10月19日の礼拝案内

次週 礼拝(10月19日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書17:1~5

 交読文:詩編19:8~11

讃美歌:讃詠546番55番、361番、385番、頌栄541

【報告等】

◇11月30日(日) 東支区青年部が訪問

【牧師予定】

◇11月3日(月) 香川県高松教会にて さぬき島しょ部協議会

◇11月12日(火) 富士見町教会にて 伊豆諸島伝道協議会

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

10月12日の礼拝説教

 ヨハネ福音書16:25~33

イエスキリストと弟子たちが過ごされた最後の夜の場面は、ヨハネ福音書13章から17章にかけて描かれています。かなりの分量です。13章で、イエス・キリストが弟子たちの足を洗われたことが描かれ、17章ではイエスキリストの最後のとりなしの祈りの言葉が記録されています。その間にある14章から16章までの言葉が、直接イエス・キリストが弟子たちに語られた告別の言葉ということになります。

その14章から始まるキリストの最期の言葉は「心を騒がせるな」という一言から始まります。弟子たちの心は騒いでいました。先生がなぜ自分たちの足を洗ってくださったのか、弟子たちは戸惑いました。

ペトロは「師であるあなたが弟子である私たちの足を洗われるのですか」とはっきり言いました。その時の主イエスの答えは、「今私がしていることはわからないだろうが、後でわかるようになる」でした。そしてそのまま、一人一人の弟子たちの足を洗い、拭って回られたのです。

自分たちが今、何か特別な時間を過ごしている、ということを弟子たちは感じたでしょう。心を騒がせ、戸惑い不安になる弟子たちに向かって、イエス・キリストは「これから私と君たちは離れ離れになる」とおっしゃり、同時に、「けれども大丈夫だ」とおっしゃいます。

今日私たちは、14章から続くキリストの言葉の最後、16章の最後のところを読みました。イエス・キリストの弟子たちへ教えのまとめ・集大成ともなる言葉です。

「あなた方には世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」

心騒がせる弟子たち、また生きる不安を抱える信仰者たちにキリストはこの言葉を残してくださいました。

生きる中で逆風を感じる時、いつでも私たちの心は騒ぎ不安になり戸惑うのです。右を見ても左にいてもイエス・キリストの姿は直接見えません。キリストの存在を感じられない時、「自分は一人なのだろうか。神に見捨てられたのだろうか。キリストは自分に背を向けられていらっしゃるのだろうか」と不安になるのです。

この夜の弟子たちこそ、生きる中で不安を抱えた信仰者たちの姿そのものではないでしょうか。そして、そのような信仰者たちにとって、一番必要な言葉がこのイエスキリストの言葉なのです。

「あなた方には世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」

聖書は「神我らと共にあり」というインマヌエルの喜びを伝えています。インマヌエルという真理こそが、聖書が全体を通して今の私たちに伝えようとしている福音・喜びの知らせなのです。

何か生き方に迷った時、何か悲しむべきことが起こった時、私たちの信仰の足元は揺らぎます。簡単にぐらつきます。イエス・キリストの歴史を見ると、目に見える神を求めて繰り返し偶像礼拝に走ったことがわかります。

私たちだって、何か不安なことがあれば目に見えてわかりやすい救いを求めるのではないでしょうか。そのような闇の中でこそ、イエス・キリストのこの言葉は福音の光として輝くのではないでしょうか。

「神我らと共にあり「イエス・キリスト我らと共にあり」

既に世に勝っていらっしゃる方が、世で苦難を生きる私たちと共にいてくださる、という約束が与えられています。

この約束をもって、キリストは弟子たちへの告別の言葉を締めくくられました。主イエスの弟子たちへの最後の言葉は励ましの言葉でした。

今日読んだ最初のところで、「私はこれらのことを、たとえを用いて話してきた」とおっしゃいました。確かに、主イエスはこれまでいろんな例えを用いてご自分が何者であるかということを示してこられました。

「私はまことのぶどうの木。あなた方はその枝である」

「私は良い羊飼いであり、良い羊飼いは羊のために命を投げ出す」

「私は羊の門である。誰もこの門から入らなければ救いに至ることは出来ない」

しかし、この夜、弟子たちとの最後の別れに際して、主イエスはもうたとえを用いない、とおっしゃいました。もう弟子たちに何も隠しておく必要はないのです。キリストははっきりおっしゃいました。

「私は父の元から出て世に来たが、今世を去って父のもとに行く」

このように直接はっきりおっしゃったので、主イエスがこれから死ぬことになることが弟子たちも現実味を帯びて伝わったでしょう。

弟子たちは答えます。

「今は、はっきりと話になり少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存知で誰もお尋ねする必要のないことが今分かりました。これによってあなたが神の元から来られたと私たちは信じます」

