1月18日の礼拝案内

次週 礼拝(1月18日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書19:1~8

 交読文:詩編19:12~15

讃美歌:讃詠546番番、366番、392番、頌栄542

【牧師予定】

◇1月14日(水)教団事務所を訪問。

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

1月11日の礼拝説教

 ヨハネ福音書18:28~40②

明け方、ユダヤに滞在していたローマ総督ポンテオ・ピラトのところにユダヤ人たちがナザレのイエスを連れてやって来て「この者を死刑にしろ」と要求してきました。時間的なこと、裁判の手続きの正当性から考えて非常識なことでしたが、ピラトは彼らが連行してきたナザレのイエスを官邸の中に入れ、中に入ろうとしないユダヤ人たちとイエスの間を行き来してそれぞれの話を聞き、状況を把握しようとします。

この朝のピラトの姿を通して、私たちは聖書から問われることになります。

「あなたはこの世で、このイエスという方にどう向き合っているか」

聖書からの問いかけに、真摯に向き合いたいと思います。

ピラトは、まず外にいたユダヤ人たちにイエスが何の罪を犯したのかを尋ねました。

「どういう罪でこの男を訴えるのか」

これに対するユダヤ人たちの答えは曖昧なものでした。

「もしイエスが何も悪いことしていないのなら、ここにイエスを連れては来ませんでした」

ユダヤ人たちは、具体的な罪名を上げることができませんでした。「ここに連れて来たということは、この男が悪いことをしたに決まっているではありませんか」という言い方です。言葉を変えると、「ここは私たちを信用して私たちが望む通りにしてください」ということです。

彼らはピラトの問いに直接答えていません。答えることができなかったのです。イエスにはこういう罪がある、と言えなかったから「ここは私たちの言う通りにしてほしい」と言って押し通そうとしたのです。

ピラトにとっては迷惑でしかありません。ユダヤの記録では冷血漢のように書かれているような人でしたが、何の罪状もない者を根拠なく有罪にすることはいい気持ちではなかったでしょう。

ピラトは、ナザレのイエスとユダヤ人たちの間にある問題がユダヤの律法に関することだろうと検討をつけました。そこで「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言いましたが、ユダヤ人たちは「私たちには、人を死刑にする権限がありません」と答えました。

このやりとりを見ると、ユダヤ人たちがピラトのもとに主イエスを連れて来たのは、ただ「ナザレのイエスを殺すため」だったということがわかります。イエスを牢屋にいれるとか、罰金を科すとかいうことではなく、殺したかったのです。

紀元30年頃、ローマ帝国内でユダヤ人たちには死刑を行う権限がありませんでした。だから、ローマの権限でナザレのイエスを殺してほしい、と願ったのです。それも、ローマによる処刑法・十字架刑を求めました。ユダヤ人にとっては、呪われた者に対する処刑の仕方でした。彼らはイエスに「呪われた死」を与えたかったのです。ユダヤ人たちは、イエスを十字架にかけることにこだわりました。ユダヤの民衆を惑わし自分を神の子と自称した律法の冒涜者、そして民衆を扇動した政治犯として、呪われた死を与えたかったのです。

そのためには正当な裁判の手続きなどどうでもよかったのです。過越祭を平穏無事に終わらせることができ、イエスに呪われた死を与える、それがユダヤ人たちの思いでした。

改めて考えさせられます。なぜ、何も罪も犯していないこの方が十字架の上で死ななければならなかったのか。十字架刑は、ユダヤにとっては呪われた死であり、ローマにとっては重大な政治的犯罪者に対する処刑であり、見せしめでした。最も苦痛を伴う、もっとも不名誉で、この上ない辱めに満ちた死でした。

18章32節にはこうあります。「それは、ご自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった」

「イエスの言われた言葉」とは何でしょうか。イエス・キリストはこれまでもご自分の十字架の死について語ってこられました。

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」

「あなたたちは、人の子を上げた時に初めて、『わたしはある』ということ、また、私が自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることがわかるだろう。私をお遣わしになった方は、私と共にいてくださる。私を一人にしてはおかれない。私は、いつもこの方の御心にかなうことを行うからである」

キリストが上げられることになる十字架は、ユダヤ人による呪いの死でもなく、ローマによる見せしめの死もありませんでした。十字架の上で、「わたしはある」という神のお名前を世に示す栄光の御業だったのです。明け方にローマ総督官邸に押しかけ、「この男を死刑にしろ」と言う「この世の人間の混乱」の底流で、確かに神の救いの御計画が進められていました。

