ヨハネ福音書7:53~8:11
「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」
ヨハネ福音書には、姦通した女性が主イエスのもとに連れてこられた出来事が記録されています。主イエスのもとに、ファリサイ派の人たちが姦通の現場を押さえられた女性を連れてきて、たくさんの人たちが見ている前で、「律法に書かれているように、この女性を殺すべきか」と質問しました。
この出来事は、もともとはヨハネ福音書には書かれていなかった出来事だろうと言われています。物語の流れとして、この事件は唐突すぎるのです。文脈のつながりもありません。今日読んだところが、カッコでくくられているのはそういういう理由です。
ヨハネ福音書 20章30節には、主イエスがなさったことは「この世の書物には書ききれない」と書かれています。その言葉通り、この姦通を犯した女性のエピソードのような、本当は福音書の中に入れられなかったイエス・キリストの奇跡やしるしや教えたくさんあったのでしょう。
福音書には入れられなかったけれども、このエピソードはとても有名でたくさんの人が知っていたことなので、福音書の中に入れて後世の信仰者に語り伝えよう、ということで、後の時代にヨハネ福音書のここに挿入されたのだろう、と考えられています。
この場面を通して描かれているのは、裁かれているのは実は逮捕された女性ではない、ということです。女性を利用してナザレのイエスを裁こうとしてファリサイ派の人たち本当に神の子を裁くことができるのか、人間は神を裁くことができるのか、ということが問われているのだ。
実際に裁かれたのは、この女性を連れてきた人たちのほうでした。「罪を犯したことがない者からこの女性に石を投げなさい」と言われ、一人、また一人と年長者からその場を去って行きます。結局、罪が明らかにされたのはこの女性を引っ張ってきた人たちだったのです。
そして、女性は主イエスから「私はあなたを罪に定めない」と言われ、許しを得て、また日常に戻っていくことになりました。私たちはこのエピソードから何を学ぶことができるでしょうか。
事件は、神殿の境内で起こりました。朝早く主イエスはそこに行き、人々に教えていらっしゃいました。
主イエスの時代の神殿は、誰がどこまで入れるか、という区別が細かくされていました。祭司の庭というのがあり、その手前にはイスラエルの庭、つまり男性が入れる庭、その外側には婦人の庭、異邦人の庭、という風に、誰がどこまで入れるか、ということが細かく分けられていたのです。
そこにファリサイ派と律法学者たちが姦通の現場で捕えられた女性を連れて来ました。つまり、主イエスは「婦人の庭」でお教えになっていた、ということになります。異邦人でなければ誰でも入れる場所であり、誰でも主イエスの話を聞ける場所でした。男性も女性も、すべてのユダヤ人が大勢いるところに、あえてファリサイ派の人たちは捕えた女性を連れて、さらし者にしたのです。その女性をみんなに見えるところ、「真ん中」に立たせた、と書かれています。
しかし、本当の標的は、ナザレのイエスでした。イエスを大勢のユダヤ人の前で失墜させることが彼らの目的でした。そのための舞台は整いました。
彼らは主イエスに向かって「先生」と呼び掛けます。律法の専門家として意見を聞かせてほしい、というのです。「こういう女は石で撃ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」
女性を辱めつつ、「彼らは主イエスを試して、訴える口実を得るため」にそう言った、と書かれています。よく考えられた罠です。この女性は現場を取り押さえられた、ということなので、姦通の罪は明らかでした。
主イエスには二つの選択肢しかありません。「律法で言われている通り、殺すべきだ」と答えるか、「律法ではそう言っているが、従う必要はない。殺すのはやめなさい」と答えるか。
一つ不思議に思うのは、姦通の現場を取り押さえられたのに、女性の相手の男性は連れてこられていないということです。申命記の律法を見ると、姦淫の罪に関しては、男性も女性も両方裁かれなければならないと書かれています。しかしここには、この女性の相手は連れてこられていないのです。貫通の現場で捕えられたのであれば、男性も一緒に捕えられていたはずです。
男性だけは許されて解放されたということでしょうか。ファリサイ派の人たちが主イエスを陥れるために、その二人の関係を利用したということなのでしょうか。男性を使って女性を陥れ、それを利用してナザレのイエスを陥れようとしたのでしょうか。
ファリサイ派の人たちの裏での工作があったのかどうかは書かれていません。しかし女性一人だけが連れてこられたということは不自然であり、用意周到にナザレのイエスを陥れようとしていた人たちの意図が見え隠れしています。大体、ファリサイ派や律法学者たちは、こんなことを公衆の面前で尋ねる必要などなかったはずです。