弟子たちははっきりと、「この方こそ神の元から来られた方である」と信じました。

弟子たちの信仰告白と言っていい言葉です。しかし、これに対してイエス・キリストは、不思議な言い方をされています。

「今ようやく、信じるようになったのか」

私は一生懸命あなた方に私が何者であるかを伝えてきたけれども、ようやくここにきてやっとわかったのかという、キリストが弟子達の無理解に呆れていらっしゃるようにも聞こえる言葉です。しかしこの言葉は、元の聖書のギリシャ語を見ると、もっと単純な言葉です。

「今、あなたたちは信じるのか」

ようやく信じるようになったのか、という弟子たちの無理解を責めるような言葉ではありません。むしろ弟子たちが今、きちんと信じている、ということを確認されている言葉です。

そして、この言葉は、今の信仰は、次の瞬間どうなるだろうか、というキリストの思いを含んでいます。「今確かに君たちは私のことを信じている。しかしこのあとはどうだろうか」という意味合いの言葉なのです。

イエス・キリストはこの後十字架の上で孤独な死を遂げられることになります。しかしその十字架の前で一体何人の弟子たちが立っていたでしょうか。今、「あなたは神の元から来られた方です」とはっきり信仰告白をした弟子達は、この夜の内に主イエスの逮捕を見て、逃げていくことになるのです。

旧約の預言者ゼカリヤがこういう言葉を残しています。

「羊飼いを撃て。羊の群れは散らされるがよい」

真のイスラエルの羊飼い、良い羊飼いであるイエス・キリストはこの後、文字通り撃たれるのです。鞭で、釘で、十字架へと打たれていきます。そして、主イエスの羊である弟子達は散り散りに逃げ去ることになります。ゼカリヤの預言は実現するのです。

「今、あなたたちは信じるのか」

このようにおっしゃるキリストはどのようなお気持ちだったのでしょうか。主イエスは弟子たちがご自分を見捨ててしまうことを既にご存知でした。それでも今この瞬、弟子たちが自分を信じてくれているということを喜ばれたのではないでしょうか。 Continue reading

10月12日の礼拝案内

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書16:25~33

 交読文:詩編19:8~11

讃美歌:讃詠546番54番、240番、461番、頌栄541

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

10月5日の礼拝説教

 ヨハネ福音書16:16~24

イエス・キリストは弟子たちとの最後の夜、これから弟子たちにこの世からの迫害があることをおっしゃいました。そして同時に、聖霊の注ぎによって弟子たちが担っていく信仰が、この世を真理へと導いていくこともお伝えになりました。

信仰者のこの世での信仰生活が、聖霊の働きによってこの世全体をイエス・キリストへと向かわせていくということは、今を生きる私たちの信仰生活に大きな希望を与えてくれるのではないでしょうか。

この夜語られたイエス・キリストの弟子達への告別の言葉は、新しい出発に備えるように、という励ましでした。主イエスはこの後、弟子達から離れて行かれることになります。しかし、それで全てが終わりではないのです。その先にも弟子たちには歩むべき道がきちんと用意されているのだから希望を捨ててはならない、ということが語られました。聖霊の働きによって、弟子たちの信仰がこの世に希望をもたらすことになり、彼らの信仰がこの世を神の支配へと導くことになるのです。

しかし当然、この夜それを突然言われた弟子達は戸惑い、心が騒ぎました。主イエスがおっしゃっていることの意味が分からなかった弟子たちは、代わる代わる質問しました。ペトロが、トマスが、フィリポが、イスカリオテでない方のユダが、順番に質問しました。

「どこに行かれるのですか」「おっしゃっている道というのがわかりません」「御父を示してください」「どうして私たちだけにおっしゃるのですか」

主イエスは一つ一つそれらの質問にお答えになりましたが、今日読んだところを見ると弟子たちはやはり主イエスが何を伝えようとなさっているのか最後まで理解できなかったようです。

17節を見ると、弟子たちは互いに言い合っています。

「『しばらくするとあなた方は私を見なくなるが、またしばらくすると私を見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのかわからない」

混乱する弟子たちでしたが、主イエスにとっては、この時はそれで良かったのです。この夜、理解できなくても、後々、弟子たちが歩んでいく信仰の道の上で、この夜キリストから告げられた言葉を思い出し理解して行くことになるからです。

私たちも、その時はわからなかったけれども、今になって与えられていた神の導きに気づく、ということがあるでしょう。私たちの信仰がそうであるように、弟子たちにとっても、この夜は真の信仰の歩みへと続く途上だったのです。