さて、「死刑」という言葉を聞いてピラトは官邸の中に入って来ました。ユダヤ人たちが「イエスの死刑」を求めるということは、「イエスがユダヤ人の指導者として民衆を扇動し、ローマへの反乱を計画している」ということを意味しています。

ピラトは官邸の中に戻り、主イエスに尋ねました。

「お前はユダヤ人の王なのか」

元のギリシャ語を見るとピラトがこの時驚いていることがわかります。「お前は・・・ お前はユダヤ人の王」なのかという言い方です。そんな大それたことを企んでいたのか、ピラトの驚きがにじみ出ています。

質問された主イエスはピラトの問いかけに肯定も否定もされていません。

「それはあなた自身から言っているのですか。それとも他の人たちが私についてあなたに言ったのですか。」

主イエスは、ほかの人たちの意見ではなく、ご自分に向き合うピラト自身の思いを知ろうとなさいました。「あなた自身は、私をどう見ているのか」。これは、聖書を通して問われる私たちへの信仰の問いかけです。私たちは今この瞬間も、キリストから聖書を通して問われています。「ほかの人たちがどう言っているか、ではなく、あなたは今、私を目の前にして私のことをどう見ているのか」というキリストの問いです。

しかし、ピラトはそのことには正面から答えていません。

「私はユダヤ人だと思っているわけではないだろう。お前の同胞と祭司長達がお前をこの私に引き渡したのだ。一体何をしたのだ」

ピラトは裁きを委ねられた者として、「自分が主イエスをどう見ているか」、ではなく、客観的に、「お前の罪は何か」と、ただ一人の容疑者として見ています。

最終的に主イエスはお答えになりました。

「私の国はこの世には属していない。もし、私の国がこの世に属していれば、私がユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、私の国はこの世には属していない」

ある人は、ここでの「私の王国」という言葉は、「私の王権・権威」と訳した方がいいだろう、と言っています。主イエスの権威は、この地上に根差すものではないのです。ユダヤ人やピラトが想像していたものではありませんでした。

結局ピラトには主イエスがおっしゃることの真意は分かりませんでした。「私の王国」という言葉を聞いたので、「それではやはりお前は王なのだな」と念を押します。やはり、主イエスは「それはあなたが考えていることだ」と答えました。ピラトの考えと、イエス・キリストの実像は違っていたのです。ピラトと主イエスの会話は、かみ合わずに終わりました。

人はイエス・キリストのことを好き勝手に解釈します。なんとか自分の知識や経験の中に収めようとします。そうでないと困るのです。自分の知恵に収まりきらないと困ってしまうのです。 Continue reading

1月11日の礼拝案内

次週 礼拝(1月11日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書18:28~38

 交読文:詩編19:12~15

讃美歌:讃詠546番番、161番、243番、頌栄542

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1月4日の礼拝説教

 ヨハネ福音書18:28~40

イエス・キリストが逮捕され、アンナスから尋問を受け、カイアファの屋敷へと連れて行かれた夜のことが描かれています。前の大祭司であったアンナスは、ナザレのイエスの罪を明らかにしようとしました。どのような教えを民衆に説いてきたのか、ということを本人から聞き出そうとしましたが、主イエスは「私が何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい」とおっしゃいました。

アンナスはそれをしませんでした。アンナス自身、民衆がナザレのイエスの教えに傾倒していたこと、また、逮捕に向かった大祭司の下役たちまでもが、「あんなに聖書を正しく教えられる人は他にいません」と言っていたことを知っていたのでしょう。彼は、主イエスご自身からその教えを聞くことなく、現職の大祭司であり自分の甥であったカイアファのもとに送りました。

先週私たちは、イエス・キリストがカイアファから尋問されている間に、ペトロが「私はイエスの弟子ではない」と二度大きな声で否定した、という場面を読みました。ヨハネ福音書はなぜか、アンナスによるキリストへの尋問は記録していますが、カイアファによる尋問については何も書いていません。

イエス・キリストがカイアファから何を尋問されたのか、ということ以上に、キリストが胸を張ってこの世に立ち向かっていたのと同じ時、弟子のペトロが「私はイエスの弟子ではない」と否定していたことに焦点を当てるのです。

