3月8日の礼拝案内

次週 礼拝(3月8日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書19:31~35

 交読文:詩編20:2~5

讃美歌:讃詠546番番、133番、489番、頌栄542

 

【報告等】

◇3月10日(火) 富士見町教会にて 伊豆諸島伝道委員会・東支区総会

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会  Continue reading

3月1日の礼拝説教

 ヨハネ福音書19:25~30

兵士たちはナザレのイエスを十字架にかけ、その服を分け合いました。その後、彼らに残された仕事は、十字架の近くでイエスが死ぬのを見届けるだけでした。

罪人の家族や友人はその処刑を見ることが許されていました。許されている、というよりは、十字架刑は見せしめのための処刑法でもありますので、少しでも多くの人の目に触れるように考えられていました。

人々は罪人の十字架の上に掲げられた罪状を読むために、十字架に近くに寄らなければなりません。そうやって人々は十字架刑の怖さ、ローマ帝国に反逆したらどうなるか、ということを見せつけられたのです。

人々が十字架に近づくことが許されていますので、特にその罪人の家族や仲間が助けようとすることがないよう、十字架の下に兵士が立って、処刑を最後まで見届ける必要がありました。

今日私たちが読んだのは、兵士たちが十字架の下に立ち、主イエスが死ぬまでの時間を待っていた間に起こったことです。主イエスは、十字架に上げられ、息を引き取られるまでの数時間、わずかながら十字架の上で言葉を残されました。

ヨハネ福音書は、この時十字架の元にいた人たちに焦点を当てます。そこには4人の女性がいました。主イエスご自身の母マリア、その姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアの4人です。そしてもう一人、主イエスが「愛された弟子」もいました。

不思議なことに、ヨハネ福音書は、主イエスの母とその姉妹の名前を書いていません。その名前を知らなかったのではなく、あえて書いていないのです。

主イエスの母の名前はマリアでした。そしてマリアの姉妹は、他の福音書を見ると サロメという名前であったことがわかります。マタイ福音書とマルコ福音書を見ると、マリアの姉妹サロメは、主イエスの弟子のヤコブとヨハネの母でありゼベダイの妻であった、という細かい関係性まで書かれています。

それを踏まえると、この時十字架の下にいたこの「愛された弟子」は 主イエスといとこ同士であるゼベダイの子ヨハネであったということになります。主イエスの親戚、身内として、彼は伯母のマリアと、自分の母サロメと十字架の下にいたのでしょう。

しかし、ヨハネ福音書では、そのような名前や細かい関係性を書いていないのです。このことには、ヨハネ福音書独自の意図がありそうです。

ヨハネ福音書にはイエス・キリストの十字架の上における最後の言葉が記録されています。ほかの福音書には記録されていない言葉です。

主は十字架の上から言葉を残し、十字架の下にいる人たちに、何かを示されました。そのお姿を通してまず知っておかなければならないのは、十字架に上げられならがも、キリストはその場を支配しておられたということです。そこには間違いなく、神の救いの御支配があった、ということです。

私たちはなぜ、救いの御子がこのような死に方をしなければならなかったのか、と考えます。死に方、というよりは、「殺され方」です。なぜ、神がこの世をお救いになるために人としてお生まれになり、十字架でこのような残酷な殺され方をしなければならなかったのか、それが不思議でなりません。

「神は人間に負けてしまったということなのか。神の子であっても集団になった人間には勝てなかったのか」、と普通なら思うでしょう。しかし、神は全てを、この十字架の死に至るまでご自分の救いの御業の計画の中に含めていらっしゃいました。この十字架の上でキリストが口にされたいくつかの言葉にこそ、神の痛みに込められた御心が示されており、主イエスは十字架の上から道を示されたのです。

一つ一つ、見て行きたいと思います。

はじめに主イエスはご自分の母と、この福音書には名前が記されていない「愛する弟子」と呼ばれる人をご覧になりました。そしてご自分の母に向かって、「婦人よ、ごらんなさい。あなたの子です」と「愛する弟子」を示されました。それからその弟子に「見なさい。あなたの母です」とおっしゃいました。「その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」とあります。

普通であれば、主イエスはご自分の弟たちに言うべき言葉を、ご自分の弟子におっしゃっています。この時主イエスの弟たちはどこにいたのでしょうか。この時、弟たちは十字架の下にはいなかったのです。

主イエスは家の中では長男であったので、父ヨセフの死によってご自分が母と兄弟たちの生活を担って働いてこられました。しかし主イエスはある時から、福音宣教のために働き始められます。主イエスの弟たちは、兄がそのように突然預言者のような活動を始めたことを快く思わなかったようです。

