MIYAKEJIMA CHURCH

8月24日の礼拝説教

ヨハネ福音書15:22~27

ヨハネ福音書のはじめに、「暗闇は光を理解しなかった」と書かれています。「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。

神は世を照らす光としてこの世に独り子を送られました。イエス・キリストは「この世を暗闇のままにはしておかない」、という神の救いの御心そのものでした。

福音書の序文にあるように、イエス・キリストはこの世に神の招きの言葉を伝えに来たにも関わらず、反対と憎しみをお受けになりました。しかし、ここまで私たちが見てきたように、光であるイエス・キリストが世に来られることによってこの世には影も生まれたのです。その影はイエス・キリストのことを神の子・世の光として見ることなく、ナザレのイエスの宣教とその弟子たちの働きを「危険なもの」とみなしました。

私たちは今日、イエス・キリストが、弟子たちが受けることになる迫害の予告をされる言葉を読みました。なぜキリストの弟子たちは世から憎まれることになるのでしょうか。キリストの弟子達が世に憎まれるのであれば、キリスト教会も憎まれるということでもあります。なぜキリスト教会がこの世から迫害されなければならないのでしょうか。教会はそんなに悪い集団なのでしょうか。

キリストは旧約聖書の言葉を引用してこうおっしゃいます。

「人々は理由もなく私を憎んだ」

これは詩編の言葉です。キリストが世に憎まれた理由、キリストに従う教会が世に憎まれる理由はこれなのです。つまり、「理由はない」と言うことです。

「人々は理由もなく私を憎んだ」というのは、詩篇35編19節の言葉です。詩編35編は無実の人が裁判で訴えられる苦しみを歌ったものです。

「不法の証人が数多くたち私を追求しますが私の知らないことばかりです」と詩人は神に訴えます。そして35編の19節で「無実な私を憎む者が、侮りの眼で見ることがありませんように」と語ります。

この

「無実な私を憎む者」というのが、キリストが引用された詩篇の言葉です。無実な人を憎む、ということにはどんな理由があるでしょうか。理由などありません。無実の人を憎むことで自分が安心できる人が、そうするのです。

キリストは「彼らの律法にそう書いてある」と皮肉を込めておっしゃっています。「彼らの律法」と言っても、律法は聖書のことですから一つしかありません。「私の律法」「あの人の律法」などという表現は本当はおかしいのです。キリストが「彼らの律法」とおっしゃるのは、「彼らが勝手に自分に都合よく解釈している律法」という皮肉が込めていらっしゃるのです。

ヨハネ福音書の9章に、イエス・キリストが目を開かれた盲人がパリサイ派の人たちによって会堂から追放された、という事件が書かれています。目が見えなかった人が確かにキリストによって癒され見えるようになりました。その人の両親も、そのことを証言しました。それなのにファリサイ派の人たちは癒された盲人を「罪びと」と呼び、会堂から追放しました。

それは人々の心が自分達からナザレのイエスに移ることを恐れてのことでした。世は、このようにして無実の人を憎み、自分を守ろうとするのです。神の言葉、神の御業ではなく、自分の立ち位置を守る方が大切なのです。

今でもこのことは変わっていません。今でも、キリスト者が侮られたり、キリスト教信仰をバカにされたり理解してもらえないことの方が多いでしょう。当然です。イエス・キリストがそうだったからです。

キリストはこの世の中でどんな悪いことをなさったのでしょうか。殺されなければならないような罪を犯されたでしょうか。理由などありません。人々は自分の立ち位置を守るためにナザレのイエスに罪びととしたのです。

皮肉なことですが、その罪は、この方が背負ってくださったこの世の罪・自分たちの罪でした。しかし彼らはそのことに気づきませんでした。私たちのキリストへの信仰が理解されないということには、なにかこれという理由があるのではないのです。この世の中でキリストの光が示されたところには影もできる、ということです。

主イエスはこの世の人全てを否定されているわけではありません。ここでは、実際にご自分のことを非難してきたユダヤ人たちのことをおっしゃっています。

イエス・キリストの全ての言葉はこの世を神の元へと導く救いの言葉でした。しかしユダヤ人たちはイエス・キリストの言葉を無視しました。キリストの福音宣教は、この後イスカリオテのユダに先導されるユダヤ人たちによって逮捕されて終わります。

22節で、主イエスは恐ろしいことをおっしゃっています。

「私が来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない」

イエス・キリストの言葉を知らないというのであればまだ弁解の余地はあったのです。しかし彼らは実際にキリストの言葉を聞き、何度もキリストの業を見て、その上でキリストをこの世から排除しようとしました。

キリストの言葉・業を受け入れないということは、キリストを憎むということです。そしてここでおっしゃっているように、キリストを憎む人はキリストの父である神を憎むということです。

キリストはご自分と神と弟子達のつながりについてお話なさいます。弟子たちを愛する者はキリストを愛するのであり、キリストを愛する者はキリストを遣わされた父なる神を愛するということなのだから、弟子たちを憎む者はキリストを憎むということであり、弟子達を迫害する者は神を迫害するということであることが示されています。

今、教会はこの世からどのように見られているでしょうか。私たちの信仰はただ辛いだけのものなのでしょうか。神を信じているというだけでバカにする人多いでしょう。キリストを信じているというだけで、「どうして外国の宗教を信じるのか」と言われることもあるでしょう。

私たちは、論理的に相手を説得してキリストを信じさせるようにすることはできません。なぜ自分がキリストを信じるようになったのか、信じ続けているのかを説明してわかってもらうことも難しいでしょう。キリストが人々から言われたように、しるしを見せてみろ、証明してみろと言われても何も言えないし何もできないのではないでしょうか。

しかしそれでもキリスト者はキリストのもとに留まります。言葉で説明できない何かによって私たちはキリストにつながっているからです。キリストはそれを真理の霊と呼ばれます。

イエス・キリストがこの世で福音宣教なさって、十字架の直前まで実際に従い抜くことができたのはたった12人でした。そしてこの夜、1人が裏切るために去って行きました。あとの11人も、主イエスの逮捕を見て、全員が逃げ出します。

イエス・キリストに本当の意味で従う群れができたのはキリストの復活の後なのです。聖霊が注がれてそこから初めてイエス・キリストの言葉と技の意味が示されました

私たちの信仰もそうだったのではないでしょうか。あの時はイエス・キリストなんて知らなかったし信じてもいなかった。しかし後になってあの時キリストは本当に私と共に歩んでくださっていたことが分かった、と思える瞬間があるのです。聖霊を通して、キリストへと導いてくださる言葉や出会いが与えられるのです。今でも、そしてこれからも与えられ続けるのです。

ここでのイエス・キリストの言葉は法廷での弁論のように聞こえます。自分がイエス・キリストの言葉と業に対して、自分たちがどう向き合ってきたのか、ということを振り返らされるのではないでしょうか。

私たちは世の終わりに神の前に立たされた時、神から何と言われるでしょうか。

「私の言葉を聞いて、私の業を見ても、あなたは信じなかった。あなたにはもう弁解の余地はない」

この世の終わりにキリストからそう言われることほど恐ろしいことはないでしょう。では、今私たちがどう生きるか、ということです。

私たちが声高にイエス・キリストのことを叫んでもうこの世はあまり聞こうとしません。「自分には関係のないことだ。自分はキリストを知らなくても充分立派に生きていける」。皆そう言うでしょう。

そう言われると私たちはそれ以上何も言えなくなってしまいます。では私たちは何ができるのでしょうか。祈ることです。礼拝向かい続けることです。キリスト者が祈る姿が、また礼拝に身を置く姿が、何よりイエスキリストを証する力を持っているのです。

忘れてはならないと思います。聖霊は祈る群れに注がれました。立派な人が集まって「自分たちの力で教会をつくろう」と言って、踏み出したのではありません。どっちに向かって踏み出していいのかわからず祈るしかなかった群れに聖霊は注がれました。そして語るべき言葉と行くべき場所が示されていったのです。

使徒パウロは手紙の中で書いています。 Continue reading

8月17日の礼拝説教

 ヨハネ福音書15:18~21

イエス・キリストの告別の言葉を読んでいます。別れを目にして、残された時間が少なくなっていく中、キリストは一番伝えたいこと、伝えなければならないことを弟子たちにお話になりなります。

キリストは弟子たちに、「これから私たちは離れ離れになるけれども大丈夫だ」、とおっしゃいました。先生と離れ離れになりたくないと思っている弟子たちにとって何が「大丈夫」なのでしょうか。キリストと弟子達とのつながりは決して無くならない、だから「大丈夫だ」とおっしゃいます。

弟子たちは、自分たちが主イエスから愛されていること、主イエスが父なる神から愛されていること、そして神が世を愛されていることを聞きました。そしてそのつながりの中から自分たちの信仰が実を結んでいくこと教えられます。

弟子たちの元を去って行かれるイエス・キリストとどのようにつながることができるのでしょうか。「心配しなくてもいい、私の父の家には住むところがたくさんある。あなたたちのために場所を用意して戻ってくる」とキリストはおっしゃいます。

その言葉を聞きますと、弟子たちはこれからキリストと離れ離れになるけれども、またキリストが自分達を迎えに来てくださる。そしてその後にはもう何の苦労も無く、キリストによって平坦にされた道を静かに歩んでいくことができる将来が約束されているかのように聞こえます。

しかしイエス・キリストはここでおっしゃいます。

「世があなた方を憎むなら、あなた方を憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい。あなた方が世に属していたなら世はあなた方を身内として愛したはずである。」

キリストに従うがゆえに受けることになる憎しみがある、とおっしゃいます。キリストに従う信仰の道の上で、弟子達は、またキリスト者はこの世から憎まれることになるのです。

案ずることはない、心配することはない、私とあなたたちとのつながりはなくなることはない、大丈夫だと、告げながら、その先にはイエス・キリスト共に担う苦しみがあるということも明らかにされるのです。

信仰とは何でしょうか。キリストを信じるということはどういうことなのでしょうか。信仰の道を歩めば、たくさんのいいことが降って来て、この世の憎しみなどとは無縁になることのように期待します。しかし、キリストは甘いことをおっしゃいません。