ヨハネ福音書は、ペトロが「お前はイエスの弟子ではないか」という質問に対して三度否定したらすぐ、「鶏が鳴いた」と夜が明けたことを強調しています。「鶏が鳴いた」、それは、「夜が明けた」ということであり、その日の夜明けは神の救いの歴史の中で重要な意味をもった夜明けとなりました。それは「救いの夜明けが来た」ことを象徴しているのです。

イスカリオテのユダの裏切りの闇、人々が神の子を逮捕した神への反逆の闇、ペトロが「自分はイエスの弟子ではない」と否定してしまった信仰の弱さの闇・・・この世の闇の中に、キリストによる救いの光が差し込むときの到来を、この鶏は告げたのです。

夜明けの光は、どのように差し込んだのでしょうか。

「ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた」

この一文に続いて、イエス・キリストは大祭司カイアファの下からローマ総督ポンテオ・ピラトのもとに連れて行かれた、ということが書かれています。

ここからキリストはこのピラトを通して、正式にローマから死刑の宣告をされ、十字架へと上げられていくことになります。キリストが十字架こそが、この世にもたらされた救いの夜明けであった、ということが象徴的に描かれているのです。

さて、まずローマ総督ポンテオ・ピラトについて解説を加えておきたいと思います。ピラトは紀元26年から36年までユダヤの総督であった人です。ユダヤ人の歴史家による記録では、強欲で殺人者であり人間味をもちあわせていなかった人として書かれています。

この「総督官邸」という言葉は、もともとは司令官が戦場で指令を出す幕屋のことを意味しています。ここではローマ総督が寝泊まりしている建物として使われています。司令部、とか司令所のような意味の言葉です。

ユダヤを監督するローマ総督は、普段はエルサレムよりもはるか北にあるカエサリアという港町に駐屯していました。しかし、ユダヤの大きな祭りがある際には、エルサレムに駐屯することになっていました。ユダヤ人の愛国心が高まり、気分が高揚する祭りの時期には、ローマ総督自らがエルサレムで目を光らせておく必要があったからです。

主イエスが総督官邸に連れてこられた時間は、当時のユダヤの時間の区切り方で言えば午前3時から6時の早朝ということになります。エルサレムに滞在していた当時のローマ総督ポンテオ・ピラトは、「こんな朝早くに何事か」、と驚いたでしょう。

主イエスを逮捕したユダヤの人々は、ローマ総督官邸には入ろうとしませんでした。相手の身分が高かったので遠慮して入らなかったのではありません。「けがれないで過ぎ越しの食事をするため」だったと書かれています。ユダヤ人は、異邦人・外国人との接触を「穢れ」とみなしていました。そのため、ユダヤの人たちは、異邦人の家に入るようなことはしなかったのです。

過ぎ越しの食事に加わって祭りに参加するためには、異邦人との物理的な接触を避けなければなりませんでした。非常に厳格に自分たちの律法理解を実践していたのです。

異邦人の立場からすれば腹立たしいユダヤ人の律法の考えであったでしょうが、ピラトはユダヤ地方に派遣されたローマ総督として、ユダヤ人たちの宗教観を知っていたので、自ら外に出て行き人々に対応しました。

私たちはこの朝のユダヤ人たちの姿に皮肉を見ます。彼らは、神の救いを記念するための祭りを控えて、自分たちを清く保とうとしていました。しかし今、ユダヤの宗教指導者たちは、世の全ての人の罪のため・自分たちの罪のために身代わりとなって死んでくださる神の子羊を殺そうと、異邦人に引き渡そうとしているのです。

大祭司カイアファは、「一人の人間の犠牲で、ほかの多くの人たちが助かるのならいいではないか」、と言いました。確かにそうでしょう。犠牲は少ない方がいい。誰かの小さな犠牲によって、多くの人が救われた方がいい、という考え方もできるでしょう。

しかし、その「一人」が、神の子だとしたらどうでしょうか。聖書を、律法をよく知っていたユダヤの指導者たちは、自分たちの目の前にまで来てくださった神ご自身に気づいていないのです。その「犠牲にすべき1人」「身代わりにすべき1人」として、神の子・キリストを選び、ローマ総督に引き渡そうとしている、という皮肉に気づいていないのです。

彼らは、過越祭の中で、自分たちの先祖をエジプトから救い出してくださった神の救いの御業を記念するために、生贄の子羊の肉を食べます。そのために、清くあろう、異邦人との接触はしないでおこうと、そちらには気が回りました。しかし、自分たちがこれから殺そうとしているのは、世の罪を取り除く、神の子羊であることに気づかなかったのです。

