10月2日の説教要旨

使徒言行禄13:1~12

「魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、誰か手を引いてくれる人を探した。」(13:11)

大飢饉の中、サウロとバルナバはアンティオキア教会からエルサレム教会への援助の品を届けに来ました。彼らがそこで見たのは、エルサレム教会・キリスト者たちに対する迫害でした。ヘロデ・アグリッパが使徒ヤコブを殺し、ペトロも牢に入れ殺そうとしていたのです。

しかし主の天使がペトロを救い出し、ヘロデは神に栄光を帰さなかったことで撃ち倒されてしまいます。エルサレムではそのことで、「神の言葉がますます栄え広がっていった」とあります。

パウロとバルナバは、迫害を超えて働く聖霊の働きをエルサレムで見ました。そしてエルサレムからマルコと呼ばれるヨハネを連れてアンティオキア教会へと帰って行きました。

私たちはこれまで、使徒言行禄を読みながら、教会に対していろんな逆風があったことを見てきました。教会に対する迫害があり、使徒たちの殉教がありました。しかし、どんなに苦難があっても、試練があっても、聖霊の不思議な導きによって教会は道が拓かれていったのです。この世の力は福音の広がりを止めることはできませんでした。

使徒言行禄はこれから、サウロの宣教の姿に焦点を当てていくことになります。サウロはこれからパウロと呼ばれるようになり、ここから本格的に異邦人への福音宣教の旅を続けていきます。サウロは最後にはローマ帝国の中心地、ローマへと向かうことになりますが、今日私たちが読んだのは、その最初の一歩を踏み出した、という場面です。

福音宣教の旅を続けるパウロを、聖霊がどのように用いたのか、これから見ていきましょう。

ステファノの殉教をきっかけにエルサレムの教会に大迫害が起こり、キリスト者たちはエルサレムの外へと追い散らされました。キリスト者たちは、それぞれ逃げた先でキリストを伝えていき、キリストの福音はどんどんエルサレムの外へと広がっていくことになりました。やがて、エルサレムのはるか北にあってローマ帝国の東西を結ぶ国際都市アンティオキアにキリスト者の群れが出来ました。

アンティオキア教会はバルナバとサウロが中心となり、成長を遂げていきます。エルサレム教会がユダヤ人伝道の拠点となり、アンティオキア教会が異邦人伝道の拠点として、それぞれの役割を担っていくことになっていくことになります。

そのアンティオキア教会に聖霊を通して神の言葉が与えられました。礼拝と断食を続ける中に、「バルナバとサウロを私のために選び出しなさい。私が前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために」との言葉が聞こえます。

いよいよ、教会の迫害者だったサウロがキリストの証人として地の果てに至るまで旅を続けていくことになります。

使徒言行禄を読んでわかるのは、神はご自分のために人を召して、その人をご自分の計画のために行くべき場所を示される・・・聖霊は、福音を一か所には留めておかない、ということです。

アンティオキア教会は、ここに名前を記されているサウロとバルナバ、そしてシモン、ルキオ、マナエンを中心に、順調に成長を遂げていました。サウロとバルナバがいれば、アンティオキア教会はますます大きく成長していったはずです。

しかし、神は、二人が一か所に留まっていることをお許しにならなりませんでした。二人には向かうべき場所があったのです。聖霊は、「そこに留まる人」と、「次の場所へと向かう人」をそれぞれ召し出し、一人一人の信仰者に「次にいるべき場所」を示されます。

アンティオキア教会の人たちは「二人の上に手を置いて出発させた」とあります。聖書には短くそのように一言書かれているだけですが、アンティオキア教会の人たちにとっては大きな決断だったでしょう。

本当は、「二人にずっと自分たちの教会にいてほしい」、と思っていたはずです。私たちは、ここで二人を送り出したアンティオキア教会の人たちの信仰の決断を見逃してはならないと思います。主の働きのために、キリストの使徒を、福音宣教者を自分の教会から送り出す、とういうこと、それは、他の場所にいるキリスト者のために、またキリストの福音を待っている人たちのための信仰の業でした。

自分たちの教会が大きくなれば、人数が増えれば、財産が豊かになれば、私たち満足してしまいがちです。それを「教会の成長」と考えるからです。そして、自分たちだけのことを考え始めてしまいます。

しかし改めて、「教会の成長」とは何でしょうか。人数が増え、財産が豊かになることももちろん成長と言えるでしょう。しかし、「霊的な」成長というものもあるはずです。

福音を信じる人の群れをその場所で大きく豊かにしていく、ということに加えて、福音を、また次の場所へと届ける役割を担い、果たしていくこと・・・そのことも、イエス・キリストから託された使命です。

ヨハネ福音書の最後を見ると、復活なさったキリストがペトロをどのように召されたかが書かれています。

「私の羊を飼いなさい。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年を取ると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」

主イエスはそうおっしゃってから、ペトロに「私に従いなさい」とおっしゃったのです。

キリストに従う中で、信仰者は、「行きたい場所」ではなく、神がお示しになった「行くべき場所」へと導かれていきます。「ここにいてほしい」と思う人を別の場所に送り出さなければならないこともあるでしょう。その導きに従う中で、教会は、人間が考える計画を超えて、福音の広がりのために用いられていくのです。

アンティオキア教会は、サウロとバルナバという、教会の中心的な二人を送り出しました。神は、御自分の計画のために留まる人と、次の場所に向かう人をいつもお選びになります。これは今でもそうでしょう。