使徒言行録には、後々弟子たちがどのような苦しみを担うことになったのかが記録されています。キリストがここで予告なさっているように、弟子たちはイエス・キリストのお名前をこの世で伝えていくために様々な試練と苦難の中を生き抜きました。

ナザレのイエスという方に何が起こったのか、またそれはどんな意味があったのかを伝えようとしても、受け入れる人よりも受け入れない人たちのほうが多かったのです。ある時は牢に入れられたり、鞭で打たれたりもします。

それでも弟子たちは、キリストの使徒として宣教の業を投げ出すことはしませんでした。キリストの十字架と復活の証人として、自分が置かれた場でキリストを証しし続けたのです。命の危険を感じるほどのことがあっても、それを越えて彼らはキリストの証を続けました。

なぜでしょうか。弟子たちが、キリストの十字架と復活を見て、この夜自分たちに告げられたことの意味を理解したからです。

使徒言行録の五章の最後を見ると、迫害の中でそれでも喜んでいる弟子たちの姿が書かれています。「使徒たちはイエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ」とあります。

教会の迫害者でありながらキリストに召されて使徒とされたパウロは、フィリピの教会の人たちにこう書いています。

「私にとって生きることはキリストであり、死ぬことは有益なのです。・・・あなた方には、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも恵みとして与えられているのです」

新約聖書に入っているフィリピの信徒への手紙はパウロが獄中から書いた手紙です。「獄中書簡」と呼ばれていますが、同時に「喜びの手紙」とも呼ばれています。パウロは「自分が監禁されているのはキリストのためである」と喜ぶのです。

ペトロも手紙の中で言っています。

「キリストは罪の為にただ一度苦しまれました。正しい方が正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなた方を神の元へ導くためです。」

「義の為に苦しみを受けるのであれば幸いです」

「愛する人たち、あなた方を試みるために身に降りかかる火のような試練を何か思いがけないことが生じたかのように驚き怪しんではなりません。むしろキリストの苦しみに与れば与るほど悦びなさい・・・あなたがたはキリストの名のために非難されるなら幸いです・・・キリスト者として苦しみを受けるのなら決して恥じてはなりません」

なぜイエス・キリストの弟子は、そしてキリスト教会はこの世から逆風を受けるのでしょうか。イエス・キリストがそうだったからです。キリストは人々の心を天に向けようとなさいました。しかし、この世に目を向けていた人、心をこの世に留めていたい人たちからは憎まれたのです。ヨハネ福音書1:11に光がご自分の民の元に来たけれども、民は光を拒絶したと書かれている通りです。

キリストと同じ道を歩むということは、その逆風をキリストと共に受けるということなのです。キリストは弟子たちにおっしゃいました。「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ」

イエス・キリストがこの世を神の元へと導くために、苦難の道を行かれるのであれば、キリストに従う人たちも同じ信仰の苦難の道を行くということでしょう。この世がイエス・キリストを迫害するのであれば、キリストに従う信仰者たちのことも迫害するということでしょう。私たちがイエス・キリストよりも優れた者となってキリストに向けられた逆風が吹かないなどということはないのです。

しかしなぜキリスト者はこの世からの逆風を受けるのでしょうか。どの福音書でもキリストに従う信仰者達への苦難がキリストご自身の口から前もって言われています。

なぜキリスト者たちは迫害されなければならないのでしょうか。愛に満ちたイエス・キリストの教えが素晴らしさを知れば、みんな自然に私たちが言うことを受け入れて私と同じ道を歩くようになって、キリストを求め始めるのではないでしょうか。

キリストの時代、また弟子たち・使徒たちの時代は、ローマ帝国は宗教に対して非常に寛容でした。いろんな宗教がありましたが、それぞれの宗教がローマ皇帝への尊敬や忠誠を邪魔しない限りは許されていました。

当時はローマ皇帝が神の子として神の権威を持って政治にあたっていました。しかし1世紀のキリスト者たちは、神は唯一の神でありイエス・キリストこそがまことの神の子であり、ローマ帝国は神の子ではないという信仰を持っていました。

そのようにローマ皇帝のことをただひとりの人間として捉えイエス・キリストがメシアであり神の子であり従うべき方である、と信じる信仰は危険視され、ローマ帝国の中で迫害されることになったのです。

更にキリスト者たちは同じ時代のユダヤ人たちからも迫害されました。キリスト者たちは、主イエスのことをキリストと呼び「主」と呼びました。「主」という呼び方は、ユダヤ人たちが神に対して用いた称号です。

イエスという人間に対して「主」という言葉を使うことは、人を神とすることであり、偶像と変わらないと思ってユダヤ人たちはキリスト者を迫害したのです。

十字架の上で殺されたナザレのイエスを主と呼び神の子と信じることはローマ人にとってもユダヤ人にとっても受け入れられることではなかったのです。

私たちがキリストを伝える「世」とは、そのような相手です。今も変わりません。「キリストに従いなさい」、と伝えることは、「昨日までの自分を捨てなさい」、ということです。

「今あなたが信じている何か以上に、信じるべき方です」とか「あなたが大切に思っている何か以上に、大切にすべき方です」と言われると、それまでの自分を捨てることになります。当然、良くは思われないでしょう。

キリストを十字架へと追いやり我々キリスト者を迫害するであろうと言われている「この世」に対して、また、今私たちが実際に生きて、キリストを伝えるために遣わされている「この世」に対して、私たちはどのような姿勢であればいいのでしょうか。

この後を読んでいきますと、この世はますます主イエスを憎み主イエスを逮捕します。そして十字架に上げられる前に、ポンテオ・ピラトから尋ねられます。

「お前がユダヤ人の王なのか」 Continue reading

8月3日の礼拝説教

 ヨハネ福音書15:9~17

別れの瞬間が迫っている中で伝える言葉は、普段の会話よりも重みが増します。限られた時間の中で一番伝えておかなければならないことを相手に伝えようとするので、慎重に言葉を選び、心を込めて相手に伝えようとします。思いが凝縮されたその言葉を、受け取る方もひと言も聞き逃さないようにと真剣に向き合います。

主イエスはご自分と弟子たちがこれから物理的に離れることになってしまうことをお伝えになりました。弟子たちにとっては驚きであり悲しみの報告でした。生きて行く希望が突然目の前から消えてしまうような思いを感じたでしょう。

しかし主イエスはこれから起こる別れはすべての終わりではない、ということを示されます。たとえ離れ離れになってお互いが見えなくなったとしても、主イエスと弟子たちとの関係までなくなってしまうわけではないのです。

ぶどうの枝がぶどうの木につながっているように「私につながっていなさい」と主イエスはおっしゃいます。枝が幹につながっていることで実を結ぶように、弟子たちはイエス・キリストにつながり続けて神を求めになる収穫の実を結ぶことが期待されているとおっしゃいます。

「私はぶどうの木。あなた方はその枝である。人が私につながっており私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」

イエスキリストが万感の思いをこめて弟子たちに示された、キリストにつながる人たちが結ぶ実とは何でしょうか。

詩編104編15節「葡萄酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ、パンは人の心を支える。」

神につながっている生活の喜びが歌われています。私たちがイエス・キリストにつながり、また神につながっているということが「信仰の喜び」という実を結んで行くことになるのです。

では、具体的に「信仰の喜び」とは何でしょうか

詩編133編1節「見よ、兄弟がともに座っている。なんという恵み、なんという喜び」

キリストを信じる者たちがキリストに繋がることによって共に座っている、そのことがすでに大きな喜びなのです。それ自体が信仰の交わりが結ぶ実なのです。私たちはこの礼拝の中にその喜びを見出すことができるのではないでしょうか。

キリストは9節で「私はぶどうの木、わたしにつながっていなさい」ということを別の表現でおっしゃいます。

「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛してきた私の愛にとどまりなさい」

イエス・キリストにつながるということはつまり、イエス・キリストの愛につながる、とどまるということなのです。

キリストは弟子たちに「私があなた方を愛したようにあなたがたも愛し合いなさい」とおっしゃいました。そしてここでは「父が私を愛されたように」とあります。神の愛がキリストに注がれ、そのキリストの愛が弟子たちに注がれ、弟子たちはキリストの愛にとどまることになるのです。

イエス・キリストの愛にとどまるという信仰の業がここまで脈々と受け継がれてきました。それがキリストから与えられた掟だったからです。弟子達・私たちがキリストの愛に留まるのは、何のためでしょうか。

「私の喜びがあなた方のうちにあり、あなた方の喜びが満たされるためである」とおっしゃっています。ぶどうの枝がブドウの木の幹から栄養を与えられて実を結ぶように、私たちもキリストにつながりそこから喜びをいただいて満たされていくのです。

主イエスは、ご自分の父であられる神こそが愛の源であることをおっしゃっています。父なる神がキリストを愛されるということがあって、私たちキリストに愛されるということがある、そしてキリストに愛されるということがあって私たちは互いに愛し合うということができるのです。このことが信仰の実を結んでいきます。キリストの愛に留まる人たちが互いに愛し合い、キリスト教会という信仰の実が大きくなっていくのです。

弟子たちはただ単に「愛し合いなさい」と言われたのではありません。「イエス・キリストに愛されたように」互いに愛し合いなさいという掟でした。

キリストがどのように弟子たちを愛してくださったのかを思い起こし、弟子たちは共に愛し合うことになります。そのように弟子たちが愛し合うことによって、それがやがてキリスト教会の中での互いにつかい合う姿勢を育んでいくことになっていきます。

私たちが今読んでいるこのキリストと弟子たちとの最後の夜こそ、我々キリスト者が立ち返るべき愛の姿と私たちの愛の源が示された時なのです。どこから来て、私たちがどこにとどまり続けるべきなのかという、信仰の道が明らかにされています。

キリストの使徒パウロはローマの信徒への手紙11章の最後でこう書いています。

「すべてのものは神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように。アーメン」

すべてのことは神の元から出て神に帰っていく・・・イスラエルの罪と救いの歴史を振り返りパウロが至った結論はこれでした。すべてのことが神から出て神によって保たれ神に向かっていくのです。

パウロは続けてこう言います。「こういうわけで兄弟たち神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄として捧げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です。」

