MIYAKEJIMA CHURCH

9月29日の礼拝説教

ヨハネ福音書8:31~38

「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

ユダヤ人の仮庵祭は水と光の祭りでした。その最後の日に主イエスはご自分こそ「命の水」であり「世の光」であると明言されました。主イエスがエルサレムで何かをおっしゃるごとに、人々は「イエスとは何者か」ということを議論しました。

今日読んだところの直前、30節を見ると「多くの人々がイエスを信じた」と書かれています。そして今日読んだはじめの所、31節で「イエスはご自分を信じたユダヤ人たちに言われた」と続いています。

その主イエスを信じようとする人たちにおっしゃった言葉は、こういうものでした。「私の言葉に留まるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」主イエスは、誰にでもこうおっしゃったのではありません。ご自分を信じようとする人たちにおっしゃいました。

真理が私たちを自由にする、という言葉には新鮮な驚きを感じるのではないでしょうか。主イエスがおっしゃっている真理とはご自分のことです。信仰とか聖書とかいう言葉に置き換えてもいいでしょう。

普通、

「聖書の教え」とか「律法」とか「信仰」とか聞くと、私たちの生活を縛るもの、制限するもの、という風にとらえられがちです。「宗教的な戒律など、自分の自由を制限するものではないか」、と考えてしまいます。「キリストに従う、またキリストの教えに従うということは、自分らしさを押さえつけなければならないのではないか」と思うのです。

しかし、主イエスは反対のことをおっしゃいます。

「真理はあなたを自由にする」

道を求め、神のもとにある平安を求めている人には大きな希望となる言葉です。

しかし、「自分はすでに自由であり、イエスが言っている自由など必要ない」と考える人にとっては、戸惑いを感じる言葉でした。ユダヤ人たちは主イエスの言葉を聞いて不思議に思いました。「私たちはアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」

彼らは「自分たちは奴隷ではない、自分たちは自由だ」と考えていました。自分たちが何かから解放される必要があるなどということは考えてもいなかったのです。その理由は「自分たちがアブラハムの子孫だから」です。

「アブラハムの子孫である」という自己認識を彼らは強く持っていました。アブラハムの子孫である」ということはすなわち自由であり、何かから解放される必要はないということを意味していました。

ここでまた主イエスとユダヤ人たちの意識が食い違っています。ユダヤ人たちは自分たちは何にも縛られない自由なアブラハムの子孫であると考え、主イエスは彼らは何かに支配されているとご覧になっていました。

確かにユダヤ人たちは奴隷という身分にはなかったかもしれません。特にここに出てくるユダヤ人というのはユダヤ人の指導者たちのことなので社会的には高い地位にある人たちでした。自分たちが何かの奴隷とされているなんて言うことは考えてもいませんでした。

この時代、ユダヤ人はローマ帝国という巨大な帝国の支配下に置かれていたので「外国の支配のうちに生きている」という意味では奴隷と言えるかもしれません。しかしローマ帝国では法によって支配されその法を犯さない限りは平和に暮らすことができたのです。

だから自分たちが主イエスによって自由にされる、主イエスが自分たちを解放してくださるということがよくわかりませんでした。そもそも「私たちは自由だ」と思っていたのです。

主イエスが彼らにおっしゃったのは「罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である」という言葉でした。イエス・キリストはこの世は罪の支配の下にあるとご覧になっていました。この世は罪の奴隷とされている、この世は創造主である神から離れている、とご覧になっていたのです。この世を神の平和の支配の元へと連れ戻すこと、それがメシアの使命であり、主イエスが世に来られた理由でした。

キリストの使徒パウロがローマの信徒の手紙の中でこう書いています。「あなた方は罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るかどちらかなのです」

人は神の奴隷として生きるか罪の奴隷として生きるか・・・言葉を変えると、神と共に生きるか、神から離れて生きるか、どちらかだということです。

多くの人は、神から離れて生きることが自由だと感じます。宗教的な戒律に縛られたら自分の自由がなくなる、と思うでしょう。自分の支配者は自分であるべきであり、自分は誰の支配からも自由でありたい、と考えるでしょう。

しかしよく考えると、神から離れたそこに本当の自由はあるのでしょうか。私たち人間は自分自身を持て余すのです。思うようにならないことばかりです。生活も、人間関係も、気楽に気ままに生きることなどできません。人間は自分の手綱をうまくさばくことすらできない、頼りなく弱いものだと、生きていれば気付いてきます。

人間は自分で自分をどうすることもできないのです。自分ほど思い通りにならないものはありません。自分の欲望や弱さに振り回され簡単に誘惑に負けてしまう、自分の意図しないところで、誰かを気付ける・・・実は自分は罪の奴隷である罪の支配下にあるということに気づいていくのではないでしょうか。

パウロが言っている「神の奴隷」とは何でしょうか。神の恵みの支配のうちに生きるということです。そしてそれがわれわれ人間にとっての本当の自由である、ということです。

「神の奴隷として生きる」と聞くと、なんだか堅苦しくて自分の楽しみを全部脇に置いて苦行を続けないといけないようなイメージを持ってしまいますが、そうではありません。そこに本当の自分らしさがあるのだ。被造物が創造主の愛のもとに生きるというところに私たちの本当の自由と平和があるのです。

では具体的にその自由がどこにあるのでしょうか。イエス・キリストのもとにあるのです。だからキリストははっきりとここで「私の言葉にとどまりなさい。そこに真理がありその真理があなたを自由にする」とおっしゃいます。

主イエスはこの後ご自分のことを葡萄の木に例えて弟子たちにお話しなさいます。「私はぶどうの木、あなたたちはその枝である」「枝が木から離れては実を結ぶことができない」「それと同じようにあなたたちは私と離れては生きて行くことができない」

だから「わたしにつながっていなさい」とおっしゃいます。「聖書をよく勉強しなさい」ではなく、「私につながっていなさい」です。聖書の知識がどれだけたくさんあっても、律法の掟に従う生活を続けても、イエス・キリストにつながっていなければ意味がないのです。

主イエスはここで「私の言葉に留まるならば」とおっしゃっています。この「留まる」という言葉は、「つながっていなさい」というのと同じ言葉です。イエス・キリストにつながっている、というところに私たちの本当の自由があるのです。

なぜ主イエスは繰り返し「私の言葉にとどまりなさい」「私につながっていなさい」とおっしゃっているのでしょうか。イエス・キリストの弟子となるということは一度きりの点で終わる出来事ではないからです。それは一生涯にわたることであり、その一生涯の全ての瞬間において、絶えず主イエスから離れる危機が訪れるからです。

律法を重んじるユダヤ人たちにとって、律法が真理でした。理性と哲学を重んじるギリシャ人たちにとって、理性と哲学が真理でした。そして今、主イエスは、ご自分が真理である、とおっしゃいました。イエス・キリストのもとに、私たちにとって必要なすべての問いと、すべての答えがあるのです。

私たちは今、イエス・キリストのことを知っています。最初に聖書を読んで、「これは自分のための言葉だ」と思った時、喜びがあったでしょう。「キリストは確かに私を愛してくださっている」と思えた時、喜びがあったでしょう。

しかし、その喜びを持ち続ける、ということは簡単なことではないのです。何かあるとすぐに、聖書の言葉を、キリストの愛を疑います。キリストという真理にとどまり続ける、つながりつづけることは簡単ではないのです。

今日読んだところに出て来た、主イエスを信じるようになった人たちも、すぐに主イエスから離れていくことになってしまいます。少し先を読むとこの人たちが主イエスの言葉を聞いて去っていったということが書かれています。

主イエスの言葉を信じ従おうとして結局主イエスの教えをよくよく聞くと立ち去ってしまう・・・これまでと同じなのです。一度は主イエスのことを信じるけれども、結局自分の考えとは異なる主イエスの教えを聞いて、「そんなことなら信じるのをやめよう」、とみんないなくなってしまうのです。

今私たちの周りでも起こっていることです。その中で私たちは問われます。イエス・キリストは、人々がご自身から去っていくのをご覧になりながら、12弟子たちにお尋ねになりました。

「あなたがたも、離れていきたいか」

何かを、また誰かを信じようとするとき、自分に都合よく信じたいと思う私たちにとって、そのキリストからの問いかけは非常に厳しいものです。私たちを真理から引き離そうとする誘惑の力、罪の力は絶え間なく私たちを襲うのです。キリストに出会った喜びも、聖書の真理に感動した嬉しさも、時間が経って新鮮さが薄れていく中で、この世の一瞬の快楽の誘惑が常に私たちにささやいてきます。

だからこそ、私たちには聖書の言葉が必要なのです。パウロは、イスラエルが歴史の中で犯した様々な過ちによって滅んでしまった体験を、「これらの出来事は、私たちを戒める前例として起こったのです」と書いています。罪の働きを、人間の弱さを、聖書は教え、私たちの信仰に警鐘を鳴らすのだ。 Continue reading

9月22日の礼拝説教

ヨハネ福音書8:21~30

「だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」

2000年前、一人のユダヤ人の若者がガリラヤとユダヤで神の国の到来を宣言し、教えを残し、奇跡の業を行いました。そしてその人生は、十字架による死で終わりました。その十字架の後、「ナザレのイエスとは一体何者だったのか」ということが大きな謎として人々の間に残されました。イエスの墓が空になり、たくさんの人たちが、「復活したイエスに出会った」と証言したからです。

あのイエスという人は何者だったのか・・・ヨハネによる福音書は、冒頭の一章でそのことを記しています。「神の言」「命」「光」「栄光」「恵み」「真理」と、様々な言葉で表現しています。そして「父の懐にいる独り子である神、この方が神を示された」と記すのです。