ほかの福音書では、「自分たちの兄がおかしくなってしまったのではないか」、と主イエスを連れ戻しに来たことが書かれています。ヨハネ福音書では、7章5節に「兄弟たちはイエスを信じていなかった」とはっきり書かれている。

だから主イエスの弟たちは、この時十字架の下にいなかったのです。そこで、主イエスはご自分の「愛する弟子」にご自分の母のことを託し、母には、その弟子を自分の子のように頼るように、とおっしゃいました。

ヨハネ福音書は、なぜこのようなやり取りを記録しているのでしょうか。キリストは、ご自分の死後の母マリアの生活を心配して、そこにご自分の弟たちがいないので仕方なく弟子に母の面倒を見るように、とおっしゃった、ということなのでしょうか。

主イエスがどのような意味でこれをおっしゃったのか、福音書は詳しく説明をしていません。

はっきりとこの言葉の意味の解説はありませんが、間違いなく言えることは、神が御子イエス・キリストに託された使命は、この十字架の死によって途切れることはなかった、ということです。母マリアの生活をご自分の「弟子」に託された、ということの中に、キリストの使命が弟子たちに引き継がれていく様を見ることができるのです。

この弟子の言葉や業が、やがて「神の息・聖霊の風」によってキリストの言葉・キリストの業として用いられていくのです。そして、地縁や血縁を超えた、信仰の家族としての姿が立ち上がっていくことになります。

マルコ福音書で、主イエスはこうおっしゃっています。

「私の母、私の兄弟とはだれか・・・神の御心行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」

十字架のもと、信仰の家族としての一歩が主イエスの言葉によって作り上げられたのです。

そしてこの後、主イエスは二つの言葉を短く発していらっしゃいます。「渇く」「成し遂げられた」という言葉です。

これらも、一つずつ見て行きたいと思います。

主イエスは、「渇く」とおっしゃいました。十字架の罪人は地中海の暑さの中、呼吸が十分にできず、喘ぎ苦しみ、最後は脱水になって喉が渇いてきます。しかし、ここでの主イエスの言葉は、ただ喉が渇いて漏れ出た言葉、というだけのものではないようです。

「イエスは、全てのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた」、と書かれています。暑くて喉が渇いたので「渇く」とおっしゃったのではありません。全てのことが「成し遂げられた」のを知って、「渇く」とおっしゃったのです。

「成し遂げられた」というのは、全てが「終わった」という意味もあります。そして福音書は、「こうして、聖書の言葉が実現した」と書いています。主イエスが十字架の上で「渇く」とおっしゃったのは、何かの預言の実現した、ということでしょう。

これは詩編22:16の実現でした。詩編22編は、信仰者の苦しみの祈り・訴えの詩です。

「口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上あごに張り付く。あなたは私を塵と死の中に打ち捨てられる」22:16

詩人は神に自分の苦しみをそのように訴えています。キリストは、十字架の上で、あの詩編22編の苦しみの詩人を体現されているのです。

私たちは覚えたいと思います。この方の十字架の上での渇きは、本当は世の全ての人が神の前に感じなければならないものでした。信仰者の苦しみの渇きを、主イエスは十字架の上で全て担ってくださっているのです。罪による渇きである、ということです。 Continue reading

2月22日の礼拝案内

次週 礼拝(2月22日)】

 説 教 「地の塩、世の光」
招 詞 コロサイの信徒への手紙 4:5~6
聖 書 箴言4:18 マタイによる福音書 5:13~16
交読文 詩編 34編(11節まで)
讃美歌 讃栄543、23、252、358、頌栄541

【報告等】

◇2月22日(日) 三軒茶屋教会の伊藤英志牧師が三宅島伝道所をお訪ねくださいます。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。 Continue reading

2月15日の礼拝説教

 ヨハネ福音書19:16~24

ユダヤ人とピラトの間で行われた主イエスの裁判は終わりました。それは裁判とも言えないような裁判でした。主イエスの主張は本当に正しく聞かれ、吟味されたでしょうか。

ユダヤ人たちは「この者を十字架で殺せ」という自分たちの主張を叫んだだけでした。本来なら「神のみが真の支配者である」という信仰を持っていたはずのユダヤ人たちは、勢いに任せて、「ローマ皇帝だけが自分たちの王である」と告白してしまいましいます。ローマ総督ピラトは、騒ぎ立てるユダヤ人たちに押されて、自分では罪を見出さなかったイエスを十字架へと押しやってしまいました。ピラトも、ユダヤ人たちも、自分の思いを貫くことができていません。

