私たちが見てきたように、光であるイエス・キリストが世に来られることによってこの世には影も生まれたのです。その影はイエス・キリストのことを神の子・世の光として見ることなく、ナザレのイエスの宣教とその弟子たちの働きを「危険なもの」とみなしました。

私たちは今日、イエス・キリストが、弟子たちが受けることになる迫害の予告をされる言葉を読みました。なぜキリストの弟子たちは世から憎まれることになるのでしょうか。キリストの弟子達が世に憎まれるのであれば、キリスト教会も憎まれるということでもあります。なぜキリスト教会がこの世から迫害されなければならないのでしょうか。教会はそんなに悪い集団なのでしょうか。

キリストは旧約聖書の言葉を引用してこうおっしゃいます。

「人々は理由もなく私を憎んだ」

これは詩編の言葉です。キリストが世に憎まれた理由、キリストに従う教会が世に憎まれる理由はこれなのです。つまり、「理由はない」と言うことです。

「人々は理由もなく私を憎んだ」というのは、詩篇35編19節の言葉です。詩編35編は無実の人が裁判で訴えられる苦しみを歌ったものです。

「不法の証人が数多くたち私を追求しますが私の知らないことばかりです」と詩人は神に訴えます。そして35編の19節で「無実な私を憎む者が、侮りの眼で見ることがありませんように」と語ります。

この

「無実な私を憎む者」というのが、キリストが引用された詩篇の言葉です。無実な人を憎む、ということにはどんな理由があるでしょうか。理由などありません。無実の人を憎むことで自分が安心できる人が、そうするのです。

キリストは「彼らの律法にそう書いてある」と皮肉を込めておっしゃっています。「彼らの律法」と言っても、律法は聖書のことですから一つしかありません。「私の律法」「あの人の律法」などという表現は本当はおかしいのです。キリストが「彼らの律法」とおっしゃるのは、「彼らが勝手に自分に都合よく解釈している律法」という皮肉が込めていらっしゃるのです。

ヨハネ福音書の9章に、イエス・キリストが目を開かれた盲人がパリサイ派の人たちによって会堂から追放された、という事件が書かれています。目が見えなかった人が確かにキリストによって癒され見えるようになりました。その人の両親も、そのことを証言しました。それなのにファリサイ派の人たちは癒された盲人を「罪びと」と呼び、会堂から追放しました。

それは人々の心が自分達からナザレのイエスに移ることを恐れてのことでした。世は、このようにして無実の人を憎み、自分を守ろうとするのです。神の言葉、神の御業ではなく、自分の立ち位置を守る方が大切なのです。

今でもこのことは変わっていません。今でも、キリスト者が侮られたり、キリスト教信仰をバカにされたり理解してもらえないことの方が多いでしょう。当然です。イエス・キリストがそうだったからです。

キリストはこの世の中でどんな悪いことをなさったのでしょうか。殺されなければならないような罪を犯されたでしょうか。理由などありません。人々は自分の立ち位置を守るためにナザレのイエスに罪びととしたのです。

皮肉なことですが、その罪は、この方が背負ってくださったこの世の罪・自分たちの罪でした。しかし彼らはそのことに気づきませんでした。私たちのキリストへの信仰が理解されないということには、なにかこれという理由があるのではないのです。この世の中でキリストの光が示されたところには影もできる、ということです。

主イエスはこの世の人全てを否定されているわけではありません。ここでは、実際にご自分のことを非難してきたユダヤ人たちのことをおっしゃっています。

イエス・キリストの全ての言葉はこの世を神の元へと導く救いの言葉でした。しかしユダヤ人たちはイエス・キリストの言葉を無視しました。キリストの福音宣教は、この後イスカリオテのユダに先導されるユダヤ人たちによって逮捕されて終わります。

22節で、主イエスは恐ろしいことをおっしゃっています。

「私が来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない」

イエス・キリストの言葉を知らないというのであればまだ弁解の余地はあったのです。しかし彼らは実際にキリストの言葉を聞き、何度もキリストの業を見て、その上でキリストをこの世から排除しようとしました。

キリストの言葉・業を受け入れないということは、キリストを憎むということです。そしてここでおっしゃっているように、キリストを憎む人はキリストの父である神を憎むということです。

キリストはご自分と神と弟子達のつながりについてお話なさいます。弟子たちを愛する者はキリストを愛するのであり、キリストを愛する者はキリストを遣わされた父なる神を愛するということなのだから、弟子たちを憎む者はキリストを憎むということであり、弟子達を迫害する者は神を迫害するということであることが示されています。

今、教会はこの世からどのように見られているでしょうか。私たちの信仰はただ辛いだけのものなのでしょうか。神を信じているというだけでバカにする人多いでしょう。キリストを信じているというだけで、「どうして外国の宗教を信じるのか」と言われることもあるでしょう。

私たちは、論理的に相手を説得してキリストを信じさせるようにすることはできません。なぜ自分がキリストを信じるようになったのか、信じ続けているのかを説明してわかってもらうことも難しいでしょう。キリストが人々から言われたように、しるしを見せてみろ、証明してみろと言われても何も言えないし何もできないのではないでしょうか。

