MIYAKEJIMA CHURCH

12月1日の礼拝説教

創世記6:1~8

「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」

今日からアドベントに入ります。創世記の初めに記されている出来事を読みながら、我々人間の根源にあるものを見つめていきたいと思います。そして、このアドベントの時、なぜこの世にイエス・キリストがお生まれになったのか、ということを改めて捉えなおしていきましょう。

今日私たちが読んだのは、「ノアの箱舟」と呼ばれる有名な話の冒頭部分です。神が洪水を起こされ、この世界を押し流されます。その中でノアの一家が選ばれて、箱舟に被造物を入れて生き延びることを命じられます。その先で、神はノアを通じて被造物との間に平和の契約を交わされることになります。ノアの箱舟の物語は洪水で世界が滅ぼされることの印象が強いので、全てはこの契約のためであった、ということはあまり知られていないかもしれません。

聖書は、旧約聖書と新約聖書の二つが一つになって「聖書」となります。旧約・新約というのは、旧い契約、新しい契約、ということです。神がアブラハムと結ばれた契約や、モーセを通してイスラエルと結ばれた契約、ダビデとの契約などが旧約聖書中に記されていますが、このノアとの契約が最も古い、全ての被造物と結ばれた一番根源的な契約なのです。

私たちが一被造物として、神と自分の関係を見つめる際に立ち返るのが、このノアの契約です。そしてここから、私たちに与えられた神との最後の契約、イエス・キリストの十字架の地によって結ばれた新しい契約への歩みが始まっているのです。

私たちは考えたいと思います。なぜ、神は、この歴史の中で、被造物と、人間と平和の契約を結んでこられたのでしょうか。なぜ「契約」の必要があったのでしょうか。

その理由は、神が人を愛していらっしゃるからです。そして、自分を愛してくださる神に対して、人が背を向けるからです。

神は人と歩みを共にしたいと願っておられますが、人は神から離れようとしてしまいます。人は自分の目に映る安易な救いに、一瞬の快楽へと流されて行ってしまうのです。罪の中を歩む人間に、神は何度も預言者を送られ、招きの言葉・許しの言葉を聞かせ、立ち返りをお求めになってきました。

人間が神から離れるたびに、神は人間をご自分の元への招き、連れ戻し、そこで「もう離れてはならない」とおっしゃり、「これから共に生きよう」と契約を結ばれたのです。それでも人間はまた神に背を向けるのです。

人間の歴史は、これの繰り返しです。聖書は私たちにそのことを学ばせ、正しい道を歩ませるために書かれ、今まで残されてきました。

聖書を読むときに一番大切なことは、この中に書かれているのは契約の歴史である、ということです。今日から私たちは最初の契約がどのように結ばれたのかを読んでいくことになります。

今、私たちには最後の契約が与えられています。神の子イエス・キリストの、十字架で流された血による契約です。「神、我らと共にあり、我ら、神と共にあり」。言葉にすればただこれだけのことだが、これが聖書に記されている全ての言葉が示していることです。

私たちが神について考えるとき、ここに立ち返って、そもそも被造物である自分がどこに、またどなたに立ち返るべきなのか、ということを聖書はここで教えてくれているのです。

さて、ノアの箱舟の物語は、「地上に人の悪が増した」というところから始まっています。神が洪水を起こされるのは、その悪を流すためでした。神はこの世界にどのような罪をご覧になったのでしょうか。

人間がどんな悪を行っていたのか、それを知ろうとしてここを読んでも、あまりよくわからないのではないでしょうか。1~4節には不思議なことが書かれている。

「神の子ら」が「人の娘たち」を妻にした、とあります。それをご覧になって神は、人の一生を120年にされました。そして、神の子らと人の娘たちの間にはネフィリムが生まれた、と書かれています。ネフィリムは、巨人とか英雄という意味の言葉です。

私たちはここを読んで、戸惑うのではないでしょうか。神の子らが人の娘たちを妻にして、ネフィリムを生んだ、というのはどういうことなのでしょうか。何が言われているのか、何が罪なのか、というのがよくわかりません。

正確な意味は分かりませんが、聖書は人の罪をこのような神話のような形で描いています。私たちがここを読んでなんとなくわかるのは、神が良く思われない関係性が、この世界に広がっていた、ということです。

「神の子ら」と「人間の娘」たちの結婚と聞くと、神と人間の境がなくなっているような響きがあります。創世記1章で語られた「混沌」の世界へと戻ったような、神がお創りになった世界の秩序が崩壊しているよう響きがあります。

私たちは6章を読みましたが、この前の5章は、「アダムの系図」として最初の人アダムから始まった、人間の系図が記されています。アダムからノアまでの系図だが、人は何百歳までも生きていたことが書かれています。

そこに書かれている人々の系図の中には、カインがアベルを殺したり、カインの子孫であるレメクが、暴力的な力をふるって神の前にもおごり高ぶるようになったりした、罪の歴史も含まれています。

その文脈で読むと、人の一生が120年と定められたことの意味が分かるのではないでしょうか。人が永遠に生きると、永遠に罪を犯してしまうのです。私たちが生まれ、年を重ね、肉体の死を迎えるということの摂理を聖書は教えています。

人の命を120年と定められた後も、神は悩まれました。

「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」

神が天地創造の御業を後悔されるほど、人の罪は深く、そして地上に広まっていたのです。そして7節で神は決断されます。

「私は人を創造したが、これを地上から拭い去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。私はこれらを造ったことを後悔する」

神は人間だけでなく、他の被造物まで拭い去ることを決断なさいました。人間の罪は、自分たちだけでなく、自分たちが住んでいる環境まで滅びを招くことになるのです。

創世記の1章から11章は、「原初史」と呼ばれる不思議な物語が連続して描かれています。天地創造や、エデンの園、兄弟殺し、ノアの洪水や、バベルの塔などです。これらの不思議な物語は一体何なのでしょうか。そして、これらをはじめに読んだ人たちは、どのように読んだのでしょうか。

旧約聖書の初めに置かれている創世記は、紀元6世紀のバビロン捕囚の際に記された、と考えられています。BC587年、エルサレムがバビロニア帝国の軍隊によって滅ぼされました。神殿は破壊され、人々はバビロンへと連行されました。

故郷を破壊され、全てを失った人たちは、なぜ神の民であるイスラエルが滅んでしまったのか、ということを考えざるを得ませんでした。滅びを体験した人たちは、自分たちの偶像礼拝の歩みによって滅びを招いてしまったことに気づきました。そのような信仰の反省の中で聖書の言葉は書かれ、読まれてきたのです。

故郷エルサレムを失い、信仰の拠り所であったエルサレム神殿まで失った当時の人たちは、この「ノアの箱舟」の物語をどう読んだでしょうか。神との正しい関係性が失われ、悪がはびこっていた地上が、神の御手によって洗い流されてしまう、という物語です。

当時の人たちは、自分たちに起こったこととして読んだでしょう。そして、ここで神がおっしゃっている「常に悪いことばかりを心に思い計っている」人たちの中に、自分たちの姿を見出したでしょう。

その当時、「神の子」というのは、王様を指す言葉でした。「神の子らが人の娘たちを妻にし、ネフィリム生まれた」という謎めいた言葉は、イスラエルの王が偶像礼拝を取り入れ、正しくない信仰が生まれていった、ということなのかもしれません。

神に背を向ける歩みの先にある滅びがどんなに恐ろしいのか、ということを伝える、警告の物語であることは間違いないでしょう。

しかしそのような中にも神が希望を見いだされました。ノアという人です。神は、洪水の向こう側で、ノアを通して新たに神の民が生まれてくるのをお求めになります。

ノアは、偶像礼拝の時代における真の信仰者の象徴です。バビロンへと連行された人たちは、イスラエルの信仰の担い手でした。滅びの中から生き残り、捕囚とされながらも生かされた自分たちのことを、このノアの姿に重ね合わせたのではないでしょうか。ノアは、正しい信仰者は、滅びの中の希望とされるのです。

旧約聖書の列王記上19章に、預言者エリヤとバアルの預言者450人の対決が記されています。たった一人でバアルの預言者に勝ったエリヤは、今度はイスラエルの王に恨まれることになります。

王妃イゼベルは、エリヤに使者を送って、「必ずあなたを殺す」と伝えました。エリヤはその場から逃げ出します。彼は偶像礼拝の中で、真の神への信仰を貫く辛さを味わうことになりました。

そのエリヤに神はおっしゃいます。 Continue reading

11月17日の礼拝説教

ヨハネ福音書9:35~41

「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」

ヨハネ福音書9章全体を通して描かれている、キリストの盲人の癒しの出来事を読んでいます。9章全体は癒しの出来事を描いていますが、イエス・キリストが登場するのは、その始めと終わりだけです。目の見えず物乞いをしていた人をシロアムの池に行かせて、その目を癒されてから後、主イエスのお姿は描かれていません。

癒しの出来事の後、癒された人の方に焦点が当てられ、この癒された人に起こった奇跡に対してユダヤ人がどのように反応したのか、ということの方を描いています。癒しの出来事そのものではなく、癒しの後、癒された人がどうなったか、また、主イエスがいらっしゃらないところで、主イエスの奇跡の御業がどのように人々に影響を与えたのかということを伝えているのです。

主イエスのお姿が見えないところで、ファリサイ派の人たちは盲人だった人を尋問し、その証言が信じられなかったので、その人の両親まで呼び出しました。それでも納得がいかず、また癒された本人を召し出して尋問します。その人は、主イエスが行われたしるしそのものでした。その「しるし」を目の当たりにしても、ユダヤ人たちはナザレのイエスのことを神の子・キリストである受け入れることが出来なかったのです。