「命をかけてあなたに従います」と言った弟子たちを含め、主イエスの十字架の前に、全ての人が自分の道につまずいています。全ての人が、自分の理想とする道から外れてしまっています。そしてその的外れな歩み・罪の歩みが、主イエスを十字架へと向かわせていったのです。

イエス・キリストが十字架で殺された、ということは有名な話なので、キリスト者でない人も知っている人は多いでしょう。しかし、このような裁判とも言えないような裁判を経て十字架に上げられた、ということはあまり知られていないのではないでしょうか。

実は「なぜ・どのように」この方が十字架に上げられたのかということが、とても大切なことなのです。しかし、大切なことではありながら、それを説明しようとしても、福音書の記述から一言で「こうだ」とまとめることはできません。「この人がこのように計画して、それが計画通りになって、こうなった」、と言えないのです。

弟子達の生でも、ピラトのせいでも、ユダヤ人たちのせいでもありません。

弟子たちが先生である主イエスを守ることができなかったということではないのです。ローマ総督ポンテオ・ピラトがこのイエスという人に反逆罪を見出して判決を下したというのでもないのです。ユダヤ人たちが主イエスに見出したのは「神の子であると自称した」、という律法違反であり、十字架刑に相当するものではありませんでした。

ここで一つだけ言えるのは、「ただ、神の御計画のみが実現している」、ということです。逆に言えば、人の計画が実現しているのではないということです。

ここで私たちはイエス・キリストの十字架のお姿を見ることになります。私たちは踏まえておきたいと思います。主の十字架において、人間の計画は何一つ実現していないということ。ただ、「世の罪をご自分の独り子に背負わせ十字架に上げ、この世の罪を許す」という神の救いのご計画だけが実現している、ということ。神が前もって預言者を通してお示しくださった救いの御業が、人間には理解できない仕方で進んでいる、ということ。

これこそが、聖書が今を生きる私たちに伝えようとしていることなのです。

主イエスは1人で十字架の木を運ばれました。他の福音書では、キレネ人シモンという人が、鞭打ちで弱ったイエスに代わって十字架を無理やり運ばされたことが書かれていますが、ヨハネ福音書では、そのことは省かれています。ただ、「イエスは、自ら十字架を背負った」とあります。

おそらくヨハネ福音書は、主イエスのお姿だけを描くことによって、主イエスがご自分の十字架の受難を徹頭徹尾ご自分の意思でご自分の支配のもとに進められた、ということを強調しているのでしょう。

「されこうべの場所」という意味の、処刑場所へとご自分の十字架を運んで行かれました。ヘブライ語ではゴルゴタ、ラテン語ではカルバリと呼ばれていた処刑場所です。実際、そこには、遠くから見ると頭蓋骨に見える岩があります。

十字架刑は、最も残酷な処刑方法でした。罪人は両手を十字架に縛り付けられるか釘で打たれます。そしてその十字架を立たせると、罪人の腕の血液が胸に集まってきます。呼吸が困難になり、やがて窒息死することになります。

十字架に上げられる前の鞭打ちで弱っていなければ、死に至るまで数日を要することもあったそうです。ちょうどお尻の位置に腰をかける椅子のような出っ張りがあって、そこで 少し休めるような造り作りなっていました。その分罪人は十字架の上で長く苦しまなければならない、という残酷な設計です。

少しでも罪人を苦しめ、その姿を少しでも長く見せしめにする、残酷極まりない死刑法、それが十字架刑でした。あまりに恐ろしく、また侮辱に満ちた刑なので、ローマ市民に対する十字架刑は禁止されていました。奴隷と辺境の地域の反逆者たちに適用された刑でした。

私たちは考えさせられます。なぜ、神の子イエス・キリストに託された使命は、十字架だったのでしょうか。十字架でなければならなかったのでしょうか。神の子として世に生まれ、人々の間で神の国の教えを説き、癒しの奇跡を行い、人々を神のもとへと導いて、最後は皆の尊敬を集めて静かにその生涯を閉じる、ということがなぜ許されなかったのでしょうか。キリストが最も苦しい死に方へと向かうために、世に来られたのはなぜでしょうか。

ヘブライ人への手紙9章に、その理由が記されています。

「キリストはすでに実現している恵の大祭司としておいでになったのですから、人間の手で作られたのではない、すなわちこの世のものではない、さらに大きくさらに完全な幕屋を雄山羊と若い雄牛の血によらないで、ご自身の血によってただ一度、聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」

「永遠の霊によってご自身を傷のないものとして神に捧げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」

「キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは最初の契約のもとで犯された罪の贖いとしてキリストが死んでくださったので、召された者達が、すでに約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません」