しかしそれでもキリスト者はキリストのもとに留まります。言葉で説明できない何かによって私たちはキリストにつながっているからです。キリストはそれを真理の霊と呼ばれます。

イエス・キリストがこの世で福音宣教なさって、十字架の直前まで実際に従い抜くことができたのはたった12人でした。そしてこの夜、1人が裏切るために去って行きました。あとの11人も、主イエスの逮捕を見て、全員が逃げ出します。

イエス・キリストに本当の意味で従う群れができたのはキリストの復活の後なのです。聖霊が注がれてそこから初めてイエス・キリストの言葉と技の意味が示されました

私たちの信仰もそうだったのではないでしょうか。あの時はイエス・キリストなんて知らなかったし信じてもいなかった。しかし後になってあの時キリストは本当に私と共に歩んでくださっていたことが分かった、と思える瞬間があるのです。聖霊を通して、キリストへと導いてくださる言葉や出会いが与えられるのです。今でも、そしてこれからも与えられ続けるのです。

ここでのイエス・キリストの言葉は法廷での弁論のように聞こえます。自分がイエス・キリストの言葉と業に対して、自分たちがどう向き合ってきたのか、ということを振り返らされるのではないでしょうか。

私たちは世の終わりに神の前に立たされた時、神から何と言われるでしょうか。

「私の言葉を聞いて、私の業を見ても、あなたは信じなかった。あなたにはもう弁解の余地はない」

この世の終わりにキリストからそう言われることほど恐ろしいことはないでしょう。では、今私たちがどう生きるか、ということです。

私たちが声高にイエス・キリストのことを叫んでもうこの世はあまり聞こうとしません。「自分には関係のないことだ。自分はキリストを知らなくても充分立派に生きていける」。皆そう言うでしょう。

そう言われると私たちはそれ以上何も言えなくなってしまいます。では私たちは何ができるのでしょうか。祈ることです。礼拝向かい続けることです。キリスト者が祈る姿が、また礼拝に身を置く姿が、何よりイエスキリストを証する力を持っているのです。

忘れてはならないと思います。聖霊は祈る群れに注がれました。立派な人が集まって「自分たちの力で教会をつくろう」と言って、踏み出したのではありません。どっちに向かって踏み出していいのかわからず祈るしかなかった群れに聖霊は注がれました。そして語るべき言葉と行くべき場所が示されていったのです。

使徒パウロは手紙の中で書いています。 Continue reading

8月24日の礼拝案内

次週 礼拝(8月24日)】

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 聖書:ヨハネ福音書15:22~27

 交読文:詩編19:8~11

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8月17日の礼拝説教

 ヨハネ福音書15:18~21

イエス・キリストの告別の言葉を読んでいます。別れを目にして、残された時間が少なくなっていく中、キリストは一番伝えたいこと、伝えなければならないことを弟子たちにお話になりなります。

キリストは弟子たちに、「これから私たちは離れ離れになるけれども大丈夫だ」、とおっしゃいました。先生と離れ離れになりたくないと思っている弟子たちにとって何が「大丈夫」なのでしょうか。キリストと弟子達とのつながりは決して無くならない、だから「大丈夫だ」とおっしゃいます。

弟子たちは、自分たちが主イエスから愛されていること、主イエスが父なる神から愛されていること、そして神が世を愛されていることを聞きました。そしてそのつながりの中から自分たちの信仰が実を結んでいくこと教えられます。

弟子たちの元を去って行かれるイエス・キリストとどのようにつながることができるのでしょうか。「心配しなくてもいい、私の父の家には住むところがたくさんある。あなたたちのために場所を用意して戻ってくる」とキリストはおっしゃいます。

その言葉を聞きますと、弟子たちはこれからキリストと離れ離れになるけれども、またキリストが自分達を迎えに来てくださる。そしてその後にはもう何の苦労も無く、キリストによって平坦にされた道を静かに歩んでいくことができる将来が約束されているかのように聞こえます。

しかしイエス・キリストはここでおっしゃいます。

「世があなた方を憎むなら、あなた方を憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい。あなた方が世に属していたなら世はあなた方を身内として愛したはずである。」

キリストに従うがゆえに受けることになる憎しみがある、とおっしゃいます。キリストに従う信仰の道の上で、弟子達は、またキリスト者はこの世から憎まれることになるのです。

案ずることはない、心配することはない、私とあなたたちとのつながりはなくなることはない、大丈夫だと、告げながら、その先にはイエス・キリスト共に担う苦しみがあるということも明らかにされるのです。

信仰とは何でしょうか。キリストを信じるということはどういうことなのでしょうか。信仰の道を歩めば、たくさんのいいことが降って来て、この世の憎しみなどとは無縁になることのように期待します。しかし、キリストは甘いことをおっしゃいません。