ヨハネ福音書は冒頭で、世に来られた神に対して人々がどのように向き合ったか、ということを書いています。「暗闇は光を理解しなかった」「世は言を認めなかった」「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」

「この地上に来られた神を、人間は受け入れなかった」ことを、そして「どのように人間が神の子を排斥したのか」ということを福音書は全体を通して描くのです。今この福音書を読んでいる私たちに問いかけるのです。

「あなたはどうなのか。あなたはイエスを何者だと言うのか」

私たちは仮庵祭での主イエスとユダヤ人とのやりとりを見ています。主イエスは、私は「命のパン」「命の水」「世の光」であると、祭りの中で声を大にしておっしゃいました。

それに対して、エルサレムの人たちはさまざまな反応を示しました。「あの人は良い人だ」と言う人もいれば、「いやあの人は群衆を惑わしている」という人もいました。主イエスのことを信じようした人たちも、主イエスの語られる言葉を聞いて、皆離れていきました。主イエスの謎めいた言葉に、ついていけなかったのです。

今日私たちが読んだところでも、主イエスは謎めいた言葉をおっしゃっている。

「私は去っていく。あなたたちは私を探すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。私の行くところに、あなたたちは来ることができない。」ユダヤ人たちはこれを聞いて、「イエスは自殺でもするのだろうか」と話し合いました。

7:33以下でも主イエスはこうおっしゃっています。

「今しばらく、私はあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、私を探しても、見つけることがない。私のいるところに、あなたたちは来ることができない。」

その時も、ユダヤ人たちは、「私たちが見つけることはない、とは、一体どこへ行くつもりだろう。ギリシャ人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシャ人に教えるとでもいうのか」と主イエスの言葉を理解することはできませんでした。

主イエスの言葉はたしかにわかりにくいかもしれません。一つわかるのは、主イエスが人々の前からいなくなる時が迫っている、ということです。「迫りくる時」とは何の時なのでしょうか。それは主イエスがご自身が「上に」帰って行かれる時、ご自分の十字架と復活の時のことです。

人々は主イエスの死を始めましたが、主イエスの言葉を見ると、ご自分を受け入れない人たちに訪れる死のことをおっしゃっていることがわかります。「世の光」を受け入れないということは神の光の支配、恵みの支配から離れる、ということです。それは罪の闇に陥るということであり、神から離れた命、すなわち死に至る、ということなのです。

今日私たちが読んだところに出てきた人たちを見ればわかります、人間は目の前のことしか見てないのです。自分が見えるもの、自分が理解できるものがすべてであり、自分に入りきらないものは受け入れようとしないのです。

主イエスの十字架の死、そして三日目の復活を体験していない人には確かに難しいでしょう。「ナザレのイエスは一体何者だったのか」・・・そのことを知ろうと思えば、私たちは主イエスの十字架と復活、そして昇天を知らなければなりません。イエス・キリストの十字架と復活なしにキリストを信じるということはできないのです。

目の前だけを見ている人々に、しかしキリストは、世の終わりに心を向けるようおっしゃいます。私たちが世の終わりに心を向け、そこから今を捉えなおした時、私たちは自分の今が天の故郷へと向かう歩みであり、この世は仮住まいであることを知るのです。

私たちは世の終わり立って今の自分を見つめる視点を持たなければなりません。そこから今の自分を見てどうでしょうか。キリストが命をかけて永遠の命・メシアの宴を示してくださったのに対して、自分はそれをどれだけ信じることができているだろうか、と信仰を省みるのではないでしょうか。

使徒パウロは、イエス・キリストのことを、「死を永遠に滅ぼされる方」として手紙の中で書いています。「キリストは、神がすべての敵をキリストの足元に置く時まで、支配することになっている。最後の敵として死が滅ぼされる」1コリ15:26

イエス・キリストが私たちのために用意してくださっている最終的な目的、また最後の目的地は死が滅ぼされた世界、永遠の命なのです。

主イエスは地上のものと天からものとをはっきり分けてお話しなさっています。ユダヤ人たちにこうおっしゃいました。

「あなたがたは下からのものであり、私は上からのものである」。そしてご自分を信じない彼らに向かって「あなたがたは自分たちの罪の内に死ぬであろう」とおっしゃいました。

「死」とは何でしょうか。神から離れた暗闇に留まることです。それは罪の支配、死の支配です。創造主から離れた被造物は、創造主の御手から離れた場所では生きられません。自分が神になるか、自分のために神を作り出すかしかなくなってしまいます。被造物らしさ、人間らしさを失うのです。

主イエスは「わたしはある」ということを知らなければならないとおっしゃいます。「わたしはある」と聞いて思い出すのは、出エジプト記でモーセが神に名前を尋ねる場面でしょう。神はお答えになりました。「わたしはある、わたしはあるというものだ」

神は、共にいてくださる神であることをモーセに示されました。その名が示す通り、40年間の荒野を神は片時もイスラエルから離れず、昼も夜も共にいて約束の地へと導いてくださいました。

そして今、インマヌエル「神我らとともにあり」と呼ばれるメシアがこの世にお生まれになったのです。

人々は、イエス・キリストを前にして、「わたしはある」という方であり、この方を通して神は共にいてくださることを学ぶのです。共にいてくださるインマヌエルの神から離れようとするのであれば、私たちは闇と死の中に生きることになります。そしてそれは、本当の自分らしさを失う、ということなのです。

創造主である神が私たちに望んでいらっしゃるのと反対の生き方をすれば、私たちはどんなにあがいても、破滅へと向かっていきます。だから、キリストは「私のもとに来なさい」と招かれるのです。

キリストは「時が迫っている」ことを繰り返されます。共観福音書に帰ってきた主人の例え話が語られています。旅に出た主人が、突然家に戻ってきて、僕たちを裁く、という話です。任されていた仕事をきちんと果たしていた部下は「よくやった私のよいしもべよ」と褒めてもらえましたが、「主人はもう帰って来ないだろう」と思って任された仕事をしていなかった僕たちは主人から厳しく裁かれることになった、という話だ。これは世の終わりに私たちを待つ裁きを指すたとえ話です。

イエス・キリストはいつでも世の終わりにある裁きに目を向けるようおっしゃいます。しかし、世の終わりというところに人間はなかなか目を向けることができません。今自分の目の前にあることだけを見て、目に見えることだけで判断して生きてしまうのです。

使徒パウロは手紙の中で書いています。「すべての者は自分自身の事柄は熱心に求めるが、イエス・キリストの事柄は熱心に求めはしない。」フィリ2:21

私たちが自分自身のことしか考えないのであれば、この世の歩みの中で失望することになります。肉体の死を間近に見た時、希望を持てなくなるのです。そこで終わりだ、と思うからです。

しかし神が用意してくださっている永遠の命を信じる者にとっては、その肉体の死は終わりではありません。それは絶望ではないのです。その向こうにまでキリストのお姿を見るからです。

信仰者はいつでもキリストの姿を見ようとします。生きている間も、死の向こう側にも。そしてイエスキリストが私たちの肉体の死の向こう側に用意してくださっている永遠の命を見ようとします。キリストと共に囲むメシアの宴を見据えます。

メシアの宴の席で、「よくやった良いしもべよ。あなたは私が与えた地上での時間を私に忠実に生きてくれた。あなたがしたことは小さな種まきだったが必ずその種を私が大きく育てる」とキリストから言っていただけることを信じるのです。

イエス・キリストから託されている賜を一人一人に与えられたこの地上での時間の中で充分に用いて行きたいと思います。 Continue reading

9月15日の礼拝説教

ヨハネ福音書8:12~20

「私は世の光である。私についてくるものは闇の内を歩むことなく、命の光を持つことになる」

主イエスはエルサレムに下り、仮庵祭の中で人々にお教えになりました。これまでも何度か触れてきましたが、仮庵祭は「水と光の祭り」です。イスラエルの先祖が、出エジプトの際荒野で神から水をいただき、神ご自身が火の柱をもって夜寝ずの番をしてくださったことで解放への旅路を歩んだことを思い出す祭りです。

イスラエルは、出エジプトという40年の荒野の旅を通して、自分たちが神によって生かされているということを学びました。そして、荒野で神からいただいた命のパンであるマナを、命の水である岩からの水を、世の光である火の柱・神の守りを忘れないように、祭りを行ってきたのです。

主イエスはご自分の兄弟たちから「祭りに行って、自分の教えを言い広めてはどうか」と提案されました。しかしここで大切なことは、ご自分の意志で、時と方法をお選びになり、そうなさった、ということです。

仮庵祭が一番の盛り上がりを見せる最終日に、立ち上がって大声で叫ばれました。

「誰でも、渇いている者は誰でも私のもとに来て飲みなさい」

仮庵祭では、水汲みの儀式が行われます。その時を選び、主イエスは立ち上がって大声で叫ばれました。人々が自分を生かす命の水に心を向けているまさにその時、ご自分こそが生きた水の源であるということを宣言されたのです。

「渇いている人は、ここに来なさい」というのは、神が預言者を通してイスラエルに呼びかけられた言葉です。預言者イザヤを通して神はおっしゃいました。

「苦しむ人、貧しい人は水を求めても得ず、渇きに舌は干上がる。主である私が彼ら答えよう。イスラエルの神である私は彼らを見捨てない。」41:17

「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。・・・耳を傾けて聞き、私のもとに来るがよい。聞きしたがって、魂に命を得よ」55:1~3

そして同時に、ご自分のことを「私は世の光である」とおっしゃいました。それが今日私たちが読んだところです。

仮庵祭では最初の夜、4つの金のランプが神殿の庭に掲げられ照らされます。人々はそこで夜通し踊って祝います。そのようにしてイスラエルが出エジプトの際、荒野で神の光によって守られていたということに思いをはせるのです。

