10月22日の礼拝説教

ヨハネ福音書1:1~18

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(1:4)

旧約聖書の知恵文学・箴言の中に、こういう言葉があります。

「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め。私によって、あなたの命の日々もその年月も増す。あなたに知恵があるなら、それはあなたのもの。不遜であるなら、その咎は独りで負うのだ」9:10

我々人間にとって、神を知る・神に立ち返るということは、知恵の初めである、と聖書は言います。同時に、その神を知り、神の元へと立ち返る知恵を我々に教えてくれています。

聖書を通してまず私たちが学ぶべきことは、自分が神に背を向け、神を忘れて「知恵」をなくしてしまった闇に生きている、ということです。聖書はその闇のことを「罪」と呼んでいます。私たちはその自分の「罪・闇」を知るところから、光を求め始めるのです。そして聖書は「神から離れた罪の闇」から救い出してくださる存在を指し示します。イエス・キリストです。

創世記を見ると、土なる存在アダム、命なる存在のエバが「あなたも神のようになれるのだ」という蛇の誘惑の言葉で、食べてはならない実を食べ、超えてはならない一線を越えてしまった出来事が記されています。これは、人間を支配する「罪」の力の本質を教える出来事です。

人間にとって真の神に背を向けることほど悲惨なことはありません。自分の手で神を作り出すか、自分が神のようになろうとするしかなくなるのです。自分の手が神を作ったり、自分が神になろうとする・・・それが、真の神を忘れた人間が陥る道です。それは空しく、破綻にいたる道なのです。

しかし、ヨハネ福音書はその冒頭で、そのような私たちに神の方からこの世に迎えに来てくださった救いを高らかに宣言するのです。

今日も私たちは、先週と同じ、ヨハネ福音書の冒頭部分を読みました。この福音書は、他の三つの福音書とは違った角度からキリストを証ししています。言葉が抽象的で分かりにくいところもあります。この冒頭部分も、一度読んだだけではよくわからない内容ではないでしょうか。

しかし、「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め」という箴言の言葉を思い出したいと思います。私たちが読んだこの冒頭の言葉の中に、我々が知らなければならない「知恵・分別」があるのです。

古代、ギリシャ哲学や、東方オリエンタル宗教は、基本的に二元論を持っていました。世界を真っ二つに分ける考え方です。多くの人々は、物質世界と精神世界をはっきりと分けて考えていました。

神はこの世を超えた光の中にいらっしゃり、私たち肉の存在である人間は、造られたこの物質世界の闇の中に押し込められている・・・天と地には明確な区別がある。霊の世界と肉の世界が交わることはない、という考え方です。

多くの人は、この世界を邪悪なものとして見ていました。肉体も、罪の肉であり、意味を持たないものでした。自分たちの魂が、この肉体の牢獄から解放されて神の元に戻って行く、という願いを持って生きていたのです。そのような時代に、この福音書は記されました。

この福音書の初めの部分を読むと、やはり、光と闇、霊と肉、などと二つの世界を想定した言葉がつかわれています。ただ、この福音書が当時の哲学やオリエンタル宗教の二元論と違っているのは、この世界は愛を持つ神によって造られたこと、この世界は「良いもの」として造られたこと、そして神は今でも人間を愛し取り戻そうとなさっていることを示していることです。

3節「万物は言によって成った。成ったもので言によって成らないものは何一つなかった」

「言」とはイエス・キリストのことです。天地創造の際、神がご自分の言葉で世界の秩序を整えていかれたあの「光あれ」という言こそ、イエス・キリストである、というのです。

4節「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」

イエス・キリストは創造主であり、命であり、光である、と伝えます。キリストが来てくださったこの世は、光に照らされた命に満ちた、祝福の世界なのです。

旧約聖書が伝えて来たことは、人間は創造主を見失い、そのことによって命を見失い、創造の光を見失った、ということでした。イスラエルの悲惨な歴史を通して、人間の罪がもたらす苦しみを私たちに伝えています。

この世を空しいものにしているのは何でしょうか。罪です。では、罪とは何でしょうか。神を見失い、神の御心を見失い、神の創造の秩序を忘れた混沌に生きるところへと導く力です。

その混沌・闇の中に、救い主イエス・キリストが我々を迎えに来てくださった事実を福音書は証ししています。福音書に書かれていることは、神話のようなおとぎ話ではありません。真の神が、真の人間となって世に生まれ、最後には十字架でころされた、という歴史的な事実です。

さて、福音書はこの世の混沌の闇の中に、「洗礼者ヨハネが遣わされた」ことをいいます。先ほども少し触れましたが、当時の哲学やオリエントの宗教、いわゆる「二元論」では、神はこの世とは関りを持つとは考えていませんでした。神は神の世界に、人間は人間の世界に生きて、接点はない、と考えていました。神は神の世界で完結していて、この世で生きる我々人間とは無限の距離がある、と考えられ、信じられていました。だからこそ私たち人間は、自分の肉体が生きているこの世界から脱出しなければならない、という思考になっていました。