モーセが動物の血を契約の書と民全体にふりかけて清めたように、「血を流すことなしには罪の許しはあり得ないのです」

なぜ神の独り子の血が流されなければならなかったのか。しかも十字架で。それは世の罪びとを許し、世の罪びとをご自分の血で清め、神との契約を結ぶためでした。

預言者イザヤは、このことをイエス・キリストの十字架の500年以上前に預言していました。

「彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり打たれたから、彼は苦しんでいるのだと」

私たちは、イエス・キリストの十字架に「栄光」を見ます。この世の支配者たちに負けてしまった罪人として見ることはありません。全ての人間、全ての世の罪びとの罪を背負い、自ら世の全ての痛みを引き受け、神と人の間に新しい契約を打ち立ててくださった、神の子としての栄光を見ます。

敗北に見えるこの十字架こそ神の勝利でした。私たちは、この方が十字架の上で私たちの何を背負ってくださったのかを、預言者の言葉を通して心に刻みたいと思います。この方が担ったのは、私たちの病、この方が負ったのは、私たちの痛みだったのです。このイエス・キリストのお姿に見る十字架の痛みは、私たちの罪の深さを物語っているのです。

「あの時、ゴルゴタの丘で殺された、ナザレのイエスとは一体何者だったのか」

これは、今に至るまで、世に生きる私たちに向けられ、そして聖書を通して答えなければならない問いです。この方は2人の人と十字架にかけられました。ルカ福音書では、二人の強盗が主イエスの両隣で十字架にかけられ、言葉を交わしたことが記録されています。しかし、ヨハネ福音書が焦点を当てているのは、ただその真ん中にいらっしゃるイエス・キリストのみです。

この方の十字架の上には、この方が何者なのか、ということが示されました。ピラトはこの方の罪状を「ユダヤ人の王」と書いた、とあります。そしてそれはヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれました。

ヘブライ語はユダヤ人の信仰の言葉です。ギリシャ語は当時の全ての人によって話され、文学や哲学といった文化的な作品にも使われていた言葉です。ラテン語は当時のローマ帝国内の、政治的公用語でした。つまり、当時の世界の全ての人がわかる言葉で、この方が「王」であることが示されたのです。

もちろん、これは嘲りと皮肉を込めて書かれた罪状です。しかし、霊的に意味において、この十字架は世に示された真理でした。不思議な仕方で、イエス・キリストは真の王であることが世に示されたのです。

主イエスを十字架へと上げた人たちは、主イエスのことを本当に「ユダヤ人の王」であるとは考えていませんでした。しかし、その人たちの思惑を超えて、この方が「ユダヤ人の王」であることが示されたのです。

ヨハネ福音書の6章の最後で、主イエスに従おうとしてきた弟子たちの多くが離れ去り、12人だけが残された、ということが書かれています。その際、主イエスは12人に問われました。

「あなたがたも離れて行きたいか」

ペトロは答えました。

「主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」 Continue reading

2月8日の礼拝案内

 次週 礼拝(2月8日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書20:2~5

 交読文:詩編19:12~15

讃美歌:讃詠546番番、401番、231番、頌栄543

【報告等】

◇2月22日(日) 三軒茶屋教会の皆さんが三宅島伝道所をお訪ねくださいます。説教は伊藤英志牧師です。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 Continue reading

2月1日の礼拝説教

 ヨハネ福音書19:8~15

ローマ総督ポンテオ・ピラトは、総督官邸の外でナザレのイエスの死刑を求めるユダヤ人たちをなだめるために官邸の中でイエスを鞭で打たせました。そして紫の服を着せて、傷つき、弱く憐れなその姿をユダヤ人たちに見せました。そうすれば、ユダヤ人たちが満足して帰っていくだろうと考えたのです。

「見よ、この男を。なんと憐れな姿だろうか。これが本当にユダヤ人の王に見えるか。この者は何の危険性もない、ただの憐れな男だ」

ピラトはユダヤ人たちに訴えます。それで全てが終わると思っていました。しかしユダヤ人たちのイエスに対する殺意は消えませんでした。「十字架につけろ」と叫ぶ彼らに、ピラトは、「私はこの男に罪を見いだせない」と言います。これが、ピラトの良心でした。無罪の者を、有罪にすることはできない。しかも、ユダヤ人たちの言いなりになって、誰かを死罪にするなどということはできないのです。

「律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」

これを聞いて、ピラトは恐れました。イエスが「神の子」であるかもしれない、という恐れです。それが本当なら、「神の子」をむち打ち、侮辱したことになります。

本来ならば、ピラトはローマ総督なのですから、ユダヤ人たちの言うことを受け入れる必要などなかったのです。相手にせず、追い返すことができた人です。しかし、ピラトの中に恐れが生じました。恐れたピラトが主イエスに対してどうしたか、それが、今日私たちが読んだところです。