自分に起こったことをいくら証言しても信じてもらえず、自分を癒してくださった方のことまでかたくなに否定しようとするファリサイ派の人たちに向かって、盲人だった人は、「あなた方もあの方の弟子になりたいのですか?」と言いました。痛烈な皮肉です。

「あの方が神の元から来られたのでなければ、何もお出来にならなかったはずです」

ファリサイ派の人たちは、この人の言葉に怒りました。生まれながらに目が見えないことを、「罪の中に生まれた」と捉えていた彼らは、自分たちはモーセの弟子で、神の言葉である律法を学び、実践しているのに、罪びとのくせに生意気なことを言っている、と思ったのでしょう。

ついに、ユダヤ人たちは盲人だった人を会堂から追放しました。「会堂から追い出された」、ということは会堂の建物の中から追い出された、というだけのことではありません。信仰共同体から排斥された、ということであり、礼拝から追い出された、ということでした。

せっかく神の子に目を開けていただいたのに、人々の輪の中から追い出されてしまい、一人ぼっちになってしまいました。何かおかしなことになっています。

しかし、この人は一人になったのではありませんでした。会堂から追い出されたところで、イエス・キリストが再び出会ってくださったのです。「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会われた」と書かれています。

追放され、一人となったその人の元に来られたのが、イエス・キリストでした。人々から避けられ 無視されても主イエスだけはそうではないのです。

詩篇27編9節から10節にこのような祈りの言葉が謡われています。

「あなたは私の助け。救いの神よ、私を離れないでください。見捨てないでください。父母は私を見捨てようとも、主は必ず、私を引き寄せてくださいます」

自分にとって父母は、この世で一番の味方です。最大の味方である父母から万が一見捨てられるような悲劇の中でも、神が必ず自分を引き寄せてくださるという、最後の希望が神の招きにあるという信仰を歌いあげています。

盲人だった人が会堂から追い出された後、イエスが出会ってくださって感じたのはこの希望でした。この人は、ファリサイ派の人たちに対して、主イエスのことを悪く言うこともできたでしょう。「私は何もしていない。イエスという人が勝手に私のことを癒したのだ」と言い逃れすることだってできました。

しかし、彼は淡々と自分の身に起こったことを証言し、「私はあの方に会いたい」と主イエスを求めました。自分を癒してくださった方への信頼を貫いたことで、信仰の兄弟たちから追放されてしまいます。そしてその人を、イエス・キリストは放っておかれませんでした。

会堂から追放された時、この人はこの世での自分の無力さや、不条理を感じたでしょう。主イエスへの信仰を貫いたことで不利な立場に陥る、その場に居づらくなる、ということがあります。キリスト者であれば、大なり小なりそのような経験があるでしょう。

むしろキリストへの信仰を隠しておいた方が波風立てずに生きていけると感じることもあるでしょう。しかしそのような、弱っているキリスト者には希望があるのです。

信仰ゆえに苦しむ人、弱っている人のもとにこそ、キリストは来てくださいます。場所を失った人、道を見失った人にこそ、イエス・キリストは神の憐れみをもってその人のところにまで来てくださり、道を示し、場所を与えてくださいます。

イエスは6章37節でこうおっしゃっています。「父が私にお与えになる人は皆、私のところに来る。私のもとに来る人を、私は決して追い出さない」

ユダヤの宗教的指導者たちは皮肉にも神の子に癒された盲人を追放しました。しかし神の子ご自身は、人々からはじかれそれでもご自分を求める人を決してお見捨てにはならなかったのです。

イエス・キリストの約束は、神の約束そのものです。創世記28章で、神は家から逃げ出したヤコブにおっしゃいました。

「見よ、私はあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。私は、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。

「私はあなたを見捨てない」、この神の約束が全ての信仰者の希望の礎なのです。

イエス・キリストのために人々に背を向けられてしまったこの人は、それでも自分を癒してくださったキリストを求めました。そしてキリストがこの人のもとに来てくださり、信仰の光への入り口に立つようになります。

主イエスはこの人にお尋ねになりました。

「あなたは人の子を信じるか」

「神を信じるか」ではなく「人の子を信じるか」とお尋ねになっています。これはどういう意味でしょうか。ご自身のことを、「人間となって世に来てくださった神であると信じるか」、とお尋ねになっているのです。

癒された人は「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのです」と言いました。シロアムの池に遣わされて目を洗ってから見えるようになったので、この人は主イエスの顔を知らなかったからです。

「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」

こう言われて、この人は「主よ、信じます」と言って、ひざまずきました。「ひざまずいた」というのは、「礼拝した」という意味の言葉です。

私たち「信じる」とか「信仰」とかいう言葉を使います。それをどういう意味で使っているでしょうか。

「神を信じる」ということは、ただ「神が存在すると信じている」ということではありません。神が自分を愛し、自分をもっともよい道へと導こうとしてくださっていることを信じ、信頼し、自分をゆだねる、ということです。それが、自分の礼拝や祈りの姿に現れるのです。

私たちが使っている信仰という言葉は、そこまでの意味が含まれています。その方に信頼して従って生きる、という、生き方の決断まで問われている言葉なのです。

主イエスはご自分のことを「人の子」とおっしゃって、人となって世に迎えに来られた神であることを信じるか、そしてご自分の導きに身をゆだねるかどうか、その信仰を確認されました。この、盲人だった人が主イエスに出会い、従うようになるこの姿に、私たちは信仰の歩みに踏み出す、新しい信仰者の姿を見ます。

この人は、「その方を信じたい」と言いました。「もう信じている」ではありません。「それはあなたと話している私である」と主イエスはおっしゃいました。

これはサマリア人女性におっしゃった言葉と同じです。井戸に水くみにやってきたサマリア人女性は、はじめ主イエスのことをただのユダヤ人の旅人として見ていました。それが話をするうちに「預言者だとお見受けします」と言い、最後にこの人はキリストかもしれないと思うようになっていきます。

少しずつ、「この人には預言者以上の何かがある」と思うようになり、「いつかキリストが来ることを知っています」と言う女性に、主イエスは「それはあなたと話している私である」とおっしゃいました。 Continue reading

10月27日の礼拝説教

ヨハネ福音書9:1~12

「私がそうなのです」

旧約聖書の列王記下5章にナアマンという人が出てきます。この人はアラムという国の軍人でした。彼はある時皮膚病になってしまいます。皮膚病に苦しむナアマンに、イスラエル人の少女が「イスラエルの預言者であれば、治すことができるでしょう」と告げました。

ナアマンは、その言葉に希望を託してイスラエルにいる預言者エリシャのもとに向かいました。彼がエリシャのもとに向かう途中で、エリシャの従者がやってきました。従者は「ヨルダン川で七回身を洗って清めるように」、というエリシャの言葉を伝えました。

これに対してナアマンは怒りました。せっかく外国から来たのに、自分に直接会おうともせず「ああしなさい」と言葉だけをよこしてきたイスラエルの預言者に腹を立てたのです。彼は、預言者本人が丁重に自分を迎えて、直接手を触れて自分の皮膚病を癒してくれるものだと思っていました。

腹を立てるナアマンを、周りの人たちが説得しました。「川に入って身を清めるだけではないですか。皮膚病を治すためならもっと大変なことでも従ったはずです。」ナアマンはそれを聞いてしぶしぶ預言者エリシャの言う通りにしました。すると、ナアマンの皮膚病は治りました。

アラムの軍人ナアマンに救いの出来事が起こって、それで終わりではありませんでした。癒されたナアマンは、イスラエルの神を信じるようになります。しかし、自分の国では偶像の神を拝んでいるのです。彼は、これからどのようにイスラエルの神を信じるべきか、ということで悩みました。

ナアマンは改めてエリシャに会い、「自分の国の国王が偶像礼拝の中でひれ伏す時、自分も同じようにひれ伏さなければならないことを赦してほしい」、と願うとエリシャから、「安心していき成し行きなさい」と言われました。

私たちは、アラム人の軍人であったナアマンに起こった救いと、信仰を持ったがゆえの試練に、自分自身に与えられた救いと、信仰生活の中にある試練を重ねることが出来るのではないでしょうか。

ナアマンに起こった救いは、ナアマンが期待していたのとは違う仕方で実現しました。

預言者本人が直接癒しを行ってくれる、と彼は予想していたのです。しかし、預言者は姿も見せず、ただ、川に入れ、とだけ言ってよこしました。

私たちもそうだったのではないでしょうか。人が真の神を知る時、自分には思いもよらない仕方で神が出会ってくださるのです。神が私たちに救いを示してくださる時と場所と方法は、私たちが予想もしていなかったものではなかったでしょうか。

そして、真の神を知った時から、石や木を神と信じる人たちの中で自分がどうふるまっていけばいいか、ということで悩み始めるのです。神を知った後、どのように神に従い続けることができるか、という信仰の試練の道を歩み始めることになるのです。

私たちは自分の手で救いの道を切り拓くのではありません。思いもかけないところから、神はご自身を示されます。そしてその時から、信仰の試練が始まるのです。

旧約聖書に出て来たナアマンがそうであるように、今日私たちが読んだ、キリストに目を癒された人もまた私たちの姿です。

「神の業がこの人に現れる」とおっしゃって、キリストは神殿の境内から出て通りすがりにご覧になった目の見えない人を癒されました。そして癒しを行って終わり、ではなかったのです。

この後、その癒しが行われたのが安息日であったということで、エルサレムにまた議論が生じます。そしてナザレのイエスをキリストを信じる人と信じない人との間に対立が生まれていくことになります。

癒されたこの人自身が、イエスこそメシアであるということの証拠となり、証人となるのです。座って物乞いをするだけだったこの人が、キリストに癒されたことで確かに変えられ、キリストに従う道を選び取り、主イエスを指し示す証し人となっていきました。