私たちはなぜ礼拝を続けているのでしょうか。キリストの弟子たちやパウロのように直接イエスという方と言葉を交わしたこともないのに、です。

自分たちの愛の限界を知っているからではないでしょうか。私たちの愛情よりも大きな愛を注がれ、それが歴史の中で示され。その愛によって真に生かされているということを知って、私たちは礼拝という業を続けているのではないでしょうか。

だから私たちは礼拝をするのです。キリストが私たちに身を捧げてくださったように、私たちもキリストのために身を捧げ、礼拝を通して隣人に仕えていくのです。

主イエスがおっしゃる愛とはどのような形を伴うのでしょうか。主イエスは僕として、弟子たちの前にひざまずいて足を洗われました。そして、良い羊飼いは羊のために命を捨てる、とおしゃいました。そして十字架の上で世の許しのために全ての罪を担い、世のために死なれました。

「友の為に命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と主はおっしゃいます。「友のために」というのは「友の代わりに、身代わりになって」ということです。友が生きるために自分が犠牲になるということまで含まれた言葉なのです。

イエス・キリストはこの夜、弟子達に、「あなたがたが私を選んだのではなく、私があなた方を選んだ」とおっしゃいました。普通ユダヤ教のラビは自分で弟子を探すことはしません。若い人たちが自分の先生を探して回って、弟子にしてもらうよう頼みこみます。

主イエスの弟子達も、自分で先生を選び、自分の意思でここまで従って来た、と思っていたでしょう。しかし主イエスは、彼らが主イエスを選んだのではなく、主イエスご自身が、彼ら一人一人を選ばれた、ということを明言されました。

主イエスがどういう基準で弟子を選ばれたのかは私達には分かりません。弟子達を一人ひとり見ていくと、むしろなぜこんなにも不完全な人たちを選ばれたのかと不思議に思います。

むしろ、その不完全さ、彼らのつまずき、信仰の弱さまで、主イエスは大切にいつくしんで彼らを選ばれたのです。不完全だからこそ、イエス・キリストにつながっていなければならない人たち、弱いからこそ、キリストにつながり自分では結び得ない収穫の実を結ぶ道へと招き入れられたのです。

弟子たちはこれからキリスト教会の芽生えとなっていく人たちです。彼らの中心には何があったのでしょうか。それはイエス・キリストから愛され、許されたという事実です。そしてキリストの許しと愛を受けた者として、互いにそれを実践しなさいと言われたことです。

「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」というキリストのご命令、そして罪の赦しの恵みに打たれた彼らの祈りがありました。彼らは祈らなければやっていられなかったでしょう。キリストを見捨て、キリストを知らないと言ってしまったあの夜の記憶は消えないのです。

私たちはどのように教会につながるのでしょうか。教会が「愛の共同体」であるというならば、その愛というのはキリストの愛のことです。私たち一人ひとりが、特別に愛が深くて、そのような立派な人たちが自分の意思で集まって教会を作り上げているのではありません。

このような自分でもキリストは許してくださったという愛に打たれ、その許しの中でしか立ちえない人が集まって、共に祈る群れがキリスト教会です。その祈りの中に、同じように思う人が一人、また一人と与えられ、キリストの愛の共同体は続いていくのです。 Continue reading

7月20日の礼拝説教

 ヨハネ福音書14:22~30

イエス・キリストが「私は去っていくがまたあなた方の所へ戻って来る」とおっしゃると、弟子たちの心は騒ぎました。これから先生が自分達から離れて行かれるということを聞かされるたびに、弟子たちのうち誰かが主イエスにもっと詳しくどういうことか聞かせてくださいと質問しました。

「私が行くところにあなたたちは来ることができない」と言われると、一番弟子のペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか」と質問しました。

「私の父の家には住むところがたくさんある・・・行ってあなた方のために場所を用意したら戻ってきてあなた方を私のもとに迎える・・・私がどこへ行くのかその道をあなたがたは知っている」と主イエスがおっしゃると今度はトマスが言いました。「主よ、どこへ行かれるのか私たちには分りません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」

主イエスはお答えになります。「私は道であり真理であり命である。・・・今からあなた方は父を知る。いやすでに父を見ている」

すると今度はフィリポが「主よ、わたしたちに御父を示してくださいそうすれば満足できます」と言いました。

主イエスは「私を見た者は、父を見たのだ」とおっしゃいます。「私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わし永遠にあなたと一緒に居るようにしてくださる。・・・私はあなた方をみなしごにはしておかない。」

今日私たちが読んだのは、ペトロ、トマス、フィリポに続いてなされた、イスカリオテでない方のユダの質問です。「主よ、わたしたちにはご自分を現わそうとなさるのに、世にはそうなさらないのはなぜでしょうか」

このユダという弟子について、私たちは何も知りません。ただ福音書や使徒言行録の中でユダという名前だけが出てくるだけでこの人の背景や人格がどういうものであったのかということは何も書かれていません。

ユダの質問は単純なものでした。「どうせなら、先生がおっしゃっていることを自分たちだけでなく世に向かってすべてお示しになればいいのに」という思いからの言葉です。

7章でも、主イエスの家族が同じようなことを言っています。主イエスが仮庵祭の時期にエルサレムに登って行こうとなさらないのを見て主イエスの兄弟たちは言いました。「ここを去ってユダヤに行きなさい・・・公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには自分を世にはっきり示しなさい」

「この世の中でどんどんしるしを行えばいい。どんどん奇跡を行えばいい。たくさん神の国について語ればいい。」主イエスの兄弟たちはそう思いました。主イエスの兄弟たちでなくユダのように弟子たちもそう思っていました。私たちだってそう思うのではないでしょうか。弟子を12人にしぼったりせず、弟子達にひそかにお示しになることを、どんどん公の場で人々に訴えればいいのに、と思うのです。

しかし主イエスはいつどこでどのようなしるしを行われるのか、誰に向かって神の国の言葉を語られるのか、どういう状況で伝えられるのかを見極めていらっしゃいました。

実際にはイエスはこの世の中でたくさんのしるしを行って来られました。しかしここまで一体何人の人が主イエスについて来たでしょうか。この世の人たちは主イエスの言葉を聞きしるしを見てもここまで従ってくる人たちは12人の弟子たちだけだったのです。

主イエスは、「私の掟を受け入れそれを守る人は私を愛するものである」「私もその人を愛してその人に私自身を表す」とおっしゃいました。主イエスのことを本当に愛しその掟を守り主イエスの道を行こうとする者でなければ、メシアのしるしを見てもメシアの言葉を聞いても理解はできないのです。

一度は主イエスを受け入れようとした人たちも、「人の子の肉を食べその血を飲まなければあなたたちのうちに命はない」という主イエスの言葉を聞いて皆離れていきました。あれだけ主イエスがたくさんのしるしを行ない神の国の教えを説かれても、主イエスを追いかけてきたあの何千人もの人たちはもうここにはいないのです。

主イエスはユダにこうお答えになりました。「私を愛する人は私の言葉を守る。私の父はその人を愛され父と私とはその人のところに行き一緒に住む。私を愛さない者は私の言葉を守らない」

どれだけたくさんの奇跡を見ようともイエス・キリストを愛そうとする心がなければ何も起こらないのです。これが、キリストのユダに対するお答えでした。

しかし、それではこの夜弟子たちが主イエスのおっしゃることを全て理解したかというとそうではありませんでした。主イエスご自身、弟子たちがすべてを理解するだろうと期待していらっしゃいませんでした。

14:26で主イエスはおっしゃいます。「父が私の名によってお遣わしになる聖霊があなた方にすべてのことを教え、話したことをことごとく思い起こさせてくださる」

主イエスはこの夜、弟子たちの足を洗われました。弟子たちにはその意味がわかりませんでした。「あなたが私の足を洗ってくださるのですか」と言うペトロに対して主イエスはおっしゃいます。「私の知っていることは今あなたにはわかるまいが、あとでわかるようになる」

この夜、弟子たちは後々思い出すべき時を過ごしていたのです。このキリストと過ごす最後の夜は、後の自分たちが、信仰の歩みにおいて常に立ち返るべき時となるのです。

主イエスが弟子たちにこれからご自分が去って行かれることを説明されたことで弟子たちは不安になり心がかき乱されました。しかし主イエスは弟子たちが離れ離れになっても、それで全てが終わりではないとおっしゃいました。聖霊を彼らにお与えになりキリストは彼らと共にいることになる、と約束されたのです

弟子というのは学ぶ者という意味の言葉です。彼らは一体何を学ぶのでしょうか。我々キリスト者はこの信仰の生活の中で何をキリストから学ばせていただくのでしょうか。

学びにもいろいろあるでしょう。聖書や教会のことを学問的に学んで知識を増やして行くという学びもあります。しかし神学の知識を増やして行くということが信仰者としての学びなのでしょうか。

キリストが聖霊を通して自分と共にいてくださっている、ということこそが、本当の信仰の学びなのです。たとえその姿が見えなくても一度もその実際の声を聞いたことがなくても、「今あの方は確かに私の傍らにいらっしゃる」という確信があれば、それこそがイエスキリストがこの夜弟子たちに伝えようとした真の学びなのです。

40年間荒れ野を歩き続けたイスラエルの民は、その歩みの中で何を学んだでしょうか。申命記の8章にはこう書かれています。「人はパンだけで生きるのではなく人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」

私たちの人生・一生涯は、荒れ野です。荒れ野を歩む時、すぐに「神は本当に共にいてくださっているのだろうか」と疑うのです。

キリストの弟子達は、嵐の中の小舟で、キリストに向かって叫びました。「私たちがどうなっても構わないのですか。」これは私たちの叫びであり、祈りです。私たちは荒野の中で、嵐の中で、神に祈りをぶつけるのです。

荒野でこそ、嵐の中でこそ、私たちは学びが与えられます。「まだ信じないのか、信仰の薄いものたちよ。」私たちはそこでイエス・キリストの声を聞かせていただけるのです。あれの中で嵐の中でこそ私たちはパンだけではなく神の口から出る一つ一つの言葉によって自分は生かされているということを学ばせていただくのです。