さて、私たちは彼らのことを、簡単に非難できるでしょうか。「なぜこんなこともわからなかったのか」と本当に言えるでしょうか。あの時、誰一人イエス・キリストこそ神の子である、と声をあげる人はいませんでした。誰も気づかなかった、誰もわからなかったのです。弟子たちですら、沈黙していました。キリストから離れ、「私はイエスの弟子ではない」と逃げていました。

一体誰が、この時の過越祭の本質を誰が正しく見据えていられたでしょうか。ポンテオ・ピラトはもちろん、ユダヤ人でさえ、宗教指導者でさえ、弟子達でさえ、今、救い主・キリストが十字架に上げられようとしているということがわかっていなかったのです。

この時起こっていることを全てご存じだったのは、イエス・キリストご自身と、父なる神でした。

使徒パウロは手紙の中でこう書いています。

「罪と何のかかわりもない方を神は私たちのために罪となさいました。私たちはその方によって神の義を得ることができたのです」2コリ5:31

このパウロの一言の重みを、私たちはどれだけ実感しているでしょうか。キリストの十字架の痛みは、過去のものではないのです。キリストを知ろうとしない人たちが多い中で、私たちはどれだけ、キリストに向かうことができているでしょうか。キリストに興味がない人、知ろうとしない人も多くいるでしょう。「それはその人たちの問題であって、自分には関係ない」、と言い切れるでしょうか。

もし、自分はキリストを信じない人たちとは関係ない、というのであれば、その人たちの許し・招きのために命をかけられたキリストとも関係ない、ということになるのではないでしょうか。

パウロは同じ手紙の中でこうも書いています。

「信仰をもって生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことがわからないのですか。イエス・キリストがあなた方の内におられることが」

少なくとも、この世の闇に向かってキリストの光を証しする信仰の歩みを続けなければ、キリストに従うということにはならないでしょう。私たちは、キリストが逮捕されたあの時には生きていなかったので、どうすることもできません。しかし、今の自分はどうか、そのことを省みたいと思うのです。キリストは私たちの内にいてくださいます。そして、キリストをまだ知らない人たちの内にも、向かっていらっしゃるのです。

さて、私たちはここで、またヨハネ福音書独特の場面の描き方を見ることができます。大祭司の屋敷の内側にいらっしゃったキリストと、外にいたペトロを交互に描いたように、総督官邸内でのやりとりと、外でのやりとりを交互に描きます。

総督官邸の中でキリストとピラトが語り、そして官邸の外で待つ人々に、ピラトが「この者には罪を見いだせない」と伝える、これの繰り返しです。ローマ帝国の権力を持った総督ピラトが、小間使いのように主イエスとユダヤ人たちとの間を行ったり来たりする様が見ます。

このイエスという人には何の罪も見いだせないのに、ユダヤの指導者たちがイエスを殺すことを望んで興奮しているのです。官邸内で静かに冷静に話されるイエス・キリストと、官邸の外で興奮して「イエスを殺せ」と叫ぶユダヤ人たちの姿を対比してみることができます。

この場面をきちんと読むと、イエス・キリストは正しく裁きにかけられていません。正しい裁判の手順が踏まれていないのです。こんな時間に、ローマ総督のもとに一人の罪人を「死刑にしてください」と連れて行くことは非常識でした。それに、ピラトが「この者は無実だ」と言っても、外で待っていたユダヤ人たちは聞き入れないのです。正義が貫かれていないのです。

しかしこの混乱の水面下では、神の救いの計画が確かに進んでいる、ということを私たちは見ます。

この場面は「イエスがどんな悪いことをしたのか」ということから、「イエスの権威はなにか。イエスは王なのか」ということに主題が変っていきます。

建物の中でのイエス・キリストは非常に冷静です。それに対して建物の外では混乱に満ちた人間の声が満ちています。ピラトはどうやってもこのイエスという人に罪を見出すことはできませんでした。

神の救いは、このような人間の混乱、自らが神の正しさを持っているという思い込みを通して、神の子の十字架という最も理解しがたい仕方で実現していきました。私たちは、この総督官邸でのやりとりを通して、世の罪の愚かさ、神の救いの不思議を見せられるのです。