使徒言行録には、後々弟子たちがどのような苦しみを担うことになったのかが記録されています。キリストがここで予告なさっているように、弟子たちはイエス・キリストのお名前をこの世で伝えていくために様々な試練と苦難の中を生き抜きました。

ナザレのイエスという方に何が起こったのか、またそれはどんな意味があったのかを伝えようとしても、受け入れる人よりも受け入れない人たちのほうが多かったのです。ある時は牢に入れられたり、鞭で打たれたりもします。

それでも弟子たちは、キリストの使徒として宣教の業を投げ出すことはしませんでした。キリストの十字架と復活の証人として、自分が置かれた場でキリストを証しし続けたのです。命の危険を感じるほどのことがあっても、それを越えて彼らはキリストの証を続けました。

なぜでしょうか。弟子たちが、キリストの十字架と復活を見て、この夜自分たちに告げられたことの意味を理解したからです。

使徒言行録の五章の最後を見ると、迫害の中でそれでも喜んでいる弟子たちの姿が書かれています。「使徒たちはイエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ」とあります。

教会の迫害者でありながらキリストに召されて使徒とされたパウロは、フィリピの教会の人たちにこう書いています。

「私にとって生きることはキリストであり、死ぬことは有益なのです。・・・あなた方には、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも恵みとして与えられているのです」

新約聖書に入っているフィリピの信徒への手紙はパウロが獄中から書いた手紙です。「獄中書簡」と呼ばれていますが、同時に「喜びの手紙」とも呼ばれています。パウロは「自分が監禁されているのはキリストのためである」と喜ぶのです。

ペトロも手紙の中で言っています。

「キリストは罪の為にただ一度苦しまれました。正しい方が正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなた方を神の元へ導くためです。」

「義の為に苦しみを受けるのであれば幸いです」

「愛する人たち、あなた方を試みるために身に降りかかる火のような試練を何か思いがけないことが生じたかのように驚き怪しんではなりません。むしろキリストの苦しみに与れば与るほど悦びなさい・・・あなたがたはキリストの名のために非難されるなら幸いです・・・キリスト者として苦しみを受けるのなら決して恥じてはなりません」

なぜイエス・キリストの弟子は、そしてキリスト教会はこの世から逆風を受けるのでしょうか。イエス・キリストがそうだったからです。キリストは人々の心を天に向けようとなさいました。しかし、この世に目を向けていた人、心をこの世に留めていたい人たちからは憎まれたのです。ヨハネ福音書1:11に光がご自分の民の元に来たけれども、民は光を拒絶したと書かれている通りです。

キリストと同じ道を歩むということは、その逆風をキリストと共に受けるということなのです。キリストは弟子たちにおっしゃいました。「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ」

イエス・キリストがこの世を神の元へと導くために、苦難の道を行かれるのであれば、キリストに従う人たちも同じ信仰の苦難の道を行くということでしょう。この世がイエス・キリストを迫害するのであれば、キリストに従う信仰者たちのことも迫害するということでしょう。私たちがイエス・キリストよりも優れた者となってキリストに向けられた逆風が吹かないなどということはないのです。

しかしなぜキリスト者はこの世からの逆風を受けるのでしょうか。どの福音書でもキリストに従う信仰者達への苦難がキリストご自身の口から前もって言われています。

なぜキリスト者たちは迫害されなければならないのでしょうか。愛に満ちたイエス・キリストの教えが素晴らしさを知れば、みんな自然に私たちが言うことを受け入れて私と同じ道を歩くようになって、キリストを求め始めるのではないでしょうか。

キリストの時代、また弟子たち・使徒たちの時代は、ローマ帝国は宗教に対して非常に寛容でした。いろんな宗教がありましたが、それぞれの宗教がローマ皇帝への尊敬や忠誠を邪魔しない限りは許されていました。

当時はローマ皇帝が神の子として神の権威を持って政治にあたっていました。しかし1世紀のキリスト者たちは、神は唯一の神でありイエス・キリストこそがまことの神の子であり、ローマ帝国は神の子ではないという信仰を持っていました。

そのようにローマ皇帝のことをただひとりの人間として捉えイエス・キリストがメシアであり神の子であり従うべき方である、と信じる信仰は危険視され、ローマ帝国の中で迫害されることになったのです。

更にキリスト者たちは同じ時代のユダヤ人たちからも迫害されました。キリスト者たちは、主イエスのことをキリストと呼び「主」と呼びました。「主」という呼び方は、ユダヤ人たちが神に対して用いた称号です。

イエスという人間に対して「主」という言葉を使うことは、人を神とすることであり、偶像と変わらないと思ってユダヤ人たちはキリスト者を迫害したのです。

十字架の上で殺されたナザレのイエスを主と呼び神の子と信じることはローマ人にとってもユダヤ人にとっても受け入れられることではなかったのです。

私たちがキリストを伝える「世」とは、そのような相手です。今も変わりません。「キリストに従いなさい」、と伝えることは、「昨日までの自分を捨てなさい」、ということです。