これまで主イエスに出会った人たちは皆、生きる道に大きな変化が起こりました。ニコデモやサマリア人女性、池のそばで寝たきりの人・・・皆キリストに出会って、それで終わり、キリストに癒されてそれで終わりではなかったのです。キリストに出会い、キリストに癒されて、そのあと、あの方をキリストであると信じ、証を続ける試練の道を歩み続けることになったのです。そしてキリストの証し人であり続けたのです。

人々は、主イエスに目を癒された人を見て、「この人は誰だろう」と言いました。「あそこで座って物乞いをしていた人ではないか」と言う人もいれば、「似ているだけだ」と言う人もいました。それぐらい、この人自身が変わった、ということでしょう。

私たちは、キリストを知って洗礼を受けて、何が、どれぐらい変わったでしょうか。自分ではよくわからないでしょう。しかし、やはり何かが変わっているのです。

キリストを知らず生きるのと、キリストを知ってキリストと共に生きるのでは、歩む道に、また歩み方に大きな差が生じます。イエス・キリストを知らずに生きるという、もう一つの人生を、私たちはどのように想像するでしょうか。いや、そのような「もう一つの人生」を想像できるでしょうか。

自分とキリストの出会いは、聖書に記されているような劇的なものではなかった、と思うかもしれません。しかし、ここに書かれている、この人に起こったことは、そのまま私たち一人ひとりに起こったことなのです。

キリストは唾で土をこねてその人の目に塗り、シロアムの池に行って洗いなさい」とおっしゃいました。目に土を塗られた人はこの言葉に従いました。これこそ、この人の信仰の業です。

この人は黙って主イエスの言葉に従い、シロアムの池に行って、自分の目に塗られた土を洗い落としました。従わない、という選択だってあったはずです。「目を開けてほしい」と願ったわけではありません。「土を塗っただけで私の目が見えるようになるわけがない」と拒絶することだってできたのです。

しかしこの人は、無言で主イエスの言葉に従いました。ただ、従いました。弟子たちと主イエスのやり取りが聞こえていたのかもしれません。「今から自分に神の業が現れる」、と言った人の言葉を素直に信じ、その言葉に従ったのです。

ナアマンがヨルダン川に身を浸したように、目に土を塗られた人は、シロアムの池に向かい、自分の目を洗いました。この小さな信仰の業が、この人の人生を大きく変えたのです。

その日から人々にキリストの御業を伝える器としての働きが始まりました。「どうして目が見えるようになったのか」と問われて、この人は「イエスという方がこのようにして、癒してくださった」と事実と淡々を伝えました。この人は自分の力で何かをしたわけではありません。この人はただ自分に起こったことを伝えるだけでした。

キリストとの出会いを通して、人は変えられます。私たちは変えられるのです。そして自分一人だけの人生ではないことを知ります。自分を導いてくださる方がいることを知るのです。

シロアムの池に向かったこの人は、キリストに救われた私たち自身の姿です。神が世の初めに土からアダムをお創りになったように、キリストは土をこねてこの人を癒され、新しい命へと導かれました。

シロアムの池で目を洗ったこの人の姿に、私たちは自分自身の洗礼を見ることもできる。キリストによって罪を洗っていただき、新しい道を歩む新しい存在へと創造していただく姿です。ある日の小さな救いの出来事ですが、この人はただ主イエスの言葉に従った、というだけで、聖書の中にその姿が記録され、後世までが語り継がれるようになりました。

私たちがイエス・キリストに出会い、キリストを証しするのも、このようなことではないでしょうか。私たちとキリストとの出会いは、世の片隅で起こった、誰にも知られていないような小さな出来事です。しかし、その救いの出来事が、この世界をイエス・キリストへと、神へと向かわせることになるのです。

キリストに救われた私たちは、世に向かってどのようにキリストを証しするのでしょうか。イエス・キリストについて説明・解説するのではありません。「私はあの方に会った」、と言うだけです。そしてキリストに出会った者として生きるだけです。それが何よりの信仰の言葉なのです。

主イエスはこの盲人をシロアムの池におつかわしになりました。仮庵の祭りは水の祭りであったので、祭りの中で水を汲み取っていました。その水はこのシロアムの池から取られていました。

シロアムの池の水は、エルサレムの人たちにとって「命の水」の象徴でした。そして今、「私は命の水である」「私は世の光である」とおっしゃる方が、この水を用いて一人の盲人に光をお与えになりました。主イエスの言葉に従った一人の小さな信仰者が、命の水で洗われ、世の光が見えるようになったのです。

この人を遣わした、イエスという方こそが命の水の源でした。この人を遣わしたイエスという方こそ、世に光をお与えになる方だったのです。

「シロアム」とは「遣わされた者」というという意味だと記されています。盲人は「遣わされた者」という意味の池へと遣わされました。それだけでなく、癒された後、今度はこの世に遣わされる者とされました。この世に神から遣わされた光と癒しが明らかになるために。イエス・キリストが、「この人の上に神の御業があらわれるため」とおっしゃったのはそういうことでした。まさに、地の塩・世の光とされたのです。

キリスト者は、キリストと共に歩みを続けます。それしかないのです。それが「伝道」なのです。私たちはキリストのすべてを理解して、聖書の研究をすべて終えてから洗礼を受けるのではありません。神について知っていることを、体系的に誰かに説明するのが伝道ではありません。キリストに出会い、キリストに救われた者として、自分を晒して生きること、それが伝道なのです。

私たちはキリスト者として生きるということ自体が、一生続く試練であることを知っています。神を信じているというだけで馬鹿にされたり、キリスト者であるというだけで距離を置かれたりすることもあります。

しかし、その試練の中でこそ私たちは用いられているのです。パウロが書いているように、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」のです。楽しいことだけ、嬉しいことだけが私たちの信仰生活ではありません。様々な信仰の試練を祈りながら進むことで、「万事が益とされていく」のを見ます。そして自分を通して神の御業が行われていることを知っていくのです。

もし自分が神を知らないままだったと考えたら、どうでしょうか。全く違う人生を送っていたのではないでしょうか。それほどまでに、聖書の言葉は私たちの歩みを導く力があるのです。

キリストに癒された人は、周りで騒ぐ人たちに一言、こう言いました。

「私がそうなのです」

イエスが本当にキリストであるかどうかを求めている人がいます。キリストに救われた人が本当にいるのかどうか、確かめたい人がいます。その時、私たちは、胸を張って「私がそうなのです。私はキリストに救われたのです」と立ち上がりましょう。

10月20日の礼拝説教

ヨハネ福音書9:1~7

「神の御業がこの人の現れるためである」

ここまで7章と8章には、イエス・キリストの仮庵祭でのお姿が描かれてきました。「アブラハムが生まれる前から私はある」とおっしゃった主イエスの言葉を聞いて、ユダヤ人たちは石を投げつけようとしましたが、主イエスは神殿から出て身を隠されました。

今日私たちは神殿を出たところで、主イエスが一人の盲人を癒されたという場面を読みました。有名な場面です。盲人は神殿の入り口のところに座っていたのでしょう。そこは巡礼者に 物乞いをする場所でもありました。

主イエスの弟子たちはその盲人を見て、自分たちの先生に素朴な質問を投げかけた。

「この人が生まれつき目が見えないのは誰のせいですか。この人の罪ですか、その家族の罪ですか」

その弟子たちの質問に答える形で、主イエスは癒しを行われました。その際におっしゃった主イエスのお答えの言葉が、今でも広く知られているのです。

弟子たちが抱いた疑問は、弟子たちだけのものではないでしょう。当時の人たち、また今の私たちにとっても、自然に心に湧いてくる疑問ではないでしょうか。人が苦しむのは、背後に何かそれに値するほどの罪があるからではないか、と考えるのです。

悪いことをした人に何か悪いことがあったら、「あの人は悪いことの報いを受けたのだ」とすぐに思うでしょう。しかし、何の罪もない人が苦しむのを見ると、その理由を人は知りたいと思います。「なぜ何もしていない自分が」とか「なぜあんないい人が」と考えてしまうのです。

弟子たちはこの時、神殿の入り口のところで物乞いをする盲人を見て、この人にはどんな罪があるのだろうか、と主イエスに尋ねました。「こうしたら幸せになる」「こうしたら不幸になる」、という単純な原則があればわかりやすいでしょう。しかし、世の中には嫌と言うほど不条理があるのです。

理由が見いだせない不幸せがあります。そのたびに私たちはこの時の弟子たちと同じ問いを神に向かって心の中で投げかけるのではないでしょうか。

旧約聖書には、正しい人ヨブに神が苦しみをお与えになるという不思議な物語があります。ヨブ記の物語の中でヨブの友人たちは、ヨブが神に罪を犯したから苦しみがふりかかったのだ、とヨブ本人を責めます。初めの内は、ヨブは「神から苦しみをいただくのであれば甘んじて受けよう」、と従順でした。

しかし 自分に罪があると友人たちから糾弾され続けると、「そんなことはない、自分は罪を犯していない、潔白だ」と言い始めます。そしてヨブは「自分の潔白を晴らすために神と裁判で争ってもいい」、とまで言うのです。正しい人が苦しむ、という不条理について考えさせられる、人間にふりかかる苦しみの意味を問う文学作品です。

信仰者がいい人生を送って幸せになり、信仰を持たない人が悪い人生を送って不幸せになる、というのなら簡単です。しかし、そんな単純なことではないのです。自分に何か辛いことがあれば、自分は何か悪いことをしたのだろうか、と自然と考えるのが人間です。