ピラトは官邸の中に入って、主イエスに尋ねました。

「お前はどこから来たのか」

これは主イエスの出身地を尋ねているのではありません。イエスは本当に天から来た神の子なのかどうかを、尋ねています。

ナザレのイエスが自分のところに連れてこられた時、ピラトはこう尋ねました。

「お前の同胞や祭司長たちが、お前を私に引き渡したのだ。一体何をしたのか」

「一体何をしたのか」という質問が今、「お前はどこから来たのか」に変わりました。「お前はどこから来たのか」、これは、言葉を変えると、「お前は一体何者なのだ」ということです。「本当に神の子なのか」ということです。

ピラトだけではなく、人がこのイエスという方に向き合う時、実は誰もがこの質問を投げかけるのです。

「あなたは何者ですか。あなたは本当に天から来られたのですか」

しかし主イエスはここでピラトにお答えになりませんでした。「イエスは答えようとされなかった」とあります。これはピラト自身が、イエス・キリストを前にして自分で悟らなければならないことなのです。

主イエスご自身、弟子たちに問われたことがあります。

「あなたがたは、私を一体何者だと思うか」

キリストを前にしたとき、人は誰でも、弟子たちのように、ピラトのように、聖書を通して生涯問われ続けるのです。

「あなたはナザレのイエスとは何者だと思うか」

聖書は、このイエスという人物が何をしたのか、ということを記録しています。しかし本当に大切なのは、その時周りにいた人たちがこの人のことをどのように捉えたか・信じたか、ということなのです。

「イエスがどこから来られた方なのか・この方は本当に天から来られた方なのか」、これはヨハネ福音書でここまでずっと語られてきた大きなテーマです。

3章では、イスラエルの教師ニコデモが主イエスに向かって「あなたが神の元から来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです」と言いました。しかし、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と主イエスから言われ、その夜は理解できませんでした。

また群衆も主イエスを求めるようになりました。しかし、「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる」という言葉を聞いて、「誰がこんな話を聞いていられようか」と主イエスのもとから離れて行きました。

イエスという方に出会う人は、必ず、「あなたはこの方を誰だと言うのか」と問われることになるのです。そして、信仰の決断の求められるのです。

ピラトもこの時そうでした。主イエスは、ご自分が天から来られた神の子であることをこれまで公然と話してこられました。しかし、ピラトから「お前はどこから来たのか」と問われたのに、主イエスは「答えようとされなかった」のです。ピラトは、この方と一対一で向き合う中で、その答えを見出さなければならなかったのです。

「真理とは何か」という質問に対しても、主イエスはお答えになりませんでした。これと同様に、「イエスとは何者か」ということは、ピラト自身が主イエスの沈黙の中で見出さなければならないのです。

ピラトは本当の意味で、イエス・キリストに向き合うことができませんでした。

「私に答えないのか。お前を釈放する権限も十字架につける権限もこの私にあるとことを知らないのか」とせかします。

彼は「イエスとは何者か、また自分はイエスにとって何者なのか」、と腰を据えて考える姿勢をもっていませんでした。「自分に主導権がある、自分に支配権がある、自分が信じるかどうかを決めてやる。お前は私の手の上にあるのだ」・・・こういう姿勢です。これでは、主イエスの本当のお姿に近づくことはできないでしょう。

ピラトがイエス・キリストを前に自分の権威を見せつけたことは、皮肉です。人間が神に対して自分の権威を誇示しているのです。

ヨハネ福音書の序文に、こうあります。

「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」1:11

また、主イエスは最後の祈りの中で神にこうおっしゃっています。

「あなたは子に全ての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」17:2

全ての人に永遠の命を与え、また全ての人を裁く権威を神から与えられている神の子に対して、ピラトは自分の権威を語りました。滑稽な姿ではないでしょうか。

そのピラトに、主イエスはおっしゃいます。

「神から与えられていなければ、私に対して何の権限もないはずだ。だから、私をあなたに引き渡したものの罪はもっと重い」

以前、主イエスはおっしゃったことがあります。「私は命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは私が父から受けた掟である」10:18 Continue reading

2月1日の礼拝案内

 次週 礼拝(2月1日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書19:9~15

 交読文:詩編19:12~15

讃美歌:讃詠546番番、187番、272番、頌栄542

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

◇2月22日(日) 三軒茶屋教会の皆さんが三宅島伝道所をお訪ねくださいます。説教は伊藤英志牧師です。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 Continue reading