1月4日の礼拝案内

次週 礼拝(1月4日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書19:19~27

 交読文:詩編19:12~15

讃美歌:讃詠546番番、162番、239番、頌栄541

【牧師予定】

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祈祷会 日曜日 礼拝後

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12月28日の礼拝説教

ヨハネ福音書18:19~27②

キリストが世にお生まれになった喜びと共に、キリストの誕生は十字架による世の罪の許しに向かうものであった、ということを覚えたいと思います。

一度読んで、礼拝の中で話を聞いた場面ですが、もう一度、今日は特にペトロに目を向けて読みたいと思います。

ヨハネ福音書は、尋問されるイエス・キリストと、大祭司の屋敷の中庭にいるペトロの姿を交互に描いて、私たちにその成り行きの緊張感を描き出しています。今日の場面は、大祭司アンナスの家へと連行されたイエス・キリストのお姿です。

キリストはアンナスからご自分の弟子のことや、ご自分が伝えてこられた教えについて尋ねられました。しかしキリストはご自分の弟子については何もおっしゃいませんでした。

それと同じ時、外ではペトロが「私はイエスの弟子ではない」と否定していました。おそらく、ペトロだけでなくほかの弟子たちも、「私はイエスの弟子ではない」と公に言い表すことがなくても、自分とイエスは無関係であるかのように振舞っていたでしょう。

それでも、キリストはご自分の弟子たちのことを守ろうとされています。キリストは弟子たちについて何かお答えになることはありませんでした。しかしご自分の教えについては何も隠されませんでした。

キリストはこれまで何も隠すことなくエルサレムで公に福音宣教を続けてこられました。これまで祭司も、律法学者も、ファリサイ派もサドカイ派も、エルサレムのたくさんの人たちが、実際に主イエスの教えに触れてきました。

エルサレムの多くの人はナザレのイエスが何を語ったのかを知っていたのです。アンナスだって、本当は伝え聞いて、その内容は知っていたでしょう。主イエスはアンナスに、「私が何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい」とおっしゃいました。

確かに、被告であるイエスに聞くよりもそちらの方が中立に証言を集めることができ、正しい裁きを行うことができるでしょう。しかし、もしも民衆を集めて、イエスの教えが正しい教えで、イエスの正しさが多くの人たちによって立証されてしまうと、今度は逆にアンナスの方が立場的に不利になってしまいます。

主イエスとアンナスのやりとりを聞いていた下役たちは、主イエスの顔を打ちました。「大祭司に向かってそんな口のきき方があるか」と起こったのです。それでも主イエスはご自分の姿勢を変えられることはありませんでした。

「何か悪いことを私が行ったのなら、その悪いところを証明しなさい」

アンナスはもうそれ以上主イエスを追求することをしませんでした。そのまま、主イエスを縛ったままカイアファの元に送りました。この生意気な危険人物を、自分の甥であり大祭司であるカイアファ任せればいい、と思ったのでしょう。これで、アンナスとキリストとのやり取りは終わっています。

さて、福音書はまたここで場面を転換して、ペトロに目を向けます。ペトロはまだ同じところにいました。「先生はどうなっただろうか」、という思いと、「なんとかばれないように先生の近くにいよう」、という思いをもって、炭火の前に立って暖を取っていました。

一番弟子であるペトロが、イエス・キリストを三度否定したということは有名な話です。そのことからペトロは結局忠誠心の低い、人よりも弱い人のような印象を持たれがちではないでしょうか。

しかし、ほかの弟子たちが逃げ去っても、自分だけは何とか先生の近いところにいようと、大祭司の屋敷の中庭まで入り込むということは、とても勇気が要ったことだったはずです。主イエスを守ろうとして剣をもって兵士に立ち向かったり、なんとか主イエスの近くにいようと大祭司の屋敷までついてきたりしていたのです。

実際、18:15には「シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った」と書かれています。ペトロは、忠誠心が弱く、勇気がなかった人ではありません。むしろ逆でした。ここまで主イエスについてきた、ということだけでも、命がけのことなのです。彼は、「従った人」なのです。

以前、主イエスの後に従っていた人たちが「あなたの教えがよくわからない」、と離れ去った時、主イエスは弟子たちにお尋ねになりました。

「あなた方も私を離れていきたいか」

その時のことを、聖書はこう書いています。

「シモン・ペトロが答えた。『主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉をもっておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています』」

