【次週 礼拝(12月15日)】
招詞:詩編100:1b-3
聖書:創世記7章
交読文:詩編18:47~51
讃美歌:讃詠546番、100番、98番、102番、頌栄542番
【報告等】
◇12月24日(火)19時より クリスマスイブ礼拝があります。
【牧師予定】
◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。
集会案内
主日礼拝: 日曜日 10:00~11:00
祈祷会: 日曜日 Continue reading
【次週 礼拝(12月15日)】
招詞:詩編100:1b-3
聖書:創世記7章
交読文:詩編18:47~51
讃美歌:讃詠546番、100番、98番、102番、頌栄542番
【報告等】
◇12月24日(火)19時より クリスマスイブ礼拝があります。
【牧師予定】
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創世記6:9~22
「ノアは、その世代の中で、神に従う無垢な人であった」
聖書は神と人間の契約について書かれている書であることを先週お話ししました。神と人間は、何を約束・契約してきたのでしょうか。聖書に記されている神と人間との間に交わされる契約は、「和解の契約」です。
ノアの箱舟の出来事は最後に、神がノアを通して被造物と契約を結ばれることになります。それは、壊れていた神と被造物の関係が修復され「和解の契約」でした。この神とノアの契約が、これから聖書全体で描かれていく全ての契約の前触れであり、ひな形となっているのです。
この洪水の物語は不思議な内容ではないでしょうか。せっかくお創りになったこの世界を、神が大水で全て流してしまうことを決意なさる、というのです。聖書は創世記の初めで、このような洪水の物語を描くことによって私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。「この世界を造っておいて自分で滅ぼす、というのは、神の身勝手ではないか」、と思う人もいるかもしれません。
ここを見ると、神が後悔し苦しまれる様子が記されています。このことも、読む者にとっては驚きではないでしょうか。神は全能であって、悩みや苦しみなどあるはずがないと、普通は思うのではないでしょうか。
しかし、神は、この世界に人間の間の悪が広がるのをご覧になって悩み苦しまれました。人の罪がそれほどに深くなっていて、もう滅ぼすという選択肢しか残っていなかったということでしょう。神は悩み苦しまれて、ご自分の似姿として造られた、愛する人間を、そして人間の悪に染まった世界を滅ぼすことを決断されるのです。
聖書は、私たち人間が地上で行う悪をどんなに神が悲しんでおられるのか、ということを伝えているのだ。
そして我々人間の罪が何を自分たちにもたらすのか、ということの警告としてこの物語が語られているのだ。
そもそも、この洪水物語は、どこに焦点があるのでしょうか。神はこの世に滅びをもたらす恐ろしい存在だ、ということでしょうか。何か悪いことをしたら、因果応報として人間には悪いことが返ってくるということでしょうか。
これは、洪水の中でノアを通して被造物が新しくされた、という物語です。その時代の中で無垢な信仰を抱いて生きた信仰者が、祝福の源とされ、滅びの中に救いが与えられた、ということに焦点が置かれているのです。
「人間の悪が広がっていたからと言っていきなり世界を滅ぼしてしまわれた神のやり方は極端ではないか」、と考える人もいるかもしれません。しかしここには、滅びに至る人間の歩みから、まことに正しい人たちを、また人間の悪によって汚された被造物を救い出そうとなさる神のお姿があります。
この後になりますが、創世記にはアブラハムという人が出てきます。彼の甥のロトはソドムという町に住んでいました。ある日、アブラハムが天幕の入り口で昼寝をしていて、目を覚ますと、そこに神のみ使いが立っていました。
み使いたちは、自分たちがこれからソドムの町を滅ぼしに行くことをアブラハムに告げました。アブラハムは驚きます。甥のロトがそこに住んでいたからです。
アブラハムは、「正しい人が50人いたら、その50人も一緒に街を滅ぼしてしまうのですか」とみ使いたちに詰め寄りました。み使いたちは、「その正しい50人のために、町を滅ぼさない」と約束します。
アブラハムは、さらに食い下がります。「45人なら、40人なら」と言って、最後には、「10人いたらどうしますか」と言います。み使いは、「その10人のために私は滅ぼさない」と答えました。
結局ソドムとゴモラの町には10人も正しい人はいなかったようです。町は滅ぼされてしまいます。神はその滅びの中からご自分の言葉に従ったロトとその家族を町の外へと救い出されました。滅びの中から、正しい信仰者を救いへと選び出されたのです。
イエス・キリストは、マタイ福音書で「毒麦のたとえ」をお話しなさっています。ある人の麦畑に、敵が夜やってきて毒麦の種を蒔いていきました。麦の中に毒麦が生えてきたので、僕は主人に伝えます。「毒麦を抜いてしまいましょうか」
主人は「いや、毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と、実るまで待って、収穫の時に分けるやり方を選びました。。
これは、世の終わりにある神の裁きを語ったたとえ話です。ソドムとゴモラの滅びの出来事も、キリストの毒麦のたとえ話も、単なる滅びの話ではありません。人間の罪がもたらす滅びの中に、神が救いの御手を差し伸べられることを伝えています。。滅びの中で与えられる、救いへの選びがあるのです。滅びに向かう人間の悪の中にも、救いの道が閉ざされることはありません。