主イエスは「しばらくすると」という言葉を何度も繰り返していらっしゃいます。今日読んだところの中でも7回繰り返されています。

弟子たちがこれから通ることになる信仰の苦難の時、つまりイエス・キリストとの別れと一生涯にわたるイエス・キリストの証する苦難の先で彼らは喜びが与えられることになることを約束されているのです。

「しばらくすればあなた方の悲しみは喜びに変わる」とキリストはおっしゃいます。「しばらくすれば」です。弟子たちこの主イエスがおっしゃる「しばらく」がどれぐらいの期間なのかが分かりませんでした。

信仰者であれば、「その『しばらく』というのはどれぐらいの期間なのか」と知りたいと願うでしょう。数日なのか、数年なのか、知りたいと願います。しかし、それは私たちにはわかりません。それはキリストにお任せしておけばいいのです。

主イエスは「今しばらく」という言葉をこれまでも繰り返してこられました。7章33節を見ると、ファリサイ派の人々が主イエスを捕らえるために下役たちを遣わした時のことが書かれています。

主イエスは下役たちにおっしゃいました。「今しばらく私はあなた達と共にいる。それから自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは私を探しても見つけることがない。私のいるところにあなたたちは来ることができない」

人にはわからなくても、イエス・キリストはいつでも、すべてをご自分の支配の内に時を備えて救いの御業を進めていかれるのです。

主イエスがおっしゃっているのは何のことなのでしょうか。「しばらくの間」とここでおっしゃっているのは、どれだけの時のことなのでしょうか。「父のもとに行く」とはどういうことなのでしょうか。

これは間違いなく、主イエスが死に向かっていらっしゃるということを意味していました。それだけでなく、主イエスがここでおっしゃっているように、この世は主イエスの死を喜ぶということもお分かりでした。

それは弟子たちにとってはこれ以上ない痛みでした。そんなことを想像するのも嫌だったでしょう。主イエスが殺されるというのであれば、自分たちがここまで従って来たのは一体何だったのか、という思いになるでしょう。

しかしだからこそ主イエスは、「その痛みはやがて喜びに変わる」と前もって断言されるのです。「だから、来たるべき私の死について備えるように」、と強調されるのです。

「あなた方は泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなた方は悲しむがその悲しみは喜びに変わる」

私たちは、この後イエス・キリストが十字架に挙げられることを知っています。キリストの死を見てキリストの母マリアやマグダラのマリアは泣きました。しかしキリストの墓の外に来たマリアはふたりの天使から告げられます。「婦人を何故泣いているのか」

キリストの復活を告げられたマリアの悲しみの涙は喜びの涙へと変えられました。

痛みが喜びに変わる、と言う信仰の実りのことを、キリストは出産に例えていらっしゃいます。子供が生まれた喜びのために、それまでの苦痛は喜びに取って代わられるということ・・・信仰の痛みは、必ず信仰の喜びとなって実を結ぶのです。

詩編126編にこう歌われています。

「涙と共に種をまく人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い喜びの歌を歌いながら帰ってくる」

私たちの信仰生活はここまでどうだったでしょうか。

分かりやすい実りだったとは言えないと思います。キリスト教信仰をもっていたから、わかりやすい「ご利益」があった、というようなものではなったでしょう。

むしろ、信仰の危機の中を歩んできた。その中で、痛みも悲しみもあったけれども、振り返ると、神はそれを恵みへとつながる道へとしてくださっていた、と思える・・・そのような歩みだったのではないでしょうか。

信仰の痛みが、喜びへと変えられることになる、という恵みが、この夜、弟子たちに与えられた約束でした。普通は、信仰にそのようなことは期待しないのではないでしょうか。

神を信じたことで痛みがある、世からの憎しみが自分に向けられる、というのであれば、普通は信仰を求めたりはしないのではないでしょうか。反対に、「信じたらこんないいことがある、こんな利益がある」、ということを聞いた方が信じたくなるでしょう。

しかしキリストははっきりと、信仰による苦難を予告されます。そして、その信仰の苦難が、確かに弟子達にとって、また私たちキリスト者にとって、喜びへと変えられていくという逆説的な恵みを約束なさいます。

確かに、旧約聖書に出てくる預言者たちを見ても、新約聖書に記録されている使徒たち、教会のキリスト者たちを見ても、神の言葉を世に伝えるためにどんなに険しい道を歩んだか、ということが書かれています。