「今あなたが信じている何か以上に、信じるべき方です」とか「あなたが大切に思っている何か以上に、大切にすべき方です」と言われると、それまでの自分を捨てることになります。当然、良くは思われないでしょう。

キリストを十字架へと追いやり我々キリスト者を迫害するであろうと言われている「この世」に対して、また、今私たちが実際に生きて、キリストを伝えるために遣わされている「この世」に対して、私たちはどのような姿勢であればいいのでしょうか。

この後を読んでいきますと、この世はますます主イエスを憎み主イエスを逮捕します。そして十字架に上げられる前に、ポンテオ・ピラトから尋ねられます。

「お前がユダヤ人の王なのか」 Continue reading

8月10日の礼拝案内

次週 礼拝(8月10日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書15:18~21

 交読文:詩編19:8~11

讃美歌:讃詠546番28番、124番、287番、頌栄539

【牧師予定】

◇8月13日~15日 東支区中高生キャンプ参加

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

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8月3日の礼拝説教

 ヨハネ福音書15:9~17

別れの瞬間が迫っている中で伝える言葉は、普段の会話よりも重みが増します。限られた時間の中で一番伝えておかなければならないことを相手に伝えようとするので、慎重に言葉を選び、心を込めて相手に伝えようとします。思いが凝縮されたその言葉を、受け取る方もひと言も聞き逃さないようにと真剣に向き合います。

主イエスはご自分と弟子たちがこれから物理的に離れることになってしまうことをお伝えになりました。弟子たちにとっては驚きであり悲しみの報告でした。生きて行く希望が突然目の前から消えてしまうような思いを感じたでしょう。

しかし主イエスはこれから起こる別れはすべての終わりではない、ということを示されます。たとえ離れ離れになってお互いが見えなくなったとしても、主イエスと弟子たちとの関係までなくなってしまうわけではないのです。

ぶどうの枝がぶどうの木につながっているように「私につながっていなさい」と主イエスはおっしゃいます。枝が幹につながっていることで実を結ぶように、弟子たちはイエス・キリストにつながり続けて神を求めになる収穫の実を結ぶことが期待されているとおっしゃいます。

「私はぶどうの木。あなた方はその枝である。人が私につながっており私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」

イエスキリストが万感の思いをこめて弟子たちに示された、キリストにつながる人たちが結ぶ実とは何でしょうか。

詩編104編15節「葡萄酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ、パンは人の心を支える。」

神につながっている生活の喜びが歌われています。私たちがイエス・キリストにつながり、また神につながっているということが「信仰の喜び」という実を結んで行くことになるのです。

では、具体的に「信仰の喜び」とは何でしょうか

詩編133編1節「見よ、兄弟がともに座っている。なんという恵み、なんという喜び」

キリストを信じる者たちがキリストに繋がることによって共に座っている、そのことがすでに大きな喜びなのです。それ自体が信仰の交わりが結ぶ実なのです。私たちはこの礼拝の中にその喜びを見出すことができるのではないでしょうか。

キリストは9節で「私はぶどうの木、わたしにつながっていなさい」ということを別の表現でおっしゃいます。

「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛してきた私の愛にとどまりなさい」

イエス・キリストにつながるということはつまり、イエス・キリストの愛につながる、とどまるということなのです。

キリストは弟子たちに「私があなた方を愛したようにあなたがたも愛し合いなさい」とおっしゃいました。そしてここでは「父が私を愛されたように」とあります。神の愛がキリストに注がれ、そのキリストの愛が弟子たちに注がれ、弟子たちはキリストの愛にとどまることになるのです。

イエス・キリストの愛にとどまるという信仰の業がここまで脈々と受け継がれてきました。それがキリストから与えられた掟だったからです。弟子達・私たちがキリストの愛に留まるのは、何のためでしょうか。

「私の喜びがあなた方のうちにあり、あなた方の喜びが満たされるためである」とおっしゃっています。ぶどうの枝がブドウの木の幹から栄養を与えられて実を結ぶように、私たちもキリストにつながりそこから喜びをいただいて満たされていくのです。

主イエスは、ご自分の父であられる神こそが愛の源であることをおっしゃっています。父なる神がキリストを愛されるということがあって、私たちキリストに愛されるということがある、そしてキリストに愛されるということがあって私たちは互いに愛し合うということができるのです。このことが信仰の実を結んでいきます。キリストの愛に留まる人たちが互いに愛し合い、キリスト教会という信仰の実が大きくなっていくのです。

弟子たちはただ単に「愛し合いなさい」と言われたのではありません。「イエス・キリストに愛されたように」互いに愛し合いなさいという掟でした。

キリストがどのように弟子たちを愛してくださったのかを思い起こし、弟子たちは共に愛し合うことになります。そのように弟子たちが愛し合うことによって、それがやがてキリスト教会の中での互いにつかい合う姿勢を育んでいくことになっていきます。

私たちが今読んでいるこのキリストと弟子たちとの最後の夜こそ、我々キリスト者が立ち返るべき愛の姿と私たちの愛の源が示された時なのです。どこから来て、私たちがどこにとどまり続けるべきなのかという、信仰の道が明らかにされています。