では、その選びは、何に根差しているのでしょうか。モーセは、出エジプトしたイスラエルの民に向かって、神が特別にイスラエルをお選びになってエジプトからお救いになったその理由についてこう語っています。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自身の宝の民とされた。主が心を引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただあなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。あなたは知らねばならない。あなたの神主が神であり信頼すべき神であることを。」申命記7章
神が貧弱な民イスラエルをお選びになったのは、ただ、愛されたからです。ただ、先祖と契約を結ばれた、その誓いを守られたからでした。そして「神がイスラエルの先祖と結ばれた」という契約の中に、このノアの契約があるのです。
人はこの洪水の後も、偶像礼拝に向かい、神との関係は繰り返し破綻してしまいます。しかし、神はもうこの地上を洪水で全て押し流すようなことはなさらないと契約されました。そして神はこの契約ゆえに、地上の人々がご自分から離れて悪を行っても、わずかにご自分の前に正しく生きる信仰者たち、残りの者たちを滅ぼすことはなさらないのです。
ノアという人を見たいと思います。ノアの物語は短い一文で始まります。
「ノアは、その世代の中で、神に従う無垢な人であった」
ノアという人について、我々が知ることができるのは、これだけです。人の悪がはびこっていた時代の中で、ノアという人だけはその正しさを失っていませんでした。
では、ノアの「正しさ」とは何でしょうか。「ノアは神と共に歩いた」と書かれています。それが、神がノアに見出された「正しさ」だった。
この前の5章24節で、エノクという人のことが書かれています。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」エノクは、神と共に歩んだので生きたまま天に上げられたというのです。
私たちは、エノクとかノアのように、聖書の中に名前が残るような人たちは特別な正しさをもっていて、誰も真似することが出来ないようなものだったのではないか、と思ってしまいます。しかし、エノクも、ノアも、我々と同じ人間です。
人間は、誰でも神と共に歩むことができるのです。誰でも本当は神を求める心を持っているはずなのです。
使徒パウロがローマの信徒への手紙の中でこう書いています。
「世界が作られた時から、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることが出来ます」
神のお姿をこの目で見ることが出来なくても、思いを神に向けることはできます。人は誰でも、この世界の中で、被造物に現れる神の存在を知ることが出来るのです。そして神との関係のうちにとどまることができるのです。
神のもとに留まり、神と共に歩む人を神はご覧になり、お選びになって、この世界を滅びから救っていかれるのです。ノアがそうであったように、私たちも、自分が生きるこの時代の中で、生きるこの場所で、救いの箱舟として用いられるのです。
神は洪水を決意されました。ただ世界を滅ぼすための洪水ではありません。悪を流し、創造の秩序を守るための洪水です。神はノアにお命じになりました。
「あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい」14節
ここで使われている「箱舟」という言葉は、特殊な言葉です。ここと、旧約聖書の中では出エジプト記の2章でだけ使われています。出エジプト記では、赤ん坊だったモーセを入れた「籠」を指す言葉として使われている。
創世記では「箱舟」と訳され、出エジプト記では「籠」と訳されている面白い言葉です。どちらにも共通するのは、救いの道具として用いられた、ということだ。箱舟は、ノアの一家と被造物を救うために使われました。籠はモーセを救うために使われ、モーセが救われたことで、やがてイスラエルが救われることになります。
そのように、「箱舟」はノアと被造物を守り、そのことが後の新しい世界へとつながっていったのです。 Continue reading →
【次週 礼拝(12月8日)】
招詞:詩編100:1b-3
聖書:創世記6:9~22
交読文:詩編18:47~51
讃美歌:讃詠546番、100番、98番、102番、頌栄542番
【報告等】
◇12月24日(火)19時より クリスマスイブ礼拝があります。
【牧師予定】
◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。
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主日礼拝: 日曜日 10:00~11:00
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創世記6:1~8
「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」
今日からアドベントに入ります。創世記の初めに記されている出来事を読みながら、我々人間の根源にあるものを見つめていきたいと思います。そして、このアドベントの時、なぜこの世にイエス・キリストがお生まれになったのか、ということを改めて捉えなおしていきましょう。
今日私たちが読んだのは、「ノアの箱舟」と呼ばれる有名な話の冒頭部分です。神が洪水を起こされ、この世界を押し流されます。その中でノアの一家が選ばれて、箱舟に被造物を入れて生き延びることを命じられます。その先で、神はノアを通じて被造物との間に平和の契約を交わされることになります。ノアの箱舟の物語は洪水で世界が滅ぼされることの印象が強いので、全てはこの契約のためであった、ということはあまり知られていないかもしれません。
聖書は、旧約聖書と新約聖書の二つが一つになって「聖書」となります。旧約・新約というのは、旧い契約、新しい契約、ということです。神がアブラハムと結ばれた契約や、モーセを通してイスラエルと結ばれた契約、ダビデとの契約などが旧約聖書中に記されていますが、このノアとの契約が最も古い、全ての被造物と結ばれた一番根源的な契約なのです。