弟子たちは物乞いをしている盲人を見て、この人の罪を見出そうとしました。

「この人が罪を犯したからですか?」と尋ねます。

それに対する主イエスのお答えはこうでした。

「神の御業がこの人の現れるためである」

弟子たちがこの盲人に見出そうとしたのは、この人の罪でした。しかし主イエスは、その盲人を、神の御業が現れる器としてご覧になっていたのです。

仮庵の祭りの中でキリストはご自分のことを「私は世の光りである」とおっしゃいました。その言葉の通り、主イエスはこの盲人の目を開かれ、光をお与えになります。闇の中を生きていた人がキリストに出会って、光を知り、自分が従い進むべき道を見出していく、という信仰の出来事がこの後起こっていきます。

イエス・キリストがなぜこの自分に出会ってくださったのか、ということを改めて考えさせられる癒しの出来事だと思います。

「キリストはなぜこの私に出会ってくださったのか」

清いキリストにふさわしい、罪とは無縁の人間だったからでしょうか。そうではないでしょう。そこには、確かにイエス・キリストの選びがあったのです。

使徒パウロは、コリント教会への手紙の中でこう書いています。

「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。・・・私たちは、このような宝を土の器に収めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために。・・・私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」

キリスト者は、あの神の創造の光を収める土の器だ、とパウロは言います。土の器というのは、日々の生活の中で普段使いする器です。特別な日にだけ使われる高級品ではありません。普段使いの中で酷使される、日用品です。その日用品の器の中に、神はご自身の栄光を入れて、世に運ばれるのです。

パウロ自身、キリストに召された時に目が見えなくなりました。しかし、洗礼を受けて、目からうろこのようなものが落ちて、再び光を得ました。はっきり言って、私たちは自分がなぜキリスト者とされたのか、理由はわからないのではないでしょうか。誰からも尊敬される、社会的な影響力がある人だけが選ばれるというのであればわかります。

しかし、パウロは手紙の中で神は「世の無力な人を選ばれた」と書き残しています。そして、「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」とも書いているのです。

「思いあがることのないようにと、私の身に一つのとげが与えられました。それは、思いあがらないように、私を痛めつけるために、サタンから贈られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるよういに、私は三度主に願いました。すると主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。」

あれだけ大きな宣教の足跡を残したパウロであっても、自分がなぜキリストに選ばれたのか、理由を見いだせませんでした。なぜこんな自分が、という思いがずっとあったのです。ただ、神の恵みがあって、パウロの弱さが神によって用いられる、ということだけを彼は知っていました。そしてそれだけで信仰者には十分なのです。

主イエスは神殿から出たところにいた一人の盲人を癒されました。「神の御業がこの人の上に現れる」という言葉の通り、救いが現実のものとなりました。旧約聖書では、神が世にいらっしゃる時、「目の見えないものの目が開かれる」という預言がいつくも残されています。

詩篇146編 8~9節

「主は見えない人の目を開き、主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し、主は気流の民を守り、みなしごとやもめを励まされる。」

イザヤ書29章18節

「その日には、耳の聞こえない者が書物に書かれている言葉をすら聞き取り、盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び岩井、貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る」 Continue reading

10月13日の礼拝説教

ヨハネ福音書8:48~59

「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」

エルサレムでの仮庵の祭の最後の場面です。仮庵祭の中で主イエスはご自身のことを「命の水」「世の光」であると宣言されました。それを聞いたユダヤ人たちは「ナザレのイエスは何者か」、ということを議論しました。さらに、「イエスの権威はどこから来ているのか」「イエスの目的は何か」、ということも考えさせられました。

主イエスご自身は「天の父が私を世に遣わされたのだ」とおっしゃいます。つまり、神が主イエスを天からこの世に遣わされたということです。主イエスが行われる様々な奇跡のしるしを見た人たち、語られる聖書の教えを聞いたエルサレムの人たちの一部はそれを信じました。

しかし主イエスのおっしゃることを信じなかった人たちは殺意を抱きました。主イエスは彼らの殺意を見抜き、彼らの父がアブラハムでも神でもなく、悪魔であると痛烈に非難されました。

当然ユダヤ人たちは主イエスが自分たちの父のことを悪魔と言ったことに対して反応します。それが、今日私たちが読んだ場面です。

反対者たちから3つの質問がされました。

「あなたはサマリア人で、悪霊に取りつかれているのではないか」

「私たちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。一体あなたはあなた自身を何者だと思っているのか」

「あなたはまだ50歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」

彼らは主イエスのことを「サマリア人」と呼び「悪霊に取りつかれている」と言いました。「サマリア人」と呼んだのは、律法を正しく理解していない、正しい信仰をもっていない、という悪口です。

主イエスは冷静にお答えになっています。「私は悪霊に取りつかれてはいない。私は父を重んじているのに、あなたたちは私を重んじない」「私の栄光を求め、裁きをなさる方が、他におられる」

他の福音書に、こういう出来事が書かれています。悪霊を追い出される主イエスに向かって、「あの人は悪霊の頭ベルゼブルの力で追い出している」という人がいました。ナザレのイエスは確かに悪霊を追い出す力を持っているが、その力の源は、悪霊の力だ、と言うのです。

しかし、主イエスは「悪霊の力で悪霊を追い出すということがあろうか」とお答えになりました。そして、「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて許される。しかし、聖霊を冒涜するものは永遠に許されず、永遠に罪の責めを負う」とおっしゃいました。

人は、誰かが不思議な業を行うのを見ると、その業を行う力の源を知りたがります。その力の源がいいものなのか、悪いものなのか、ということを知りたがるのです。いろんなしるしを行われる主イエスを見て、人々は主イエスの力の源が神からのものか、悪霊からのものか、知りたがりました。そしてある人たちは、イエスは悪霊の力で奇跡を行っていると考えたのです。

しかし主イエスがおっしゃるように、悪霊の力で悪霊を追い出すということはおかしな話です。主イエスは警告されました。「人間が犯す罪は、許される。しかし、人の罪を許す聖霊を冒涜すれば、許しは一体どこにあるというのか。」

確かにそうでしょう。今、主イエスのことをユダヤ人たちは悪霊呼ばわりしました。自分たちが自分たちの罪のために命を投げ出そうとしてくださっている神の子を悪霊呼ばわりして、罪の許しを自ら遠ざけようとしていることに気づいていません。そしてそれがどんなに愚かなことであるのかも見えていないのです。

主イエスはご自分のことを「命のパン」「命の水」「命の光」として世に示されました。ご自分のもとに罪の許しが、永遠の命があるからです。だから主イエスはおっしゃる。

「私の言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」

どこに罪の許しがあるのかを示されています。それは主イエスご自身のもとにあるのです。だから、この方はキリストと呼ばれるのです。

しかし主イエスのこの言葉を聞いて、ユダヤ人たちは「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした」と言いました。アブラハムや、預言者といった偉大な信仰者たちも、皆、死んだのに、自分の言葉を守る人は死なないなどとイエスは言うからです。

「私たちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。・・・一体あなたは自分を何者だと思っているのか」

彼らはもうついていけなくなってきました。人が死なないなんてことがあるのか、というのが彼らの考えです。当然だろう

しかし主イエスはおっしゃいます。「あなたたちの父アブラハムは、私の日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」

アブラハムは創世記15章で神から言われた。

「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」

夜空を見上げて満天の星を見たアブラハムは、神の祝福の大きさに息をのんだでしょう。

主イエスはご自分がアブラハムよりも偉大な者であるということを否定されませんでした。それどことか、アブラハムはご自分のことを待ち焦がれていた、とおっしゃいます。

これまでも、「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい」とか、「私は世の光である」とおっしゃってきました。ユダヤ人たちは、まるで自分が神であるかのように話をするナザレのイエスを赦せませんでした。

だから彼らは問いただします。

「あなたは、まだ50歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」

すると主イエスは「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」とおっしゃった。自分がアブラハムより前にいた、ということ、そして「わたしはある」という言い方に、ユダヤ人たちは怒りました。「わたしはある」というのは、モーセが神に名前を尋ねた時に神がお答えになった言葉です。

アブラハムは創世記に出てくる、信仰の父と呼ばれている人です。そのアブラハムよりも自分は偉大で、アブラハムよりも前に「わたしはある」などと言うのは、自分のことを神のように考えているとしか思えません。神を自称することは神への冒涜でした。自分自身を神とし、まことの神を冒涜したという罪を彼らは見出しました。ユダヤ人たちはこれを聞いて、主イエスに石を投げつけようとしました。

主イエスはその場を立ち去られました。「イエスは身を隠して、神殿の境内から出ていかれた」と書かれています。仮庵祭の中でご自分を晒し、真理を示して、あとは神殿から身を隠されたのです。

人々に大きな問いを残して、主イエスはその場を去って行かれました。あとに残された人たちは、主イエスが仮庵祭の間、神殿でおっしゃった言葉を心に刻み、主イエスの業や言葉の意味を考えさせられることになりました。

私たちは、この仮庵祭の場面を通して、世の人々がどれだけ世に来られた光・世に与えられた言葉に対して無理解だったか、ということを知ります。

ナザレのイエスがアブラハムよりも年上であるなどということは、当然誰も信じられませんでした。それが普通でしょう。しかしその中にあって、この方には否定しきれない神の権威がありました。

主イエスは、「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ」とおっしゃいました。もし人々がアブラハムの子、信仰の子であるなら、彼らは主イエスが誰であるか分かったはずです。 Continue reading

10月6日の礼拝説教

ヨハネ福音書8:39~47

「今あなたたちは神から聞いた真理をあなたたちに語っているこの私を殺そうとしている。アブラハムはそんなことをしなかった。」

今日読んだところの前になりますが、38節で主イエスはこうおっしゃっています。

「私は父のもとで見たことを話している。ところがあなたたちは父から聞いたことを行っている」

この言葉はどういう意味なのでしょうか。お話しなさっている主イエスご自身の「父」と、話を聞いているユダヤ人たちの「父」はそれぞれ違うようです。また、「父のもとで見たことを話している」、というのと、「父から聞いたことを行っている」というのはどう違うのでしょうか。