キリストの使徒パウロはローマの信徒への手紙11章の最後でこう書いています。

「すべてのものは神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように。アーメン」

すべてのことは神の元から出て神に帰っていく・・・イスラエルの罪と救いの歴史を振り返りパウロが至った結論はこれでした。すべてのことが神から出て神によって保たれ神に向かっていくのです。

パウロは続けてこう言います。「こういうわけで兄弟たち神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄として捧げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です。」

私たちはなぜ礼拝を続けているのでしょうか。キリストの弟子たちやパウロのように直接イエスという方と言葉を交わしたこともないのに、です。

自分たちの愛の限界を知っているからではないでしょうか。私たちの愛情よりも大きな愛を注がれ、それが歴史の中で示され。その愛によって真に生かされているということを知って、私たちは礼拝という業を続けているのではないでしょうか。

だから私たちは礼拝をするのです。キリストが私たちに身を捧げてくださったように、私たちもキリストのために身を捧げ、礼拝を通して隣人に仕えていくのです。

主イエスがおっしゃる愛とはどのような形を伴うのでしょうか。主イエスは僕として、弟子たちの前にひざまずいて足を洗われました。そして、良い羊飼いは羊のために命を捨てる、とおしゃいました。そして十字架の上で世の許しのために全ての罪を担い、世のために死なれました。

「友の為に命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と主はおっしゃいます。「友のために」というのは「友の代わりに、身代わりになって」ということです。友が生きるために自分が犠牲になるということまで含まれた言葉なのです。

イエス・キリストはこの夜、弟子達に、「あなたがたが私を選んだのではなく、私があなた方を選んだ」とおっしゃいました。普通ユダヤ教のラビは自分で弟子を探すことはしません。若い人たちが自分の先生を探して回って、弟子にしてもらうよう頼みこみます。

主イエスの弟子達も、自分で先生を選び、自分の意思でここまで従って来た、と思っていたでしょう。しかし主イエスは、彼らが主イエスを選んだのではなく、主イエスご自身が、彼ら一人一人を選ばれた、ということを明言されました。

主イエスがどういう基準で弟子を選ばれたのかは私達には分かりません。弟子達を一人ひとり見ていくと、むしろなぜこんなにも不完全な人たちを選ばれたのかと不思議に思います。

むしろ、その不完全さ、彼らのつまずき、信仰の弱さまで、主イエスは大切にいつくしんで彼らを選ばれたのです。不完全だからこそ、イエス・キリストにつながっていなければならない人たち、弱いからこそ、キリストにつながり自分では結び得ない収穫の実を結ぶ道へと招き入れられたのです。

弟子たちはこれからキリスト教会の芽生えとなっていく人たちです。彼らの中心には何があったのでしょうか。それはイエス・キリストから愛され、許されたという事実です。そしてキリストの許しと愛を受けた者として、互いにそれを実践しなさいと言われたことです。

「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」というキリストのご命令、そして罪の赦しの恵みに打たれた彼らの祈りがありました。彼らは祈らなければやっていられなかったでしょう。キリストを見捨て、キリストを知らないと言ってしまったあの夜の記憶は消えないのです。

私たちはどのように教会につながるのでしょうか。教会が「愛の共同体」であるというならば、その愛というのはキリストの愛のことです。私たち一人ひとりが、特別に愛が深くて、そのような立派な人たちが自分の意思で集まって教会を作り上げているのではありません。

このような自分でもキリストは許してくださったという愛に打たれ、その許しの中でしか立ちえない人が集まって、共に祈る群れがキリスト教会です。その祈りの中に、同じように思う人が一人、また一人と与えられ、キリストの愛の共同体は続いていくのです。 Continue reading

7月20日の礼拝説教

 ヨハネ福音書14:22~30

イエス・キリストが「私は去っていくがまたあなた方の所へ戻って来る」とおっしゃると、弟子たちの心は騒ぎました。これから先生が自分達から離れて行かれるということを聞かされるたびに、弟子たちのうち誰かが主イエスにもっと詳しくどういうことか聞かせてくださいと質問しました。

「私が行くところにあなたたちは来ることができない」と言われると、一番弟子のペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか」と質問しました。

「私の父の家には住むところがたくさんある・・・行ってあなた方のために場所を用意したら戻ってきてあなた方を私のもとに迎える・・・私がどこへ行くのかその道をあなたがたは知っている」と主イエスがおっしゃると今度はトマスが言いました。「主よ、どこへ行かれるのか私たちには分りません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」

主イエスはお答えになります。「私は道であり真理であり命である。・・・今からあなた方は父を知る。いやすでに父を見ている」

すると今度はフィリポが「主よ、わたしたちに御父を示してくださいそうすれば満足できます」と言いました。

主イエスは「私を見た者は、父を見たのだ」とおっしゃいます。「私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わし永遠にあなたと一緒に居るようにしてくださる。・・・私はあなた方をみなしごにはしておかない。」