私たちが一被造物として、神と自分の関係を見つめる際に立ち返るのが、このノアの契約です。そしてここから、私たちに与えられた神との最後の契約、イエス・キリストの十字架の地によって結ばれた新しい契約への歩みが始まっているのです。
私たちは考えたいと思います。なぜ、神は、この歴史の中で、被造物と、人間と平和の契約を結んでこられたのでしょうか。なぜ「契約」の必要があったのでしょうか。
その理由は、神が人を愛していらっしゃるからです。そして、自分を愛してくださる神に対して、人が背を向けるからです。
神は人と歩みを共にしたいと願っておられますが、人は神から離れようとしてしまいます。人は自分の目に映る安易な救いに、一瞬の快楽へと流されて行ってしまうのです。罪の中を歩む人間に、神は何度も預言者を送られ、招きの言葉・許しの言葉を聞かせ、立ち返りをお求めになってきました。
人間が神から離れるたびに、神は人間をご自分の元への招き、連れ戻し、そこで「もう離れてはならない」とおっしゃり、「これから共に生きよう」と契約を結ばれたのです。それでも人間はまた神に背を向けるのです。
人間の歴史は、これの繰り返しです。聖書は私たちにそのことを学ばせ、正しい道を歩ませるために書かれ、今まで残されてきました。
聖書を読むときに一番大切なことは、この中に書かれているのは契約の歴史である、ということです。今日から私たちは最初の契約がどのように結ばれたのかを読んでいくことになります。
今、私たちには最後の契約が与えられています。神の子イエス・キリストの、十字架で流された血による契約です。「神、我らと共にあり、我ら、神と共にあり」。言葉にすればただこれだけのことだが、これが聖書に記されている全ての言葉が示していることです。
私たちが神について考えるとき、ここに立ち返って、そもそも被造物である自分がどこに、またどなたに立ち返るべきなのか、ということを聖書はここで教えてくれているのです。
さて、ノアの箱舟の物語は、「地上に人の悪が増した」というところから始まっています。神が洪水を起こされるのは、その悪を流すためでした。神はこの世界にどのような罪をご覧になったのでしょうか。
人間がどんな悪を行っていたのか、それを知ろうとしてここを読んでも、あまりよくわからないのではないでしょうか。1~4節には不思議なことが書かれている。
「神の子ら」が「人の娘たち」を妻にした、とあります。それをご覧になって神は、人の一生を120年にされました。そして、神の子らと人の娘たちの間にはネフィリムが生まれた、と書かれています。ネフィリムは、巨人とか英雄という意味の言葉です。
私たちはここを読んで、戸惑うのではないでしょうか。神の子らが人の娘たちを妻にして、ネフィリムを生んだ、というのはどういうことなのでしょうか。何が言われているのか、何が罪なのか、というのがよくわかりません。
正確な意味は分かりませんが、聖書は人の罪をこのような神話のような形で描いています。私たちがここを読んでなんとなくわかるのは、神が良く思われない関係性が、この世界に広がっていた、ということです。
「神の子ら」と「人間の娘」たちの結婚と聞くと、神と人間の境がなくなっているような響きがあります。創世記1章で語られた「混沌」の世界へと戻ったような、神がお創りになった世界の秩序が崩壊しているよう響きがあります。
私たちは6章を読みましたが、この前の5章は、「アダムの系図」として最初の人アダムから始まった、人間の系図が記されています。アダムからノアまでの系図だが、人は何百歳までも生きていたことが書かれています。
そこに書かれている人々の系図の中には、カインがアベルを殺したり、カインの子孫であるレメクが、暴力的な力をふるって神の前にもおごり高ぶるようになったりした、罪の歴史も含まれています。
その文脈で読むと、人の一生が120年と定められたことの意味が分かるのではないでしょうか。人が永遠に生きると、永遠に罪を犯してしまうのです。私たちが生まれ、年を重ね、肉体の死を迎えるということの摂理を聖書は教えています。
人の命を120年と定められた後も、神は悩まれました。
「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」
神が天地創造の御業を後悔されるほど、人の罪は深く、そして地上に広まっていたのです。そして7節で神は決断されます。
「私は人を創造したが、これを地上から拭い去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。私はこれらを造ったことを後悔する」
神は人間だけでなく、他の被造物まで拭い去ることを決断なさいました。人間の罪は、自分たちだけでなく、自分たちが住んでいる環境まで滅びを招くことになるのです。
創世記の1章から11章は、「原初史」と呼ばれる不思議な物語が連続して描かれています。天地創造や、エデンの園、兄弟殺し、ノアの洪水や、バベルの塔などです。これらの不思議な物語は一体何なのでしょうか。そして、これらをはじめに読んだ人たちは、どのように読んだのでしょうか。
旧約聖書の初めに置かれている創世記は、紀元6世紀のバビロン捕囚の際に記された、と考えられています。BC587年、エルサレムがバビロニア帝国の軍隊によって滅ぼされました。神殿は破壊され、人々はバビロンへと連行されました。
故郷を破壊され、全てを失った人たちは、なぜ神の民であるイスラエルが滅んでしまったのか、ということを考えざるを得ませんでした。滅びを体験した人たちは、自分たちの偶像礼拝の歩みによって滅びを招いてしまったことに気づきました。そのような信仰の反省の中で聖書の言葉は書かれ、読まれてきたのです。
故郷エルサレムを失い、信仰の拠り所であったエルサレム神殿まで失った当時の人たちは、この「ノアの箱舟」の物語をどう読んだでしょうか。神との正しい関係性が失われ、悪がはびこっていた地上が、神の御手によって洗い流されてしまう、という物語です。