考えさせられる、謎めいたイエス・キリストの言葉です。

これまでユダヤ人たちは、「ナザレのイエスがやっていることはモーセの律法に即して正しいのか正しくないのか」ということを見極めようとしてきました。一見するとナザレのイエスがやっていることはモーセが伝えた掟に反しているように見えたのです。仕事をしてはならないとされている安息日に、癒しの奇跡をおこなってきました。

しかしイエスが人々に律法の教えを説くのを聞くと、驚くほどモーセの律法について詳しく、また律法の言葉をまるで自分の言葉のように人々に教えていたのです。そして安息日であっても、神の力としか思えない力をもって人々を癒していたのです。

人々は「イエスは一体何者か」と何度も考えさせられることになりました。そして今「イエスは何者か」というところから「イエスの父とは何者か」そして「自分たちの父とは誰なのか」ということを考えさせられることになります。議論の焦点はモーセの律法に照らして、イエスは正しい人かどうか、ということから「アブラハムの子」というユダヤ人たちの自己認識に移っていくことになるのです。

主イエスの言葉を聞いてユダヤ人たちは「私たちの父はアブラハムです」と言い返しました。これはユダヤ人であれば誰もが思っていたことです。

創世記に神がアブラハムに幻の中で語られた出来事が記されています。神はアブラハムにおっしゃいました。「あなたから生まれるものが跡を継ぐ」

ある夜、神はアブラハムを天幕の外へと連れ出して夜空を見上げるようにおっしゃいました。「天を仰いで星を数えることができるなら数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」。アブラハムはその言葉を信じました。その後、神は共にアブラハムをお訪ねになり、百歳になったアブラハムに子供が生まれることをお告げになりました。その言葉は本当になり妻サラはイサクを生みました。

ユダヤ人たちは「あの時神がアブラハムに約束された祝福こそが自分たちである。自分たちこそがアブラハムの子孫である」と考えていました。それがイスラエルの信仰であり、自己認識だったのです。

旧約聖書にはそのような表現がいくつもあります。出エジプト記4章22節で神はファラオにおっしゃっています。「イスラエルは私の子、私の長子である」

またイザヤ書63章16節には信仰者たちの祈りが記されています。「あなたは私たちの父です。アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても主よ、あなたは私たちの父です。」

このようにイスラエルの人たちユダヤ人たちは、代々自分たちのことをアブラハムの子であり神の子であると考えてきました。実際そうなのです。主イエスご自身もユダヤ人たちに向かって「あなたたちがアブラハムの子孫だということはわかっている」とおっしゃっています。

しかし主イエスはそれでも「あなたがたは本当にアブラハムの子孫だと言えるだろうか」と問いを投げかけられます。

「アブラハムの子ならアブラハムと同じ技をするはずだ。ところが今あなたたちは神から聞いた真理をあなたたちに語っているこの私を殺そうとしている。アブラハムはそんなことをしなかった。」

ユダヤ人たちが、あの信仰の父と呼ばれるアブラハムの子孫であるならば、父アブラハムと同じことをするのではないか、ということです。

アブラハムは神を受け入れ神の言葉を信じ従った人でした。神の召しに従い、故郷を離れ、神の言葉に従い、独り子イサクを捧げようとしました。信仰の人アブラハムの生涯は、試練の生涯でした。信仰の試練の中で神に従い抜いたアブラハムは、だからこそ祝福の民の源となったのです。

アブラハムの信仰の歩みは、次の世代、またその次の世代へとつながり、世代を超えて信仰の実りを結んでいくこととなりました。私たちはその祝福の連鎖の中に生きています。私たちの信仰が次の世代への種まきとなり、私たちの信仰の足跡が、次の世代の人たちにキリストへの立ち返りの道しるべとなるのです。アブラハムが神に従ったように私たちがキリストに従うことが、のちへと続く種まきとなって、その種は神の御業によって実を結ぶことになります。

しかし、果たして主イエスに対して殺意を持っているこのユダヤ人たちは、神を信じ従ったアブラハムの信仰に倣っていると言えるでしょうか。神から遣わされた方を信じない、それどころか殺そうとするというのであれば、アブラハムは反対のことをしているということになります。

ユダヤ人たちは主イエスにさらに食い下がります。

「私たちにはただ一人の父がいます。それは神です」

主イエスは聞こうとしない彼らに対して、非常に厳しいことをおっしゃいました。「あなたたちは悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない」

痛烈な言葉です。「悪魔は最初から人殺しであった。」これは創世記の初めでカインが弟のアベルを殺したことを思い起こさせる言葉です。

ヨハネの手紙一3章12節以下にこう書かれています。

「カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く兄弟の行いが正しかったからです。だから兄弟たち世があなた方を憎んでも驚くことはありません」

私たちが今読んでいる新約聖書は、信仰の危機の時代に書かれました。信仰の危機だからこそ、このような信仰の書が紡がれました。ヨハネの手紙の中には「偽預言者が大勢世に出てきている」と書かれています。

イエス・キリストの時代数十年が経って、偽預言者たちがキリストの教えを捻じ曲げて世の人たちを惑わしていた時代に、正しいキリストへの信仰を守るために福音書や手紙が書かれたのです。

ヨハネの手紙では「反キリスト」という言葉が使われています。

「終わりの時が来ています。反キリストが来るとあなた方がかねて聞いていた通り今や多くの反キリストが現れています。・・・偽りものとはイエスがメシアであることを否定する者ではなくて誰でありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです」

キリストの時代から、聖書の諸文書が書かれた時代から長い時間が経った今、なぜ聖書はまた読まれているのでしょうか。反キリストの時代が続いているからでしょう。そうでなければ、聖書など読まなくても人はキリストへの信仰を持てるのです。

しかしキリストへと正しく導く言葉がなければ、人は神の国へと向かうことはできません。私たち人間にはいつでも、信仰の逆風が吹いているからです。

イエス・キリストは十字架と復活の御業を成し遂げられました。使徒言行録にはキリストが天に帰られた後どのようにキリスト者たちがイエス・キリストを世に証言したのかということ証しています。

聖書に記されている福音の物語は今の私達にまで連綿と続いて来ました。私たちはこの神の大きな救いの御業の物語のただ中を生きておりはい今も聖書に証しされているのです。聖霊の力によって動かされ、自分たちの思いを超えた信仰の道を日々示されているのです。

キリストが世に来られ、神の許しの御業を示してくださいました。そしてその御業を伝えるキリスト教会の群れが起こされました。しかしそれで終わりではなかったのです。

そこから教会の信仰の戦いは始まり、今まで続いて来ました。私たちは、自分にとって神に従い続けること、キリストを求め続けるということがどんなに困難なことかを知っています。四六時中世の誘惑に晒されているのです。

今私たちが生きているこの時代もまた反キリストの時代なのです。いろんな形でキリストの言葉ではなく、世の人々が聞きたがる言葉を語り、自分の正義のために神の名を用いる人は多いのです。

今まで、反キリストの時代ではなかったことはないでしょう。今日読んだ最後のところでイエスキリストはこうおっしゃっています。「神に属するものは神の言葉を聞くあなたたちが効かないのは神に属していないからである。・・・「神に属する人は神の言葉を聞く。しかし神に属さない人は神の言葉を聞こうとしない」 Continue reading

9月29日の礼拝説教

ヨハネ福音書8:31~38

「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

ユダヤ人の仮庵祭は水と光の祭りでした。その最後の日に主イエスはご自分こそ「命の水」であり「世の光」であると明言されました。主イエスがエルサレムで何かをおっしゃるごとに、人々は「イエスとは何者か」ということを議論しました。

今日読んだところの直前、30節を見ると「多くの人々がイエスを信じた」と書かれています。そして今日読んだはじめの所、31節で「イエスはご自分を信じたユダヤ人たちに言われた」と続いています。

その主イエスを信じようとする人たちにおっしゃった言葉は、こういうものでした。「私の言葉に留まるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」主イエスは、誰にでもこうおっしゃったのではありません。ご自分を信じようとする人たちにおっしゃいました。

真理が私たちを自由にする、という言葉には新鮮な驚きを感じるのではないでしょうか。主イエスがおっしゃっている真理とはご自分のことです。信仰とか聖書とかいう言葉に置き換えてもいいでしょう。

普通、

「聖書の教え」とか「律法」とか「信仰」とか聞くと、私たちの生活を縛るもの、制限するもの、という風にとらえられがちです。「宗教的な戒律など、自分の自由を制限するものではないか」、と考えてしまいます。「キリストに従う、またキリストの教えに従うということは、自分らしさを押さえつけなければならないのではないか」と思うのです。

しかし、主イエスは反対のことをおっしゃいます。

「真理はあなたを自由にする」

道を求め、神のもとにある平安を求めている人には大きな希望となる言葉です。

しかし、「自分はすでに自由であり、イエスが言っている自由など必要ない」と考える人にとっては、戸惑いを感じる言葉でした。ユダヤ人たちは主イエスの言葉を聞いて不思議に思いました。「私たちはアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」

彼らは「自分たちは奴隷ではない、自分たちは自由だ」と考えていました。自分たちが何かから解放される必要があるなどということは考えてもいなかったのです。その理由は「自分たちがアブラハムの子孫だから」です。

「アブラハムの子孫である」という自己認識を彼らは強く持っていました。アブラハムの子孫である」ということはすなわち自由であり、何かから解放される必要はないということを意味していました。

ここでまた主イエスとユダヤ人たちの意識が食い違っています。ユダヤ人たちは自分たちは何にも縛られない自由なアブラハムの子孫であると考え、主イエスは彼らは何かに支配されているとご覧になっていました。