しかし、ヨハネ福音書は万物をお創りになった神が今も人間を愛し求めていらっしゃる、ということを証しします。

人は神から離れてしまいました。「神のようになれるのだ」という蛇の声に従って、神に背を向け、自分が神になろうとする道を歩み始めました。それでも神は、人間を諦めることはなさいませんでした。何度も預言者に招きの言葉を託し、世に遣わしてこられた。そして時が満ちて、洗礼者ヨハネが遣わされ、キリストがいらっしゃるための道を備え、神の独り子イエス・キリストが来てくださったのです。

神は、世界を創造するだけで、あとは関りを持たないような神ではありません。道を失った人間を取り戻すために招きの御手を伸ばしてくださる神なのです。

洗礼者ヨハネは光を証しするために来た、と書かれています。彼は「光ではなく、光の証しするために来た」と繰り返されています。

ギリシャ語の「証をする・証言する」、という言葉は、後に英語の「殉教する」という言葉の元になります。そのことは、ヨハネから始まり、イエス・キリストを証しするキリスト者たちの信仰の歩みがどのようなものであったかを示しているではないでしょうか。キリスト者たちは、自分たちの生涯をかけて、命を懸けて、イエス・キリストを証言していきました。

そもそも、そのようなキリスト者の証しの業によって、このヨハネ福音書は書かれたのです。聖書が書かれた。

21:24「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である」

一体これまで、私たちを含めて、何人の証し人が起こされてきたでしょうか。一体これまで何人の人がキリストの光を知り、その光の中に生きながら光を指さしてきたでしょうか。何人のキリスト者が、自分の命を懸けて来たでしょうか。

キリストは十字架に上げられ、三日目に復活なさいました。そして弟子達に現れてこうおっしゃいました。

「父が私をおつかわしになったように、私もあなたがたを遣わす」20:21

神がキリストを遣わされたように、私たちもキリストから遣わされているのです。私たちには使命が確かに与えられているのです。キリスト教の知識を増やして、それで終わり、ではないのです。そんな自己完結を求められているのではありません。目の前にいる人・隣にいる人への、「一緒に、光に向かって生きよう。一緒にキリストの下に行こう」という一言を私たちは託されているのです。

5節で、「光は闇の中で輝いている。闇は光を理解しなかった」とあります。「理解しなかった」という言葉は、「克服しなかった、消すことができなかった」という意味もあります。確かに、この世はキリストを理解せず、十字架に上げました。しかし、罪の力は十字架でもキリストに勝つことはできませんでした。

この世に光が来た、ということは、この世の闇が浮き彫りにされた、ということですこの世の闇があぶり出された、ということです。光が来たからこそ、私たちにはこの世の「闇」というものが示されました。本当に戦うべき相手を知りました。それはあの蛇の誘惑の声との戦いです。「あなたは神のようになれる、見えもしないどこか空の上にいるような神など信頼できないじゃないか」という声が、様々な形で私たちに聞こえてくる。いくらでも思いつくのではないでしょうか。

キリストが世に来られたことによって、私たちは戦うべき相手を知ります。神から引き離そうとする世の誘惑です。

私たちは、キリストによって遣わされているとは言え、自分の非力さを知っています。ヨハネ福音書に記されている通り、私たちは光そのものではありません。自分で光ることはできません。しかし、洗礼者ヨハネがそうだったように、光について証しすることならできます。小さな業です。しかしその小さな業は神によって用いられます。

「私は確かにあの時、キリストの光に照らされた」

自分に与えられた天からの光は、自分にしかわかりません。しかし、確かに我々はその光を体験しました。だから、今私たちはここにいるのです。あの光を知っているから、我々はキリストの下に何度も戻ってくるのではないでしょうか。

私たち人間は、神の栄光を映し出す鏡でしかありません。自分自身がキリストの光に照らされることによって、そしてその光の中に留まって生きることによって、その光を、光の源であるキリストを指し示します。

マタイ福音書の山上の説教の中で、キリストはおっしゃった。

「あなたがたは地の塩である。・・・あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともしびを灯して升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のもの全てを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父を崇めるようになるためである」

神の栄光の光に導かれ、その光を世に証しする私たちのことをイエス・キリストは「世の光」と呼んでくださっています。旧約時代の預言者たちのように、私たちは、神に召され、世の光として生きることをお求めになっています。

神は私たちをキリストの光・創造の光で照らしつつ世に遣わしてくださっています。私たちは、その光の下で、その光を求めて生きることで、世の光とされています。そのようにして私たち自身が、キリストという光の下へと人々を導く光とされているのです。

イエス・キリストは、ニコデモというファリサイ派の議員におっしゃいました。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」

イエス・キリストの招きの御業は、今私たちを通して行われています。私たちは、光に照らされ、この世の闇の中で隠れることはできません。キリストの光が私たちを照らすことで、命の源、創造主へと立ち返る道を世に示しています。私たちは確かに用いられているのです。