今日私たちが読んだのは、ペトロ、トマス、フィリポに続いてなされた、イスカリオテでない方のユダの質問です。「主よ、わたしたちにはご自分を現わそうとなさるのに、世にはそうなさらないのはなぜでしょうか」

このユダという弟子について、私たちは何も知りません。ただ福音書や使徒言行録の中でユダという名前だけが出てくるだけでこの人の背景や人格がどういうものであったのかということは何も書かれていません。

ユダの質問は単純なものでした。「どうせなら、先生がおっしゃっていることを自分たちだけでなく世に向かってすべてお示しになればいいのに」という思いからの言葉です。

7章でも、主イエスの家族が同じようなことを言っています。主イエスが仮庵祭の時期にエルサレムに登って行こうとなさらないのを見て主イエスの兄弟たちは言いました。「ここを去ってユダヤに行きなさい・・・公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには自分を世にはっきり示しなさい」

「この世の中でどんどんしるしを行えばいい。どんどん奇跡を行えばいい。たくさん神の国について語ればいい。」主イエスの兄弟たちはそう思いました。主イエスの兄弟たちでなくユダのように弟子たちもそう思っていました。私たちだってそう思うのではないでしょうか。弟子を12人にしぼったりせず、弟子達にひそかにお示しになることを、どんどん公の場で人々に訴えればいいのに、と思うのです。

しかし主イエスはいつどこでどのようなしるしを行われるのか、誰に向かって神の国の言葉を語られるのか、どういう状況で伝えられるのかを見極めていらっしゃいました。

実際にはイエスはこの世の中でたくさんのしるしを行って来られました。しかしここまで一体何人の人が主イエスについて来たでしょうか。この世の人たちは主イエスの言葉を聞きしるしを見てもここまで従ってくる人たちは12人の弟子たちだけだったのです。

主イエスは、「私の掟を受け入れそれを守る人は私を愛するものである」「私もその人を愛してその人に私自身を表す」とおっしゃいました。主イエスのことを本当に愛しその掟を守り主イエスの道を行こうとする者でなければ、メシアのしるしを見てもメシアの言葉を聞いても理解はできないのです。

一度は主イエスを受け入れようとした人たちも、「人の子の肉を食べその血を飲まなければあなたたちのうちに命はない」という主イエスの言葉を聞いて皆離れていきました。あれだけ主イエスがたくさんのしるしを行ない神の国の教えを説かれても、主イエスを追いかけてきたあの何千人もの人たちはもうここにはいないのです。

主イエスはユダにこうお答えになりました。「私を愛する人は私の言葉を守る。私の父はその人を愛され父と私とはその人のところに行き一緒に住む。私を愛さない者は私の言葉を守らない」

どれだけたくさんの奇跡を見ようともイエス・キリストを愛そうとする心がなければ何も起こらないのです。これが、キリストのユダに対するお答えでした。

しかし、それではこの夜弟子たちが主イエスのおっしゃることを全て理解したかというとそうではありませんでした。主イエスご自身、弟子たちがすべてを理解するだろうと期待していらっしゃいませんでした。

14:26で主イエスはおっしゃいます。「父が私の名によってお遣わしになる聖霊があなた方にすべてのことを教え、話したことをことごとく思い起こさせてくださる」

主イエスはこの夜、弟子たちの足を洗われました。弟子たちにはその意味がわかりませんでした。「あなたが私の足を洗ってくださるのですか」と言うペトロに対して主イエスはおっしゃいます。「私の知っていることは今あなたにはわかるまいが、あとでわかるようになる」

この夜、弟子たちは後々思い出すべき時を過ごしていたのです。このキリストと過ごす最後の夜は、後の自分たちが、信仰の歩みにおいて常に立ち返るべき時となるのです。

主イエスが弟子たちにこれからご自分が去って行かれることを説明されたことで弟子たちは不安になり心がかき乱されました。しかし主イエスは弟子たちが離れ離れになっても、それで全てが終わりではないとおっしゃいました。聖霊を彼らにお与えになりキリストは彼らと共にいることになる、と約束されたのです

弟子というのは学ぶ者という意味の言葉です。彼らは一体何を学ぶのでしょうか。我々キリスト者はこの信仰の生活の中で何をキリストから学ばせていただくのでしょうか。

学びにもいろいろあるでしょう。聖書や教会のことを学問的に学んで知識を増やして行くという学びもあります。しかし神学の知識を増やして行くということが信仰者としての学びなのでしょうか。

キリストが聖霊を通して自分と共にいてくださっている、ということこそが、本当の信仰の学びなのです。たとえその姿が見えなくても一度もその実際の声を聞いたことがなくても、「今あの方は確かに私の傍らにいらっしゃる」という確信があれば、それこそがイエスキリストがこの夜弟子たちに伝えようとした真の学びなのです。

40年間荒れ野を歩き続けたイスラエルの民は、その歩みの中で何を学んだでしょうか。申命記の8章にはこう書かれています。「人はパンだけで生きるのではなく人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」