同じように、最後の夜の食事の席では、主イエスが自分の足を洗おうとするのをやめていただこうとしました。「あなたが私の足を洗うのですか」。それでも主イエスが弟子たちの足を洗おうとされるので、ペトロは意気込んで「足だけでなく体全部をお願いします」と言いました。

これらのペトロの言葉を見返すと、ペトロは常にイエス・キリストへの強い思いを持っていたこと、大好きだったことがわかります。

しかし、ここからペトロは少しずつ崩れていくことになります。何が何でも、少しでもキリストの近くにいようとするために、ここでペトロは小さな嘘をつきました。門番の女中から「あの人の弟子の一人じゃありませんか」と聞かれ、小さな声で「違う」と答えました。質問をしてきた女中1人だけに聞こえる、小さな声でした。

ペトロには罪悪感はなかったでしょう。主イエスに従い続けるため、大切なことを成し遂げるための、小さな嘘です。先生に従うための方便です。1人の、名もない門番の女中をそうやって簡単に躱しただけでした。

しかし、この小さな嘘が周りに波紋を広げたのです。キリストがアンナスから尋問され、下役たちから顔を殴られている時、ペトロは否定の言葉を重ねることになってしまいます。

ペトロの周りにはつい先ほど主イエスを逮捕し、自分自身も剣をもって戦った相手である大祭司の僕や下役たちがいました。

門番の女中とペトロのやり取りが周りの人たちにも聞こえていたのでしょう。放っておけず、周りにいた大祭司の僕や下役の人たちはペトロに「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と改めて尋ねました。

元の言葉を見ると、これは、否定を期待する尋ね方です。「まさかとは思うが、あの男の弟子の1人ではないよな」というような言い方です。「もちろん違う」という答えを想定した質問です。ペトロの周りにいた人たちは、質問しながらも、ペトロが主イエスの弟子だとは思いませんでした。ここではただ、確認しているだけです。

さっきは1人の人に聞かれて、小さな声で「違う」というだけでよかったのです。しかし今回は周りにいた人たちから「どうなのか」と尋ねられたので、はっきりと大きな声で、その場にいる人たち全員に聞こえる声で、「違う」と言わなくてはならなくなりました。

ペトロは後戻りできなくなりました。そして、はっきりと大きな声で「違う、私はイエスの弟子ではない」と言いました。

そこで終わりではありませんでした。ペトロにとって、運の悪いことに、そこにはペトロが耳を切り落とした兵士マルコスの親戚がいたのです。ペトロはつい先ほど、マルコスの耳を切り落としたばかりですので、中には、その顔を覚えている人がいてもおかしくありません。しかも、その人はマルコスの親戚なのですから、より鮮明にパウロの顔を覚えていたでしょう。

その人が今度は確信を持ってペトロの顔を認識しました。

「お前は確かにあの場にいた。私の親戚のマルコスの耳を切り落としたのは、イエスの弟子であったお前だ。そうだろう」と詰め寄ってきました。

これは、最初の二回と違って強い口調の質問の仕方です。最初の二回は、「まさかそうではないですよね」と、否定を期待する質問の仕方でした。しかし、この三回目の質問は、「間違いなくお前、そうだろう」という、肯定を期待する聞き方です。

ペトロは逃げ場を失いました。勇気を持って最後まで主イエスに従おうとしたからこそここまで来たのです。しかしそのために窮地に陥りました。ペトロはもう、キリストに従うために、一時しのぎに「違う」とかわすことはできなくなりました。そこにいる全員を納得させるために全力でイエス・キリストの弟子であることを公に否定しなければならなくなったのです。ペトロは再び、自分が主イエスの弟子であることを打ち消しました。

ペトロが三度目に自分がイエスの弟子であることを否定した時、にわとりが鳴きました。聖書は、この時のペトロに対して、何も評価を下していません。「ペトロは不信仰だった」とか、「ペトロは頑張ったがだめだった」とか、そんなことは何も書いていません。他の福音書はここで ペトロがイエスに言われたことを思い出して泣いたことを書いたりしていますが、ヨハネ福音書は淡々と場面を描くことを終えています。

ただ、こう書いています。「すると、鶏が鳴いた」。ヨハネ福音書は、実は、この一行に力を込めています。ペトロの心情よりも、鶏が鳴いて夜が明けた、ということに焦点を当てて伝えています。