「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。」 出エジプト記13:21

イスラエルが大切にしてきた「光」とは何でしょうか。現代の我々は、「光」と聞くと電気の明かりを思い浮かべるでしょう。私たちは電気の光の中に生きているので、古代の人たちの見ていた闇の深さ、またその恐ろしさがどれほどのものであったかは想像しにくいと思います。

深い闇の中で与えられた小さなランプの光がどれほど人々に安心をもたらしたか、私たちの想像をこえたものがあったでしょう。ましてや、荒野の夜の闇となると、どんなに普段力があっていばっている人であってもなすすべ無くおびえるしかなかったでしょう。

その闇の中で求める光・その闇の中に与えられる光こそが、聖書が指し示すものなのです。それは、暗いところでものが見えるようになる、という意味での光ではありません。生きる中で感じる闇、道を失い、すべての方向がわからなくなった時に感じる闇の中で与えられる神の導きの光のことです。

人は、光を求めます。出エジプトの際の雲の柱、火の柱を今でも求めます。荒野での導きとは、道なきところに自分が行くべき道が示されるということです。それは、言葉を変えると「救い」です。道を失い、もうそのまま滅びるしかない自分に、また生きる道が与えられる、ということです。イスラエルの先祖は荒野で過ごす夜を、神の火の柱の光によって守られました。信仰者にとって、主なる神自身が光なのです。

詩篇27篇1節「主は私の光、私の救い、私は誰を恐れよう」

神ご自身が光です。そして私たちにとっては、イエス・キリストが光そのものなのです。

キリストは「私は世の光である」とおっしゃいました。つまりそれは、出エジプトによってイスラエルを救われた神ご自身であるということです。遠くからご覧になっていた神ではなく、イスラエルと共に荒野を歩み、守り導き続けられた神です。

聖書は、「光」のことを神の言葉・律法の象徴として伝えています。

「あなたのみ言葉は、私の道の光、私の歩みを照らすともしび」 詩篇119篇105節

イスラエルの人たちは、闇を知っていました。それは、単に太陽が沈んで暗くなった闇のことではなく、神から離れた闇です。罪です。

イスラエルの歴史は、神から離れた歩みの歴史、罪の歴史でした。罪の歩みの中で与えられる本当の救い・光は、神であり、神の言葉なのです。

そして今、イエス・キリストはご自分を「真の世の光」として人々に示されました。

「私に従うものは暗闇の中を歩かない」

そうおっしゃる方が、この世に来てくださったのです。キリストに出会う、キリストを知る、ということはそういうことではないでしょうか。キリストは、後で弟子たちに、「私は道であり真理であり命である」とおっしゃいます。キリストこそ、私たちにとって歩むべき道であり、私たちが求めて進む方向であり、私たちを生かす希望なのです。

イエス・キリストが神殿でご自分のお姿を公に現し、皆に聞こえる言葉でご自身が光であることを示されたことがどれだけ大きな意味をもつことであったか、ということを捉えたいと思います。

イスラエルは出エジプトの荒野を神と共に歩みました。神に導かれて、一歩一歩が守られ、歩みを進めることができました。40年間、神は、昼間は雲の柱としてイスラエルを導き、夜は火の柱として寝ずの番をしてくださったのです。

イスラエルの民は、そこに神を見ながら歩きました。しかし荒野を歩き続けるのはつらいのです。イスラエルは叫びました。

「荒野を歩くよりもエジプトで奴隷として生きるほうがよかった」

我々地上を生きる人間にとって、つらいのは、神のお姿が自分の目には見えない、ということではないでしょうか。目に見えないから、神の存在そのものを疑ったり、辛いことがあれば「神は本当にいらっしゃるのか、神は本当に今の自分をご覧になっているのか」、と不安になって信仰が揺れるのです。

では神のお姿が見えたら、私たちの信仰の不安はすべてなくなるのでしょうか。そうではないでしょう。神のお姿が目の前に見えていたとしても、たとえ昼は雲となり夜は火となって守り導いてくださるのが見えていたとしても、「今よりも過去のほうが良かった」、と思うことがあれば、神に不満をぶつけるのです。出エジプトのイスラエルの民の姿を通して、そのことが示されています。全幅の信頼を寄せて従うことに疑問を持ってしまうのです。

ヨハネ福音書は、イエス・キリストのことをとても象徴的に描き出しています。人を生かす水として、パンとして。そして世を照らす光として描きます。

私たちは今、世の光を知っています。光を知っている、ということは、すべての悩み・迷いが消えてなくなる、ということではありません。

マタイ福音書の山上の説教の中で、主イエスはおっしゃいます。

「あなた方は世の光である。」 Continue reading

9月8日の礼拝説教

ヨハネ福音書7:53~8:11

「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」

ヨハネ福音書には、姦通した女性が主イエスのもとに連れてこられた出来事が記録されています。主イエスのもとに、ファリサイ派の人たちが姦通の現場を押さえられた女性を連れてきて、たくさんの人たちが見ている前で、「律法に書かれているように、この女性を殺すべきか」と質問しました。

この出来事は、もともとはヨハネ福音書には書かれていなかった出来事だろうと言われています。物語の流れとして、この事件は唐突すぎるのです。文脈のつながりもありません。今日読んだところが、カッコでくくられているのはそういういう理由です。

ヨハネ福音書 20章30節には、主イエスがなさったことは「この世の書物には書ききれない」と書かれています。その言葉通り、この姦通を犯した女性のエピソードのような、本当は福音書の中に入れられなかったイエス・キリストの奇跡やしるしや教えたくさんあったのでしょう。

福音書には入れられなかったけれども、このエピソードはとても有名でたくさんの人が知っていたことなので、福音書の中に入れて後世の信仰者に語り伝えよう、ということで、後の時代にヨハネ福音書のここに挿入されたのだろう、と考えられています。

この場面を通して描かれているのは、裁かれているのは実は逮捕された女性ではない、ということです。女性を利用してナザレのイエスを裁こうとしてファリサイ派の人たち本当に神の子を裁くことができるのか、人間は神を裁くことができるのか、ということが問われているのだ。

実際に裁かれたのは、この女性を連れてきた人たちのほうでした。「罪を犯したことがない者からこの女性に石を投げなさい」と言われ、一人、また一人と年長者からその場を去って行きます。結局、罪が明らかにされたのはこの女性を引っ張ってきた人たちだったのです。

そして、女性は主イエスから「私はあなたを罪に定めない」と言われ、許しを得て、また日常に戻っていくことになりました。私たちはこのエピソードから何を学ぶことができるでしょうか。

事件は、神殿の境内で起こりました。朝早く主イエスはそこに行き、人々に教えていらっしゃいました。

主イエスの時代の神殿は、誰がどこまで入れるか、という区別が細かくされていました。祭司の庭というのがあり、その手前にはイスラエルの庭、つまり男性が入れる庭、その外側には婦人の庭、異邦人の庭、という風に、誰がどこまで入れるか、ということが細かく分けられていたのです。

そこにファリサイ派と律法学者たちが姦通の現場で捕えられた女性を連れて来ました。つまり、主イエスは「婦人の庭」でお教えになっていた、ということになります。異邦人でなければ誰でも入れる場所であり、誰でも主イエスの話を聞ける場所でした。男性も女性も、すべてのユダヤ人が大勢いるところに、あえてファリサイ派の人たちは捕えた女性を連れて、さらし者にしたのです。その女性をみんなに見えるところ、「真ん中」に立たせた、と書かれています。

しかし、本当の標的は、ナザレのイエスでした。イエスを大勢のユダヤ人の前で失墜させることが彼らの目的でした。そのための舞台は整いました。

彼らは主イエスに向かって「先生」と呼び掛けます。律法の専門家として意見を聞かせてほしい、というのです。「こういう女は石で撃ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」

女性を辱めつつ、「彼らは主イエスを試して、訴える口実を得るため」にそう言った、と書かれています。よく考えられた罠です。この女性は現場を取り押さえられた、ということなので、姦通の罪は明らかでした。

主イエスには二つの選択肢しかありません。「律法で言われている通り、殺すべきだ」と答えるか、「律法ではそう言っているが、従う必要はない。殺すのはやめなさい」と答えるか。

一つ不思議に思うのは、姦通の現場を取り押さえられたのに、女性の相手の男性は連れてこられていないということです。申命記の律法を見ると、姦淫の罪に関しては、男性も女性も両方裁かれなければならないと書かれています。しかしここには、この女性の相手は連れてこられていないのです。貫通の現場で捕えられたのであれば、男性も一緒に捕えられていたはずです。

男性だけは許されて解放されたということでしょうか。ファリサイ派の人たちが主イエスを陥れるために、その二人の関係を利用したということなのでしょうか。男性を使って女性を陥れ、それを利用してナザレのイエスを陥れようとしたのでしょうか。

ファリサイ派の人たちの裏での工作があったのかどうかは書かれていません。しかし女性一人だけが連れてこられたということは不自然であり、用意周到にナザレのイエスを陥れようとしていた人たちの意図が見え隠れしています。大体、ファリサイ派や律法学者たちは、こんなことを公衆の面前で尋ねる必要などなかったはずです。

今彼らが知ろうとしているのは、「モーセがどう言っているか・律法でどう定められているか」、ではなく、「イエスがそのモーセの律法に従うかどうか」、ということでした。ファリサイ派の人たちにとって、男女の貫通の罪を裁くよりもこの2人を使ってナザレのイエスを陥れることの方が大きな目的だったのです。