私たちの人生・一生涯は、荒れ野です。荒れ野を歩む時、すぐに「神は本当に共にいてくださっているのだろうか」と疑うのです。

キリストの弟子達は、嵐の中の小舟で、キリストに向かって叫びました。「私たちがどうなっても構わないのですか。」これは私たちの叫びであり、祈りです。私たちは荒野の中で、嵐の中で、神に祈りをぶつけるのです。

荒野でこそ、嵐の中でこそ、私たちは学びが与えられます。「まだ信じないのか、信仰の薄いものたちよ。」私たちはそこでイエス・キリストの声を聞かせていただけるのです。あれの中で嵐の中でこそ私たちはパンだけではなく神の口から出る一つ一つの言葉によって自分は生かされているということを学ばせていただくのです。

弟子たちはこの夜イエスキリストがなさったことおっしゃったことを本当の意味で理解することはできませんでした。しかし復活のキリストを知り聖霊をいただき地の果てまでキリストの福音を伝えようとする中で、何度も何度もこの夜のことを思い出したでしょう。

「ことが起こったときにあなたがたが信じるようにと今そのことを起こる前に話しておく」と主イエスがおっしゃったように、この夜彼らに示されたことは、後々の弟子達にとって、信仰の原点となったのです。

キリスト者は、長い人生の中でキリストの弟子として信仰の成長を続けます。その信仰生活の中で私たちが一番気をつけなければならないことは自分が信じたいことだけを信じ、学びたいことだけを学ぶということです。私たちに与えられる学びを自分の都合のいいように解釈したいというのが私たちの自然な思いではないでしょうか。

聖霊はイエス・キリストの名のもとに来るとおっしゃっています。しかし聖霊の言葉でない言葉に私たちは魅力を感じてしまうのです。この世の誘惑の言葉に飛びついてしまったとき、私たちは正しく聖書の言葉に立ち返らなければなりません。

何かを学んだと思った時、何かを悟ったと思った時に、それが本当にイエス・キリストの求めていらっしゃることかどうかを聖書を通して冷静に吟味しなくてはならないのです。

マタイによる福音書で主イエスご自身おっしゃっています。「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し天地が消え失せるまで律法の文字から一転一画も消え去ることはない」 Continue reading

8月3日の礼拝案内

次週 礼拝(8月3日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書15:9~17

 交読文:詩編19:8~11

讃美歌:讃詠546番26番、492番、352番、頌栄544

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

◇9月21日 田園調布教会の方々が訪問してくださいます。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日  Continue reading

7月27日の礼拝説教

 ヨハネ福音書15:1~8

キリストは弟子たちとの最後の別れの時を過ごされました。弟子たちひとりひとりの足を洗い、ご自分がいなくなった後どうすべきか、どうあるべきかということをお伝えになりました。そして14章の最後で「さあ、立て、ここから出かけよう」とおっしゃってご自分の十字架への歩み自ら歩みを進めて行かれます。

今日私たちはイエス・キリストが弟子たちに、「私はまことのぶどうの木である」とおっしゃった場面を読みました。「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。」有名なイエス・キリストの言葉です。

「ここから出かけよう」とおっしゃってからの言葉なので、歩きながら、キリストは「私につながっていなさい」と話されたのでしょう。

これまでも、福音宣教の旅の中でイエス・キリストは弟子たちや人々に向かってご自分を何かに例えながら、「私は何々である」という言い方をしてこられました。「私はまことのパンである」とか、「私は世の光である」とか、「私は良い羊飼いである」というように、ご自分が神から遣わされたメシアであることを、「私は〇〇である」という表現で示してこられました。

しかし、それを聞いた人達が全員その意味が分かって「この方はメシアだと」受け入れたわけではありませんでした。6章では、「私の肉を食べ私の血を飲まなければ、あなたたちのうちに命はない」とおっしゃったキリストの言葉を聞いて皆「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられようか」と離れて行ったことが書かれています。

今日読んだところが、ヨハネ福音書で最後の、「私は何々である」というキリストのたとえになります。十字架に向かって歩みながら、おっしゃいます。

「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である」

この例えは、今までのものと少し違っています。キリストはこれまではご自分が何者であるかということを例えてこられましたが、ここでは、「私の父は農夫である」と、天の神についてもたとえいらっしゃるのです。

この15章のキリストの例えを読むと、神の独り子イエス・キリスト、父なる神、そして私たちキリスト者の関係性がよくわかると思います。ここでキリストは「私はまことのぶどうの木」とおっしゃっています。単なる「ぶどうの木」ではありません。「まことの」ぶどうの木です。

「まことの」という言い方がされているということは、「まことではない・よくないブドウの木」もこれまであったということでしょう。

聖書の中には葡萄畑やブドウの木に関する記述がたくさんあります。当時の世界ではブドウは身近な果物であり、聖書の中でも度々例えとして用いられてきました。聖書の中では、律法や信仰を語る際に例えとしてよく用いられました。