当時の人たちは、自分たちに起こったこととして読んだでしょう。そして、ここで神がおっしゃっている「常に悪いことばかりを心に思い計っている」人たちの中に、自分たちの姿を見出したでしょう。
その当時、「神の子」というのは、王様を指す言葉でした。「神の子らが人の娘たちを妻にし、ネフィリム生まれた」という謎めいた言葉は、イスラエルの王が偶像礼拝を取り入れ、正しくない信仰が生まれていった、ということなのかもしれません。
神に背を向ける歩みの先にある滅びがどんなに恐ろしいのか、ということを伝える、警告の物語であることは間違いないでしょう。
しかしそのような中にも神が希望を見いだされました。ノアという人です。神は、洪水の向こう側で、ノアを通して新たに神の民が生まれてくるのをお求めになります。
ノアは、偶像礼拝の時代における真の信仰者の象徴です。バビロンへと連行された人たちは、イスラエルの信仰の担い手でした。滅びの中から生き残り、捕囚とされながらも生かされた自分たちのことを、このノアの姿に重ね合わせたのではないでしょうか。ノアは、正しい信仰者は、滅びの中の希望とされるのです。
旧約聖書の列王記上19章に、預言者エリヤとバアルの預言者450人の対決が記されています。たった一人でバアルの預言者に勝ったエリヤは、今度はイスラエルの王に恨まれることになります。
王妃イゼベルは、エリヤに使者を送って、「必ずあなたを殺す」と伝えました。エリヤはその場から逃げ出します。彼は偶像礼拝の中で、真の神への信仰を貫く辛さを味わうことになりました。
そのエリヤに神はおっしゃいます。 Continue reading →
【次週 礼拝(11月24日)】
招詞:詩編100:1b-3
聖書:ヨハネ福音書10:1~8
交読文:詩編18:47~51
讃美歌:讃詠546番、69番、162番、352番、頌栄541番
【報告等】
◇次週の礼拝に下谷教会の皆さんが来てくださいます。愛餐会があります。どうぞご予定ください。
【牧師予定】
◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。
集会案内
主日礼拝: 日曜日 10:00~11:00
祈祷会: 日曜日 礼拝後
牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください
ヨハネ福音書9:35~41
「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」
ヨハネ福音書9章全体を通して描かれている、キリストの盲人の癒しの出来事を読んでいます。9章全体は癒しの出来事を描いていますが、イエス・キリストが登場するのは、その始めと終わりだけです。目の見えず物乞いをしていた人をシロアムの池に行かせて、その目を癒されてから後、主イエスのお姿は描かれていません。
癒しの出来事の後、癒された人の方に焦点が当てられ、この癒された人に起こった奇跡に対してユダヤ人がどのように反応したのか、ということの方を描いています。癒しの出来事そのものではなく、癒しの後、癒された人がどうなったか、また、主イエスがいらっしゃらないところで、主イエスの奇跡の御業がどのように人々に影響を与えたのかということを伝えているのです。
主イエスのお姿が見えないところで、ファリサイ派の人たちは盲人だった人を尋問し、その証言が信じられなかったので、その人の両親まで呼び出しました。それでも納得がいかず、また癒された本人を召し出して尋問します。その人は、主イエスが行われたしるしそのものでした。その「しるし」を目の当たりにしても、ユダヤ人たちはナザレのイエスのことを神の子・キリストである受け入れることが出来なかったのです。
自分に起こったことをいくら証言しても信じてもらえず、自分を癒してくださった方のことまでかたくなに否定しようとするファリサイ派の人たちに向かって、盲人だった人は、「あなた方もあの方の弟子になりたいのですか?」と言いました。痛烈な皮肉です。
「あの方が神の元から来られたのでなければ、何もお出来にならなかったはずです」
ファリサイ派の人たちは、この人の言葉に怒りました。生まれながらに目が見えないことを、「罪の中に生まれた」と捉えていた彼らは、自分たちはモーセの弟子で、神の言葉である律法を学び、実践しているのに、罪びとのくせに生意気なことを言っている、と思ったのでしょう。
ついに、ユダヤ人たちは盲人だった人を会堂から追放しました。「会堂から追い出された」、ということは会堂の建物の中から追い出された、というだけのことではありません。信仰共同体から排斥された、ということであり、礼拝から追い出された、ということでした。
せっかく神の子に目を開けていただいたのに、人々の輪の中から追い出されてしまい、一人ぼっちになってしまいました。何かおかしなことになっています。
しかし、この人は一人になったのではありませんでした。会堂から追い出されたところで、イエス・キリストが再び出会ってくださったのです。「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会われた」と書かれています。
追放され、一人となったその人の元に来られたのが、イエス・キリストでした。人々から避けられ 無視されても主イエスだけはそうではないのです。
詩篇27編9節から10節にこのような祈りの言葉が謡われています。
「あなたは私の助け。救いの神よ、私を離れないでください。見捨てないでください。父母は私を見捨てようとも、主は必ず、私を引き寄せてくださいます」
自分にとって父母は、この世で一番の味方です。最大の味方である父母から万が一見捨てられるような悲劇の中でも、神が必ず自分を引き寄せてくださるという、最後の希望が神の招きにあるという信仰を歌いあげています。
盲人だった人が会堂から追い出された後、イエスが出会ってくださって感じたのはこの希望でした。この人は、ファリサイ派の人たちに対して、主イエスのことを悪く言うこともできたでしょう。「私は何もしていない。イエスという人が勝手に私のことを癒したのだ」と言い逃れすることだってできました。