「鶏が鳴いた」とはどういうことでしょうか。夜が終わった、と言うことです。暗闇の時間が終わったということです。イスカリオテのユダが明かりを持ってキリストを裏切った夜、弟子たちがキリストから離れた夜、ペトロがキリストの弟子であることを否定した夜・・・この世の無理解を凝縮したような、世の罪を全て象徴しているような「夜」が明けた、ということです。 Continue reading

12月24日クリスマスイブ礼拝のご案内

2025年12月24日(水) 19:00~19:30

三宅島伝道所にて 

クリスマスイブ礼拝があります。

どうぞどなたでもお越しください。

12月28日の礼拝案内

次週 礼拝(12月28日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書19:19~27

 交読文:詩編19:12~15

讃美歌:讃詠546番番、121番、138番、頌栄541

【牧師予定】

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

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12月21日の礼拝説教

 イザヤ書8:5~10

マタイ福音書のはじめに、ヨセフという人の夢に天使が現れいいなずけのマリアが男の子を生む、ということを伝えたことが書かれています。

「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」

そしてマタイ福音書は、その夢の意味を、こう記しています。

「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」

「インマヌエル」、という言葉ほど、聖書の信仰を言い表している言葉はないでしょう。神が私たちと共にいてくださる・・・聖書はただそのことを伝えるために書かれました。

イスラエルは国の滅びや偶像礼拝の危機、外国の支配の中で希望を捨てず、自分たちの歴史、そして預言者たちの言葉を記録し、命がけで後世に聖書の言葉を通してインマヌエルの真理を伝え続けてきたのです。

そして今、私たちのもとにまで、インマヌエルという言葉が届けられています。

聖書の中で、時代的に初めて「インマヌエル」という言葉をつかったのは、預言者イザヤです。私たちが今日読んだイザヤ書の8章で、イザヤは「インマヌエル」という言葉をつかっています。

彼は「神我らとともに在り」という意味のインマヌエルという言葉を、誰かを示す言葉として用いています。

「その広げた翼は、インマヌエルよ、あなたの国土を覆い尽くす」

イザヤは誰かに向かって「インマヌエルよ」と呼び掛け、「あなた」と呼び掛けているのです。

私たちは今日、考えたいと思います。インマヌエル、神が共にいてくださる、とはどういうことなのか。「神が共にいてくださる」、と聞くと確かに、心強い思いがするし、喜びを感じます。その喜びも簡単に忘れてしまったり、薄れてしまったりします。我々信仰者にとって、この世の誘惑に囲まれて、まずは自分に目が向く日常の中で、インマヌエルという言葉に常に新鮮な喜びを覚えていることは簡単なことではありません。

日常の忙しさの中で、特に、試練の中にある時、私たちはインマヌエルという言葉にすがろうとしながらも、少なからず、疑いを抱き、静かに祈るひと時を持つことが少なくなってしまうのではないでしょうか。

キリストの御降誕を覚えるこの礼拝の中で、私たちはその喜びを深く探り、心に刻み付けて行きたいと思います。

預言者イザヤは、BC740に神に預言者として召され、それから約40年間神の言葉を伝え続けた人です。イスラエルが南北に分裂していた時代です。北イスラエル王国と、南ユダ王国に分裂していました。イザヤは南王国で預言者として働きました。

そしてそれは、イスラエルの北西にあった強大なアッシリア帝国の脅威におびえていた時代でしたこの8章の背景には、南ユダ王国の危機がありました。アッシリア帝国がその勢力を広げる中で、小さな国々は、生き残りをかけて反アッシリア同盟を作りつつありました。南ユダ王国も、隣国の北イスラエル王国と、アラムから反アッシリア同盟に加わるよう誘われていました。誘われていた、というよりも、脅されていたのです。「反アッシリア同盟に加わらないと、武力で攻め入るぞ」と武力で威嚇されていたのです。

隣国が武力で威嚇してくる中、ユダ王国は国中が騒ぎ立ちました。ユダ王国の王であったアハズは、あろうことか、アッシリアに助けを求めようとしていました。アッシリアに助けを求めるということは、アッシリアの支配に入る、ということであり、それはつまりアッシリアの神の支配に入る、ということを意味していました。イスラエルの神を捨て、アッシリアの神を自分たちの神とする、ということです。アハズ王は、そうすることでしか、小さなユダ王国は生き残ることはできないと考えたのです。