しかし、神に召された信仰者たちは、信仰の道を歩くのをやめませんでした。

アブラハムが息子イサクをささげるよう神から命じられた時、アブラハムは約束の地モリヤへとまっすぐに歩いた姿は印象的です。

生まれ故郷から召し出されて、様々な苦難を経たアブラハムは最後に、独り息子のイサクをいけにえとしてささげるよう言われ、何も言わず息子と二人で三日間旅をするのです。その三日の道のりはまさに信仰の試練、信仰の苦難でしょう。神を信じるからこその痛みでした。 Continue reading

10月5日の礼拝案内

 次週 礼拝(10月5日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書16:8~15

 交読文:詩編19:8~11

讃美歌:讃詠546番53番、191番、294番、頌栄540

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

9月28日の礼拝説教

 ヨハネ福音書16:8~15

イエス・キリストの最後の夜、弟子たちは確かにキリストから告別の言葉を受けました。はっきりと何度も「私は去ってゆく」とキリストがおっしゃるのを聞きました。

弟子たちは、「先生はどこに行かれるのだろうか」「自分たちは先生と一緒のところに行くことができないのだろうか」と考えました。そして弟子たちが一番恐れたのは、「先生がいなくなった後、自分たちはどうなるのだろうか」ということだったでしょう。

その不安を抱えていた弟子たちに、キリストは「実を言うと私が去っていくのはあなた方のためになる」とおっしゃいます。キリストが弟子たちの元から去っていかれた後、天からの弁護者が送られる、つまり聖霊が注がれることになる、「だからそれはいいことなのだ」とおっしゃいます。

今日私たちはイエス・キリストがこの世を去られたあと遣わされる聖霊の働きについて語られているところを読みました。

「その方が来れば」、つまり聖霊が来れば、罪について、義について、また裁きについての誤りを明らかにするとおっしゃっています。

私たちはこの言葉を通して、聖霊の働きについて教えられることになります。キリストはご自分がいらっしゃらなくなった後、この世は2種類の人に分けられることをおっしゃいました。

ぶどうの枝が幹につながっているように、イエス・キリストにつながりキリストに従って生きる人たち。そして、キリストにつながることをせずキリストを信じる人たちに敵対する人たちです。

イエス・キリストがここで語っていらっしゃる聖霊の働きを読んで面白いのは、聖霊は信仰者だけでなく、信仰者を迫害する人たちに対しても働きかけていくということなのです。

私たちは考えたいと思います。

聖霊が来て、この世の罪について、義について、裁きについて誤りを明らかにしてくださるのであれば、もう安心だ、と弟子たちは思えたでしょうか。私たち自身、聖霊によって罪や義や裁きを明らかにされると聞いて、単純に喜べるでしょうか。

手放しには喜べないと思います。聖霊の裁きの内側に、私たちの罪、私たちの義も置かれるからです。洗礼を受けていない人たちに聖霊の裁きは向かう、というのであれば、少しは安心できるかもしれません。

しかし、聖霊が世に与えられ、その聖霊は自分にも向かってくると言われているのです。

普通は、「信仰を通して自分には聖霊が与えられる」、と聞けば、信仰を持つことによって聖霊が自分を悩みや苦しみを引き離してくれるのではないか、楽な生き方が与えられるのではないか、と期待するのではないでしょうか。信仰者だけに働きかけて、信仰者だけを導いて、いつも笑顔でいられるようにしてくださる、ということを期待し、願うのではないでしょうか。

しかし、それは違うのです。

聖霊は信仰を持っている・持っていないにかかわらず、世の全ての人に自分の罪に向き合うことを求めるのです。神と自分の関係が本当に正しい状態にあるかどうかを突きつけるのです。そして、あなたも、キリストを十字架に上げたあの群衆の中にいたのだ、と気づかせるのです。

キリストがおっしゃる聖霊の働きに、私たちはむしろ緊張するのではないでしょうか。自分の罪について、義について、裁きについて、誤りが明らかにされるというのであれば、私たちのうち一体誰がキリストの前に立たされた時、顔を上げることができるでしょうか。

聖霊の働きとは、まず、私たちを断罪するところから始まるのです。そしてそうやって、イエス・キリストを見たことのない人たち、その十字架も復活も知らない人たちに、どこに許しがあるのかを示し、信仰の入り口の前に立たせるのです。

弟子達はこの夜、「先生がおっしゃっていることが理解できない」、と心の中で思っていたでしょう。

キリストもそのことはご存じでした。だからおっしゃるのです。

「言っておきたいことはまだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」

面白い言葉ではないでしょうか。そして、とても大切な言葉だと思います。弟子たちは今、理解できていない。それにもかかわらず、キリストは語り続けて行かれます。しかしそれでいいのです。