しかし、彼は淡々と自分の身に起こったことを証言し、「私はあの方に会いたい」と主イエスを求めました。自分を癒してくださった方への信頼を貫いたことで、信仰の兄弟たちから追放されてしまいます。そしてその人を、イエス・キリストは放っておかれませんでした。
会堂から追放された時、この人はこの世での自分の無力さや、不条理を感じたでしょう。主イエスへの信仰を貫いたことで不利な立場に陥る、その場に居づらくなる、ということがあります。キリスト者であれば、大なり小なりそのような経験があるでしょう。
むしろキリストへの信仰を隠しておいた方が波風立てずに生きていけると感じることもあるでしょう。しかしそのような、弱っているキリスト者には希望があるのです。
信仰ゆえに苦しむ人、弱っている人のもとにこそ、キリストは来てくださいます。場所を失った人、道を見失った人にこそ、イエス・キリストは神の憐れみをもってその人のところにまで来てくださり、道を示し、場所を与えてくださいます。
イエスは6章37節でこうおっしゃっています。「父が私にお与えになる人は皆、私のところに来る。私のもとに来る人を、私は決して追い出さない」
ユダヤの宗教的指導者たちは皮肉にも神の子に癒された盲人を追放しました。しかし神の子ご自身は、人々からはじかれそれでもご自分を求める人を決してお見捨てにはならなかったのです。
イエス・キリストの約束は、神の約束そのものです。創世記28章で、神は家から逃げ出したヤコブにおっしゃいました。
「見よ、私はあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。私は、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。
「私はあなたを見捨てない」、この神の約束が全ての信仰者の希望の礎なのです。
イエス・キリストのために人々に背を向けられてしまったこの人は、それでも自分を癒してくださったキリストを求めました。そしてキリストがこの人のもとに来てくださり、信仰の光への入り口に立つようになります。
主イエスはこの人にお尋ねになりました。
「あなたは人の子を信じるか」
「神を信じるか」ではなく「人の子を信じるか」とお尋ねになっています。これはどういう意味でしょうか。ご自身のことを、「人間となって世に来てくださった神であると信じるか」、とお尋ねになっているのです。
癒された人は「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのです」と言いました。シロアムの池に遣わされて目を洗ってから見えるようになったので、この人は主イエスの顔を知らなかったからです。
「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」
こう言われて、この人は「主よ、信じます」と言って、ひざまずきました。「ひざまずいた」というのは、「礼拝した」という意味の言葉です。
私たち「信じる」とか「信仰」とかいう言葉を使います。それをどういう意味で使っているでしょうか。
「神を信じる」ということは、ただ「神が存在すると信じている」ということではありません。神が自分を愛し、自分をもっともよい道へと導こうとしてくださっていることを信じ、信頼し、自分をゆだねる、ということです。それが、自分の礼拝や祈りの姿に現れるのです。
私たちが使っている信仰という言葉は、そこまでの意味が含まれています。その方に信頼して従って生きる、という、生き方の決断まで問われている言葉なのです。
主イエスはご自分のことを「人の子」とおっしゃって、人となって世に迎えに来られた神であることを信じるか、そしてご自分の導きに身をゆだねるかどうか、その信仰を確認されました。この、盲人だった人が主イエスに出会い、従うようになるこの姿に、私たちは信仰の歩みに踏み出す、新しい信仰者の姿を見ます。
この人は、「その方を信じたい」と言いました。「もう信じている」ではありません。「それはあなたと話している私である」と主イエスはおっしゃいました。
これはサマリア人女性におっしゃった言葉と同じです。井戸に水くみにやってきたサマリア人女性は、はじめ主イエスのことをただのユダヤ人の旅人として見ていました。それが話をするうちに「預言者だとお見受けします」と言い、最後にこの人はキリストかもしれないと思うようになっていきます。
少しずつ、「この人には預言者以上の何かがある」と思うようになり、「いつかキリストが来ることを知っています」と言う女性に、主イエスは「それはあなたと話している私である」とおっしゃいました。 Continue reading →
【次週 礼拝(11月3日)】
招詞:詩編100:1b-3
聖書:ヨハネ福音書9:13~23
交読文:詩編18:47~51
讃美歌:讃詠546番、66番、177番、508番、頌栄541番
【牧師予定】
◇11月12日(火) 富士見町教会にて 伊豆諸島伝道懇談会
◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。
集会案内
主日礼拝: 日曜日 10:00~11:00
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ヨハネ福音書9:1~12
「私がそうなのです」
旧約聖書の列王記下5章にナアマンという人が出てきます。この人はアラムという国の軍人でした。彼はある時皮膚病になってしまいます。皮膚病に苦しむナアマンに、イスラエル人の少女が「イスラエルの預言者であれば、治すことができるでしょう」と告げました。
ナアマンは、その言葉に希望を託してイスラエルにいる預言者エリシャのもとに向かいました。彼がエリシャのもとに向かう途中で、エリシャの従者がやってきました。従者は「ヨルダン川で七回身を洗って清めるように」、というエリシャの言葉を伝えました。