そういう中で、イザヤは預言者としてユダ王国の王、アハズのもとに遣わされました。イザヤは伝えます。

「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」

隣接する国々が同盟してこの国を脅かしている。しかし、神は「静かにしていなさい」、とアハズ王におっしゃるのです。

「落ち着いていなさい。静かにしていなさい。恐れることはない・・・心を弱くしてはならない・・・彼らの計画は実現しない」

しかし、アハズ王は静かになどしていられませんでした。目の前にアラムと北イスラエル王国の連合軍が、反アッシリア同盟に加わるよう脅しをかけてきているのです。しかし小さな国々がどんなに集まろうとも、巨大なアッシリア帝国に対抗できるはずがないのです。

ユダの王として、どうすればいいか。アッシリアに降って、アッシリアに守ってもらうしかない、そうやって生き残るしかない、アッシリアの神を拝むことになっても、滅ぼされるよりもいいではないか、と思っていました。

恐れ、焦るアハズ王に、神はイザヤを通して「主なるあなたの神にしるしを求めよ」とまで言ってくださいました。それでも、アハズは「私は主を試すようなことはしない」と、自分がまるで信仰深い者であるかのように、神に頼ることを拒絶します。一刻も早くアッシリアに助けを求めて助かろう、ともがくのです。

こうやって静かに聖書を読むと、アハズ王の不信仰の方に目が行きます。しかし、もし自分がこの時のアハズ王だったとしたらどうでしょうか。ユダ王国は小さく弱い国でした。自分が一国の王として、他国からの侵略にどう備えるでしょうか。預言者から「静かにしていなさい」と言われても、何か手を打って国を、国民を守らなければならない立場にあるのです。

この後アハズは、エルサレム神殿の財宝をアッシリアの王に送り、アッシリアの神の祭壇の見取り図と作り方の説明書を祭司に送り、エルサレムの中にアッシリアの女神像を作ることになります。

神はアハズの決断をお怒りになり、そして悲しまれました。神が預言者イザヤの口を通して「インマヌエル」という言葉を世にお示しになったのは、その時でした。

私たちが今日読んだ8章で、神がイザヤを通して、ユダ王国がアッシリアに攻めこまれる日が来ることを示されたことが書かれています。アッシリアは、ユダ王国を助けてくれなどしないのです。ユダ王国を脅しているアラムと北イスラエル王国を滅ぼし、結局その勢いでユダ王国まで攻め入ってくることになります。

6節「この民はゆるやかに流れるシロアの水を拒んだ」とあります。「シロアの水」とは、エルサレム神殿のある丘から流れる水のことです。それは、イスラエルの命の象徴でした。「シロアの水を拒んだ」ということは、神による救いを拒んだ、ということ。神に生かされるのを拒んだ、ということでした。

7節「それゆえ、見よ、主は大河の激流を彼らの上に襲い掛からせようとしておられる。すなわち、アッシリアの王とその全ての栄光を」

大河の激流とは、ユーフラテス川のこと、つまり、アッシリアの侵略を表しています。その激流・アッシリアの侵略は、ユダ王国にまで及び、アッシリアに救いを求めたユダ王国の国土が蹂躙されるということです。

8節の最後で、イザヤは言います。

「その広げた翼は、インマヌエルよ、あなたの国土を覆い尽くす。」

ここで、「インマヌエル」という存在への呼びかけがあります。このインマヌエルという存在について、イザヤは何も解説していません。一体誰のことなのか、よくわかりません。「あなたの国土」とあるので、ユダ王国を支配する誰か、というようなことは推測できますが、それ以上のことは分りません。

インマヌエルの国土がアッシリアによって攻め入られる、というのであれば、もうインマヌエルと呼ばれるその人も滅ぼされてしまうのでしょうか。そうではないようです。このあと、9節以降、イザヤの口調ががらりと変わっています。

9~10節「諸国の民よ、連合せよ。だがおののけ。遠い国々よ、共に耳を傾けよ。武装せよ、だがおののけ。武装せよ、だがおののけ。戦略を練るが良い、だが挫折する。決定するがよい。だが実現することはない。神がわれらと共におられるのだから」 Continue reading

12月21日の礼拝案内

次週 礼拝(12月21日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:イザヤ書8:5~10

 交読文:詩編19:12~15

讃美歌:讃詠546番109番、111番、112番、頌栄541

【報告等】

◇12月20日(土) 三宅島伝道所にてクリスマス会

◇次週礼拝後、愛餐会があります。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日  Continue reading