さて、信仰の決断によってアンティオキア教会から送り出されたバルナバとサウロは、ヨハネを助手として連れて行き、向かったのはキプロス島でした。このキプロス島はバルナバの故郷でした。

地中海全域にユダヤ人は離散して住んでいて、それぞれの場所で礼拝のための会堂を建て、聖書の言葉を朗読し、神の救いのご計画が実現するのを求め続けていました。バルナバ、サウロ、ヨハネの三人は、島の中にあったユダヤ人の諸会堂を巡り、イエス・キリストの十字架と復活を伝えて回りました。

しかし、そこにはバルイエスというユダヤ人の魔術師・偽預言者がいて二人の福音宣教の邪魔をしてきました。バルイエスは、ギリシャ名は「エリマ」と呼ばれていたようです。

キプロス島に駐在していたローマの地方総督のセルギウス・パウルスという人が、バルナバとサウロの二人を招いて神の言葉を聞こうとします。しかし、この偽預言者が地方総督をキリストの福音から遠ざけようと邪魔をしてくるのです。

神に召され導かれた先で使徒たちを待っていたのは、偽預言者との対決でした。キリストの使徒たちが福音宣教の旅に召される、ということは、偽預言者との闘いへと召される、ということでもある、ということでしょう。福音が語られるところでは、いつでも、預言者と偽預言者との対決があるのです。

預言者と偽預言者との闘いは、いつの時代もありました。エレミヤ書を見ると、預言者エレミヤと偽預言者ハナンヤとの対決が記録されています。偽預言者ハナンヤという人が、人々が聞いて喜び言葉を「神の言葉」として伝えていました。

しかしエレミヤは逆でした。人々が聞きたくないような神の言葉を語っていたのです。人々の罪、神の怒り、そして神への立ち返りを訴えていました。それは、神の御心から離れた人たちが「聞かなければならない」言葉でした。

預言者エレミヤは、邪魔をする偽預言者ハナンヤに言いました。

「あなたや私に先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。平和を預言する者は、その言葉が成就する時初めて、まことに主が遣わされた預言者であることがわかる」(28:9)

どちらの預言が成就したでしょうか。エレミヤでした。偽預言者ハナンヤは、間もなく死んでしまいました。

神の言葉を語ろうとする使徒たちの邪魔をした偽預言者バルイエスはどうなったでしょうか。彼はサウロからこう言われてしまいます。

「お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に降る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」

サウロがそう言うと、その言葉通りになりました。これが偽預言者の末路でした。

このことは、エレミヤやサウロだけに起こったことではありません。キリストへの信仰をもって生きる私たち一人一人に起こっている現実です。

ただそこでキリストを信頼して静かに生活したいだけなのに、私たちの周りにはどれだけの雑音があるでしょうか。神を見えなくさせ、自分のことだけを考えさせようとする誘惑の言葉がいかに多いことでしょうか。我々信仰者にとって、誘惑ほど魅力的であり恐ろしいものはないのです。罪の力は必ず私たちの身を亡ぼすところへと導こうとします。

しかし私たちは、聖書に出てくる偽預言者たちの姿から学びたいと思います。聖書の言葉を、自分の評判を高めるために人々が喜ぶように語っていく、聖書を自分本位に利用することは、つまり、偽預言者になるということです。

人々が喜ぶことを言って喜ばせておいて、偽預言者は、結局自分の道を見失ってしまうことになります。神から出ていないものは、どんなに魅力的に見えても、滅んでいくのです。

モーセが、イスラエルに向かって、このような神の言葉を伝えている。

「預言者が私の命じていないことを、勝手に私の名によって語り、あるいは、他の神々の名によってかたるならば、その預言者は死なねばならない」

その通りでしょう。多くの偽預言者がこれまで現れ、そして滅んでいきました。

偽預言者バルイエスは、これまで神の言葉ではない言葉を、神の言葉として人々に語って道を与えてきました。しかし、最後には何も見えなくなり、誰か手を引いてくれる人を探さなければならなくなりました。

キプロス島にいたローマの総督セルギウス・パウルスは、偽預言者バルイエスに起こったことを見て、驚きました。そして、サウロとバルナバが伝える神の言葉を受け入れ、イエス・キリストへの信仰に入りました。

モーセはこうも言っている。

「預言者が主の御名によって語っても、そのことが怒らず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない」

思い出したいと思います。イエス・キリストの宣教は、まずサタンの誘惑との闘いから始まりました。

キリストは「神の子だったらこうしてみなさい」と誘惑されました。「自分のために力を使ってみなさい、自分のためにこの世の栄誉を求めて見なさい」と言われたのです。

キリストに従う私たちにも、同じ誘惑との闘いが常にあります。「自分本位に生きて御覧なさい」という誘惑との戦いは信仰者にとっては日常であると言っていいでしょう。自分本位に生きる、ということは、神を忘れて生きる、ということです。自分を偽預言者へと作り変えてしまう罪の力との闘いです。

信仰者にとって、神の喜びが、自分の喜びとなります。キリストが喜んでくださることが、自分の幸せとなります。自分だけが喜び、キリストも、隣人も喜ぶことができないのであれば、それは、自分自身が偽預言者となって身の滅びへと向かっている、ということでしょう。

福音を伝えようとするところには、必ず、反福音の力があります。私たちはその力に立ち向かわなければなりません。何よりも大切なことは、魔術と神の出来事を混同しない、ということです。偽の預言と、本当の神の預言を混同しないこと。自分の都合・人間の都合のための言葉と、神がお求めになっている言葉を混同しない、ということです。

私たちはキプロス島でのキリストの使徒たちと偽預言者の対決から学びたいと思います。