主イエスはどうなさったでしょうか。「地面に何かを書き始めた」、と書かれています。何を書き始められたのかは、聖書にははっきり記されていません。

主イエスが「女性に石を投げてはいけない」と言えばモーセの律法・聖書の掟を否定することになります。「石を投げて殺すべきだ」と言えば、ローマの法律ではそのような殺人の罪に問われるので、主イエスは殺人を主導した罪で裁かれることになります。

主イエスが律法を否定すれば神殿で教えることはできなくなります。女性を殺すことを認めれば、人々を救うために来たというご自分の主張が崩れてしまいます。

とてもよく考えられた罠だ。主イエスは「どう思いますか」と尋ねられているのに地面に何かを書き続けておられました。

主イエスは一体何を地面に書いていらっしゃったのでしょうか。想像するしかありませんが、ある人は 出エジプト記23章1節の法廷におけるあり方の律法を書いていたのではないか、と言っています。

「あなたは根拠のないうわさ話を流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない。法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し、判決を曲げてはならない。また、弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない」

これは推測でしかありませんが、確かに、この場面にふさわしい律法の言葉でしょう。地面に書いた文字を通して、ファリサイ派の人たちに、自分たちが犯している過ちに気づかせようとなさったのでしょうか・・・。

ファリサイ派の人たちは、なかなか答えようとしないナザレのイエスに対して、しつこく問い続けました。ついに主イエスは立ち上がってお答えになります。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」

そしてまた、地面に何かを書き続けられました。

「姦通の罪を犯した者に石を投げるべきかどうか」、という問題が、主イエスの一言によって、「誰が罪人に石を投げることができるか・自分は罪のない人間であるかどうか」、という問題になりました。

すると「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って、主イエスと女性だけになった」と書かれています。長く生きてきた人たちから順にその場を立ち去った、ということに、私たちは深く考えさせられるのではないでしょうか。人は生きれば生きるほど、思い出す罪が増えていくでしょう。

一体誰が、手放しで他の人を裁くことができるでしょうか。皆、自分の罪に目を向けないからこそ、他人を裁くのです。

主イエスは女性にお尋ねになりました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」女性は答えます。「主よ、誰も。」

女性は、ナザレのイエスに向かって、「主よ」と呼びかけました。本当に自分を許し、自分を救ってくださったのはこの方であり、この方こそ本当の裁きをなさる方であるということを知ったのです。

主イエスは以前エルサレムでおっしゃったことがあります。

「父は誰をも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。全ての人が、父を敬うように、子を敬うようになるためである」5:22

この方が本当の裁きを行われる方であるということは、この方にこそ本当の許しがあるということです。 Continue reading

9月1日の礼拝説教

ヨハネ福音書7:40~52

「下役たちは祭司長たちとファリサイ派の人々のところに戻ってきた」

ナザレのイエスとは何者なのか・・・これが、主イエスを見た人たちが問われたことでした。そしてこの謎は、主イエスの十字架の後にも残されることになります。ゴルゴタの丘で十字架にかけられ処刑されたイエスは、一体何者だったのか?主イエスの死後何世紀も議論され、今でも、すべての人が問われていることです。

「2000年前に、十字架で殺されたイエスという青年は、あなたにとってどういう存在なのか。」聖書は、この世のすべの人に問いかけているのです。

主イエスは仮庵の祭りの中で、ご自分のことを命のパン、命の水であると大声で人々に叫ばれました。ご自分のことを安息日やこの祭りを超えた存在であること示されたことで、人々は様々な反応を示します。エルサレムの群衆の中には「この人は本当にあの預言者だ」という人、「この人はメシアだ」という人たちが出てきました。

、主イエスを信じる人もいた一方で、「メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」と言って、信じない人たちもいました。特に、ユダヤ人の指導者たち、聖書の言葉に精通している人たちは、主イエスがガリラヤ地方のナザレ出身であることを理由に、メシアであることを否定しました。

「メシアは誰も知らないところから、誰にも知られずに来る」と考えられていました。ナザレのイエスは神からの預言者またメシアのようにも思えても、自分たちが伝え聞いてきたメシアの条件に当て嵌まらない、ということでエルサレムの人々は困惑しました。イエスがガリラヤ出身でヨセフとマリアの子であるということを皆知っていたからです。

確かに、旧約の預言者たちは、メシアがどこから来るのか、ということを様々に預言しています。預言書ミカ書ではメシアはベツレヘムから来ると預言されています。イザヤ書にも、「異邦人のガリラヤに光が差し込む」と預言されています。しかし、それらは地上的な意味においての出身地のことでした。

預言者たちがそもそも伝えてきたのは、「天にいらっしゃる神ご自身がやがてメシアとして地上に来られる」、ということでした。そしてこのヨハネ福音書でもイエスが天の父のもとから送られた方であると証されています。主イエスご自身が何度も「天の父が私をおつかわしになった」とおっしゃるのです。

「イエスは何者なのか」ということで人々は議論し、分裂していきました。ナザレのイエスは律法の破壊者なのか、神の権威を持ったメシアであるのか。ユダヤ人の信仰を惑わせて神の礼拝から人々を引き離そうとしているのか、それとも、律法の言葉、預言の言葉を実現させようとしているのか。ガリラヤのナザレ出身の大工なのか、神から遣わされた、天の力と権能を持った方なのか。

人々の困惑の中、主イエスを逮捕しに行った下役たちは、手ぶらで戻ってきました。遣わしたファリサイ派の人たちは、「どうしてあの男を連れてこなかったのか」と驚きました。

下役たちの答えはこうでした。

「今まで、あの人のように話した人はいません」

下役たちも、主イエスの教えを聞いたのです。そしてイエスがメシアであるということを否定することができなくなったのです。ユダヤの指導者たちでさえ、主イエスの教えを聞いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と驚いたぐらいなので当然彼らも感銘を受けました。

「もしナザレのイエスがキリストだったとしたら・・・自分たちはメシアを捕えようとしているのではないか」、と下役たちは恐ろしくなったのです。報告を聞いたファリサイ派の人たちは怒りました。

彼らは、自分たちの律法理解と違う人たちはすべて間違っているという考えを持っていました。自分たちこそ聖書を、律法を正しく解釈しているという自信があったのです。ファリサイ派の人たちは、律法に詳しくない一般の人たちのことを見下して、「律法を知らない群衆は呪われている」とまで言っています。

このような彼らの姿勢が、天から来られた神の子を十字架へと上げることになっていきます。私たちは考えたいと思います。「自分の理解と違う人たちは、間違っている」、という極端な考えは、実は誰もが陥ってしまう信仰の罠ではないでしょうか。

使徒パウロがそうでした。まだサウロと呼ばれていた頃、キリスト者を迫害しました。自分が学んできた聖書の理解と異なる人たちを牢に送り込む活動をしていたのです。パウロは迫害に熱心でした。それは「自分が正しい」「自分がやっていることは神のみ旨にかなっている」、と信じ切っていたからです。

パウロは手紙の中でこう書いています。

「私は生まれて八日目にイスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした」

ファリサイ派の一員であったパウロは自分が非の打ちどころのない正しさを持っていることを確信して、迫害していたのです。

今、主イエスを全く受け入れようとしないファリサイ派の人たちは、パウロがサウロであった時と同じ熱心さで否定しています。自分の信仰が正しくて他の人たちの信仰は間違っている、という姿勢を貫くことで、皮肉にもファリサイ派の人たちが一番神のメシアの姿が一番見えなくなっているのです。

自分こそ一番神の御心に近いところにいると思っているのにと、実は一番遠いところにいた、ということは、笑い話のようなことですが、実は信仰者が簡単に陥る罠ではないでしょうか。

そのことを本当に教えられるのは、キリストとの出会いです。パウロは復活のイエス・キリストから「なぜ私を迫害するのか」と声をかけられ、自分がやっていることが神の御心に反していることを知りました。

パウロは言います。

「私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵芥と見なしています。」

私たちも、同じことが言えるでしょう。自分の力で得て来たもの、勝ち取ってきたものが、キリストとの出会いのすばらしさには叶わない、と思わされる瞬間があるはずです。それこそが人を新しくするのです。

ファリサイ派の人たちは、「議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか」と言いました。その言葉を受けて、ニコデモという人が発言しました。

「私たちの律法によれば、まず本人から事情を聴き、何をしたかを確かめた上でなければ、判決を下してはならないということになっているではないか」

この人は三章に出てきたイスラエルの教師です。ニコデモもファリサイ派の一員だったのです。自分の仲間たちが、主イエスのことを何も聞こうとも知ろうともせずに有罪にしようとしていたことをおかしく思ったのです。

しかしニコデモの仲間たちは聞く耳を持ちませんでした。

「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことがわかる。」

イエスがどんな教えを説いているのか、どんなしるしをおこなっているのか、ではなく、イエスがガリラヤ出身だからメシアではないのだ、と言い切っています。彼らが主イエスを否定するのは、ガリラヤ出身であるという、ただそれだけのことでした。

イザヤ書の預言に「異邦人のガリラヤ」という言葉があります。それほど、ユダヤ地方の人たちから見てガリラヤ地方というのは中央から遠い場所だったのです。エルサレムの人たちからすれば、むしろ外国に近い、国の端っこ、という意識があったのでしょう。

そのような言い方をされたら、ニコデモも黙るしかなかったのでしょう。しかしニコデモの中に一つの大きな疑問が残りました。律法に反しているのは、神の御心に反しているのは、ファリサイ派なのか、ナザレのイエスなのか。

ニコデモが他のファリサイ派の人たちと違うのは、一度主イエスに会い、時間をかけて言葉を交わしたことがあるということです。3章にその時のことが書かれています。

ニコデモは夜、誰にも知られないように、ひそかに主イエスのもとを訪ねた。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われたニコデモは、「どうしてそんなことがありましょうか」と主イエスに向かって繰り返しました。主イエスが何をおっしゃっているのか、わからなかったのです。