確かにユダヤ人たちは奴隷という身分にはなかったかもしれません。特にここに出てくるユダヤ人というのはユダヤ人の指導者たちのことなので社会的には高い地位にある人たちでした。自分たちが何かの奴隷とされているなんて言うことは考えてもいませんでした。

この時代、ユダヤ人はローマ帝国という巨大な帝国の支配下に置かれていたので「外国の支配のうちに生きている」という意味では奴隷と言えるかもしれません。しかしローマ帝国では法によって支配されその法を犯さない限りは平和に暮らすことができたのです。

だから自分たちが主イエスによって自由にされる、主イエスが自分たちを解放してくださるということがよくわかりませんでした。そもそも「私たちは自由だ」と思っていたのです。

主イエスが彼らにおっしゃったのは「罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である」という言葉でした。イエス・キリストはこの世は罪の支配の下にあるとご覧になっていました。この世は罪の奴隷とされている、この世は創造主である神から離れている、とご覧になっていたのです。この世を神の平和の支配の元へと連れ戻すこと、それがメシアの使命であり、主イエスが世に来られた理由でした。

キリストの使徒パウロがローマの信徒の手紙の中でこう書いています。「あなた方は罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るかどちらかなのです」

人は神の奴隷として生きるか罪の奴隷として生きるか・・・言葉を変えると、神と共に生きるか、神から離れて生きるか、どちらかだということです。

多くの人は、神から離れて生きることが自由だと感じます。宗教的な戒律に縛られたら自分の自由がなくなる、と思うでしょう。自分の支配者は自分であるべきであり、自分は誰の支配からも自由でありたい、と考えるでしょう。

しかしよく考えると、神から離れたそこに本当の自由はあるのでしょうか。私たち人間は自分自身を持て余すのです。思うようにならないことばかりです。生活も、人間関係も、気楽に気ままに生きることなどできません。人間は自分の手綱をうまくさばくことすらできない、頼りなく弱いものだと、生きていれば気付いてきます。

人間は自分で自分をどうすることもできないのです。自分ほど思い通りにならないものはありません。自分の欲望や弱さに振り回され簡単に誘惑に負けてしまう、自分の意図しないところで、誰かを気付ける・・・実は自分は罪の奴隷である罪の支配下にあるということに気づいていくのではないでしょうか。

パウロが言っている「神の奴隷」とは何でしょうか。神の恵みの支配のうちに生きるということです。そしてそれがわれわれ人間にとっての本当の自由である、ということです。

「神の奴隷として生きる」と聞くと、なんだか堅苦しくて自分の楽しみを全部脇に置いて苦行を続けないといけないようなイメージを持ってしまいますが、そうではありません。そこに本当の自分らしさがあるのだ。被造物が創造主の愛のもとに生きるというところに私たちの本当の自由と平和があるのです。

では具体的にその自由がどこにあるのでしょうか。イエス・キリストのもとにあるのです。だからキリストははっきりとここで「私の言葉にとどまりなさい。そこに真理がありその真理があなたを自由にする」とおっしゃいます。

主イエスはこの後ご自分のことを葡萄の木に例えて弟子たちにお話しなさいます。「私はぶどうの木、あなたたちはその枝である」「枝が木から離れては実を結ぶことができない」「それと同じようにあなたたちは私と離れては生きて行くことができない」

だから「わたしにつながっていなさい」とおっしゃいます。「聖書をよく勉強しなさい」ではなく、「私につながっていなさい」です。聖書の知識がどれだけたくさんあっても、律法の掟に従う生活を続けても、イエス・キリストにつながっていなければ意味がないのです。

主イエスはここで「私の言葉に留まるならば」とおっしゃっています。この「留まる」という言葉は、「つながっていなさい」というのと同じ言葉です。イエス・キリストにつながっている、というところに私たちの本当の自由があるのです。

なぜ主イエスは繰り返し「私の言葉にとどまりなさい」「私につながっていなさい」とおっしゃっているのでしょうか。イエス・キリストの弟子となるということは一度きりの点で終わる出来事ではないからです。それは一生涯にわたることであり、その一生涯の全ての瞬間において、絶えず主イエスから離れる危機が訪れるからです。

律法を重んじるユダヤ人たちにとって、律法が真理でした。理性と哲学を重んじるギリシャ人たちにとって、理性と哲学が真理でした。そして今、主イエスは、ご自分が真理である、とおっしゃいました。イエス・キリストのもとに、私たちにとって必要なすべての問いと、すべての答えがあるのです。

私たちは今、イエス・キリストのことを知っています。最初に聖書を読んで、「これは自分のための言葉だ」と思った時、喜びがあったでしょう。「キリストは確かに私を愛してくださっている」と思えた時、喜びがあったでしょう。

しかし、その喜びを持ち続ける、ということは簡単なことではないのです。何かあるとすぐに、聖書の言葉を、キリストの愛を疑います。キリストという真理にとどまり続ける、つながりつづけることは簡単ではないのです。

今日読んだところに出て来た、主イエスを信じるようになった人たちも、すぐに主イエスから離れていくことになってしまいます。少し先を読むとこの人たちが主イエスの言葉を聞いて去っていったということが書かれています。

主イエスの言葉を信じ従おうとして結局主イエスの教えをよくよく聞くと立ち去ってしまう・・・これまでと同じなのです。一度は主イエスのことを信じるけれども、結局自分の考えとは異なる主イエスの教えを聞いて、「そんなことなら信じるのをやめよう」、とみんないなくなってしまうのです。

今私たちの周りでも起こっていることです。その中で私たちは問われます。イエス・キリストは、人々がご自身から去っていくのをご覧になりながら、12弟子たちにお尋ねになりました。

「あなたがたも、離れていきたいか」

何かを、また誰かを信じようとするとき、自分に都合よく信じたいと思う私たちにとって、そのキリストからの問いかけは非常に厳しいものです。私たちを真理から引き離そうとする誘惑の力、罪の力は絶え間なく私たちを襲うのです。キリストに出会った喜びも、聖書の真理に感動した嬉しさも、時間が経って新鮮さが薄れていく中で、この世の一瞬の快楽の誘惑が常に私たちにささやいてきます。

だからこそ、私たちには聖書の言葉が必要なのです。パウロは、イスラエルが歴史の中で犯した様々な過ちによって滅んでしまった体験を、「これらの出来事は、私たちを戒める前例として起こったのです」と書いています。罪の働きを、人間の弱さを、聖書は教え、私たちの信仰に警鐘を鳴らすのだ。 Continue reading

9月22日の礼拝説教

ヨハネ福音書8:21~30

「だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」

2000年前、一人のユダヤ人の若者がガリラヤとユダヤで神の国の到来を宣言し、教えを残し、奇跡の業を行いました。そしてその人生は、十字架による死で終わりました。その十字架の後、「ナザレのイエスとは一体何者だったのか」ということが大きな謎として人々の間に残されました。イエスの墓が空になり、たくさんの人たちが、「復活したイエスに出会った」と証言したからです。

あのイエスという人は何者だったのか・・・ヨハネによる福音書は、冒頭の一章でそのことを記しています。「神の言」「命」「光」「栄光」「恵み」「真理」と、様々な言葉で表現しています。そして「父の懐にいる独り子である神、この方が神を示された」と記すのです。

ヨハネ福音書は冒頭で、世に来られた神に対して人々がどのように向き合ったか、ということを書いています。「暗闇は光を理解しなかった」「世は言を認めなかった」「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」

「この地上に来られた神を、人間は受け入れなかった」ことを、そして「どのように人間が神の子を排斥したのか」ということを福音書は全体を通して描くのです。今この福音書を読んでいる私たちに問いかけるのです。

「あなたはどうなのか。あなたはイエスを何者だと言うのか」

私たちは仮庵祭での主イエスとユダヤ人とのやりとりを見ています。主イエスは、私は「命のパン」「命の水」「世の光」であると、祭りの中で声を大にしておっしゃいました。

それに対して、エルサレムの人たちはさまざまな反応を示しました。「あの人は良い人だ」と言う人もいれば、「いやあの人は群衆を惑わしている」という人もいました。主イエスのことを信じようした人たちも、主イエスの語られる言葉を聞いて、皆離れていきました。主イエスの謎めいた言葉に、ついていけなかったのです。

今日私たちが読んだところでも、主イエスは謎めいた言葉をおっしゃっている。

「私は去っていく。あなたたちは私を探すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。私の行くところに、あなたたちは来ることができない。」ユダヤ人たちはこれを聞いて、「イエスは自殺でもするのだろうか」と話し合いました。

7:33以下でも主イエスはこうおっしゃっています。

「今しばらく、私はあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、私を探しても、見つけることがない。私のいるところに、あなたたちは来ることができない。」

その時も、ユダヤ人たちは、「私たちが見つけることはない、とは、一体どこへ行くつもりだろう。ギリシャ人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシャ人に教えるとでもいうのか」と主イエスの言葉を理解することはできませんでした。

主イエスの言葉はたしかにわかりにくいかもしれません。一つわかるのは、主イエスが人々の前からいなくなる時が迫っている、ということです。「迫りくる時」とは何の時なのでしょうか。それは主イエスがご自身が「上に」帰って行かれる時、ご自分の十字架と復活の時のことです。

人々は主イエスの死を始めましたが、主イエスの言葉を見ると、ご自分を受け入れない人たちに訪れる死のことをおっしゃっていることがわかります。「世の光」を受け入れないということは神の光の支配、恵みの支配から離れる、ということです。それは罪の闇に陥るということであり、神から離れた命、すなわち死に至る、ということなのです。