1月25日の礼拝説教

 ヨハネ福音書19:1~8

イエス・キリストを逮捕したユダヤ人たちは、ローマ総督ポンテオ・ピラトのもとに連行しました。目的は一つでした。ナザレのイエスをローマの処刑法・十字架刑に処してもらうためです。民衆を扇動してローマに反乱を企てた者として葬りたいと考えたのです。

ピラトは明け方に起こされました。

ユダヤ人たちは、異邦人との接触をけがれとして考えていたので、自分たちはローマ人であるピラトの官邸の中には入らず、外で待ち、ナザレのイエスだけを官邸の中に入らせました。

ユダヤ人たちは、「この男が悪いことをしなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言います。そんなあいまいなことで、誰かを死刑にすることはできません。ピラトは外にいるユダヤ人たちと、中にいるナザレのイエスの間を行き来して、話を聞き、対応しなければならなくなりました。

はじめに総督官邸の外でユダヤ人たちがイエスに死刑を求めていることに対応し、次に官邸の中でナザレのイエスが持っているという権威・王権について話を聞きます。しかし、イエスに何の罪も見いだせなかったピラトはまた外に出て、ユダヤ人たちにイエスが無実だから釈放するように促しました。

ピラトはユダヤ人たちに言いました。

「過越祭にはだれか一人を釈放するようになっているが、あのユダヤ人の王を釈放してほしいか」

過越祭には恩赦が与えられる制度があったようです。このように言えば、ナザレのイエスを手放すきっかけになるとピラトは踏んだのです。しかし、ユダヤ人たちは「バラバを釈放してほしい」を答えました。

過越祭での恩赦にイエスを選ぶよう促しましたが、ユダヤ人たちは、強盗であったバラバの釈放を求めました。皮肉にも、ユダヤ人たちは、「ユダヤ人の王」ではなく「強盗」を求めたのです。

ピラトは、次の手段に移りました。ナザレのイエスを鞭打たせ、痛めつけて弱々しい姿にしてやれば、ユダヤ人たちはイエスのことを手放すだろう、と考えました。

ローマには肉体的な処罰にいくつかの段階がありました。何か、教訓を教えるために軽く痛めつける程度のものから、鞭の先に金属片をつけて肉をえぐり出すような鞭打ちまでありました。ここでのイエスに対する鞭打ちは、立ち上がれなくなるほどのひどいむち打ちではなかったでしょう。 朝早くから総督に手間をかけさせたことへの処罰といった程度のものだったのではないでしょうか。半死半生にする、というよりは、外にいるユダヤ人たちに「イエスはローマにとって何の脅威でもない、こんなにも弱く、何の力もない者である」とわからせる程度の鞭打ちでした。

兵士たちは主イエスを鞭打ち、茨の冠をかぶせました。哀れで無力なナザレのイエスに、紫の服をまとわせて王様のように装わせます。そして「ユダヤ人の王万歳」と嘲り、敬礼の代わりに平手で打った、とあります。

傍目に弱々しく見えるぐらいに痛めつけろ、という命令だったのでしょう。主イエスに、はっきりとわかる傷と侮辱が与えられました。

ピラトは外に出て言いました。

「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、私が彼に何の罪も見いだせないわけがわかるだろう」

そしてピラトは、鞭打たれいばらの冠を頭に載せられ紫の衣をまとった、弱々しく哀れな姿となったナザレのイエスをユダヤ人たちに見せたのです。

ピラトは大声で言いました。「見よ、この男だ」。これは、元の言葉では「何という男だ」という意味の言葉です。「お前たちが大げさに訴えているのは、実はこんなに無様で弱々しい、全く恐れるに足らない男なのだ」と伝えようとしたのです。ローマにとって何の脅威でもない、釈放してもユダヤにとって何の害もない、ということを見せようとしました。

ピラトがナザレのイエスを鞭打たせ、侮辱させたのは、無実のイエスを救うためでした。しかしその姿を見ても、ユダヤ人たちは収まりません。「イエスを十字架につけろ」と叫び出しました。

外にいたユダヤ人たちは、「この男がどんな罪を犯したのか」というピラトの最初の質問にまだ答えていません。ピラトが直接イエスを調べても、死罪に当たるような何かは見出せませんでした。改めてナザレのイエスの無実を主張しました。「あなたたちが引き取って 十字架につけるが良い 私はこの男に罪を見いだせない」