これに対してナアマンは怒りました。せっかく外国から来たのに、自分に直接会おうともせず「ああしなさい」と言葉だけをよこしてきたイスラエルの預言者に腹を立てたのです。彼は、預言者本人が丁重に自分を迎えて、直接手を触れて自分の皮膚病を癒してくれるものだと思っていました。
腹を立てるナアマンを、周りの人たちが説得しました。「川に入って身を清めるだけではないですか。皮膚病を治すためならもっと大変なことでも従ったはずです。」ナアマンはそれを聞いてしぶしぶ預言者エリシャの言う通りにしました。すると、ナアマンの皮膚病は治りました。
アラムの軍人ナアマンに救いの出来事が起こって、それで終わりではありませんでした。癒されたナアマンは、イスラエルの神を信じるようになります。しかし、自分の国では偶像の神を拝んでいるのです。彼は、これからどのようにイスラエルの神を信じるべきか、ということで悩みました。
ナアマンは改めてエリシャに会い、「自分の国の国王が偶像礼拝の中でひれ伏す時、自分も同じようにひれ伏さなければならないことを赦してほしい」、と願うとエリシャから、「安心していき成し行きなさい」と言われました。
私たちは、アラム人の軍人であったナアマンに起こった救いと、信仰を持ったがゆえの試練に、自分自身に与えられた救いと、信仰生活の中にある試練を重ねることが出来るのではないでしょうか。
ナアマンに起こった救いは、ナアマンが期待していたのとは違う仕方で実現しました。
預言者本人が直接癒しを行ってくれる、と彼は予想していたのです。しかし、預言者は姿も見せず、ただ、川に入れ、とだけ言ってよこしました。
私たちもそうだったのではないでしょうか。人が真の神を知る時、自分には思いもよらない仕方で神が出会ってくださるのです。神が私たちに救いを示してくださる時と場所と方法は、私たちが予想もしていなかったものではなかったでしょうか。
そして、真の神を知った時から、石や木を神と信じる人たちの中で自分がどうふるまっていけばいいか、ということで悩み始めるのです。神を知った後、どのように神に従い続けることができるか、という信仰の試練の道を歩み始めることになるのです。
私たちは自分の手で救いの道を切り拓くのではありません。思いもかけないところから、神はご自身を示されます。そしてその時から、信仰の試練が始まるのです。
旧約聖書に出て来たナアマンがそうであるように、今日私たちが読んだ、キリストに目を癒された人もまた私たちの姿です。
「神の業がこの人に現れる」とおっしゃって、キリストは神殿の境内から出て通りすがりにご覧になった目の見えない人を癒されました。そして癒しを行って終わり、ではなかったのです。
この後、その癒しが行われたのが安息日であったということで、エルサレムにまた議論が生じます。そしてナザレのイエスをキリストを信じる人と信じない人との間に対立が生まれていくことになります。
癒されたこの人自身が、イエスこそメシアであるということの証拠となり、証人となるのです。座って物乞いをするだけだったこの人が、キリストに癒されたことで確かに変えられ、キリストに従う道を選び取り、主イエスを指し示す証し人となっていきました。
これまで主イエスに出会った人たちは皆、生きる道に大きな変化が起こりました。ニコデモやサマリア人女性、池のそばで寝たきりの人・・・皆キリストに出会って、それで終わり、キリストに癒されてそれで終わりではなかったのです。キリストに出会い、キリストに癒されて、そのあと、あの方をキリストであると信じ、証を続ける試練の道を歩み続けることになったのです。そしてキリストの証し人であり続けたのです。
人々は、主イエスに目を癒された人を見て、「この人は誰だろう」と言いました。「あそこで座って物乞いをしていた人ではないか」と言う人もいれば、「似ているだけだ」と言う人もいました。それぐらい、この人自身が変わった、ということでしょう。
私たちは、キリストを知って洗礼を受けて、何が、どれぐらい変わったでしょうか。自分ではよくわからないでしょう。しかし、やはり何かが変わっているのです。
キリストを知らず生きるのと、キリストを知ってキリストと共に生きるのでは、歩む道に、また歩み方に大きな差が生じます。イエス・キリストを知らずに生きるという、もう一つの人生を、私たちはどのように想像するでしょうか。いや、そのような「もう一つの人生」を想像できるでしょうか。
自分とキリストの出会いは、聖書に記されているような劇的なものではなかった、と思うかもしれません。しかし、ここに書かれている、この人に起こったことは、そのまま私たち一人ひとりに起こったことなのです。
キリストは唾で土をこねてその人の目に塗り、シロアムの池に行って洗いなさい」とおっしゃいました。目に土を塗られた人はこの言葉に従いました。これこそ、この人の信仰の業です。
この人は黙って主イエスの言葉に従い、シロアムの池に行って、自分の目に塗られた土を洗い落としました。従わない、という選択だってあったはずです。「目を開けてほしい」と願ったわけではありません。「土を塗っただけで私の目が見えるようになるわけがない」と拒絶することだってできたのです。
しかしこの人は、無言で主イエスの言葉に従いました。ただ、従いました。弟子たちと主イエスのやり取りが聞こえていたのかもしれません。「今から自分に神の業が現れる」、と言った人の言葉を素直に信じ、その言葉に従ったのです。
ナアマンがヨルダン川に身を浸したように、目に土を塗られた人は、シロアムの池に向かい、自分の目を洗いました。この小さな信仰の業が、この人の人生を大きく変えたのです。
その日から人々にキリストの御業を伝える器としての働きが始まりました。「どうして目が見えるようになったのか」と問われて、この人は「イエスという方がこのようにして、癒してくださった」と事実と淡々を伝えました。この人は自分の力で何かをしたわけではありません。この人はただ自分に起こったことを伝えるだけでした。