今日私たちが読んだところに出てきた人たちを見ればわかります、人間は目の前のことしか見てないのです。自分が見えるもの、自分が理解できるものがすべてであり、自分に入りきらないものは受け入れようとしないのです。

主イエスの十字架の死、そして三日目の復活を体験していない人には確かに難しいでしょう。「ナザレのイエスは一体何者だったのか」・・・そのことを知ろうと思えば、私たちは主イエスの十字架と復活、そして昇天を知らなければなりません。イエス・キリストの十字架と復活なしにキリストを信じるということはできないのです。

目の前だけを見ている人々に、しかしキリストは、世の終わりに心を向けるようおっしゃいます。私たちが世の終わりに心を向け、そこから今を捉えなおした時、私たちは自分の今が天の故郷へと向かう歩みであり、この世は仮住まいであることを知るのです。

私たちは世の終わり立って今の自分を見つめる視点を持たなければなりません。そこから今の自分を見てどうでしょうか。キリストが命をかけて永遠の命・メシアの宴を示してくださったのに対して、自分はそれをどれだけ信じることができているだろうか、と信仰を省みるのではないでしょうか。

使徒パウロは、イエス・キリストのことを、「死を永遠に滅ぼされる方」として手紙の中で書いています。「キリストは、神がすべての敵をキリストの足元に置く時まで、支配することになっている。最後の敵として死が滅ぼされる」1コリ15:26

イエス・キリストが私たちのために用意してくださっている最終的な目的、また最後の目的地は死が滅ぼされた世界、永遠の命なのです。

主イエスは地上のものと天からものとをはっきり分けてお話しなさっています。ユダヤ人たちにこうおっしゃいました。

「あなたがたは下からのものであり、私は上からのものである」。そしてご自分を信じない彼らに向かって「あなたがたは自分たちの罪の内に死ぬであろう」とおっしゃいました。

「死」とは何でしょうか。神から離れた暗闇に留まることです。それは罪の支配、死の支配です。創造主から離れた被造物は、創造主の御手から離れた場所では生きられません。自分が神になるか、自分のために神を作り出すかしかなくなってしまいます。被造物らしさ、人間らしさを失うのです。

主イエスは「わたしはある」ということを知らなければならないとおっしゃいます。「わたしはある」と聞いて思い出すのは、出エジプト記でモーセが神に名前を尋ねる場面でしょう。神はお答えになりました。「わたしはある、わたしはあるというものだ」

神は、共にいてくださる神であることをモーセに示されました。その名が示す通り、40年間の荒野を神は片時もイスラエルから離れず、昼も夜も共にいて約束の地へと導いてくださいました。

そして今、インマヌエル「神我らとともにあり」と呼ばれるメシアがこの世にお生まれになったのです。

人々は、イエス・キリストを前にして、「わたしはある」という方であり、この方を通して神は共にいてくださることを学ぶのです。共にいてくださるインマヌエルの神から離れようとするのであれば、私たちは闇と死の中に生きることになります。そしてそれは、本当の自分らしさを失う、ということなのです。

創造主である神が私たちに望んでいらっしゃるのと反対の生き方をすれば、私たちはどんなにあがいても、破滅へと向かっていきます。だから、キリストは「私のもとに来なさい」と招かれるのです。

キリストは「時が迫っている」ことを繰り返されます。共観福音書に帰ってきた主人の例え話が語られています。旅に出た主人が、突然家に戻ってきて、僕たちを裁く、という話です。任されていた仕事をきちんと果たしていた部下は「よくやった私のよいしもべよ」と褒めてもらえましたが、「主人はもう帰って来ないだろう」と思って任された仕事をしていなかった僕たちは主人から厳しく裁かれることになった、という話だ。これは世の終わりに私たちを待つ裁きを指すたとえ話です。

イエス・キリストはいつでも世の終わりにある裁きに目を向けるようおっしゃいます。しかし、世の終わりというところに人間はなかなか目を向けることができません。今自分の目の前にあることだけを見て、目に見えることだけで判断して生きてしまうのです。

使徒パウロは手紙の中で書いています。「すべての者は自分自身の事柄は熱心に求めるが、イエス・キリストの事柄は熱心に求めはしない。」フィリ2:21

私たちが自分自身のことしか考えないのであれば、この世の歩みの中で失望することになります。肉体の死を間近に見た時、希望を持てなくなるのです。そこで終わりだ、と思うからです。

しかし神が用意してくださっている永遠の命を信じる者にとっては、その肉体の死は終わりではありません。それは絶望ではないのです。その向こうにまでキリストのお姿を見るからです。

信仰者はいつでもキリストの姿を見ようとします。生きている間も、死の向こう側にも。そしてイエスキリストが私たちの肉体の死の向こう側に用意してくださっている永遠の命を見ようとします。キリストと共に囲むメシアの宴を見据えます。

メシアの宴の席で、「よくやった良いしもべよ。あなたは私が与えた地上での時間を私に忠実に生きてくれた。あなたがしたことは小さな種まきだったが必ずその種を私が大きく育てる」とキリストから言っていただけることを信じるのです。

イエス・キリストから託されている賜を一人一人に与えられたこの地上での時間の中で充分に用いて行きたいと思います。 Continue reading

9月15日の礼拝説教

ヨハネ福音書8:12~20

「私は世の光である。私についてくるものは闇の内を歩むことなく、命の光を持つことになる」

主イエスはエルサレムに下り、仮庵祭の中で人々にお教えになりました。これまでも何度か触れてきましたが、仮庵祭は「水と光の祭り」です。イスラエルの先祖が、出エジプトの際荒野で神から水をいただき、神ご自身が火の柱をもって夜寝ずの番をしてくださったことで解放への旅路を歩んだことを思い出す祭りです。

イスラエルは、出エジプトという40年の荒野の旅を通して、自分たちが神によって生かされているということを学びました。そして、荒野で神からいただいた命のパンであるマナを、命の水である岩からの水を、世の光である火の柱・神の守りを忘れないように、祭りを行ってきたのです。

主イエスはご自分の兄弟たちから「祭りに行って、自分の教えを言い広めてはどうか」と提案されました。しかしここで大切なことは、ご自分の意志で、時と方法をお選びになり、そうなさった、ということです。

仮庵祭が一番の盛り上がりを見せる最終日に、立ち上がって大声で叫ばれました。

「誰でも、渇いている者は誰でも私のもとに来て飲みなさい」

仮庵祭では、水汲みの儀式が行われます。その時を選び、主イエスは立ち上がって大声で叫ばれました。人々が自分を生かす命の水に心を向けているまさにその時、ご自分こそが生きた水の源であるということを宣言されたのです。

「渇いている人は、ここに来なさい」というのは、神が預言者を通してイスラエルに呼びかけられた言葉です。預言者イザヤを通して神はおっしゃいました。

「苦しむ人、貧しい人は水を求めても得ず、渇きに舌は干上がる。主である私が彼ら答えよう。イスラエルの神である私は彼らを見捨てない。」41:17

「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。・・・耳を傾けて聞き、私のもとに来るがよい。聞きしたがって、魂に命を得よ」55:1~3

そして同時に、ご自分のことを「私は世の光である」とおっしゃいました。それが今日私たちが読んだところです。

仮庵祭では最初の夜、4つの金のランプが神殿の庭に掲げられ照らされます。人々はそこで夜通し踊って祝います。そのようにしてイスラエルが出エジプトの際、荒野で神の光によって守られていたということに思いをはせるのです。

「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。」 出エジプト記13:21

イスラエルが大切にしてきた「光」とは何でしょうか。現代の我々は、「光」と聞くと電気の明かりを思い浮かべるでしょう。私たちは電気の光の中に生きているので、古代の人たちの見ていた闇の深さ、またその恐ろしさがどれほどのものであったかは想像しにくいと思います。

深い闇の中で与えられた小さなランプの光がどれほど人々に安心をもたらしたか、私たちの想像をこえたものがあったでしょう。ましてや、荒野の夜の闇となると、どんなに普段力があっていばっている人であってもなすすべ無くおびえるしかなかったでしょう。

その闇の中で求める光・その闇の中に与えられる光こそが、聖書が指し示すものなのです。それは、暗いところでものが見えるようになる、という意味での光ではありません。生きる中で感じる闇、道を失い、すべての方向がわからなくなった時に感じる闇の中で与えられる神の導きの光のことです。

人は、光を求めます。出エジプトの際の雲の柱、火の柱を今でも求めます。荒野での導きとは、道なきところに自分が行くべき道が示されるということです。それは、言葉を変えると「救い」です。道を失い、もうそのまま滅びるしかない自分に、また生きる道が与えられる、ということです。イスラエルの先祖は荒野で過ごす夜を、神の火の柱の光によって守られました。信仰者にとって、主なる神自身が光なのです。

詩篇27篇1節「主は私の光、私の救い、私は誰を恐れよう」

神ご自身が光です。そして私たちにとっては、イエス・キリストが光そのものなのです。

キリストは「私は世の光である」とおっしゃいました。つまりそれは、出エジプトによってイスラエルを救われた神ご自身であるということです。遠くからご覧になっていた神ではなく、イスラエルと共に荒野を歩み、守り導き続けられた神です。

聖書は、「光」のことを神の言葉・律法の象徴として伝えています。

「あなたのみ言葉は、私の道の光、私の歩みを照らすともしび」 詩篇119篇105節

イスラエルの人たちは、闇を知っていました。それは、単に太陽が沈んで暗くなった闇のことではなく、神から離れた闇です。罪です。

イスラエルの歴史は、神から離れた歩みの歴史、罪の歴史でした。罪の歩みの中で与えられる本当の救い・光は、神であり、神の言葉なのです。

そして今、イエス・キリストはご自分を「真の世の光」として人々に示されました。

「私に従うものは暗闇の中を歩かない」

そうおっしゃる方が、この世に来てくださったのです。キリストに出会う、キリストを知る、ということはそういうことではないでしょうか。キリストは、後で弟子たちに、「私は道であり真理であり命である」とおっしゃいます。キリストこそ、私たちにとって歩むべき道であり、私たちが求めて進む方向であり、私たちを生かす希望なのです。