今の無理解の中にあってもキリストの言葉は与えられ、その無理解の先には、聖霊が全てを悟らせてくださる時が備えられている。そのこと知っているだけでいい、それが大事なのです。

「真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる」

この夜、弟子達が学ばなければならなかったのは、聖霊に対する希望でした。すべて理解する必要はない。ただ、希望がある、ということだけを知っていればいいのです。そして後になって、「あの時キリストがおっしゃったことは、これだったのか」と感謝の祈りを捧げればいいのです。

「自分たちの先生がこれから去って行かれることは、すべての終わりではない。逆に、自分たちは今から何か新しいことの始まりに立ち会おうとしている」、このことを知っていればよかったのです。

目の前から先生がいなくなれば信仰の終わり、ということではありませんでした。私たちにとっても、自分にはキリストの姿が見えないから希望が見えない、ということではないのです。

聖霊を通してイエス・キリストと共に生きる道へと導き入れられるのです。そして、弟子達は、また私たち信仰者は、聖霊を通してイエス・キリストの御業を行っていくことになるのです。

信仰の終わりなどというものは無いのです。信仰の希望に壁はないのです。常に、神が、聖霊を通して、信仰者には見えない、一歩先で何かを見せようと用意してくださっています。

思えば、不思議ではないでしょうか。教会は、今でもイエス・キリストの体としてキリストの御心をこの世で行っていこうとします。世代が替わってもそのことは変わりません。決して楽な歩みではありません。礼拝ごとに新しくキリスト者の人数が増えていく、などという単純なものではありません。むしろ、逆風を感じることのほうが多いでしょう。

この夜、キリストの言葉を聞いた弟子たちは、もう今は生きていません。イエス・キリストの十字架と復活という出来事を実際に見た人たちも、はるか昔に死にました。弟子達からキリストについての証言を直接聞いた人たちももういないのです。

それでも、キリスト教会はここまで2000年、立ち続けてきました。その時代、その時代のキリスト者たちの努力もありましたがそれ以上に、人々をキリストへと導き、人々をキリストの体である教会へとつなぎ留め、キリストの業を行わせてきた聖霊の働きがあったからです。

キリスト者が希望を見失いかけた時でも、聖霊は見えないところで動き続けていました。

私たちが聖書を読んでいて、一番よくわからないのが、「聖霊の働き」というものではないでしょうか。私たちの理解や常識を超えた働きを感じた時、「聖霊の働き」としか呼べないものを感じます。

しかし、ここでは、キリストははっきりと、聖霊が何をするのか、おっしゃっています。

「罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする」

まず、聖霊が明らかにする「世の罪」とは何でしょうか。この「罪」という言葉は、「過ち」とか「犯罪」という意味もありますが、ここでは霊的な意味で、神に対する罪を指しています。人に対して犯した犯罪・悪事ではなく、神に背を向けること、神を知らないこと、神から離れていることです。

キリストは、ご自分に詰め寄ってくるユダヤ人たちにこうおっしゃいました。

「あなたたちのうち一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私は真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神に属するものは。神の言葉を聞く」 Continue reading

9月7日の礼拝案内

次週 礼拝(9月7日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書16:8~15

 交読文:詩編19:8~11

讃美歌:讃詠546番52番、222番、505番、頌栄540

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

◇9月21日 田園調布教会の方々が訪問してくださいます。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日  Continue reading

8月31日の礼拝説教

 ヨハネ福音書16:1~7

告別の言葉を通して、イエス・キリストは弟子たちに、「私とあなたがたは確かにこれから離ればなれになってしまうけれども、大丈夫だ」と、別れに備えるようおっしゃいます。その別れも、神のご計画の内にあることをお伝えになるのです。キリストと弟子達が離れ離れになっても、弁護者、つまり聖霊が与えられるので、この別れはいいことなのだ、と前もって示されています。

この弟子達への言葉はキリスト教会への言葉、つまり私たちへの言葉でもあります。キリストが自分の目の前に見えないからと言って嘆く必要はありません。聖霊を通してブドウの枝と幹がつながっているように、キリストと信仰者は強く結びつけられ続けるのです。

しかしキリストは、「私がいなくなっても大丈夫だ」と言いながらも、ご自分がいなくなった後、弟子たちを襲うであろう迫害を予告されます。

「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。」

キリストに従う私たちの信仰生活は、逆風とは無縁のものではありません。逆風は変わらず吹くのです。イエス・キリストに対して、この世からの逆風が吹いたように、弟子達にも、キリスト教会にも、この後逆風は吹くのです。