弟子たちはこの夜イエスキリストがなさったことおっしゃったことを本当の意味で理解することはできませんでした。しかし復活のキリストを知り聖霊をいただき地の果てまでキリストの福音を伝えようとする中で、何度も何度もこの夜のことを思い出したでしょう。

「ことが起こったときにあなたがたが信じるようにと今そのことを起こる前に話しておく」と主イエスがおっしゃったように、この夜彼らに示されたことは、後々の弟子達にとって、信仰の原点となったのです。

キリスト者は、長い人生の中でキリストの弟子として信仰の成長を続けます。その信仰生活の中で私たちが一番気をつけなければならないことは自分が信じたいことだけを信じ、学びたいことだけを学ぶということです。私たちに与えられる学びを自分の都合のいいように解釈したいというのが私たちの自然な思いではないでしょうか。

聖霊はイエス・キリストの名のもとに来るとおっしゃっています。しかし聖霊の言葉でない言葉に私たちは魅力を感じてしまうのです。この世の誘惑の言葉に飛びついてしまったとき、私たちは正しく聖書の言葉に立ち返らなければなりません。

何かを学んだと思った時、何かを悟ったと思った時に、それが本当にイエス・キリストの求めていらっしゃることかどうかを聖書を通して冷静に吟味しなくてはならないのです。

マタイによる福音書で主イエスご自身おっしゃっています。「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し天地が消え失せるまで律法の文字から一転一画も消え去ることはない」 Continue reading

7月27日の礼拝説教

 ヨハネ福音書15:1~8

キリストは弟子たちとの最後の別れの時を過ごされました。弟子たちひとりひとりの足を洗い、ご自分がいなくなった後どうすべきか、どうあるべきかということをお伝えになりました。そして14章の最後で「さあ、立て、ここから出かけよう」とおっしゃってご自分の十字架への歩み自ら歩みを進めて行かれます。

今日私たちはイエス・キリストが弟子たちに、「私はまことのぶどうの木である」とおっしゃった場面を読みました。「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。」有名なイエス・キリストの言葉です。

「ここから出かけよう」とおっしゃってからの言葉なので、歩きながら、キリストは「私につながっていなさい」と話されたのでしょう。

これまでも、福音宣教の旅の中でイエス・キリストは弟子たちや人々に向かってご自分を何かに例えながら、「私は何々である」という言い方をしてこられました。「私はまことのパンである」とか、「私は世の光である」とか、「私は良い羊飼いである」というように、ご自分が神から遣わされたメシアであることを、「私は〇〇である」という表現で示してこられました。

しかし、それを聞いた人達が全員その意味が分かって「この方はメシアだと」受け入れたわけではありませんでした。6章では、「私の肉を食べ私の血を飲まなければ、あなたたちのうちに命はない」とおっしゃったキリストの言葉を聞いて皆「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられようか」と離れて行ったことが書かれています。

今日読んだところが、ヨハネ福音書で最後の、「私は何々である」というキリストのたとえになります。十字架に向かって歩みながら、おっしゃいます。

「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である」

この例えは、今までのものと少し違っています。キリストはこれまではご自分が何者であるかということを例えてこられましたが、ここでは、「私の父は農夫である」と、天の神についてもたとえいらっしゃるのです。

この15章のキリストの例えを読むと、神の独り子イエス・キリスト、父なる神、そして私たちキリスト者の関係性がよくわかると思います。ここでキリストは「私はまことのぶどうの木」とおっしゃっています。単なる「ぶどうの木」ではありません。「まことの」ぶどうの木です。

「まことの」という言い方がされているということは、「まことではない・よくないブドウの木」もこれまであったということでしょう。

聖書の中には葡萄畑やブドウの木に関する記述がたくさんあります。当時の世界ではブドウは身近な果物であり、聖書の中でも度々例えとして用いられてきました。聖書の中では、律法や信仰を語る際に例えとしてよく用いられました。

しかし残念ながら、素晴らしい葡萄の実が実ったということは聖書ではあまり言われていないのです。むしろぶどう園には実が結ばなかったと言うような表現が多いのです。

詩篇80:8

「あなたはブドウの木をエジプトから移し、多くの民を追い出してこれを植えられました。そのために場所を整え根付かせこの木は地に広がりました」

詩篇の詩人は神がイスラエルの民をエジプトから救い出してくださった出来事を「農夫が葡萄の木を新しい場所に植えた」、というイメージで歌っています。そこでたくさんのぶどうの実が実ったかというとそうではないのです。このような言葉が続きます。

「なぜあなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆摘み取って行きます。」

神がエジプトからイスラエルの民を救い出し、約束の地へと新しく民を導き入れられたにも関わらず、そのイスラエルは神を正しく信仰する歩みを続けることができなかったことを嘆く詩人の言葉です。

預言者イザヤもイザヤ書の5章で「ブドウ畑の歌」と呼ばれる歌を残しています。

「私の愛する方が、肥沃な丘をよく耕して石を除き、その真ん中に見張りの塔を建て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし実ったのは酸っぱい葡萄であった」

これも先ほどの詩編の言葉と同じ内容を歌っています。神によって救われたイスラエルがその救いの御業に報いることなく不信仰に落ちてしまったことを歌うのです。

イザヤだけではありません、ほかの預言者たちも異口同音にイスラエルの不信仰を糾弾してきました。それほどにイスラエルは神のぶどう畑として良い実を結んでこなかったのです。それが神の民イスラエルの歴史でした。

しかし今、イエス・キリストはご自分のことを「まことのぶどうの木」とお示しになりました。これまでの実を結ばず、農夫である神の期待に沿うことをしてこなかったイスラエルとは違う、新しいぶどうの木として正しい信仰の象徴としてご自分を示されるのです。

「私はまことのぶどうの木」というのは不思議な言い回しだと思います。イエス・キリストが農夫であり実の収穫をされる側でお話しなさっていないのです。キリストはむしろ収穫される側のブドウの木にご自身を例えていらっしゃいます。神の側ではなくイスラエルの側にご自分の身を置いて「私はまことのぶどうの木である」とおっしゃるのです。

ご自身が神の民イスラエルそのものであり、イエス・キリストに繋がることによって私たちはイスラエルの民とされているのです。信仰者の群れの中心にはこの方がいらっしゃるということでしょう。

洗礼者ヨハネは荒野で叫びました。「悔い改めにふさわしい実を結べ。」

「悔い改めにふさわしい実」とは何でしょうか。キリストはおっしゃいます。「ぶどうの枝が木につながっていなければ自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも私につながっていなければ実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなた方はその枝である」

「悔い改めにふさわしい実」とは、イエス・キリストに立ち返りキリストに繋がった歩みの中で見せられる何かです。キリストから離れたところでは見ることができない何かのことです。

キリストを知る前、キリストにつながる前、キリストから離れていた時、私たちは何を求めて生きていたでしょうか。キリストを知ってから、何を求めるようになったでしょうか。ここでそれぞれ、振り返りたいと思います。

キリストの使徒パウロはローマの信徒に向けてこう書いています。

「あなた方は罪の奴隷であったときは義に対しては自由の身でした。では、その頃どんな実りがありましたか。あなた方がいまでは恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは死に他ならない。あなた方は、今は罪から解放されて神の奴隷となり聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし神の賜物は私たちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」

キリストとの出会いは文字通り人生の岐路となります。罪の支配の中に生きるか神の支配の中に生きるか。 罪の支配の中で結ぶ実は、死で終わるものです。しかし神の支配の中で結ぶ実は、私達にとって永遠だとパウロは言います。

イエス・キリストから離れたところで私たちが結ぶ実は、どのようなものでしょうか。それが何であれ、この世のもの、過ぎ去るものでしょう。自分がいなくなったら、跡形もなく消えてしまうようなものではないでしょうか。あっという間に過ぎ去っていく宝です。

しかし聖書は私たちに天に富を積むことを教えてくれます。そこには泥棒が入ることもなく朽ちることもなくしぼむこともない宝の貯蔵庫があるのです。私たちの肉体の死を越えて永遠に価値を持ち続ける宝の置き場所があるのです。それを知るということが、肉体の死に向かって生きる中でどんなに大きな希望となるでしょうか。

キリストは「私につながっていなさい」と弟子たちにおっしゃいました。

この「つながる」というのは「留まる」という意味の言葉です。

14章2節で、キリストが「私の父の家には住むところがたくさんある」とおっしゃっていますが、「住むところ」というのが「留まるところ」という意味の言葉です。イエス・キリストが弟子たちに教えを残したこの夜、「留まる」という言葉が何度も何度も使われているのです。 Continue reading

7月13日の礼拝説教

 ヨハネ福音書14:15~21

イエス・キリストが弟子達と過ごされた最後の夜、キリストはご自分がこれから弟子達の知らない場所に行かれること、離れ離れになることをおっしゃいました。弟子達は不安になります。

「私の父の家には住むところがたくさんある。・・・行ってあなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいるところに、あなたがたもいることになる」とキリストはおっしゃいますが、弟子達の不安は消えません。

弟子達の1人、トマスは、「主よ、どこへ行かれるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と言いました。フィリポも、「主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言いました。

弟子達の不安の言葉を聞いて、主イエスはお答えになります。「こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見たものは、父を見たのだ。なぜ、『私たちに御父をお示しください』と言うのか」

キリストと弟子達との間に、もどかしい壁があります。キリストがお伝えになろうとしても、弟子達は自分たちに理解できる範囲・この世的な表面的な理解でしかとらえることができないのです。

弟子達は「父のもとに行く」とおっしゃる主イエスに向かって「どこにその道があるのですか、そこに御父がいらっしゃるのですか」とすがります。しかし、イエス・キリストを目の前に見るということは、父なる神を目の前に見ている、ということだったのです。「私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか」とキリストはおっしゃいます。しかし弟子達はよくわかりませんでした。

このやり取りの後、主イエスは弟子達に「私の名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう」とおっしゃいます。しかしこの時の弟子達にとって一番の願いは「私たちから離れないでください。共にいてください」というものではなかったでしょうか。