あの夜以来、ニコデモは主イエスがおっしゃった言葉を自分の中で繰り返し思い出し、吟味してきたでしょう。「あの方は私に何を伝えようとなさったのか。」 Continue reading

8月25日の礼拝説教

ヨハネ福音書7:32~39

「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい。」

イエスは仮庵祭りの最中、エルサレム神殿の境内で人々にお教えになりました。人々は主イエスの教えに対して、そして主イエスご自身に対して、様々な反応を示します。

7:30~31を見ると、「人々はイエスを捕えようとしたが、手をかける者はいなかった」「群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、『メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか』と言った」と書かれています。主イエスを逮捕しようとする人たちもいたし、信じようとする人たちもいたのです。

ファリサイ派の人たちはこのような群衆のささやきを聞いて、ナザレのイエスのことをメシアとして認め始めている人たちが多くいることを知り、危機感を覚えました。そして祭司長たちと一緒に、ナザレのイエスを捕えるための下役たちを遣わしました。

私たちはまず、ファリサイ派と祭司長たちが「一緒に」そうした、ということに注目したいと思います。ファリサイ派と祭司長たちは、共にユダヤの最高法院の構成員でしたが、親密な仲間同士ではありませんでした。派閥が違うし、身分が違うのです。

ファリサイ派は、集会所の礼拝で律法を学ぶことに重きを置き、生活の中で律法の掟を実践することを大切にしていました。祭司長たちは神殿で活動し、生贄を捧げる儀式に責任を持っていました。律法や神殿のとらえ方や教えの重点が異なっていたので、普段から親密な関係にあった、ということはなかったでしょう。

祭司長たちは神殿の秩序を乱す者として、ファリサイ派の人たちは律法の教えを冒涜する者として、ナザレのイエスの存在に危機感を抱き、共通の敵と見なして手を組んで捕えようとしたのです。

人は、普段は仲が良くなくても、共通の敵を見つけると仲良くなれてしまいます。キリストを前にしたユダヤ人たちがそうでした。ナザレのイエスを殺すために、派閥を超えて一致していきました。そして最高法院にいるファリサイ派、サドカイ派、祭司長たちは、派閥を超えて一致して、イエスに有罪を宣告することになります。

これは、歴史の中で繰り返されてきたことでもあります。ユダヤ人たちだけのことではなく、嘆かわしいことですが、キリスト教会の歴史の中でもそういうことがありました。また今の私たちの世界においてもそうでしょう。普段は敵対するもの同士が、自分たちの立場を脅かす新しい動きに対して、一緒に対応できるようになるのです。

しかし人間の歴史を振り返ると、そのような人間の愚かさの中にあっても神の御業は行われていったことを思わされるのではないでしょうか。

主イエスの十字架の後、イエスをメシアと認めないユダヤ人と、主イエスこそキリストであったと信じるユダヤ人に分かれることになります。キリスト教会を迫害するユダヤ人と、キリスト者として迫害されるユダヤ人に分かれました。

そのような中で迫害者の中からサウロが主イエスによって召され、使徒パウロとしてキリスト教会のために大きな働きを残すことになりました。キリストの迫害者の中から新たなキリスト者が召されてくるというのは、不思議なことではないでしょうか。不思議な仕方で神はご自分の御心をこの歴史の中に実現されていくのです。

主イエスのもとに祭司長たちの下役が遣わされましたが、主イエスはこうおっしゃいました。

「今しばらく、私はあなたたちと共にいる。それから、自分をおつかわしになった方の元へ帰る。あなたたちは、私を探しても、見つけることがない」

謎めいた言葉です。

これを聞いた人たちは、主イエスがユダヤから出て行って、地中海全域に離散して住んでいるユダヤ人たちのところに行き、ギリシャ世界に活動の場を移して自分の教えを広めようとしているのではないか、と考えました。それだったら、彼らが主イエスについていくことができない、という理由がわかります。

しかし、主イエスはそんなことをおっしゃったのではありませんでした。主イエスの言葉を地上的な意味でしか捉えようとしない人々には、本当の意味は分からなかったのです。

ヨハネ福音書は、主イエスがすべてのことにおいて、ご自分で時と場所をお選びになるということを強調しています。あれほど目立つことを嫌っていらっしゃった主イエスが、仮庵際の真ん中で神殿の境内に立ち、人々にお教えになりました。そして今、 主イエスは自分をお遣わしになった方のもとに戻るまで「今しばらくの時間がある」とおっしいます。

これはご自分の十字架と復活のことです。主イエスがおっしゃる「私の時」であり「栄光の時」のことです。

この秋の収穫祭から、次の春の過ぎ越しの祭りまでの6ヶ月間、主イエスはエルサレムに滞在なさることになります。それが、「今しばらく、私はあなたたちと共にいる」とおっしゃっている意味です。キリストはその過越祭において十字架で死に、ご自分を遣わされた天の父のもとに帰って行かれることになります。

主イエスの地上での時間が少なくなっていく中、残された時間で本当に大切なことは何でしょうか。イエス・キリストを求めることです。ユダヤ人たちに与えられたこの時は、「ナザレのイエスを逮捕する時」ではありませんでした。この方が理解し受け入れる時としなければならなかったのです。

今の私たちにも同じことが言えます。私たちがこの地上で生きている間に、キリストに対してどう向き合うか、ということが聖書を通して問われているのです。私たちの人生の時間は有限です。

キリストに対して無関心に生き、一生知らないまま人生を終える人もいます。キリストに敵意を抱き、積極的にキリストに背を向けて人生を終える人もいます。

人は生まれてから死ぬまでの地上での日々の中で、聖書を通して招かれています。しかし、どれだけの人がその招きに応じているでしょうか。どれだけ招きに応じ続けているでしょうか。

この地上で私たちに与えられている時間は、キリストに出会い、キリストと対話し、学び、キリストと共に生きるために与えられた時間なのです。私たちはそのためにもがくのです。聖書を通して、信仰を通して、私たち自身に与えられている今という時、また人生全体の意味を考えさせられています。

キリストの謎めいた言葉は人々にはなかなか理解されませんでした。人々は主イエスのことをよく知っていたからです。神の子としてではなく、自分たちと同じ人の子として、です。

ナザレ出身でヨセフとマリアの子であるイエスが、何を言っているのだろうか、という感覚から抜け出ることができませんでした。天の地なる神のもとから来られ、間もなくそこに戻られるということをこの時点では誰もわかりませんでした。

イザヤ書55:6「主を尋ね求めよ、見出しうるときに。呼び求めよ、近くにいます内に。・・・主に立ち返るならば、主は憐れんでくださる」

旧約時代の預言者と同じことをイエス・キリストはおっしゃいます。全ての機会を用いて、いついかなる時も、神に立ち返ることを訴えています。私たち人間が、いかに簡単に神が示してくださっている時を逃しているか、ということだ。

皮肉なことにこの仮庵祭から約70年が経った時、ヨハネ福音書福音書が書かれた紀元100年前後には神殿はローマ軍によって破壊され、祭司たちもいなくなっていました。逆に、ユダヤの外のギリシャ世界で、ユダヤ人でない異邦人の中にイエス・キリストを信じる人たちが増えていました。神の御業の不思議を思わされます。

イエス・キリストに反対する力、抵抗する力がありながらも、キリストの招きは絶えることがありません。聖霊の力は消えません。敵意や迫害の中にあってもキリストの招きの言葉は消えないのです。

水の祭りでもある仮庵の祭りの最終日、最大に祝われるその日に、主イエスは「立ち上がって大声で」叫ばれました。人々が自分たちの仮庵をこれから片付けようとしている時に、主イエスは大きな声で宣言なさいます。

「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい。」

イザヤ書55章に、神の言葉が預言されています。

「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい」

預言者が伝えた神の招きの言葉を、神の子イエス・キリストが神の家である神殿で叫ばれたのです。イザヤの預言では、「水のところに来るがよい」ですが、主イエスは「私のところに来て飲みなさい」とおっしゃっています。「私こそ、預言者たちが伝えてきた命の水の源泉なのだ」とご自身を示されたのです。

仮庵際は、収穫を祈る祭りです。それは雨を求める祭りでもありました。仮庵の祭りは秋の祭りで、ユダヤでは、これから雨が増える時期でもあります。祭りの間、毎日シロアムの池から大きな瓶に水を入れて、それが神殿に運び込まれます。神殿では水が祭壇の周りに注がれます。人々はそれを見ながらイザヤ書や詩編の言葉を歌いながら、迎えます。 Continue reading

8月18日の礼拝説教

ヨハネ福音書7:19~31

「うわべだけではなくさばくのはやめて、正しいさばきを下しなさい」(7:24)

イザヤ書11:3にこう記されています。

「エッサイの株から芽が萌え出で、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊が留まる。知恵と識別の霊。主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。」

預言者イザヤが残したメシア預言です。その方は、「目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない」と言われています。

主イエスはエルサレム神殿で、人々に向かっておっしゃいました。

「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」

メシア到来の預言を受け継ぎ、聞いてきた人たちが、実際に目の前に現れたメシアにどのように向き合ったのか、今日も見ていきたいと思います。

エルサレムでナザレのイエスを待ち受けていたユダヤの指導者たちは、神殿でイエスが人々に教えを説くのを聞いて驚きました。

「この人は学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」

誰かの弟子になったわけでもない、何年も聖書を学んだわけでもないナザレのイエスが、聖書の深いところまでお教えになっていたのです。

主イエスは「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求めるのである」とおっしゃって、ご自分の教えが聖書の自分勝手な解釈ではなく、ご自分をおつかわしになった方のものであることを示されました。