しかし残念ながら、素晴らしい葡萄の実が実ったということは聖書ではあまり言われていないのです。むしろぶどう園には実が結ばなかったと言うような表現が多いのです。

詩篇80:8

「あなたはブドウの木をエジプトから移し、多くの民を追い出してこれを植えられました。そのために場所を整え根付かせこの木は地に広がりました」

詩篇の詩人は神がイスラエルの民をエジプトから救い出してくださった出来事を「農夫が葡萄の木を新しい場所に植えた」、というイメージで歌っています。そこでたくさんのぶどうの実が実ったかというとそうではないのです。このような言葉が続きます。

「なぜあなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆摘み取って行きます。」

神がエジプトからイスラエルの民を救い出し、約束の地へと新しく民を導き入れられたにも関わらず、そのイスラエルは神を正しく信仰する歩みを続けることができなかったことを嘆く詩人の言葉です。

預言者イザヤもイザヤ書の5章で「ブドウ畑の歌」と呼ばれる歌を残しています。

「私の愛する方が、肥沃な丘をよく耕して石を除き、その真ん中に見張りの塔を建て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし実ったのは酸っぱい葡萄であった」

これも先ほどの詩編の言葉と同じ内容を歌っています。神によって救われたイスラエルがその救いの御業に報いることなく不信仰に落ちてしまったことを歌うのです。

イザヤだけではありません、ほかの預言者たちも異口同音にイスラエルの不信仰を糾弾してきました。それほどにイスラエルは神のぶどう畑として良い実を結んでこなかったのです。それが神の民イスラエルの歴史でした。

しかし今、イエス・キリストはご自分のことを「まことのぶどうの木」とお示しになりました。これまでの実を結ばず、農夫である神の期待に沿うことをしてこなかったイスラエルとは違う、新しいぶどうの木として正しい信仰の象徴としてご自分を示されるのです。

「私はまことのぶどうの木」というのは不思議な言い回しだと思います。イエス・キリストが農夫であり実の収穫をされる側でお話しなさっていないのです。キリストはむしろ収穫される側のブドウの木にご自身を例えていらっしゃいます。神の側ではなくイスラエルの側にご自分の身を置いて「私はまことのぶどうの木である」とおっしゃるのです。

ご自身が神の民イスラエルそのものであり、イエス・キリストに繋がることによって私たちはイスラエルの民とされているのです。信仰者の群れの中心にはこの方がいらっしゃるということでしょう。

洗礼者ヨハネは荒野で叫びました。「悔い改めにふさわしい実を結べ。」

「悔い改めにふさわしい実」とは何でしょうか。キリストはおっしゃいます。「ぶどうの枝が木につながっていなければ自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも私につながっていなければ実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなた方はその枝である」

「悔い改めにふさわしい実」とは、イエス・キリストに立ち返りキリストに繋がった歩みの中で見せられる何かです。キリストから離れたところでは見ることができない何かのことです。

キリストを知る前、キリストにつながる前、キリストから離れていた時、私たちは何を求めて生きていたでしょうか。キリストを知ってから、何を求めるようになったでしょうか。ここでそれぞれ、振り返りたいと思います。

キリストの使徒パウロはローマの信徒に向けてこう書いています。

「あなた方は罪の奴隷であったときは義に対しては自由の身でした。では、その頃どんな実りがありましたか。あなた方がいまでは恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは死に他ならない。あなた方は、今は罪から解放されて神の奴隷となり聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし神の賜物は私たちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」

キリストとの出会いは文字通り人生の岐路となります。罪の支配の中に生きるか神の支配の中に生きるか。 罪の支配の中で結ぶ実は、死で終わるものです。しかし神の支配の中で結ぶ実は、私達にとって永遠だとパウロは言います。

イエス・キリストから離れたところで私たちが結ぶ実は、どのようなものでしょうか。それが何であれ、この世のもの、過ぎ去るものでしょう。自分がいなくなったら、跡形もなく消えてしまうようなものではないでしょうか。あっという間に過ぎ去っていく宝です。

しかし聖書は私たちに天に富を積むことを教えてくれます。そこには泥棒が入ることもなく朽ちることもなくしぼむこともない宝の貯蔵庫があるのです。私たちの肉体の死を越えて永遠に価値を持ち続ける宝の置き場所があるのです。それを知るということが、肉体の死に向かって生きる中でどんなに大きな希望となるでしょうか。

キリストは「私につながっていなさい」と弟子たちにおっしゃいました。

この「つながる」というのは「留まる」という意味の言葉です。

14章2節で、キリストが「私の父の家には住むところがたくさんある」とおっしゃっていますが、「住むところ」というのが「留まるところ」という意味の言葉です。イエス・キリストが弟子たちに教えを残したこの夜、「留まる」という言葉が何度も何度も使われているのです。 Continue reading

7月20日の礼拝案内

次週 礼拝(7月20日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書14:22~31

 交読文:詩編19:8~11

讃美歌:讃詠546番25番、259番、402番、頌栄544

【報告等】

◇9月21日 田園調布教会の方々が訪問してくださいます。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後 Continue reading