それではなぜキリストは「大丈夫だ」「あなた方と別れるのはいいことだ」とおっしゃるのでしょうか。

その逆風の中にあっても、キリストが共にいてくださっているからです。逆風がなくなるのではなく、キリストと一緒に逆風の中を進むことができる、ということが、信仰の強さなのです。

マタイ福音書の10章で、キリストはこうおっしゃっています。

「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。・・・私よりも父や母を愛する者は、私に相応しくない。・・・自分の十字架を担って私に従わないものは、私に相応しくない」

非常に厳しい言葉です。家族などどうでもいい、ということでしょうか。そうではありません。キリストを第一に求めることの先に、本当の家族の平和、この世の平和がある、ということでしょう。

キリストは、これから大きな分裂が起こる、とおっしゃいます。この世が、分裂するのです。ナザレのイエスをキリストと信じ従う人たちと、信じない人たち。キリストを愛する人たちと、キリストに敵対する人たちに分かれるのです。ぶどうの枝が幹につながっているようにイエス・キリストと神の愛につながろうとする人たちを、枝を折り焼き払うように迫害する人たちに分かれるのです。

キリスト者は一世紀、ローマ帝国の異邦人、異教徒たちからの迫害だけではなく、同じユダヤ人たちからも迫害されることになりました。キリストは弟子達と過ごす最後の夜、これから弟子たちに起こることを繰り返し話してお聞かせになりました。

主イエスと弟子たちがなぜ離れ離れになってしまうのか、ということ。

主イエスはなぜ十字架の上で死ななければならないのか、ということ。

主イエスの十字架の死がすべての終わりではないのか、ということ。

主イエスの死が弟子たちにとっての信仰の終わりではい、ということ。

むしろ弟子たちの本当の信仰はそこから始まることになる、ということ。

これらのことをこの夜、事前に伝えようとなさったのです。主イエスの言葉は、13章から17章にいたるまで、記録されています。膨大な量です。弟子たちにつまずかせないために、力を込めて多くの言葉を語られました。

「つまずく」という言葉が聖書の中ではよく使われています。信じられないこと、信じることをやめることのことを、「つまずく」という言葉で表現されています。いつの時代でも、迫害や嫌がらせを受けてキリストに従うことをやめる人たちがたくさんいました。だから聖書が書かれたのです。信仰の苦難や迫害の中でつまずく人たちがたくさんいて、その人たちを励まそうとしてこの聖書は書かれました。

新約聖書の中には使徒パウロの手紙がたくさん入っています。このパウロ自身も、教会の迫害者でした。パウロは、ガラテヤの諸教会にこう書いています。

「あなたがたは、私がかつてユダヤ教徒としてどのように振る舞っていたかを聞いています。私は徹底的に神の教会を迫害し滅ぼそうとしていました」ガラテヤ1:13

キリストはここで、「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」と弟子達におっしゃっています。まさに、パウロがそうでした。

フィリピの教会への手紙の中で彼はこう書いています。

「私は・・・イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身でヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の破壊者、律法の儀については非の打ち所のない者でした」フィリピ3:6

パウロは教会を迫害し、キリスト者を逮捕しながら、自分は神のために正しいことをしている、と考えていました。

使徒言行録を見ても、キリストの使徒ステファノの殉教、キリストの兄弟ヤコブの殉教が記録されています。使徒たちだけでなく、多くのキリスト者が、様々な迫害を受けたことが分かります。

キリストの復活を信じなかった人たちは、キリスト教会の人々を迫害し始めました。そして皮肉にも彼らはキリスト者を迫害することが神のためになると思っていました。

しかし、そのキリスト教会の痛みを通して、人々は変えられていったのです。なぜイエス・キリストは、キリストとして受け入れられなかったのでしょうか。なぜキリスト教会は迫害されたのでしょうか。

以前大祭司カイアファがこう言ったことがあります。

「1人の人間が民の代りに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなた方に好都合だとは考えないのか」11:50

ローマ帝国を刺激するよりはナザレのイエスを犠牲にして騒ぎを起こすことなく、穏便に祭りを済ませた方が良いというカイアファの言葉です。

私たちは考えます。「なぜ、イエス・キリストは死ななければならなかったのか。神は、全能の神なのだから、もっと簡単に、一瞬で世のすべての人の心をご自分に向けることがおできになるのではないのか。」

しかし、神は私たちの心を強制的に支配するのではなく、全ての人が自分の自由意思で神を求めるように、この世にご自分の愛を示されました。

「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とキリストはおっしゃいました。神の独り子を世にお与えになるほどの愛を世に示されたのです。そしてその通りになるのです。