そしてその場にいた人たちに逆に質問されました。

「モーセがあなた方に律法を与えたのに、なぜあなた方は、私を殺そうと狙うのか」

主イエスは以前、エルサレムのベトザタの池のほとりで、38年間病気で立てなかった人を癒されました。その癒しを行ったのが安息日だったため、ユダヤの指導者たちは、「安息日のおこなってはならないことをした」と非難し、殺意を抱くようになりました。

そのことを指摘して、「なぜ私を殺そうと狙うのか。あなたがたこそモーセの律法に反しているではないか」、とおっしゃるのです。

それを聞いた群衆はその言葉の意味が分かりませんでした。「誰もあなたのことを殺そうとしていないではないか」と言います。実際、エルサレムの群衆はそうだったでしょう。

しかし、ユダヤ人指導者たちの心のうちにはまだ主イエスへの殺意が残っていたのです。主イエスは何が人の心のうちにあるのかをご存じでした。

主イエスはユダヤ人たちの律法の理解の矛盾を明らかにされます。ユダヤの人たちは生まれたばかりの赤ん坊に割礼を施していました。子供が生まれて8日目にはそれが安息日であっても割礼を施して良いと考えていました。そうやって割礼の掟を優先させて、律法を守っていたのです。

主イエスはそのことを引き合いなさっています。割礼は体の一部分に関わることです。しかし、主イエスが安息日に行われた癒しは体全体の癒しでした。安息日に割礼を施すこと許されるなら、体全身を癒す業は、なおさら正しいことではないか、ということです。そもそも、主イエスを殺そうと考える人たちは、「あなたは殺してはならない」という十戒の第五戒を破ろうとしているのです。

安息日に誰かを癒すことは、律法に反することなのでしょうか。「安息日は仕事の手を休めて神を礼拝しなさい」とモーセの律法は確かに言っています。しかし、それは、安息日に人を癒してはいけない、ということなのでしょうか。人を癒すということが、誰かを礼拝から引き離すこと、神に背を向けることなのでしょうか。

主イエスは、律法の細部に目を奪われてしまっている人たちに、神の御心の根本を問いかけていらっしゃいます。主イエスの教えは、これまでになかった真新しい教えに聞こえました。しかし、そんなことはありません。主イエスの教えは、誰よりも保守的なものでした。

マタイ福音書5章での山上の説教の中でおっしゃっている。

「私が律法や預言者たちを廃棄するために来た、と思ってはならない。廃棄するためではなく、満たすために来たのだ」

主イエスは律法の新しい解釈をもたらされたのではありません。神がお求めになること、神の御心を実現させるために来られたことを明言していらっしゃいます。人々が失いかけていた、律法のもともとの意味を、神の思いを取り戻すために世に来られたのです。

最後に主イエスはおっしゃいました。

「うわべだけで裁くのはやめて、正しい裁きを下しなさい」

主イエスは神殿の境内で、こんなにも大胆に人々にお話しなさいました。ユダヤ人の指導者たちが聞いたら黙っていないようなことでした。しかし、指導者たちは主イエスのことを捕えようとしていませんでした。このことを群衆は不思議に思ったようです。

「これは、人々が殺そうと狙っている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。」

ここまで大胆なことを神殿で話したら、普通は捕えられてしまうのに、指導者たちがこの人に何もしないということは、この人がキリストだと認めたということなのだろうか・・・人々は新しい議論を始めました。ナザレのイエスについて、「いったい何者なのか」いうことをまた新たに考え始めたのです。

人々は「この人こそ、本当のキリストではないか」、と思い始めました。しかし、同時に戸惑いもありました。群衆はこんな風に言っています。「しかし、私たちは、この人がどこの出身が知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、誰も知らないはずだ」

ユダヤ人の間に伝わっていた伝承では、メシアは預言者エリヤによって示される時まで隠れているだろう、言われていました。メシアがどこから来るのかは誰にも分からないとされていたのです。そしてそのメシア自身も、自分がメシアであるということに最後の瞬間まで気づくとはないと考えられていました。

マラキ書3:1「あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる」

神が神殿に突然来られるというマラキの預言を、人々は「メシアは誰にも知られていない人だろう」と考えられるようになったのでしょう。

主イエスは「ヨセフの子イエス」とか、「ナザレのイエス」として人々に広く知られていました。「ナザレのイエスは、メシアであるように思える。しかし皆によく知られているから、やはりメシアではないのだろうか」、という戸惑いが人々の間にあったようです。

「イエスとはいったい何者なのか」

このことで迷い、人々の間で戸惑うのは、今の私たちも同じではないでしょうか。

よっぽど特別な神秘体験をしないと人はキリストを信じることはできないのではないか、と多くの人は考えます。普通の人には見えないものが見えるような人だけが信仰を持つことができるのではないか。特別な人が、または立派な人が、信仰というものを持つことができるのではないか、と思われています。 Continue reading

8月11日の礼拝説教

ヨハネ福音書7:10~18

「自分から語る人は自分の栄誉を求める」(7:18)

主イエスはご自分の兄弟たちから「エルサレムでもたれる仮庵の祭りに行って、自分の奇跡の力を人々に見せてはどうか」と提案されました。そうすれば世間から評価されるようになるじゃないか、ということでしょう。

兄弟たちの思いは全くその通りだが、主イエスは「私の時はまだ来ていない。私はこの祭りには上っていかない」とお伝えになり、ご自分はガリラヤにとどまり、エルサレムに上っていく兄弟たちを見送られました。

しかし、そのあとすぐに人目を避けて隠れるようにしてエルサレムへと向かわれます。ガリラヤからエルサレムに向かう巡礼者たちの群れとは別に、お一人でエルサレムに行かれたということに、主イエスのお考えが隠されています。人々の思いではなくご自分の思いで、人間の計画ではなく神の御計画の中で、ご自分の歩みを進めていかれた、ということでしょう。

ガリラヤの多くの人たちが、主イエスの兄弟たちと同じように考えていたことでしょう。自分たちと同じガリラヤ出身のイエスに、何か偉大なことをエルサレムでしてほしい、ガリラヤから有名な人が出てほしい、という期待があったと思います。

しかし、主イエスは人々の期待を背負ってエルサレムに向かわれるのではありませんでした。そのような人たちと一緒にエルサレムに向かっては、いいように担ぎ上げられてしまいます。主イエスが担っていらっしゃったのは、人間の計画ではなく、神の計画でした。

一方で、エルサレムでもナザレのイエスを待っていた人たちがいました。「祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し『あの男はどこにいるのか』と言っていた」と11節に書かれています。

この「ユダヤ人」というのは、特に主イエスに対して敵意を抱いていたユダヤの宗教指導者たちのことを指しています。指導者たちは、「イエスはこの祭りにきっと来るはずだ」と考えていました。前の祭りの際、ナザレのイエスはベトザタの池で38年間病気で寝たきりだった人を癒しましたが安息日にその癒しを行ったのです。そのことが大きな議論に発展しました。安息日に仕事をしたことを指摘すると、ナザレのイエスは「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」と答えたのです。

それ以来ユダヤ人指導者たちは、安息日の規定を破り、神をまるで自分の父であるかのように呼び、自分を神と等しい者として語るイエスのことを危険視するようになりました。

そして今、「あのイエスはまたこの祭りに来る」、と警戒して待ち構えていたのです。

さらに、エルサレムの群衆もナザレのイエスを待っていたようです。12節の「群衆」の中には、エルサレムからガリラヤまで主イエスを追いかけてパンと魚で満たしていただいた人たちも含まれていたでしょう。あの5000人の人たちは、主イエスが「私が命のパンである・・・私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得る」とおっしゃったのを聞いて、「実にひどい話だ」と皆離れて行きました。

群衆の間では主イエスは「いろいろとささやかれていた」と書かれています。「ささやく」というのは不平を漏らすという意味の言葉です。主イエスのことを「良い人だ」と言う人たちもいたようですが、「群衆を惑わしている」と言う人もいた、と書かれています。恐らく、主イエスのことを悪く捉える人たちの方が多かったのでしょう。

このように見ていくと、エルサレム全体が主イエスのことを敵意をもって待ち構えていたようだ。

ヨハネ福音書の初めを読むと、「暗闇は光を理解しなかった」と書かれています。

「神の言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」

この福音書は、神の愛をこの世がどのように拒絶したか、ということの記録なのです。

聖書を読むと、主イエスに出会った人たちの反応が分かれる様がよく描かれている。主イエスのことを信じる人と信じない人。また、信じたとしても、最後まで信じぬくことができなかった人。主イエスを通して何か自分を超えたものを見たり感じたりしたとしても、そのあと、実際の主イエスの教えを聞くと、「よくわからない」と言って多くの人は離れて行ってしまうのです。

信じるか、信じないか。そして、信じたとしても、信じ続けることができるか、離れてしまうか。今もまさに世界が、また教会がこの瞬間も問われていることではないでしょうか。

「世は言を認めなかった」というヨハネ福音書冒頭の言葉は、過去のことなのでしょうか。福音書に登場する、主イエスに出会い向き合う人たちは、まさに私たちの姿でもあるのです。我々の姿であり、そして我々の周りにある人々の姿です。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書は私について証をするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るために私のところへ来ようとしない」

これは主イエスがご自分を否定するユダヤの指導者たちにおっしゃった言葉です。今でもこの世全体に向けられているキリストの言葉ではないでしょうか。

エルサレムではナザレのイエスのことを人々はささやきあっていました。多くの人たちは、「ナザレのイエスは群衆を惑わしている」と考えていました。「惑わす」というのは、神の礼拝から人々を迷い出させる、ということです。それは深刻な罪であり、聖書の掟によれば、「死に値するほどの罪」だと言われています(申命記13:1~13)。