その願いに対して、主イエスはおっしゃった言葉が、今日私たちが読んだところです。

「私を愛しているならば、私の掟を守る。私は父にお願いしよう」

弟子達がキリストを愛し、キリストの掟を守るその先で、キリストは弟子達の願いを父なる神に届けようと、おっしゃるのです。実はこれこそが、キリストご自身の願いでした。

私たちは、この時の弟子達の気持ちがよくわかるのではないでしょうか。実際にキリストと旅をして、実際にキリストと別れる経験したわけではありません。しかしキリストには自分と一緒にいてほしい、と思う気持ちは同じでしょう。

この夜の内にイエス・キリストと弟子達は離れ離れになります。そしてキリストの十字架の死によって、生と死というどうしようもない線引きによって引き離されてしまうことになります。しかし、キリストは前もって「それで終わりではない」ということを示されるのです。

「キリストを求める」ということは、「キリストを愛する」ことであり、「キリストを愛する」ということは、「キリストの掟を守る」ことであり、「キリストの掟を守る」ということは、「キリストが共にいてくださる」ことにつながるのです。「キリストの掟を守る」ということは、「キリストの生き方に倣う」ということでしょう。そうすればキリストは共にいてくださるとおっしゃいます。

後にキリストの十字架の死を見た弟子達は絶望に突き落とされることになります。しかし、この夜聞かされた言葉が、彼らに絶望では終わらない何かの希望を抱かせました。

十字架で殺された後、キリストは復活され、やがて天に上げられていきます。結局は弟子達とは離れ離れになってしまいます。しかし、それで終わりではないのです。ではどうやってキリストは弟子達と、また従おうとする人たち・私たちと共にいてくださるのでしょうか。

「父は弁護者を遣わして、永遠に一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である」

ここで「弁護者」と訳されているのは、ギリシャ語で、「そばにいて助けてくれる存在」という意味の言葉です。訳そうとすれば、様々に訳すことができる言葉です。慰め主、励まし手、仲介者、強くしてくれる者、弁護者、などです。キリストはその「弁護者」のことを「真理の霊」と呼ばれました。聖霊のことです。

天と地に離れ離れになるイエス・キリストと弟子達、また信仰者たちが、どのようにして「共にいる」ことができるのか、私たちは不思議に思うでしょう。天と地に離れ離れになるキリストと信仰者は、どのようにして一つになり得るのか、それは「聖霊によってだ」、と主はおっしゃるのです。

「私たちから離れてほしくない、キリストと共にいたい」というこの夜の弟子達の願いは、今の私たちの祈りそのものです。しかしこの世を生きている私たちにとってキリストがおっしゃる「聖霊の働き」というものはよくわかりません。私たちが自分の頭の中で、理屈をこねて理解することはできないでしょう。

キリストから離れたことによる孤独を、弟子達は何より恐れました。その彼らにキリストはこうおっしゃいました。

「私はあなたがたを孤児にはしておかない。あなた方のところに戻ってくる」

私たちキリスト者にとって、いや、人間なら誰しも、一番恐ろしいのは孤独です。自分が望んだ孤独ではなく、否応なく強制された孤独ほど怖いものはありません。孤独は空しさを生み、退屈を生み、無気力にさせます。生きることが無意味なことだと思わせるのです。

私たちが最も神を、キリストを強く求めるのは、孤独の時、生きることにつかれた時、生きることの意味を見失い、空しさに支配されている時ではないでしょうか。

愛する者との間に距離ができた時、神との間にも距離を感じます。

世界にこれだけたくさんの人がいても、孤独を感じる時があるのです。その時こそ、私たちの魂はキリストを強く求めます。「共にいてください」と。私たちが最も恐れるのは、この世界の中で、霊的な孤児になることなのです。

孤独を感じる時、「あなたがたを孤児にしておかない」というキリストの言葉をどう信じればいいのでしょうか。

キリストはおっしゃいます。

20節「かの日には、私が父の内におり、あなたがた私の内におり、私もあなた方の内にいるということが、あなたがたに分かる」

ただ、一緒にいてくだる、傍にいてくださる、というだけではなく、父なる神とイエス・キリストと私たちがそれぞれの内にいることになる、とおっしゃいます。

キリストの使徒パウロは、手紙の中でこう書いています。

「私たちは落胆しません。たとえ私たちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」

弟子達はキリストがおっしゃっている言葉を理解できませんでした。しかし、キリストの復活後に聖霊を受けた弟子達は、「あなたたちはわかるようになる」と言われた通り、内なる人が新たにされ、本当に分かるようになったのです。

彼らはどのように新しくされたのでしょうか。同じ手紙の中でパウロは書いています。

「私たちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。それは主の霊の働きによることです。

聖霊を受けたものは、主と同じ姿・イエス・キリストの姿に作り替えられていく、とパウロは書いています。聖霊が、私たちの内にいて、私たちをキリストに似た姿へと日々新しく変えてくださる、それによって私たちはインマヌエルの恵みを共に生きるのです。キリストが隣に座ってくださっているというのではなく、キリストが私の内にいて、私がキリストの内にいる、という仕方で、共にいてくださるのです。そして聖霊は私をキリストに似た者へと変えてくださるのです。

これが、私たちの想像を超えた、私たちの常識には収まらない、私たちの生涯にわたる聖霊の働きです。

今日読んだ最後のキリストの言葉です。

21 Continue reading

7月6日の礼拝説教

 ヨハネ福音書14:8~14

キリストが十字架に上げられる前の最後の晩、キリストと弟子達の告別の時が持たれていました。13章のはじめで、まもなく十字架に上げられることをご存じだったキリストは「世にいる弟子達を愛して、この上なく愛し抜かれた」、と書かれています。

福音宣教の旅の最後の時、弟子達への愛が高まったキリストがなさったことは、弟子達の足を洗うということでした。そして互いに仕えあうことをお命じになります。弟子達の中には裏切る者がいることをおっしゃり、ご自分は去っていくことになるけれども、弟子達は今ついてくることはできない、とお伝えになりました。

心を騒がせる弟子達に主イエスはおっしゃいます。「わたしがどこへ行くのか、その道をあなた方は知っている」

この夜、自分たちの先生がなさること、おっしゃることすべてに弟子達は戸惑いました。

先生はまるで自分たちが全てを理解しているかのような口調でお話なさっている。でも自分たちは先生がおっしゃっていることがまるで分からない。なぜ先生は自分たちと離れ離れになるとか、自分たちが先生のことを知らないと言うだろうなどとおっしゃるのだろうか。

弟子のトマスは、「主よ、どこへ行かれるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と訴えました。主イエスは「私の父の家には住むところがたくさんある。・・・行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える」とおっしゃいました。「住むところがたくさんある父の家」とはどこなのか。そこへと至る道はどこにあるのか。トマスは知りたかったのです。

トマスはキリストの言葉を物理的な道として理解したようです。キリストと過ごす最後の時になっても、自分たちに言われている霊的な意味を理解することができませんでした。

「私は道であり、真理であり、命である」

イエス・キリストはご自分のことを「道」とおっしゃいました。普通は道というのはどこかにあってそれを自分の足で歩いていくものなのです。主イエスはどこに道があるのかを教える先生ではなく、 道とは私のことだとおっしゃるのです。我々が普通に頭の中で思い描く道とは違います。

キリストはトマスを、より深く、ご自身と神との霊的な関係に目を向けるよう誘われます。

「あなた方が私を知っているなら、私の父をも知ることになる」

主イエスを知ることは、父なる神を知ることだ、と明確に示されました。「私は道であり、真理であり、命である」とおっしゃったのはそういうことでした。キリストが、神へと至る道であり、神を示す真理であり、神と共にある命そのものだったのです。

次に反応したのはフィリポでした。彼もこの時まだ主イエスのことを表面的にしか見ることができていません。フィリポは最初からの弟子であり、ナサニエルやギリシャ人たちを主イエスのもとに連れてきた人でした。主イエスの弟子たちの中でも古株です。それでもペトロやトマスと同じように主イエスのことを自分の人間的な知識でしか捉えることがまだできていません。

フィリポの願いは単純でした。「主よ、私たちに御父を示してください。そうすれば満足できます。」とてもまっすぐで単純で正直な言い方です。そして深い想いのこもった願いだと思います。

たくさんの人たちを主イエスの下に連れてきたフィリポですら、「主イエスを見る者はすでに神を見ている」ということがわかっていなかったのです。主イエスは「フィリポこんな長い間一緒にいるのに私が分かっていないのか。私を見た者は父を見たのだ。なぜ私に御父をお示しくださいというのか」

十字架を前にした、キリストの驚きと悲しみの言葉です。

「神を見たい」という願いは、最も基本的な私たちの本能ではないでしょうか。フィリポは正直です。旧約聖書に出てくるあのモーセも神を見たいと願いました。

出エジプト記33:18~23にそのことが書かれています。

「どうかあなたの栄光をお示しください」とモーセが言うと、神はおっしゃいました。「あなたは私の顔を見ることはできない。人は私を見てなお生きていることはできないからである。」神の神聖さの前に私たちはその姿を見て生きることはできないというのです。

しかしそれでもこのフィリポの願いは地上に生きる者であれば誰もが抱く思いではないでしょうか。ヨハネ福音書の冒頭部分1:18でこう書かれています。

「未だかつて神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方神を示されたのである。」

イエス・キリストはどのように私たちに神を示してくださったのでしょうか。神の手を引いて、「この方が神だ」と引き合わせるような、そんな仕方で神を示してくださったのではありません。

まっすぐにご自分に向かって神を見たいと言ってくるフィリポに対して主イエスがおっしゃったのは「私が言うことを信じられないのであれば、業そのものによって信じなさい」とおっしゃいました。

ここで考えたいと思います。キリストがおっしゃっている「業」とは何でしょうか。確かにこれまでキリストは数々の奇跡を行って来られました。足がたたない人を立たせ、盲人の目を開き、ラザロを墓の中から蘇らせて来られたキリストの業は、神の御業でした。

キリストが語られる言葉は、神がご自分の民に従うことをお求めになる教えであり、水を葡萄酒に変え、群衆をパンと魚で満腹させられたのはその業を通して神の祝福の豊かさが現わされるためでした。神の元から来たのでなければ、神が共にいなければ、神の力を持っているのでなければあのようなしるしを行うことができません。