この方が十字架で殺された後、復活され、弟子達に聖霊が注がれて、弟子達はキリストの十字架の意味を知りました。それは、自分たちの罪をあの方が十字架で担ってくださった、ということでした。そこに罪の許しがあり、またキリストの復活を通して、永遠の命の希望を示されたのです。

キリストの復活の後、弟子達の宣教活動によって、エルサレムの多くの人たちがキリストを信じるようになった。ナザレのイエスとは何者だったのか、また自分たちがそのナザレのイエスに対して何をしてしまったのかを知ったからです。

人々は自分の罪の重さを知り、同時に、その罪を赦していただいたという恵みを知って打たれたのです。人々は、自分の意思でイエス・キリストへと立ち返っていきました。

イエス・キリストという一粒の麦が、地に落ちて死に、そこから多くの実が結ばれていったのです。キリストを信じるようになった人たちも、一人ひとりが、一粒の麦となり、また次の実りのために自分の生涯をささげるようになっていきました。 Continue reading

8月31日の礼拝案内

次週 礼拝(8月31日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書

 交読文:詩編19:8~11

讃美歌:讃詠546番31番、194番、396番、頌栄539

【報告等】

◇9月21日 田園調布教会の方々が訪問してくださいます。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後 Continue reading

8月24日の礼拝説教

ヨハネ福音書15:22~27

ヨハネ福音書のはじめに、「暗闇は光を理解しなかった」と書かれています。「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。

神は世を照らす光としてこの世に独り子を送られました。イエス・キリストは「この世を暗闇のままにはしておかない」、という神の救いの御心そのものでした。

福音書の序文にあるように、イエス・キリストはこの世に神の招きの言葉を伝えに来たにも関わらず、反対と憎しみをお受けになりました。しかし、ここまで私たちが見てきたように、光であるイエス・キリストが世に来られることによってこの世には影も生まれたのです。その影はイエス・キリストのことを神の子・世の光として見ることなく、ナザレのイエスの宣教とその弟子たちの働きを「危険なもの」とみなしました。

私たちは今日、イエス・キリストが、弟子たちが受けることになる迫害の予告をされる言葉を読みました。なぜキリストの弟子たちは世から憎まれることになるのでしょうか。キリストの弟子達が世に憎まれるのであれば、キリスト教会も憎まれるということでもあります。なぜキリスト教会がこの世から迫害されなければならないのでしょうか。教会はそんなに悪い集団なのでしょうか。

キリストは旧約聖書の言葉を引用してこうおっしゃいます。

「人々は理由もなく私を憎んだ」

これは詩編の言葉です。キリストが世に憎まれた理由、キリストに従う教会が世に憎まれる理由はこれなのです。つまり、「理由はない」と言うことです。

「人々は理由もなく私を憎んだ」というのは、詩篇35編19節の言葉です。詩編35編は無実の人が裁判で訴えられる苦しみを歌ったものです。

「不法の証人が数多くたち私を追求しますが私の知らないことばかりです」と詩人は神に訴えます。そして35編の19節で「無実な私を憎む者が、侮りの眼で見ることがありませんように」と語ります。

この

「無実な私を憎む者」というのが、キリストが引用された詩篇の言葉です。無実な人を憎む、ということにはどんな理由があるでしょうか。理由などありません。無実の人を憎むことで自分が安心できる人が、そうするのです。

キリストは「彼らの律法にそう書いてある」と皮肉を込めておっしゃっています。「彼らの律法」と言っても、律法は聖書のことですから一つしかありません。「私の律法」「あの人の律法」などという表現は本当はおかしいのです。キリストが「彼らの律法」とおっしゃるのは、「彼らが勝手に自分に都合よく解釈している律法」という皮肉が込めていらっしゃるのです。

ヨハネ福音書の9章に、イエス・キリストが目を開かれた盲人がパリサイ派の人たちによって会堂から追放された、という事件が書かれています。目が見えなかった人が確かにキリストによって癒され見えるようになりました。その人の両親も、そのことを証言しました。それなのにファリサイ派の人たちは癒された盲人を「罪びと」と呼び、会堂から追放しました。

それは人々の心が自分達からナザレのイエスに移ることを恐れてのことでした。世は、このようにして無実の人を憎み、自分を守ろうとするのです。神の言葉、神の御業ではなく、自分の立ち位置を守る方が大切なのです。

今でもこのことは変わっていません。今でも、キリスト者が侮られたり、キリスト教信仰をバカにされたり理解してもらえないことの方が多いでしょう。当然です。イエス・キリストがそうだったからです。

キリストはこの世の中でどんな悪いことをなさったのでしょうか。殺されなければならないような罪を犯されたでしょうか。理由などありません。人々は自分の立ち位置を守るためにナザレのイエスに罪びととしたのです。