それでも、群衆は「ユダヤ人たちを恐れて公然と語ることはしなかった」と書かれています。ユダヤの民衆は、自分たちの指導者たちを恐れていたようです。自分たちが恐れる指導者たちが、群衆を惑わすイエスを待ち構えている・・・緊迫した空気がエルサレムに満ちていました。

主イエスはそのようなエルサレムでどうなさったでしょうか。仮庵の祭りの半ばで主イエスは神殿の境内に上って行って、教え始めらました。あれほど人目を避けていた主イエスが、一番目立つ場所で、突然このようなことをされたのです。

エルサレムの人々の中に緊張がありましたが、イエス・キリストにも緊張がおありでした。神の救いの御計画の実現が迫っている、という、エルサレムの人たちとは別の、メシアとしての緊張感です。主イエスが「私の時」とおっしゃった時、十字架が近づいているのです。

仮庵の祭りは、水と光の祭りでした。出エジプトをしたイスラエルは荒野で神から水が与えられ、神ご自身が光となって導かれたことを記念します。ユダヤ人は、自分たちを生かす「命の水」「世の光」をこの祭りを通して記念するのです。

主イエスはその祭りの中でおっしゃいます。

「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書にかいてあるとおり、その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる」

「私は世の光である。私に従うものは暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」

主イエスは仮庵の祭りという時、神殿という場所を選んで、ついにご自分が何者であるかを公にされます。ご自分こそが命の水であり、世の光であることを宣言なさるのです。

神殿の庭は広く、柱廊玄関があります。普段、律法の教師たちはそこで教えを請う人たちを座らせて講義をしていました。たくさんの人々が主イエスの教えを聞くために足を止めていたことでしょう。

ユダヤ人たちは主イエスがお話しなさるのを聞いて驚きました。

「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」

ユダヤ人指導者たちは、ナザレのイエスは聖書のことをよく知らないはずだと思い込んでいました。聖書を知らないから安息日の決まりを破ったり自分のことをまるで神の子であるかのように思い込んだりしているのだと思っていました。

しかし、彼らも認めざるを得ませんでした。イエスは聖書をよく知っている。普通であればユダヤの若い生徒は律法の教師の弟子となって律法や伝統を学びながら数年を過ごします。しかしイエスは誰かの弟子になって律法を学んだのではありません。それにも関わらず、文字が読め、律法の教えを説いたのです。

自分が誰かに律法を教える時、普通は「誰々先生はこう言った。一方で、誰々先生はこう言っている」という教え方をします。しかしナザレのイエスはそういう教え方をしないのです。「誰々先生がこう言った」ではなく、「これはこういうことだ」と自身の言葉で教えておられました。

エルサレムの群衆が驚いたのはこれでした。イエスが律法の言葉をご自分の言葉として教えた、ということ。神の言葉を、まるで神ご自身が語っておられるかのように、イエスは語ったのです。神の権威をもって神の言葉を語っていることに驚きました。

主イエスは以前おっしゃったことがあります。

「私は自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御心を行おうとする」5:30 Continue reading

8月4日の礼拝説教

ヨハネ福音書7:1~10

「私の時はまだ来ていないが、あなた方の時はいつでも用意されている」

ヨハネ福音書は主イエスが宣教なさった3年間の様子を記録しています。宣教の1年目に主イエスはガリラヤで弟子たちを集め カナで最初のしるしを行われました。

過越祭の時期、つまり春にエルサレムに上り、神殿から商人たちを追い出し、夜ニコデモと対話をなさいます。そしてユダヤを離れ、サマリアを通ってガリラヤに戻り、再びカナで2度目の印を行われました。

その年の終わりに再びエルサレムに登って祭りに参加し、安息日に病気の人を癒されたことで、ユダヤ人の指導者たちの内に、主イエスへの殺意が芽生えました。これを知って、主イエスはリラヤへと戻ることにされました。

これが、イエス・キリストの宣教1年目の活動です。

宣教の2年目には春の過ぎ越し祭の時期に5000人の人たちを癒し、その後彼らと対話をされました。今、我々が見ているところです。

今日読んだところのはじめには、「こののち、イエスはガリラヤをめぐり歩いていた」とあります。この半年間、主イエスはガリラヤを巡回しながら、神の国の福音を宣教しておられたのでしょう。季節は秋になり、収穫の祭りである「仮庵祭」の時期となりました。

仮庵際について、少し解説を加えておきたいと思います。この祭りは収穫のある 9月か10月の1週間、開催される秋の収穫祭です。これが、ユダヤの人たちにとっては年末の収穫祭であり、新年祭でもありました。つまり仮庵祭が、年の変わり目となるのです。

祭りの間の1週間、人々は畑に小屋を建ててそこで過ごします。そうやって自分たちの先祖が体験した出エジプトの荒野の苦しみと天幕生活を記念し、追体験するのです。同時に、神の導きと守りを思い出して、自分たちが生きているこの世が仮の住まいであることを告白するしるしとしました。終わりの日には自分たちが天の国という「約束の地」に入れられることに思いを馳せる祭りでした。

主イエスの兄弟たち、つまり弟たちは自分たちの兄イエスが、エルサレムに行くことを期待しました。主イエスはもうガリラヤでは有名人でした。ガリラヤ地方を巡り歩いて、いろんな会堂で宣教なさっていました。水をワインに変え、役人の息子を癒し、5000人を満腹させ、水の上を歩くという全ての奇跡はガリラヤにおいてなされたことでした。

主イエスの兄弟たちは「ことをひそかに行って自分を知ってもらうような人はいません」と言って、自分たちの兄がエルサレムで有名になるよう励まし、勧めます。確かに、仮庵の祭りで、たくさんの人たちがエルサレムに巡礼に来ている中で何か奇跡を行えば、人々からの賞賛を得ることになります。兄弟たちの言うことは正論です。

しかし、ヨハネ福音書は、主イエスの兄弟たちも主イエスのことを「信じていなかった」、と書いています。

ここで私たちは考えさせられることになります。ここで聖書が言っている「信じる」とはどういうことなのでしょうか。

主イエスの兄弟たちは、自分たちの兄のことを信頼していたことは間違いありません。

自分たちの兄に対する信頼があったからこそ、エルサレムの人たちに奇跡を見せよう、と提案したのです。

しかし、そのような信頼について、聖書は、「それは信じるということではない」と断じています。それでは、イエス・キリストを信じるとはどういうことなのか、ということです。

主イエスの弟たちは、間違った期待を持っていました。それは「自分たちの」期待でした。彼らが自分たちの兄イエスに求めたのは、公の場で奇跡を行って自分の力を示してこの世の成功を収めることでした。兄が成功を収めると自分たちにも何かいいことがあるのではないか、という期待があったのではないでしょうか。

しかしそれは、主イエスがお望みになったことではありませんでした。主イエスを信じる、ということは主イエスがお望みのことを同じように求める、ということでしょう。

主イエスはご自分の兄弟たちに「あなたたちはエルサレムに上りなさい。私の時はまだ来ていないから祭りには行かない」とおっしゃいました。「私の時はまだ来ていない・私の時はまだ満たされていない」とおっしゃいます。

主イエスは、最初のしるしを行われたカナの婚礼の席でも、同じことをおっしゃいました。母マリアから「葡萄酒がなくなりそうだから何とかしてほしい」と頼まれたとき、主イエスは「私の時はまだ来ていない」とお答えになるのです。

「キリストの時」というものがあります。主イエスの兄弟たちをはじめ、主イエスを信じられなかった人たちが求めていたのは、「キリストの時・神の時」ではなく、「自分たちの時」でした。「自分たちにとって何かいいことが起こる時」です。

しかし主イエスにとっての御自分の「時」は、十字架の時なのです。ヨハネ福音書は、主イエスの十字架のことを「栄光」と呼んでいます。十字架という処刑方法による死がなぜ「栄光」なのか、普通に考えると分かりません。

しかし、聖書は、この方の十字架上の姿こそ「栄光の姿」であり、それこそ私たちにとっての「救いの時」であり、自分たちの罪が許され神への立ち返る道が切り拓かれた「時」であることを伝えています。

その「救いの時」「キリストの栄光の時」を求めることが、この福音書においては本当の意味で「信じる」ということなのです。

私たちは福音書を読むたびに、「キリストを信じるとはどういうことか」ということを問われています。それは「キリストと共に歩むとはどういうことか」ということでもあります。

都合のいい時だけキリストと共に歩いて、少ししんどくなったら、キリストから離れて楽な道を選ぼうとしてしまうのが、我々弱い人間の歩みではないでしょうか。

しかし今、私たちには「キリストの時」が十字架という栄光の時であったことを知っています。自分が今キリストに抱いているものが、本当に信仰と呼べるものなのか、自分の身勝手な期待なのか聖書は私たちに常に問いかけるのです。

さて、御自分の兄弟たちに「私はエルサレムに行かない」とおっしゃった主イエスでしたが、兄弟たちがエルサレムに出かけた後、ひそかにエルサレムに向けて出発されました。皆に知ってもらえばいいのに、という期待を持っていた兄弟たちとは思いとは反対に、主イエスは誰にも知られない仕方でエルサレムに上って行かれた。

大切なことは、主イエスは人が望む仕方でエルサレムには行かれていない、ということです。そして、人が期待する仕方ではエルサレムで活動なさっていない、ということです。

仮庵の祭りは、水と光の祭りでした。神はイスラエルの出エジプトに水を与え、光で導かれことによります。人々はそれを仮庵の祭りの中で思い出すのです。そしてこの水と光の祭りの中で主イエスはご自分のことを「命の水」「世の光」として示されることになるのです。