しかしキリストはただ、「私がこれまですごいことを行ってきたのだから、それを思い出してわたしを通して神を見ればいい」とおっしゃっているのでしょうか。

もちろんこれまでキリストが行ってこられた業のことも含まれているのでしょう。しかし、ここでキリストが「私の業」というのはそれ以上の何かではないでしょうか。

私たちが今日読んだところを見ると、イエス・キリストはこれまでご自分がどんなすごい御業を行ったかということではなく、ご自分の御業に従っていく弟子たちのこれからについてお話しなさっています。

「私を信じる者は私が行う業を行ない、またもっと大きな業を行うようになる」

キリスト者はキリスト以上の業を行うことになる、と言われています。少し驚かされる言葉だと思います。キリスト者がキリスト以上の存在になるということなのだろうか。

キリストがおっしゃっている「私よりも大きな業」というのは、キリストが神の下に行かれ、そこから聖霊を教会に送り、弟子達が、教会がキリストの御業を「世界中で」行っていく、ということでしょう。

人として世に来られた神はイエス・キリストはガリラヤとユダヤ、サマリアという地方で御業を行われました。復活後は聖霊を通して、教会を通して、世界中で神の御業が示されていくことになるのです。それが、キリストが「私よりも大きな業」とおっしゃっていることです。

そして教会が伝えるのは、イエス・キリストの十字架と復活という御業です。キリストがここで「私の業」を信じなさいとおっしゃっている御業とは、これから弟子達に見せられる十字架と復活という大きな御業のことなのです。

キリストは弟子たちに一つの約束をここでなさっています。「私の名によって願うことはなんでもかなえてあげよう。」キリストに従おうとする者にとってこんなに嬉しい言葉はないのではないでしょうか。

しかしよく読んでみますと、「私たちが願うこと」ではなく「イエス・キリストの名によって願うこと」と言われています。私たちは自分たちの祈りを思い浮かべるでしょう。

祈る時には私たちはキリストのお名前を通して祈ります。私たちの祈りは、私たちに何が必要なのか、私たちがどんな望みをもっているのかということを神に教えて差し上げることではありません。祈りの言葉をもつキリストのうちに生き、私たちが祈りの言葉をいただき、キリストの祈りを自分の祈りとさせていただき、キリストのお名前によって祈るのです。そうやって私たちの願い・祈りはキリストの祈りとして神に捧げます。

私たちは自分の祈りを、自分の祈りでありながら、キリストの祈りとして神に届けようとするのです。キリストが私たちの祈りをキリストの祈りとして神のもとに届けてくださるというのです。 Continue reading

6月29日の礼拝説教

 ヨハネ福音書14:1~7

過越祭を目前に控えた夜、主イエスは「あなたがたは私を探すだろう」と、弟子達と一緒に過ごす時間が終わろうとしていることをお伝えになりました。そして「あなたがたに新しい掟を与えある。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」とおっしゃいました。別れの時間が迫っている中で残されたキリストの言葉には、キリストの万感の想いが込められています。

先生との別れの時が来たことを告げられて、弟子のペトロは驚いて尋ねます。「主よ、どこへ行かれるのですか」それに対して、主イエスは「私の行くところに、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる」とおっしゃいました。謎めいた主イエスの言葉です。

ペトロは食い下がりました。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」。「離れ離れになるなど、死んでも嫌だ」、というペトロの気持ちのこもった言葉です。

しかしそれほど強く主イエスのことを慕って訴えるペトロに向かって、主イエスは衝撃的な言葉を告げられました。「鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないと言うだろう」

「あなたのためなら命を捨てます」と言ったペトロは、夜が明ける前に、あと数時間のうちに、まだその舌の乾かないうちに、「イエスなど知らない」と三度繰り返すだろう、と予告されたのです。

弟子達はこのペトロへの言葉を聞いて驚いたでしょう。主イエスと自分たちとの美しい師弟関係に皆心打たれていたところでした。

「そんなバカなことがあるだろうか。これだけ自分たちは主イエスのことを慕い、福音宣教の旅を共にしてきた。その自分たちがこのあとすぐ、『イエスなど知らない』と言ったりすることがあるだろうか。先生はたった今、自分たちの足を自ら洗ってくださった。共に夕食も囲んで、素晴らしい時間を過ごしているではないか。」

この時は、皆主イエスに対して強い気持ちを持っていました。誰もが、命がけで主イエスに従う覚悟を持っていました。

ペトロに話しをされていた主イエスは、弟子達全員に向かって「心を騒がせるな」とおっしゃいました。弟子達は、主イエスがおっしゃった「私が行くところにあなたたちは来ることができない」という言葉の中に主イエスがご自分の死に向き合っていらっしゃることを感じ取ったのでしょう。彼らは「心が騒いだ」のです。

主イエスは「心を騒がせるな」とおっしゃいました。しかし「私が死ぬことはないから安心しなさい」とご自分の死を否定なさいませんでした。むしろ主イエスは、「私はこれから死ぬけれども、恐れなくていい」と示されるのです。死を覚悟した主イエスの言葉と表情を見たら恐れるのが当然でしょう。なぜ弟子達は恐れる必要がなかったのでしょうか。

主イエスは「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」とだけおっしゃいました。全ては、神の御手の内にある救いのご計画の実現である、ということです。人の目には受け入れがたい悲劇に映るだろう、しかし、すべては神の大きな御心の中にある、ということをお伝えになるのです。

「先生はこれから自分たちと離れてどこに行こうとされているのか」、と考えている弟子達に、主イエスはこれから起こることの意味をお示しになりました。

「私の父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなた方のために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、私のいるところに、あなたがたもいることになる」

この言い方からすると、主イエスとの別れは永遠のものではなく、一旦は離れ離れになってもまた再会が与えられることになっていることが分かります。弟子達は、また主イエスを求める者たちは、やがて主イエスによって迎え入れられ、父の家、つまり神のもとに用意された場所に共に生きることになるという計画の中に入れられるのです。

「こうして、私のいるところに、あなたがたもいることになる」とおっしゃいました。

弟子達にとって、この夜、主イエスがおっしゃったことは謎でした。謎であると同時に、それはいくら解説されても分からないものでした。主イエスは前もってご自分に、また弟子達に何が起こるかということだけをおっしゃいました。あなたがたは私を見捨てて離れ離れになるが、神の下に場所を用意して私はまたあなたがたを迎えに来る、とおっしゃるのです。

当然、弟子達はそれを聞かされても理解できませんでした。主イエスは「私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言ってくださっても、分かりませんでした。その時は、です。

キリストの十字架と復活を見て、さらにそこからキリストを見捨てて逃げた自分をキリストご自身が迎えに来てくださったとき、彼らはあの夜のキリストの言葉の意味を本当の意味で知ることになるのです。

この弟子達の信仰体験は、私たちにも与えられているものです。聖書の言葉を読んでも、なんだかよくわからないし、すべて簡単に理解することはできません。しかし、その時キリストの言葉をたとえ理解できなくても、その言葉を心にとめて生きる中で、キリストが何かを見せてくださる時、何かを分からせてくださる時が与えられるのです。

二千年も前に書かれた聖書の言葉が、実は本当に自分のために書かれ、今の自分を生かしているということを教えられる瞬間があるのではないでしょうか。キリストの言葉を、その時は分からなくても、心に留めて生きる中で何かを見せられることがあるのです。信仰とはそういうものではないでしょうか。その時わからなくても、この方を信頼して生きる中でその意味が示されるのです。

私たちは出エジプトを思い起こしたいと思います。エジプトで奴隷とされていたイスラエルは、「エジプトから出て行きなさい」と言われました。モーセが指導者として立てられ、エジプトの奴隷から解放された後、イスラエルは40年間荒れ野を歩くことになりました。

何度もイスラエルの人たちは、「なぜエジプトから出てきたのか、荒れ野で死ぬためなのか」と不平を口にしました。それでも彼らは、昼は雲の柱、夜は被の柱となって導いてくださる神に従って歩き続けました。どこに行くのかわからない、何のために歩いているのかわからない、しかし、神の導きがそこにあるから、神を信じて歩き続けたのです。

荒れ野というのは、道のないところです。荒れ野で神の導きを捨てるということは、自分の道を捨てるということでもありました。

イスラエルが荒れ野の40年の意味を知るのは、約束の地に入る直前、旅の終わりでした。

神はモーセを通しておっしゃいました。

「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた・・・人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」

私たちにも、生きる上での謎があります。試練の時、苦難の時、「一所懸命に生きているのに、なぜ自分にこんなことが起こるのか」と、上に向かってて叫びたくなる時があります。自分が行こうとしている道を進めなくなって、「なぜ前に進めないのか」と悩む時があります。「主よ、なぜですか。キリストよ、なぜですか」と祈る時があります。

しかし、イスラエルが出エジプトの旅の最後にその意味を示されたように、「自分が歩むことを求められていた道は、ここに通じていたのか」と示される時が来るのです。

神の御心がわからず祈る時は、信仰の苦しみの時であるかもしれません。しかし、それでもあきらめずに、聖書の言葉を捨てず、祈った先で、キリストが自分のために用意してくださった道を知れた時、そこにこそ私たちの信仰の喜びがあるのです。

この夜、主イエスがおっしゃる「道」について、弟子達は理解できませんでした。「私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」とおっしゃる主イエスに、弟子の1人、トマスが言います。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちにはわかりません。」

ここで主イエスはおっしゃいます。「私は道であり、真理であり、命である」

「私が行こうとしている道はこういう道だ」という説明ではありません。「私が道である・道とは私である」という言い方をされています。

私たちはどのように「道」を探しているのでしょうか。その道を自分で切り開かなければならないと思っています。しかし、本当は、この方が道であり、この方が私たちに道をくださるというところから信仰の歩みは始まるのです。

主イエスは以前、「私は羊の門である」とおっしゃいました。これも、不思議な表現です。「あそこに行けば門がある」ではなく、「私が門である、私が入り口だ」という言い方です。そうであれば、このイエスという方こそが救いの道そのものであり、救いの入り口そのものであるということになります。