皮肉なことですが、その罪は、この方が背負ってくださったこの世の罪・自分たちの罪でした。しかし彼らはそのことに気づきませんでした。私たちのキリストへの信仰が理解されないということには、なにかこれという理由があるのではないのです。この世の中でキリストの光が示されたところには影もできる、ということです。

主イエスはこの世の人全てを否定されているわけではありません。ここでは、実際にご自分のことを非難してきたユダヤ人たちのことをおっしゃっています。

イエス・キリストの全ての言葉はこの世を神の元へと導く救いの言葉でした。しかしユダヤ人たちはイエス・キリストの言葉を無視しました。キリストの福音宣教は、この後イスカリオテのユダに先導されるユダヤ人たちによって逮捕されて終わります。

22節で、主イエスは恐ろしいことをおっしゃっています。

「私が来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない」

イエス・キリストの言葉を知らないというのであればまだ弁解の余地はあったのです。しかし彼らは実際にキリストの言葉を聞き、何度もキリストの業を見て、その上でキリストをこの世から排除しようとしました。

キリストの言葉・業を受け入れないということは、キリストを憎むということです。そしてここでおっしゃっているように、キリストを憎む人はキリストの父である神を憎むということです。

キリストはご自分と神と弟子達のつながりについてお話なさいます。弟子たちを愛する者はキリストを愛するのであり、キリストを愛する者はキリストを遣わされた父なる神を愛するということなのだから、弟子たちを憎む者はキリストを憎むということであり、弟子達を迫害する者は神を迫害するということであることが示されています。

今、教会はこの世からどのように見られているでしょうか。私たちの信仰はただ辛いだけのものなのでしょうか。神を信じているというだけでバカにする人多いでしょう。キリストを信じているというだけで、「どうして外国の宗教を信じるのか」と言われることもあるでしょう。

私たちは、論理的に相手を説得してキリストを信じさせるようにすることはできません。なぜ自分がキリストを信じるようになったのか、信じ続けているのかを説明してわかってもらうことも難しいでしょう。キリストが人々から言われたように、しるしを見せてみろ、証明してみろと言われても何も言えないし何もできないのではないでしょうか。

しかしそれでもキリスト者はキリストのもとに留まります。言葉で説明できない何かによって私たちはキリストにつながっているからです。キリストはそれを真理の霊と呼ばれます。

イエス・キリストがこの世で福音宣教なさって、十字架の直前まで実際に従い抜くことができたのはたった12人でした。そしてこの夜、1人が裏切るために去って行きました。あとの11人も、主イエスの逮捕を見て、全員が逃げ出します。

イエス・キリストに本当の意味で従う群れができたのはキリストの復活の後なのです。聖霊が注がれてそこから初めてイエス・キリストの言葉と技の意味が示されました

私たちの信仰もそうだったのではないでしょうか。あの時はイエス・キリストなんて知らなかったし信じてもいなかった。しかし後になってあの時キリストは本当に私と共に歩んでくださっていたことが分かった、と思える瞬間があるのです。聖霊を通して、キリストへと導いてくださる言葉や出会いが与えられるのです。今でも、そしてこれからも与えられ続けるのです。

ここでのイエス・キリストの言葉は法廷での弁論のように聞こえます。自分がイエス・キリストの言葉と業に対して、自分たちがどう向き合ってきたのか、ということを振り返らされるのではないでしょうか。

私たちは世の終わりに神の前に立たされた時、神から何と言われるでしょうか。

「私の言葉を聞いて、私の業を見ても、あなたは信じなかった。あなたにはもう弁解の余地はない」

この世の終わりにキリストからそう言われることほど恐ろしいことはないでしょう。では、今私たちがどう生きるか、ということです。

私たちが声高にイエス・キリストのことを叫んでもうこの世はあまり聞こうとしません。「自分には関係のないことだ。自分はキリストを知らなくても充分立派に生きていける」。皆そう言うでしょう。

そう言われると私たちはそれ以上何も言えなくなってしまいます。では私たちは何ができるのでしょうか。祈ることです。礼拝向かい続けることです。キリスト者が祈る姿が、また礼拝に身を置く姿が、何よりイエスキリストを証する力を持っているのです。

忘れてはならないと思います。聖霊は祈る群れに注がれました。立派な人が集まって「自分たちの力で教会をつくろう」と言って、踏み出したのではありません。どっちに向かって踏み出していいのかわからず祈るしかなかった群れに聖霊は注がれました。そして語るべき言葉と行くべき場所が示されていったのです。

使徒パウロは手紙の中で書いています。 Continue reading