キリストとの出会いを通して、人は変えられます。私たちは変えられるのです。そして自分一人だけの人生ではないことを知ります。自分を導いてくださる方がいることを知るのです。
シロアムの池に向かったこの人は、キリストに救われた私たち自身の姿です。神が世の初めに土からアダムをお創りになったように、キリストは土をこねてこの人を癒され、新しい命へと導かれました。
シロアムの池で目を洗ったこの人の姿に、私たちは自分自身の洗礼を見ることもできる。キリストによって罪を洗っていただき、新しい道を歩む新しい存在へと創造していただく姿です。ある日の小さな救いの出来事ですが、この人はただ主イエスの言葉に従った、というだけで、聖書の中にその姿が記録され、後世までが語り継がれるようになりました。
私たちがイエス・キリストに出会い、キリストを証しするのも、このようなことではないでしょうか。私たちとキリストとの出会いは、世の片隅で起こった、誰にも知られていないような小さな出来事です。しかし、その救いの出来事が、この世界をイエス・キリストへと、神へと向かわせることになるのです。
キリストに救われた私たちは、世に向かってどのようにキリストを証しするのでしょうか。イエス・キリストについて説明・解説するのではありません。「私はあの方に会った」、と言うだけです。そしてキリストに出会った者として生きるだけです。それが何よりの信仰の言葉なのです。
主イエスはこの盲人をシロアムの池におつかわしになりました。仮庵の祭りは水の祭りであったので、祭りの中で水を汲み取っていました。その水はこのシロアムの池から取られていました。
シロアムの池の水は、エルサレムの人たちにとって「命の水」の象徴でした。そして今、「私は命の水である」「私は世の光である」とおっしゃる方が、この水を用いて一人の盲人に光をお与えになりました。主イエスの言葉に従った一人の小さな信仰者が、命の水で洗われ、世の光が見えるようになったのです。
この人を遣わした、イエスという方こそが命の水の源でした。この人を遣わしたイエスという方こそ、世に光をお与えになる方だったのです。
「シロアム」とは「遣わされた者」というという意味だと記されています。盲人は「遣わされた者」という意味の池へと遣わされました。それだけでなく、癒された後、今度はこの世に遣わされる者とされました。この世に神から遣わされた光と癒しが明らかになるために。イエス・キリストが、「この人の上に神の御業があらわれるため」とおっしゃったのはそういうことでした。まさに、地の塩・世の光とされたのです。
キリスト者は、キリストと共に歩みを続けます。それしかないのです。それが「伝道」なのです。私たちはキリストのすべてを理解して、聖書の研究をすべて終えてから洗礼を受けるのではありません。神について知っていることを、体系的に誰かに説明するのが伝道ではありません。キリストに出会い、キリストに救われた者として、自分を晒して生きること、それが伝道なのです。
私たちはキリスト者として生きるということ自体が、一生続く試練であることを知っています。神を信じているというだけで馬鹿にされたり、キリスト者であるというだけで距離を置かれたりすることもあります。
しかし、その試練の中でこそ私たちは用いられているのです。パウロが書いているように、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」のです。楽しいことだけ、嬉しいことだけが私たちの信仰生活ではありません。様々な信仰の試練を祈りながら進むことで、「万事が益とされていく」のを見ます。そして自分を通して神の御業が行われていることを知っていくのです。
もし自分が神を知らないままだったと考えたら、どうでしょうか。全く違う人生を送っていたのではないでしょうか。それほどまでに、聖書の言葉は私たちの歩みを導く力があるのです。
キリストに癒された人は、周りで騒ぐ人たちに一言、こう言いました。
「私がそうなのです」
イエスが本当にキリストであるかどうかを求めている人がいます。キリストに救われた人が本当にいるのかどうか、確かめたい人がいます。その時、私たちは、胸を張って「私がそうなのです。私はキリストに救われたのです」と立ち上がりましょう。
【本日の予定】
◇礼拝後、祈祷会があります。
【次週 礼拝(10月27日)】
招詞:詩編100:1b-3
聖書:ヨハネ福音書9:1~12
交読文:詩編18:47~51
讃美歌:讃詠546番、63番、269番、396番、頌栄540番
【牧師予定】
◇11月12日(火) 富士見町教会にて 伊豆諸島伝道懇談会
◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。
集会案内
主日礼拝: 日曜日 10:00~11:00
祈祷会: Continue reading →
ヨハネ福音書9:1~7
「神の御業がこの人の現れるためである」
ここまで7章と8章には、イエス・キリストの仮庵祭でのお姿が描かれてきました。「アブラハムが生まれる前から私はある」とおっしゃった主イエスの言葉を聞いて、ユダヤ人たちは石を投げつけようとしましたが、主イエスは神殿から出て身を隠されました。
今日私たちは神殿を出たところで、主イエスが一人の盲人を癒されたという場面を読みました。有名な場面です。盲人は神殿の入り口のところに座っていたのでしょう。そこは巡礼者に 物乞いをする場所でもありました。
主イエスの弟子たちはその盲人を見て、自分たちの先生に素朴な質問を投げかけた。
「この人が生まれつき目が見えないのは誰のせいですか。この人の罪ですか、その家族の罪ですか」
その弟子たちの質問に答える形で、主イエスは癒しを行われました。その際におっしゃった主イエスのお答えの言葉が、今でも広く知られているのです。
弟子たちが抱いた疑問は、弟子たちだけのものではないでしょう。当時の人たち、また今の私たちにとっても、自然に心に湧いてくる疑問ではないでしょうか。人が苦しむのは、背後に何かそれに値するほどの罪があるからではないか、と考えるのです。