ここで初めて、ユダヤ人たちは、なぜナザレのイエスを死刑にしたいのかを告げました。「この男は神の子と自称しました。私たちの律法によればそれは死罪に当たります」

ナザレのイエスは、彼らの目には、「神の子」に見えなかったのです。聖書を読み、神の子・メシアの到来を待ち望んでいた彼らの目に、鞭うたれ、いばらの冠と紫の服を着けられて侮辱されているこの方のお姿は、「神の子と自称した罪びと」として映っていたのです。

主イエスは以前おっしゃったことがあります。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るために私のところへ来ようとしない」

まさに、その通りです。今、誰も主イエスのことを神の子として見ている人はその場にいません。これは預言者イザヤの預言の実現でもあります。

イザヤ書53章に、苦難の僕の詩があります。

「私たちの聞いたことを、誰が信じ得ようか」

「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。恐るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた」

イザヤは人々のために罪を担い、救い出す神の僕の姿に誰も気づかなかったという悲劇を歌っています。

ピラトは、鞭打たれ嘲られたイエス・キリストをユダヤ人たちに見せて、「見るがいい、なんと憐れな男だ」と示しました。確かに、その姿は憐れで、ユダヤ人たちが言っている「ユダヤ人の王」には見えませんでした。しかし、人の目にはそう見えても、霊的な視点で主イエスのお姿を見るとイザヤ書に預言されたあの「苦難の僕」の姿が重なるでしょう。

「誰が信じ得ようか」・・・確かにイザヤが預言した通りです。

イザヤは言います。

「彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり打たれたから彼は苦しんでいるのだと」

まさに、ユダヤ人たちはそう考えていました。「ナザレのイエスは神の子を自称した」とピラトに伝えています。だからこんな風に打たれるのは当然で、それは神からの罰だ、と信じていました。

しかし、イザヤの預言を知る人ならば、この痛めつけられたイエス・キリストのお姿は、「苦難の僕」と呼ばれた救い主であり、真の王がご自分の栄光へと進まれる姿であることがわかるでしょう。

憐れなイエスの姿を見せ、ユダヤ人たちを満足させて終わりにしよういうピラトの思惑は失敗に終わりました。ユダヤ人たちは「十字架につけろ」と叫び始めたのです。そこには、イザヤの預言の実現があったのです。 Continue reading

1月18日の礼拝案内

次週 礼拝(1月18日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書19:1~8

 交読文:詩編19:12~15

讃美歌:讃詠546番番、366番、392番、頌栄542

【牧師予定】

◇1月14日(水)教団事務所を訪問。

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

1月11日の礼拝説教

 ヨハネ福音書18:28~40②

明け方、ユダヤに滞在していたローマ総督ポンテオ・ピラトのところにユダヤ人たちがナザレのイエスを連れてやって来て「この者を死刑にしろ」と要求してきました。時間的なこと、裁判の手続きの正当性から考えて非常識なことでしたが、ピラトは彼らが連行してきたナザレのイエスを官邸の中に入れ、中に入ろうとしないユダヤ人たちとイエスの間を行き来してそれぞれの話を聞き、状況を把握しようとします。

この朝のピラトの姿を通して、私たちは聖書から問われることになります。

「あなたはこの世で、このイエスという方にどう向き合っているか」

聖書からの問いかけに、真摯に向き合いたいと思います。

ピラトは、まず外にいたユダヤ人たちにイエスが何の罪を犯したのかを尋ねました。

「どういう罪でこの男を訴えるのか」

これに対するユダヤ人たちの答えは曖昧なものでした。

「もしイエスが何も悪いことしていないのなら、ここにイエスを連れては来ませんでした」

ユダヤ人たちは、具体的な罪名を上げることができませんでした。「ここに連れて来たということは、この男が悪いことをしたに決まっているではありませんか」という言い方です。言葉を変えると、「ここは私たちを信用して私たちが望む通りにしてください」ということです。

彼らはピラトの問いに直接答えていません。答えることができなかったのです。イエスにはこういう罪がある、と言えなかったから「ここは私たちの言う通りにしてほしい」と言って押し通そうとしたのです。

ピラトにとっては迷惑でしかありません。ユダヤの記録では冷血漢のように書かれているような人でしたが、何の罪状もない者を根拠なく有罪にすることはいい気持ちではなかったでしょう。

ピラトは、ナザレのイエスとユダヤ人たちの間にある問題がユダヤの律法に関することだろうと検討をつけました。そこで「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言いましたが、ユダヤ人たちは「私たちには、人を死刑にする権限がありません」と答えました。

このやりとりを見ると、ユダヤ人たちがピラトのもとに主イエスを連れて来たのは、ただ「ナザレのイエスを殺すため」だったということがわかります。イエスを牢屋にいれるとか、罰金を科すとかいうことではなく、殺したかったのです。