私たちはいつでも「救い」を求めています。「今自分を苦しめているこのことから救われたい」「今自分を支配している空しさから救われたい」という漠然とした思いを持っている。人間関係の悩みかもしれないし、仕事のつらさかもしれない、将来への不安かもしれません。些細なことかもしれないし、死の恐怖へのおびえのような重いものかもしれません。何であれ、心の奥底に、「助けてほしい」という思いを抱えて生きています。

自分で何とかできるのであれば、救いを求めたりはしません。解決策がわかっているのであれば、少しばかり努力をすればいいだけです。しかし、自分にはどうしようもないこと、自分を超えた存在にすがるしかないことがあります。そのようなことを感じた時に私たちは、救いに至る「道」をまた救いに通じる「門・入口」を求めるのです。

ユダヤでは、律法の言葉が、人々を神へと導き、神の支配のもとにとどめるものでした。そして今イエス・キリストは、ご自身が神へと導き、神の支配のもとに人々を休ませる律法そのもの、神の言葉そのものであることを明らかにされたのです。道を探し、真理を求め、命の置き所を探している者にとって、イエス・キリストこそが答えとなるのです。

弟子達はもうすぐそのことを、身をもって知ることになります。キリストを見捨てた自分たち、神から離れた自分たちが、次にどこに道を見出せばいいのか途方に暮れていた時に示された道が、復活のキリストでした。イエス・キリストを通して、弟子達は休息を見出し、永遠の神への礼拝の場を見出すことになります。 Continue reading

6月23日の礼拝説教

 ヨハネ福音書13:31~38

13章の最後のところを読みました。13章の最後ですので当然このあと14章を読んでいくことになります。ヨハネ福音書の14章からは17章にまで続くイエス・キリストの最後の別れの教えと祈りの言葉が記録されています。今日私たちが読んだところは14章からのイエスキリストの弟子達への最後の教えを読むための導入の部分でもあります。

ヨハネ福音書はほかの福音書よりもキリストと弟子達との別れの場面に多くの文字を費やしています。キリストは弟子達と過ごされる最後の地上の時、何度も同じことを繰り返しお伝えになります。

ご自分がこれから去って行かれること。

ご自分がいなくなった後への備え。

そしてご自分がいなくなったとしても、それは神の救いのご計画であること。

イエスキリストが最後に弟子たちにお伝えになった言葉は、細かく学問的に分析するというよりも、私たち自身が祈りを持って霊的に自分に語られた言葉として受け止めるべきものでしょう。

私たちが今日読んだのは、イスカリオテのユダがイエスキリストを裏切るために夜の闇の中へと出て行った直後のところです。ユダがそこを去り、物事が主イエスの逮捕と十字架の死へ動き始めました。

そこで主イエスは弟子たちにまた話し始められます。弟子たちがこれから見ることになるイエスキリストの十字架は、決してキリストの敗北はないということ。むしろ神の救いのご計画の実現であるということ。それは神の子の十字架を通して神が栄光をお受けになる時であるということ。

主イエスは、これまで奇跡のしるしと教えの言葉を通して神の栄光を現してこられました。水をぶどう酒に変えたり、病の人を癒したり、何千人もの人の空腹を満たしたりされた不思議なしるしの意味はイエス・キリストの十字架を通して示されることになります。

イエスキリストが十字架の上で最後の瞬間までこれ以上ない痛みと苦しみを背負い、息を引き取られることこそが、神がこの世にお与えになった最大のしるしでした。

キリストは何か人を驚かすようなことをして、ご自分の人間としての地上の栄光を示されたのではありませんでした。神の子の死という痛みを通して、ひざまずくべきは神であるということを世に示されたのです。

その神秘の栄光について弟子達に思い出させたのち、主イエスはご自分の愛する弟子達に、これが別れの言葉であるということを示されました。「私はあとしばらくあなた方と一緒にいる」

彼らは主イエスを探すことになる、しかし、弟子達は一緒に来ることはできない、とおっしゃいます。

弟子たちは衝撃を受けました。これから実際に主イエスがいらっしゃらない道を歩まねばならなくなるのです。そしてそれは、キリストが弟子達を愛したように、弟子達も互いに愛し合うという道でした。

「あなた方に新しい掟を与える。お互いに愛し合いなさい。私があなたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならばそれによってあなたがたがわたしの弟子であることを皆が知るようになる。」

なぜキリストは「新しい掟」とおっしゃったのでしょうか。何が新しいのでしょうか。「互いに愛し合いなさい」ということは、新しい掟ではないのです。旧約聖書のレビ記19:18には「隣人を自分自身のように愛しなさい」という有名な律法の言葉があります。これこそ律法の核心とでも言うべき古くから大切にされてきた教えでした。

では一体何が新しいのでしょうか。それは、愛し方でした。「私があなた方を愛したように」互いに愛しなさい、ということです。

13章はキリストが「この上なく弟子達を愛された」という言葉で始まっています。その思いの現れとして、キリストは弟子達一人ひとりの前に跪いて足を洗われました。神は独り子をお与えになったほど世を愛されたとあるように、キリストは弟子達を愛し、足を洗い、そしてこれから彼らのために死なれるのです。

そのキリストに愛された弟子達、キリスト者は、どう生きるべきなのか。どのようにキリストの愛に報いればいいのか。キリストは「私があなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」とおっしゃるのです。それが、独り子をお与えになるほどの神の愛への報い方なのです。

キリストに愛されたように互いを思いあう、いたわりあうということが、キリスト者であることの証となり、そしてそれが、イエス・キリストを指し示す証、しるしとなる、と言われています。

私たちは立ち止って考える必要があるでしょう。私たちはなぜ人を愛するのでしょうか。少なくとも、キリスト者として私たちが互いを大切にしようとするのは、相手が愛しやすいからではないでしょう。人を愛することは道徳的・倫理的にそれが正しいだろうと思って愛するのではありません。誰かを愛して、自分が満足するためでもありません。イエス・キリストへの応答として我々は互いを愛するのです。そこにこそ、キリストにある平和が生まれるのです。

弟子達は、この時キリストがおっしゃっていることが理解できませんでした。「あなたがたは私を探すだろう」などと先生はおっしゃっている。「だから互いに愛し合いなさい」などとおっしゃる。

たまらずペトロは尋ねました。「主よ、あなたはどこに行かれるのですか。」それに対して主イエスは「私の行くところに、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる」とお答えになりました。

ペトロは不服でした。なぜ先生は自分たちから離れていかれるのか。そしてなぜ今一緒について行くことができないのか。

ペトロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と言いました。強い気持ちの表明です。しかし、キリストはおっしゃいます。「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないと言うだろう」

この後、ペトロは主イエスがおっしゃったように、わずか数時間後、私はナザレのイエスなど知らない、と三度繰り返してしまいます。そのことを知っている私たちにとって、「あなたのためなら命を捨てます」と豪語したペトロの姿は滑稽に見えるでしょう。しかし、誰も彼を笑うことはできないでしょう。ペトロだけでなく、他の弟子達も同じでした。

キリストの十字架の死の後、ペトロをはじめ弟子達は一か所に集まり、身をひそめていました。皆、キリストを見捨てて逃げたのです。そして「あなたはナザレのイエスの弟子だ」と指さされることが恐ろしかったので身を寄せ合って隠れていたのです。早くエルサレムの人たちがナザレのイエスのことを忘れてほしい、自分たちの顔も忘れてほしい、と願ったでしょう。

主イエスの十字架の出来事から三日目の朝、その墓が空になったという知らせが入りました。ペトロは墓に走って行き、墓が空になったことを自分の目で見ました。そしてその日の夕方、ペトロは、弟子達は、復活のキリストに再会しました。

イエス・キリストは、「なぜあの時私を見捨てたのか」とはおっしゃいませんでした。「あなたがたに平和があるように」とおっしゃって再び彼らを召し出されたのです。

ペトロは故郷ガリラヤに戻り、再び漁師として魚を採るようになりました。そこでまた復活のイエス・キリストに再会します。彼はそこで主イエスから「私を愛しているか」と三度問われました。「あなたを愛しています」と答えたペトロは、主イエスから言われます。「あなたは行きたくないところへと連れていかれる」

キリストに愛され、召された者として、ペトロ自身が行きたいところではなく、神がペトロにお求めになるところへと連れていかれることになるのです。ペトロは、キリストに許された者として、自分の道からキリストの道を歩むことになるのです。

これが、「信仰に生きる」ということではないでしょうか。自分が行きたいところではないところへと連れていかれることになるのです。自分が行きたいところではなく、神が私たちに必要な道へと導き入れてくださるのです。中には、自分が行きたくない場所もあるでしょう。しかし、「行きたい・行きたくない」とかいうことを超えた何かが、私たちのために用意されているのです。

使徒言行録を見ると、そのことがよくわかります。キリストの使徒たちは、自分が行きたいところではなく、行くべきところへと聖霊によって導かれていきました。

ペトロがヤッファという港町にいた時、ローマの百人隊長コルネリアスという人からの招きの使者が迎えに来ます。ガリラヤの田舎のユダヤ人の漁師に、ローマの軍人が、しかも百人隊長が会いたいと言って来ました。

ペトロとコルネリウスの間には、当時では天と地ほどの身分の違いがありました。ペトロには、キリストの使徒として働く自分をローマの軍人が殺しに来たのかもしれない、という不安もあったでしょう。

しかし、ペトロは、コルネリアスが聖霊によって幻を見せられて自分を招いているということを知って、はるか北のカイサリアまで出向いて行きました。ペトロは自分が行きたい場所ではなく、行くべき場所へと向かったのです。 Continue reading

6月8日ペンテコステ礼拝説教

 使徒言行録9:1~9

今日はペンテコステです。祈る群れの上に聖霊が注がれ、そこからイエス・キリストの出来事を証言する群れが起こされ、キリスト教会となりました。ペンテコステはギリシャ語で50という数字を表す言葉です。過越祭から数えて50日、つまり、イエス・キリストの十字架から50日目に、聖霊が下るという出来事が起こりました。

ペンテコステは「言葉の出来事」と呼んでもいい事件ではないでしょうか。十字架で殺され、墓に埋葬されたはずの主イエスが復活され、ご自分の弟子達をはじめ多くの人たちに復活のお姿を現わされました。

