ヨハネ福音書9:1~12
「私がそうなのです」
旧約聖書の列王記下5章にナアマンという人が出てきます。この人はアラムという国の軍人でした。彼はある時皮膚病になってしまいます。皮膚病に苦しむナアマンに、イスラエル人の少女が「イスラエルの預言者であれば、治すことができるでしょう」と告げました。
ナアマンは、その言葉に希望を託してイスラエルにいる預言者エリシャのもとに向かいました。彼がエリシャのもとに向かう途中で、エリシャの従者がやってきました。従者は「ヨルダン川で七回身を洗って清めるように」、というエリシャの言葉を伝えました。
これに対してナアマンは怒りました。せっかく外国から来たのに、自分に直接会おうともせず「ああしなさい」と言葉だけをよこしてきたイスラエルの預言者に腹を立てたのです。彼は、預言者本人が丁重に自分を迎えて、直接手を触れて自分の皮膚病を癒してくれるものだと思っていました。
腹を立てるナアマンを、周りの人たちが説得しました。「川に入って身を清めるだけではないですか。皮膚病を治すためならもっと大変なことでも従ったはずです。」ナアマンはそれを聞いてしぶしぶ預言者エリシャの言う通りにしました。すると、ナアマンの皮膚病は治りました。
アラムの軍人ナアマンに救いの出来事が起こって、それで終わりではありませんでした。癒されたナアマンは、イスラエルの神を信じるようになります。しかし、自分の国では偶像の神を拝んでいるのです。彼は、これからどのようにイスラエルの神を信じるべきか、ということで悩みました。
ナアマンは改めてエリシャに会い、「自分の国の国王が偶像礼拝の中でひれ伏す時、自分も同じようにひれ伏さなければならないことを赦してほしい」、と願うとエリシャから、「安心していき成し行きなさい」と言われました。
私たちは、アラム人の軍人であったナアマンに起こった救いと、信仰を持ったがゆえの試練に、自分自身に与えられた救いと、信仰生活の中にある試練を重ねることが出来るのではないでしょうか。
ナアマンに起こった救いは、ナアマンが期待していたのとは違う仕方で実現しました。
預言者本人が直接癒しを行ってくれる、と彼は予想していたのです。しかし、預言者は姿も見せず、ただ、川に入れ、とだけ言ってよこしました。
私たちもそうだったのではないでしょうか。人が真の神を知る時、自分には思いもよらない仕方で神が出会ってくださるのです。神が私たちに救いを示してくださる時と場所と方法は、私たちが予想もしていなかったものではなかったでしょうか。
そして、真の神を知った時から、石や木を神と信じる人たちの中で自分がどうふるまっていけばいいか、ということで悩み始めるのです。神を知った後、どのように神に従い続けることができるか、という信仰の試練の道を歩み始めることになるのです。
私たちは自分の手で救いの道を切り拓くのではありません。思いもかけないところから、神はご自身を示されます。そしてその時から、信仰の試練が始まるのです。
旧約聖書に出て来たナアマンがそうであるように、今日私たちが読んだ、キリストに目を癒された人もまた私たちの姿です。
「神の業がこの人に現れる」とおっしゃって、キリストは神殿の境内から出て通りすがりにご覧になった目の見えない人を癒されました。そして癒しを行って終わり、ではなかったのです。
この後、その癒しが行われたのが安息日であったということで、エルサレムにまた議論が生じます。そしてナザレのイエスをキリストを信じる人と信じない人との間に対立が生まれていくことになります。
癒されたこの人自身が、イエスこそメシアであるということの証拠となり、証人となるのです。座って物乞いをするだけだったこの人が、キリストに癒されたことで確かに変えられ、キリストに従う道を選び取り、主イエスを指し示す証し人となっていきました。
これまで主イエスに出会った人たちは皆、生きる道に大きな変化が起こりました。ニコデモやサマリア人女性、池のそばで寝たきりの人・・・皆キリストに出会って、それで終わり、キリストに癒されてそれで終わりではなかったのです。キリストに出会い、キリストに癒されて、そのあと、あの方をキリストであると信じ、証を続ける試練の道を歩み続けることになったのです。そしてキリストの証し人であり続けたのです。
人々は、主イエスに目を癒された人を見て、「この人は誰だろう」と言いました。「あそこで座って物乞いをしていた人ではないか」と言う人もいれば、「似ているだけだ」と言う人もいました。それぐらい、この人自身が変わった、ということでしょう。
私たちは、キリストを知って洗礼を受けて、何が、どれぐらい変わったでしょうか。自分ではよくわからないでしょう。しかし、やはり何かが変わっているのです。
キリストを知らず生きるのと、キリストを知ってキリストと共に生きるのでは、歩む道に、また歩み方に大きな差が生じます。イエス・キリストを知らずに生きるという、もう一つの人生を、私たちはどのように想像するでしょうか。いや、そのような「もう一つの人生」を想像できるでしょうか。
自分とキリストの出会いは、聖書に記されているような劇的なものではなかった、と思うかもしれません。しかし、ここに書かれている、この人に起こったことは、そのまま私たち一人ひとりに起こったことなのです。
キリストは唾で土をこねてその人の目に塗り、シロアムの池に行って洗いなさい」とおっしゃいました。目に土を塗られた人はこの言葉に従いました。これこそ、この人の信仰の業です。