紀元30年頃、ローマ帝国内でユダヤ人たちには死刑を行う権限がありませんでした。だから、ローマの権限でナザレのイエスを殺してほしい、と願ったのです。それも、ローマによる処刑法・十字架刑を求めました。ユダヤ人にとっては、呪われた者に対する処刑の仕方でした。彼らはイエスに「呪われた死」を与えたかったのです。ユダヤ人たちは、イエスを十字架にかけることにこだわりました。ユダヤの民衆を惑わし自分を神の子と自称した律法の冒涜者、そして民衆を扇動した政治犯として、呪われた死を与えたかったのです。

そのためには正当な裁判の手続きなどどうでもよかったのです。過越祭を平穏無事に終わらせることができ、イエスに呪われた死を与える、それがユダヤ人たちの思いでした。

改めて考えさせられます。なぜ、何も罪も犯していないこの方が十字架の上で死ななければならなかったのか。十字架刑は、ユダヤにとっては呪われた死であり、ローマにとっては重大な政治的犯罪者に対する処刑であり、見せしめでした。最も苦痛を伴う、もっとも不名誉で、この上ない辱めに満ちた死でした。

18章32節にはこうあります。「それは、ご自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった」

「イエスの言われた言葉」とは何でしょうか。イエス・キリストはこれまでもご自分の十字架の死について語ってこられました。

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」

「あなたたちは、人の子を上げた時に初めて、『わたしはある』ということ、また、私が自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることがわかるだろう。私をお遣わしになった方は、私と共にいてくださる。私を一人にしてはおかれない。私は、いつもこの方の御心にかなうことを行うからである」

キリストが上げられることになる十字架は、ユダヤ人による呪いの死でもなく、ローマによる見せしめの死もありませんでした。十字架の上で、「わたしはある」という神のお名前を世に示す栄光の御業だったのです。明け方にローマ総督官邸に押しかけ、「この男を死刑にしろ」と言う「この世の人間の混乱」の底流で、確かに神の救いの御計画が進められていました。

さて、「死刑」という言葉を聞いてピラトは官邸の中に入って来ました。ユダヤ人たちが「イエスの死刑」を求めるということは、「イエスがユダヤ人の指導者として民衆を扇動し、ローマへの反乱を計画している」ということを意味しています。

ピラトは官邸の中に戻り、主イエスに尋ねました。

「お前はユダヤ人の王なのか」

元のギリシャ語を見るとピラトがこの時驚いていることがわかります。「お前は・・・ お前はユダヤ人の王」なのかという言い方です。そんな大それたことを企んでいたのか、ピラトの驚きがにじみ出ています。

質問された主イエスはピラトの問いかけに肯定も否定もされていません。

「それはあなた自身から言っているのですか。それとも他の人たちが私についてあなたに言ったのですか。」

主イエスは、ほかの人たちの意見ではなく、ご自分に向き合うピラト自身の思いを知ろうとなさいました。「あなた自身は、私をどう見ているのか」。これは、聖書を通して問われる私たちへの信仰の問いかけです。私たちは今この瞬間も、キリストから聖書を通して問われています。「ほかの人たちがどう言っているか、ではなく、あなたは今、私を目の前にして私のことをどう見ているのか」というキリストの問いです。

しかし、ピラトはそのことには正面から答えていません。

「私はユダヤ人だと思っているわけではないだろう。お前の同胞と祭司長達がお前をこの私に引き渡したのだ。一体何をしたのだ」

ピラトは裁きを委ねられた者として、「自分が主イエスをどう見ているか」、ではなく、客観的に、「お前の罪は何か」と、ただ一人の容疑者として見ています。

最終的に主イエスはお答えになりました。

「私の国はこの世には属していない。もし、私の国がこの世に属していれば、私がユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、私の国はこの世には属していない」

ある人は、ここでの「私の王国」という言葉は、「私の王権・権威」と訳した方がいいだろう、と言っています。主イエスの権威は、この地上に根差すものではないのです。ユダヤ人やピラトが想像していたものではありませんでした。

結局ピラトには主イエスがおっしゃることの真意は分かりませんでした。「私の王国」という言葉を聞いたので、「それではやはりお前は王なのだな」と念を押します。やはり、主イエスは「それはあなたが考えていることだ」と答えました。ピラトの考えと、イエス・キリストの実像は違っていたのです。ピラトと主イエスの会話は、かみ合わずに終わりました。

人はイエス・キリストのことを好き勝手に解釈します。なんとか自分の知識や経験の中に収めようとします。そうでないと困るのです。自分の知恵に収まりきらないと困ってしまうのです。 Continue reading