死人の復活など、誰も信じることができなかったことです。主イエスの墓が空になったということを伝え聞いた弟子達でさえ、「あの方は復活された」という証言を信じることはできませんでした。弟子のトマスは「私は先生の手と脇腹に自分の手を入れて確かめないと信じない」と言ったほどです。しかし、信じることができない人たちも、実際に復活なさったイエス・キリストに出会うことで、信じざるを得なくなりました。

なぜ死人の復活などということを、キリスト教会の人たちは真剣に、自分の人生や命をかけて伝え残してきたのでしょうか。「死人が復活した」などということを、なぜそんなにも多くの人が、時代を超えて信じることができたのでしょうか。そしてその信仰を貫き、命をかけてまで伝えてきたのでしょうか。

キリスト者は、厳密にいえば、「信じた」のではなく、「信じさせられた」「信じざるを得なかった」のではないでしょうか。死者の復活などありえない、しかし、実際にイエス・キリストが自分の目の前に立っていらっしゃる。信じられないようなことが自分の身に起こった、だから「信じざるを得なかった」のです。

私たちの信仰も、実はそのようなものなのではないでしょうか。何の疑いもなくキリストの復活を信じ、なんの疑問もつまずきもなくキリストに身を委ねることができる人は少ないでしょう。

キリストの復活は本当だろうか。本当にあの方は神の子だったのか、メシアだったのか。そう思いながら、それでも、キリストの救いを否定しきれない、信じざるを得ない導きが確かに自分に及んでいる、というのが、弱い私たちの姿勢なのではないでしょうか。

キリスト者の群れ、教会は実は弱いのです。本当は自分たちの力では何もできないのです。使徒言行録を読むと、ペトロやパウロといった使徒たちが活躍する様子が描かれているので、「こんなにも強い伝道者たちがいたのか」と思わされます。

しかし、よく読むと、彼らは、皆、聖霊に導かれて、自分の思いを超えたところへと連れていかれ、自分が思ってもいなかった働きをするよう用いられていることが分かります。

キリストの復活の後、祈る群れがありました。復活のキリストに会い「時を待て」と言われたキリストの弟子達をはじめとする人たちです。その中には主イエスの母マリアもいました。ペンテコステの日には、120人が祈っていた、と書かれています。その祈りの群れに、聖霊が注がれたのです。

「時を待て」と言われた人たちは、「あなたがたは地の果てに至るまで私の証人となる」と言われていました。しかし、時が来たらイエス・キリストを地の果てまで、世界中に伝える証言者となる、と言われても、どうしていいのかわかりませんでした。だから彼らは祈ったのです。祈って待ったのです。

どうしていいかわからない中、人々にできたことは、ただ「祈ってその時を待つ」ということでした。教会というのは、「祈るしかない」「祈って待つしかない」群れであると言ってもいいかもしれません。「祈って時を待つしかない」、実はそれが教会の信仰なのです。

祈っていた群れに、ついにその時が来ました。120人の上に聖霊が注がれ、突然その人たちが、様々な言語で話し始めたのです。何を話し始めたのでしょうか。「神の業」を話し始めたということが使徒言行録には書かれています。「神の業」それはつまりイエス・キリストを通して現わされた神の救いの御業のことです。人々はキリストの十字架と復活の目撃談を語り始めたのです。

そこには諸国からの巡礼者たちがいました。エルサレムに巡礼に来ていた人たちは、自分の国の言葉でナザレのイエスという人に起こった不思議な神の御業が語られていることに驚きました。

祈る群れに聖霊が注がれ、イエス・キリストという救いの言葉を語り始めた、という不思議な出来事が起こったのです。言い方を変えると、イエス・キリストという言葉の中に人々が一つとされていく時がついに来たのです。ペンテコステはまさに、「言葉の出来事」でした。世界が、一つの言葉の中へと招かれ、一つとされていく時の到来だったのです。

聖書の中には、他にも、「言葉の出来事」と呼べる話があります。旧約聖書のバベルの塔です。これはペンテコステとは反対の「言葉の出来事」でした。創世記の初めには、神がおつくりになった秩序が人間の背きによって壊れていく様子が描かれています。天地創造の秩序の崩壊、人間の罪による混乱の物語が、創世記1章から11章まで続きます。その混乱の頂点ともいえるのが、「バベルの塔」として知られている物語です。

聖書にはこう書かれています。「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。」その人たちが、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と相談して、大きな塔を作ろうとしました。

「シンアルの地」というのは、バビロンのことです。バビロンは昔強大な帝国を築き、ジグラットと呼ばれる大きなピラミッドを建築しました。この物語の背景には、そのようなバビロンの巨大な建造物があるのでしょう。そして、世界を自分の支配下に置こうとしたバビロン帝国の末路も、この物語の背景にあるのでしょう。

神は建築に携わっていた人たちの言葉を混乱させ、言葉が聞き分けられないようにされました。こうしてバベルの塔は完成することはありませんでした。それだけでなく、人々をそこから全地に散らされた、とあります。神が、混乱を人々にお与えになったのです。そうやって、「天に近づこう」「神に近づこう」とする人間の計画を砕かれました。

バベルの塔の物語は、ペンテコステの出来事と真逆のことが描かれています。上から聖霊が注がれ一つの言葉の中へと人々が招かれたというペンテコステとは反対に、人が地上から、下から積み上げていったものを、神は上・天から壊し、ばらばらにされたのです。「人間が一つの言葉の中に平和に生きることができなくなった」という悲劇の現実が描かれているのです。

それは、私たちが生きているこの現実です。このバベルの塔の出来事は、決して過去のことではないのです。今もこの地上にいくらでも作られているし、私たちの心の内にもバベルの塔は簡単に建造されている、ということは、誰も否定できないでしょう。

人間の「天を目指そう、神のようになろう」という思いはいつから始まったのでしょうか。創世記の初め、天地創造の初めからです。神から与えられた楽園で生きていた人間は、楽園以上のものを求めました。

最初の人間が蛇の誘惑に負けます。蛇はエバに言いました。「その実を食べると、あなたは神のようになれるのだ。」その言葉を聞いたエバが木の実を見ると、おいしそうに見えた、とあります。アダムも、エバに勧められてその実を食べました。

人は、美味しそうなものには手が伸びるのです。最も心惹かれるのは、「あなたは神のようになれるのだ」、という囁きです。あの時以来、人は神のようにふるまいたい、天にまで届きたいという思いを内に秘めたまま生きてきたのです。

ダニエル書に、バビロンの王ネブカドネツァルが王宮の屋上の散歩をしていた時の言葉が記されています。「なんとバビロンは偉大ではないか。これこそ、この私が都として建て、私の権力の偉大さ、私の威光の尊さを示すものだ」

自画自賛の言葉、神のように振る舞うネブカドネツァルの言葉です。その言葉に対して、神の言葉が与えられます。「ネブカドネツァル王よ、お前に告げる。王国はお前を離れた。・・・お前は、いと高き神こそが人間の王国を支配する者で、神はみ旨のままにそれを誰にでも与えるのだということを悟るであろう」

このような神とのやりとりを、誰もがしているのではないでしょうか。本当はネブカドネツァルと同じことを自分も言ってみたい、と思うのです。すべてが、自分の思うようになれば、どんなに楽で、楽しいでしょうか。

しかし、その言葉を求める人は必ず、神からの追放の言葉が下ります。そして、神から離れた場所へと追いやられ、また立ち返りの道を模索し始めることになるのです。人の歴史はこの連続でした。

今日私たちはペンテコステを迎えました。あのバベルの塔の悲劇を踏まえて、ペンテコステの出来事を読むと、まさに、「救いの時が来た」ということが分かるのではないでしょうか。神から離れていた世の人々を、イエス・キリストという一つの言葉の中へと招く聖霊が祈りの群れに注がれたのです。

聖霊が注がれた弟子達はどういう人たちだったでしょうか。「聖霊を受けるにふさわしい人たちだ」と誰もが思えるような群れだったでしょうか。そうではないでしょう。

キリストが十字架に上げられた時に、弟子達は皆逃げ去っていました。ペトロは三度「ナザレのイエスなど知らない」と言ったほどです。これはペトロだけではなく、他の弟子達もそれぞれが逃げた先で同じような言い逃れをしたでしょう。

しかしそのような弟子達を、復活のキリストは再び招かれ、「時に備えよ」と言われました。彼らにもう一度神と共に生きる道を示されたのです。彼らは祈り続けました。祈って時を待ったのです。

そして、ペンテコステの日、聖霊が彼らに下さり、世界中の言葉で、世界中の人たちにどこで一つになれるか、ということを語り始めたのです。神にふさわしくないと思われる人にこそ、神の招きの言葉は伝えられていったのです。

今日私たちは教会の迫害者サウロにキリストが呼びかけられる場面を読みました。キリストの招きは、弟子達だけでなく、教会の迫害者にまで及びました。サウロは熱意をもってキリスト者を迫害していた人です。自分は神のために正しいことをしているのだ、と自信を持っていました。

しかし、復活のキリストは呼びかけられるのです。「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」。このことがあってサウロはパウロと呼ばれるようになり、キリストの霊、聖霊に導きにその生涯をささげることになります。

キリストに出会い、パウロは性格が変わったのでしょうか。違います。パウロはキリストを知って、世界の見え方が変わったのです。聖書の言葉の意味が今までと変わったのです。これまで自分が積み上げてきたものは、しょせん、自分という小さな人間が積み上げてきたものにしか過ぎない。しかし、パウロはイエス・キリストという神の子メシアの導きによって、神の御業のために働く喜びを知りました。パウロは、それまで自分が築き上げてきた人間としての誇りなど、キリストに比べれば塵芥でしかない、と手紙の中で書いているほどです。

私たちも同じでしょう。聖書を読んで、キリストを知って、自分の中身が突然聖くなった、聖人のようになったということはないでしょう。むしろ、キリストに相応しくない自分に、なぜかキリストが出会ってくださった。そしてなぜか自分のような者を用いてくださっている、という不思議の方が大きいでしょう。

私たちはこのペンテコステの日、考えたいと思います。「自分の手は何を積み上げているか。この世界をどう見ているか。人間の欲に基づく計画に自分をささげるのか、神のご計画の中で生かされるのか。」 Continue reading