イエス・キリストが神殿でご自分のお姿を公に現し、皆に聞こえる言葉でご自身が光であることを示されたことがどれだけ大きな意味をもつことであったか、ということを捉えたいと思います。

イスラエルは出エジプトの荒野を神と共に歩みました。神に導かれて、一歩一歩が守られ、歩みを進めることができました。40年間、神は、昼間は雲の柱としてイスラエルを導き、夜は火の柱として寝ずの番をしてくださったのです。

イスラエルの民は、そこに神を見ながら歩きました。しかし荒野を歩き続けるのはつらいのです。イスラエルは叫びました。

「荒野を歩くよりもエジプトで奴隷として生きるほうがよかった」

我々地上を生きる人間にとって、つらいのは、神のお姿が自分の目には見えない、ということではないでしょうか。目に見えないから、神の存在そのものを疑ったり、辛いことがあれば「神は本当にいらっしゃるのか、神は本当に今の自分をご覧になっているのか」、と不安になって信仰が揺れるのです。

では神のお姿が見えたら、私たちの信仰の不安はすべてなくなるのでしょうか。そうではないでしょう。神のお姿が目の前に見えていたとしても、たとえ昼は雲となり夜は火となって守り導いてくださるのが見えていたとしても、「今よりも過去のほうが良かった」、と思うことがあれば、神に不満をぶつけるのです。出エジプトのイスラエルの民の姿を通して、そのことが示されています。全幅の信頼を寄せて従うことに疑問を持ってしまうのです。

ヨハネ福音書は、イエス・キリストのことをとても象徴的に描き出しています。人を生かす水として、パンとして。そして世を照らす光として描きます。

私たちは今、世の光を知っています。光を知っている、ということは、すべての悩み・迷いが消えてなくなる、ということではありません。

マタイ福音書の山上の説教の中で、主イエスはおっしゃいます。

「あなた方は世の光である。」 Continue reading

9月8日の礼拝説教

ヨハネ福音書7:53~8:11

「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」

ヨハネ福音書には、姦通した女性が主イエスのもとに連れてこられた出来事が記録されています。主イエスのもとに、ファリサイ派の人たちが姦通の現場を押さえられた女性を連れてきて、たくさんの人たちが見ている前で、「律法に書かれているように、この女性を殺すべきか」と質問しました。

この出来事は、もともとはヨハネ福音書には書かれていなかった出来事だろうと言われています。物語の流れとして、この事件は唐突すぎるのです。文脈のつながりもありません。今日読んだところが、カッコでくくられているのはそういういう理由です。

ヨハネ福音書 20章30節には、主イエスがなさったことは「この世の書物には書ききれない」と書かれています。その言葉通り、この姦通を犯した女性のエピソードのような、本当は福音書の中に入れられなかったイエス・キリストの奇跡やしるしや教えたくさんあったのでしょう。

福音書には入れられなかったけれども、このエピソードはとても有名でたくさんの人が知っていたことなので、福音書の中に入れて後世の信仰者に語り伝えよう、ということで、後の時代にヨハネ福音書のここに挿入されたのだろう、と考えられています。

この場面を通して描かれているのは、裁かれているのは実は逮捕された女性ではない、ということです。女性を利用してナザレのイエスを裁こうとしてファリサイ派の人たち本当に神の子を裁くことができるのか、人間は神を裁くことができるのか、ということが問われているのだ。

実際に裁かれたのは、この女性を連れてきた人たちのほうでした。「罪を犯したことがない者からこの女性に石を投げなさい」と言われ、一人、また一人と年長者からその場を去って行きます。結局、罪が明らかにされたのはこの女性を引っ張ってきた人たちだったのです。

そして、女性は主イエスから「私はあなたを罪に定めない」と言われ、許しを得て、また日常に戻っていくことになりました。私たちはこのエピソードから何を学ぶことができるでしょうか。

事件は、神殿の境内で起こりました。朝早く主イエスはそこに行き、人々に教えていらっしゃいました。

主イエスの時代の神殿は、誰がどこまで入れるか、という区別が細かくされていました。祭司の庭というのがあり、その手前にはイスラエルの庭、つまり男性が入れる庭、その外側には婦人の庭、異邦人の庭、という風に、誰がどこまで入れるか、ということが細かく分けられていたのです。

そこにファリサイ派と律法学者たちが姦通の現場で捕えられた女性を連れて来ました。つまり、主イエスは「婦人の庭」でお教えになっていた、ということになります。異邦人でなければ誰でも入れる場所であり、誰でも主イエスの話を聞ける場所でした。男性も女性も、すべてのユダヤ人が大勢いるところに、あえてファリサイ派の人たちは捕えた女性を連れて、さらし者にしたのです。その女性をみんなに見えるところ、「真ん中」に立たせた、と書かれています。

しかし、本当の標的は、ナザレのイエスでした。イエスを大勢のユダヤ人の前で失墜させることが彼らの目的でした。そのための舞台は整いました。

彼らは主イエスに向かって「先生」と呼び掛けます。律法の専門家として意見を聞かせてほしい、というのです。「こういう女は石で撃ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」

女性を辱めつつ、「彼らは主イエスを試して、訴える口実を得るため」にそう言った、と書かれています。よく考えられた罠です。この女性は現場を取り押さえられた、ということなので、姦通の罪は明らかでした。

主イエスには二つの選択肢しかありません。「律法で言われている通り、殺すべきだ」と答えるか、「律法ではそう言っているが、従う必要はない。殺すのはやめなさい」と答えるか。

一つ不思議に思うのは、姦通の現場を取り押さえられたのに、女性の相手の男性は連れてこられていないということです。申命記の律法を見ると、姦淫の罪に関しては、男性も女性も両方裁かれなければならないと書かれています。しかしここには、この女性の相手は連れてこられていないのです。貫通の現場で捕えられたのであれば、男性も一緒に捕えられていたはずです。

男性だけは許されて解放されたということでしょうか。ファリサイ派の人たちが主イエスを陥れるために、その二人の関係を利用したということなのでしょうか。男性を使って女性を陥れ、それを利用してナザレのイエスを陥れようとしたのでしょうか。

ファリサイ派の人たちの裏での工作があったのかどうかは書かれていません。しかし女性一人だけが連れてこられたということは不自然であり、用意周到にナザレのイエスを陥れようとしていた人たちの意図が見え隠れしています。大体、ファリサイ派や律法学者たちは、こんなことを公衆の面前で尋ねる必要などなかったはずです。

今彼らが知ろうとしているのは、「モーセがどう言っているか・律法でどう定められているか」、ではなく、「イエスがそのモーセの律法に従うかどうか」、ということでした。ファリサイ派の人たちにとって、男女の貫通の罪を裁くよりもこの2人を使ってナザレのイエスを陥れることの方が大きな目的だったのです。

主イエスはどうなさったでしょうか。「地面に何かを書き始めた」、と書かれています。何を書き始められたのかは、聖書にははっきり記されていません。

主イエスが「女性に石を投げてはいけない」と言えばモーセの律法・聖書の掟を否定することになります。「石を投げて殺すべきだ」と言えば、ローマの法律ではそのような殺人の罪に問われるので、主イエスは殺人を主導した罪で裁かれることになります。

主イエスが律法を否定すれば神殿で教えることはできなくなります。女性を殺すことを認めれば、人々を救うために来たというご自分の主張が崩れてしまいます。

とてもよく考えられた罠だ。主イエスは「どう思いますか」と尋ねられているのに地面に何かを書き続けておられました。

主イエスは一体何を地面に書いていらっしゃったのでしょうか。想像するしかありませんが、ある人は 出エジプト記23章1節の法廷におけるあり方の律法を書いていたのではないか、と言っています。

「あなたは根拠のないうわさ話を流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない。法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し、判決を曲げてはならない。また、弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない」

これは推測でしかありませんが、確かに、この場面にふさわしい律法の言葉でしょう。地面に書いた文字を通して、ファリサイ派の人たちに、自分たちが犯している過ちに気づかせようとなさったのでしょうか・・・。

ファリサイ派の人たちは、なかなか答えようとしないナザレのイエスに対して、しつこく問い続けました。ついに主イエスは立ち上がってお答えになります。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」

そしてまた、地面に何かを書き続けられました。

「姦通の罪を犯した者に石を投げるべきかどうか」、という問題が、主イエスの一言によって、「誰が罪人に石を投げることができるか・自分は罪のない人間であるかどうか」、という問題になりました。

すると「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って、主イエスと女性だけになった」と書かれています。長く生きてきた人たちから順にその場を立ち去った、ということに、私たちは深く考えさせられるのではないでしょうか。人は生きれば生きるほど、思い出す罪が増えていくでしょう。

一体誰が、手放しで他の人を裁くことができるでしょうか。皆、自分の罪に目を向けないからこそ、他人を裁くのです。

主イエスは女性にお尋ねになりました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」女性は答えます。「主よ、誰も。」

女性は、ナザレのイエスに向かって、「主よ」と呼びかけました。本当に自分を許し、自分を救ってくださったのはこの方であり、この方こそ本当の裁きをなさる方であるということを知ったのです。

主イエスは以前エルサレムでおっしゃったことがあります。

「父は誰をも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。全ての人が、父を敬うように、子を敬うようになるためである」5:22

この方が本当の裁きを行われる方であるということは、この方にこそ本当の許しがあるということです。 Continue reading