悪いことをした人に何か悪いことがあったら、「あの人は悪いことの報いを受けたのだ」とすぐに思うでしょう。しかし、何の罪もない人が苦しむのを見ると、その理由を人は知りたいと思います。「なぜ何もしていない自分が」とか「なぜあんないい人が」と考えてしまうのです。
弟子たちはこの時、神殿の入り口のところで物乞いをする盲人を見て、この人にはどんな罪があるのだろうか、と主イエスに尋ねました。「こうしたら幸せになる」「こうしたら不幸になる」、という単純な原則があればわかりやすいでしょう。しかし、世の中には嫌と言うほど不条理があるのです。
理由が見いだせない不幸せがあります。そのたびに私たちはこの時の弟子たちと同じ問いを神に向かって心の中で投げかけるのではないでしょうか。
旧約聖書には、正しい人ヨブに神が苦しみをお与えになるという不思議な物語があります。ヨブ記の物語の中でヨブの友人たちは、ヨブが神に罪を犯したから苦しみがふりかかったのだ、とヨブ本人を責めます。初めの内は、ヨブは「神から苦しみをいただくのであれば甘んじて受けよう」、と従順でした。
しかし 自分に罪があると友人たちから糾弾され続けると、「そんなことはない、自分は罪を犯していない、潔白だ」と言い始めます。そしてヨブは「自分の潔白を晴らすために神と裁判で争ってもいい」、とまで言うのです。正しい人が苦しむ、という不条理について考えさせられる、人間にふりかかる苦しみの意味を問う文学作品です。
信仰者がいい人生を送って幸せになり、信仰を持たない人が悪い人生を送って不幸せになる、というのなら簡単です。しかし、そんな単純なことではないのです。自分に何か辛いことがあれば、自分は何か悪いことをしたのだろうか、と自然と考えるのが人間です。
弟子たちは物乞いをしている盲人を見て、この人の罪を見出そうとしました。
「この人が罪を犯したからですか?」と尋ねます。
それに対する主イエスのお答えはこうでした。
弟子たちがこの盲人に見出そうとしたのは、この人の罪でした。しかし主イエスは、その盲人を、神の御業が現れる器としてご覧になっていたのです。
仮庵の祭りの中でキリストはご自分のことを「私は世の光りである」とおっしゃいました。その言葉の通り、主イエスはこの盲人の目を開かれ、光をお与えになります。闇の中を生きていた人がキリストに出会って、光を知り、自分が従い進むべき道を見出していく、という信仰の出来事がこの後起こっていきます。
イエス・キリストがなぜこの自分に出会ってくださったのか、ということを改めて考えさせられる癒しの出来事だと思います。
「キリストはなぜこの私に出会ってくださったのか」
清いキリストにふさわしい、罪とは無縁の人間だったからでしょうか。そうではないでしょう。そこには、確かにイエス・キリストの選びがあったのです。
使徒パウロは、コリント教会への手紙の中でこう書いています。
「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。・・・私たちは、このような宝を土の器に収めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために。・・・私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」
キリスト者は、あの神の創造の光を収める土の器だ、とパウロは言います。土の器というのは、日々の生活の中で普段使いする器です。特別な日にだけ使われる高級品ではありません。普段使いの中で酷使される、日用品です。その日用品の器の中に、神はご自身の栄光を入れて、世に運ばれるのです。
パウロ自身、キリストに召された時に目が見えなくなりました。しかし、洗礼を受けて、目からうろこのようなものが落ちて、再び光を得ました。はっきり言って、私たちは自分がなぜキリスト者とされたのか、理由はわからないのではないでしょうか。誰からも尊敬される、社会的な影響力がある人だけが選ばれるというのであればわかります。
しかし、パウロは手紙の中で神は「世の無力な人を選ばれた」と書き残しています。そして、「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」とも書いているのです。
「思いあがることのないようにと、私の身に一つのとげが与えられました。それは、思いあがらないように、私を痛めつけるために、サタンから贈られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるよういに、私は三度主に願いました。すると主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。」
あれだけ大きな宣教の足跡を残したパウロであっても、自分がなぜキリストに選ばれたのか、理由を見いだせませんでした。なぜこんな自分が、という思いがずっとあったのです。ただ、神の恵みがあって、パウロの弱さが神によって用いられる、ということだけを彼は知っていました。そしてそれだけで信仰者には十分なのです。
主イエスは神殿から出たところにいた一人の盲人を癒されました。「神の御業がこの人の上に現れる」という言葉の通り、救いが現実のものとなりました。旧約聖書では、神が世にいらっしゃる時、「目の見えないものの目が開かれる」という預言がいつくも残されています。
詩篇146編 8~9節
「主は見えない人の目を開き、主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し、主は気流の民を守り、みなしごとやもめを励まされる。」
イザヤ書29章18節
「その日には、耳の聞こえない者が書物に書かれている言葉をすら聞き取り、盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び岩井、貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る」 Continue reading →