「祭りの盛大な最終日に、イエスは立ったまま叫んだ。『誰か渇いている人があれば、私のところに来て飲むがよい』」(7:37)

「私は世の光である。私についてくる者は闇の内を歩むことなく、命の光を持つことになる」(8:12)

この主イエスの言葉に対して、世の人々はどうだったでしょうか。人々は主イエスのことを命の水として求めただろうか。主イエスのことを世の光として求めたでしょうか。

人々は疑いました。目の前にいる人が自分のことを命の水だと言っても、世の光だと言っても、簡単に信じられるものではないのです。多くの人は疑いました。信じた人たちも、主イエスの言葉を更に聞いているうちに、「よくわからない」と離れて行ってしまいます。

このことは、今でも変わらないのではないでしょうか。聖書を読んでも、聖書の言葉を聞いても、簡単に受け入れて信じる人はほとんどいません。聖書に興味が湧いても、自分の主義主張と異なることが書かれていたり、理解しづらいことがあったりすると背を向けてしまうのです。自分の期待に応えてくれないキリストであれば、ついて行こうとしなくなります。

繰り返しますが、キリストに自分に都合のいい期待をかけるということは、本当の意味で「信じる」ということではありません。キリストがお求めになることを、キリストと共に求めていく、ということが私たちにとって「信じる」ということなのです。

キリストがどこに行こうとそこへとついて行くことが出来るか。 Continue reading

7月28日の礼拝説教

ヨハネ福音書6:60~71

「実にひどい話だ。誰が、こんな話を聞いていられようか」

6章の締めくくりとなる場面を読みました。6章は山の上で5000人の人たちを主イエスが養われるところから始まります。大きな奇跡の後、主イエスは群衆から離れ、嵐の中湖の上を歩いて弟子達の船に乗り込んで嵐を沈められました。

主イエスを自分たちの王様に祭り上げようとしてやってきた群衆がカファルナウムまでやって来ます。その人たちに主イエスは「私は命のパンである。私の血を飲み、私の体を食べる者は永遠の命を得る」とお教えになりました。

「これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである」と書かれています。主イエスは、ガリラヤのカファルナウムの町にある会堂で、神の教えとしてご自分のことを命のパンであり、ご自分を食べる者は永遠の命を得る、と伝えていらっしゃったのです。

「実にひどい話だ。誰が、こんな話を聞いていられようか」

主イエスを求めて来た人たちが最後にこのようにつぶやいて、6章は終わります。不思議な教えを聞いた人々は、主イエスを求めることをやめて去って行ったというのが6章の結末なのです。

5000人の給食という大きな奇跡で始まったのに、主イエスのもとから弟子達が去って行った、という残念な結果に終わっています。主イエスの奇跡を体験した人たちが皆従うようになった、という話ではないのです。

残念な結果だが、多くの弟子たちが主イエスのもとから去って行ったということは驚きではないでしょう。

66節「このために、弟子達の多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」。主イエスによって養われたあの5000人の中に、「弟子」としてついて行こうとしていた人たちがたくさんいたのでしょう。彼らは熱心に主イエスを探し求め、教えを聞こうとしました。あれだけの奇跡をおこなわれた方です。期待が高まっていました。

しかし、どんなに奇跡の業に感激しても、主イエスの教えを実際に聞いてみると、「実にひどい話だ。誰が、こんな話を聞いていられようか」と失望した、というのです。ご自分のことを「命のパンである」とか、「私の肉を食べ、血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」とおっしゃる主イエスの教えは確かにわかりにくいでしょう。

この福音書を最後まで読まなければ、主イエスが何をお伝えになろうとしていたのかはわかりません。主イエスの十字架の姿、そして主イエスの復活のお姿を通して、私たちは生前主イエスが何をお教えになっていたのかが明らかにされていくのです。

この時、主イエスの教えを字面だけで理解した多くの人たちは離れ去って行きました。五つのパンと二匹の魚で主イエスに養われ、主イエスの言葉を聞いた人たちは皆ユダヤ人だったので、自分たちの先祖が出エジプトの際、荒れ野で神によって養われたことを思い出しながら主イエスの言葉を聞いていたでしょう。荒野でマナが神から与えられたように、「この方がこれから私たちにパンをくださるのではないか」、と期待したのです。

しかしこの方は、「私自身がパンである」と、意味がよくわからないことを言います。人々にとってこのイエスという人は期待外れでした。これからご自分のもとを離れていこうとする人たちに、主イエスはおっしゃいます。「あなた方はこのことにつまずくのか。それでは、人の子が元いたところに上るのを見たならば・・・」

これは、「もしあなた方が私の十字架と復活をみたならばどうだろうか」ということです。もしこの群衆が主イエスの十字架と復活を見たとしたらどうだったでしょうか。その出来事がまさに自分のために起こったこととして受け止めることが出来たとしたら、彼らはどうしたでしょうか。

聖書を通して、キリストの十字架と復活を知っている私たちであっても、キリストを信じ一生従い抜く、ということは簡単なことではないでしょう。人の知恵で主イエスの教えを知ろうとしても、主イエスの十字架や復活を理解しようとしても、私たちの頭には入りきりません。

キリストの言葉は、いつでも霊の言葉です。「私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である」とおっしゃっています。私たちは聖書を読んでも普通の本を読むように簡単に理解することはできません。

しかし、聖霊の働きとしか言いようのない瞬間があります。キリストの十字架は、私のためのものでした。キリストの復活は、私たちのために用意されている永遠の命のしるしだ、と思える瞬間が与えられるのです。あれだけ頭の中で考えて来たのにわからなかった聖書の教えや出来事が、「これは自分に起こったことだ」と悟る瞬間が確かに与えられるのです。

しかしそれでも、心の高ぶりが収まるとまたキリストを疑い始めます。「心は燃えても、肉体は弱い」とキリストがおっしゃったとおりです。主イエスの言葉に隠された霊的な意味をくみ取ろうとしなかった群衆は、結局主イエスから離れて行くことになってしまいました。

私たちはここに、生と死の分かれ道を見ます。キリストに従うか、離れて行くか。命のパンをいただく歩みに向かって踏み出すか、命のパンとは無縁の生活を続けていくか。自分の理解だけに生きるか、霊の言葉を信じ、霊の働きに身をゆだねるか。

多くの弟子たちはもう主イエスのことが理解できないと言って去って行きました。ご自分のもとに残ったのははじめから従ってきた12人だけとなりました。主イエスは残った12人を試すようなことをおっしゃいます。

「あなたがたも離れていきたいか」

これは、「あなたたちは行かないのか」という言葉です。むしろ、イエス・キリストから離れて行くことの方が普通である、という前提の言葉です。

「あなた方はどこにも行かないのか」と聞かれた弟子達を代表して、ペトロが答えます。「他に誰のところに行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」ペトロは主イエスのことを「メシア」として信従を表明しました。

「言っていることがよくわからない」と言って多くの人々が去って行く中で、イエス・キリストに向かって「あなたこそメシアです」と言い現し、そこに留まる弟子達。彼らはキリスト教会の姿です。

繰り返しますが、5000人の人たちをキリストが養われる奇跡から6章は始まりました。しかし6章の最後にはその5000人がキリストの下からいなくなったのです。弟子たちはまた12人に戻ったことが6章で描かれています。

5000人を養い、嵐の湖の上を歩かれた方に向かって、12人が「あなたこそメシア、神の聖者である」という真理にたどり着いた、ということ。5000人はいなくなっても、小さな信仰の群れが残った、ということ・・・このことを通して、キリストから離れるということがいかに簡単で、キリストのもとにとどまることがいかに困難であるか、ということを考えさせられるのではないでしょうか。

その小さな群れの中には、裏切り者もいました。イスカリオテのユダです。ユダは後に主イエスを引き渡す役割を演じてしまいます。

そしてここで信仰を告白したペトロも、やがて主イエスのことを知らない、と言って逃げてしまいます。他の弟子達も同じです。

これが、教会の姿です。教会はむしろ、「あなたがたも離れて行きたいか」とキリストから問われるような群れなのです。私たちにはいつでも、誘惑の力が迫ってきます。キリストが荒れ野で誘惑をお受けになったように、イスラエルが荒れ野で様々な誘惑を受けたように、教会も、今この世界で、荒野の誘惑を受けています。

イエス・キリストに対して 人々は様々に反応します。自分の王様にしようとする人、つぶやく人、不平を漏らす人、質問する人、反対する人がいました。従う人、背を向ける人、裏切る人、そしてこの方こそ命の希望であり この方の血と肉によって自分は生きると信じる人たちがいました。

私たちが今日読んだ場面は、のちの時代にも繰り返されてきたことなのです。主イエスの十字架と復活の出来事の後も、「あのイエスという人は何者だったのか」という議論は続けられました。主イエスをキリストと信じる人たちと、信じない人たち、そして一度は信じたのに離れてしまった人たち、信じないと拒絶したのに後に信仰を貫いた人たちの議論が続いたのです。

さらに、「主イエスは何者か」という議論は、キリスト教会の中でも議論されて続けて来ました。イエスこそ天から来られた神であるあるかどうか。神の言葉である律法そのものなのか。

これは今の私たちにとって他人事ではない議論です。「あなたはイエスを何者だと信じているか」と言われると、どのように答えるでしょうか。そのようにして今日の場面を読むと、実はキリストのもとから去って行く人たちがいて、残る人たちがいる、というのは、今私たちの目の前で起こっていることである、ということが分かります。 Continue reading