この人は黙って主イエスの言葉に従い、シロアムの池に行って、自分の目に塗られた土を洗い落としました。従わない、という選択だってあったはずです。「目を開けてほしい」と願ったわけではありません。「土を塗っただけで私の目が見えるようになるわけがない」と拒絶することだってできたのです。
しかしこの人は、無言で主イエスの言葉に従いました。ただ、従いました。弟子たちと主イエスのやり取りが聞こえていたのかもしれません。「今から自分に神の業が現れる」、と言った人の言葉を素直に信じ、その言葉に従ったのです。
ナアマンがヨルダン川に身を浸したように、目に土を塗られた人は、シロアムの池に向かい、自分の目を洗いました。この小さな信仰の業が、この人の人生を大きく変えたのです。
その日から人々にキリストの御業を伝える器としての働きが始まりました。「どうして目が見えるようになったのか」と問われて、この人は「イエスという方がこのようにして、癒してくださった」と事実と淡々を伝えました。この人は自分の力で何かをしたわけではありません。この人はただ自分に起こったことを伝えるだけでした。
キリストとの出会いを通して、人は変えられます。私たちは変えられるのです。そして自分一人だけの人生ではないことを知ります。自分を導いてくださる方がいることを知るのです。
シロアムの池に向かったこの人は、キリストに救われた私たち自身の姿です。神が世の初めに土からアダムをお創りになったように、キリストは土をこねてこの人を癒され、新しい命へと導かれました。
シロアムの池で目を洗ったこの人の姿に、私たちは自分自身の洗礼を見ることもできる。キリストによって罪を洗っていただき、新しい道を歩む新しい存在へと創造していただく姿です。ある日の小さな救いの出来事ですが、この人はただ主イエスの言葉に従った、というだけで、聖書の中にその姿が記録され、後世までが語り継がれるようになりました。
私たちがイエス・キリストに出会い、キリストを証しするのも、このようなことではないでしょうか。私たちとキリストとの出会いは、世の片隅で起こった、誰にも知られていないような小さな出来事です。しかし、その救いの出来事が、この世界をイエス・キリストへと、神へと向かわせることになるのです。
キリストに救われた私たちは、世に向かってどのようにキリストを証しするのでしょうか。イエス・キリストについて説明・解説するのではありません。「私はあの方に会った」、と言うだけです。そしてキリストに出会った者として生きるだけです。それが何よりの信仰の言葉なのです。
主イエスはこの盲人をシロアムの池におつかわしになりました。仮庵の祭りは水の祭りであったので、祭りの中で水を汲み取っていました。その水はこのシロアムの池から取られていました。
シロアムの池の水は、エルサレムの人たちにとって「命の水」の象徴でした。そして今、「私は命の水である」「私は世の光である」とおっしゃる方が、この水を用いて一人の盲人に光をお与えになりました。主イエスの言葉に従った一人の小さな信仰者が、命の水で洗われ、世の光が見えるようになったのです。
この人を遣わした、イエスという方こそが命の水の源でした。この人を遣わしたイエスという方こそ、世に光をお与えになる方だったのです。
「シロアム」とは「遣わされた者」というという意味だと記されています。盲人は「遣わされた者」という意味の池へと遣わされました。それだけでなく、癒された後、今度はこの世に遣わされる者とされました。この世に神から遣わされた光と癒しが明らかになるために。イエス・キリストが、「この人の上に神の御業があらわれるため」とおっしゃったのはそういうことでした。まさに、地の塩・世の光とされたのです。
キリスト者は、キリストと共に歩みを続けます。それしかないのです。それが「伝道」なのです。私たちはキリストのすべてを理解して、聖書の研究をすべて終えてから洗礼を受けるのではありません。神について知っていることを、体系的に誰かに説明するのが伝道ではありません。キリストに出会い、キリストに救われた者として、自分を晒して生きること、それが伝道なのです。
私たちはキリスト者として生きるということ自体が、一生続く試練であることを知っています。神を信じているというだけで馬鹿にされたり、キリスト者であるというだけで距離を置かれたりすることもあります。
しかし、その試練の中でこそ私たちは用いられているのです。パウロが書いているように、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」のです。楽しいことだけ、嬉しいことだけが私たちの信仰生活ではありません。様々な信仰の試練を祈りながら進むことで、「万事が益とされていく」のを見ます。そして自分を通して神の御業が行われていることを知っていくのです。
もし自分が神を知らないままだったと考えたら、どうでしょうか。全く違う人生を送っていたのではないでしょうか。それほどまでに、聖書の言葉は私たちの歩みを導く力があるのです。
キリストに癒された人は、周りで騒ぐ人たちに一言、こう言いました。
「私がそうなのです」
イエスが本当にキリストであるかどうかを求めている人がいます。キリストに救われた人が本当にいるのかどうか、確かめたい人がいます。その時、私たちは、胸を張って「私がそうなのです。私はキリストに救われたのです」と立ち上がりましょう。