今彼らが知ろうとしているのは、「モーセがどう言っているか・律法でどう定められているか」、ではなく、「イエスがそのモーセの律法に従うかどうか」、ということでした。ファリサイ派の人たちにとって、男女の貫通の罪を裁くよりもこの2人を使ってナザレのイエスを陥れることの方が大きな目的だったのです。
主イエスはどうなさったでしょうか。「地面に何かを書き始めた」、と書かれています。何を書き始められたのかは、聖書にははっきり記されていません。
主イエスが「女性に石を投げてはいけない」と言えばモーセの律法・聖書の掟を否定することになります。「石を投げて殺すべきだ」と言えば、ローマの法律ではそのような殺人の罪に問われるので、主イエスは殺人を主導した罪で裁かれることになります。
主イエスが律法を否定すれば神殿で教えることはできなくなります。女性を殺すことを認めれば、人々を救うために来たというご自分の主張が崩れてしまいます。
とてもよく考えられた罠だ。主イエスは「どう思いますか」と尋ねられているのに地面に何かを書き続けておられました。
主イエスは一体何を地面に書いていらっしゃったのでしょうか。想像するしかありませんが、ある人は 出エジプト記23章1節の法廷におけるあり方の律法を書いていたのではないか、と言っています。
「あなたは根拠のないうわさ話を流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない。法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し、判決を曲げてはならない。また、弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない」
これは推測でしかありませんが、確かに、この場面にふさわしい律法の言葉でしょう。地面に書いた文字を通して、ファリサイ派の人たちに、自分たちが犯している過ちに気づかせようとなさったのでしょうか・・・。
ファリサイ派の人たちは、なかなか答えようとしないナザレのイエスに対して、しつこく問い続けました。ついに主イエスは立ち上がってお答えになります。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」
そしてまた、地面に何かを書き続けられました。
「姦通の罪を犯した者に石を投げるべきかどうか」、という問題が、主イエスの一言によって、「誰が罪人に石を投げることができるか・自分は罪のない人間であるかどうか」、という問題になりました。
すると「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って、主イエスと女性だけになった」と書かれています。長く生きてきた人たちから順にその場を立ち去った、ということに、私たちは深く考えさせられるのではないでしょうか。人は生きれば生きるほど、思い出す罪が増えていくでしょう。
一体誰が、手放しで他の人を裁くことができるでしょうか。皆、自分の罪に目を向けないからこそ、他人を裁くのです。
主イエスは女性にお尋ねになりました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」女性は答えます。「主よ、誰も。」
女性は、ナザレのイエスに向かって、「主よ」と呼びかけました。本当に自分を許し、自分を救ってくださったのはこの方であり、この方こそ本当の裁きをなさる方であるということを知ったのです。
主イエスは以前エルサレムでおっしゃったことがあります。
「父は誰をも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。全ての人が、父を敬うように、子を敬うようになるためである」5:22
この方が本当の裁きを行われる方であるということは、この方にこそ本当の許しがあるということです。
「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」
「罪を犯してはならない」という言葉は、強い継続の言葉遣いがされています。「罪を犯さない生き方を必ず続けなさい」という、強い言葉です。
これは神殿の境内で、イエス・キリストが罪の許しの宣言をなさった、というとても象徴的な出来事です。「私もあなたを罪に定めない」という言葉は、この方から言われてこそ、私たちにとって本当の救いとなります。
今日読んだ場面のはじめを見ると、こう書かれています。
「人々はおのおの家へ帰っていった。イエスはオリーブ山へ行かれた」
そして、次の日の朝に事件が起こるのです。「朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆がみな、ご自分のところにやってきたので、座って教え始められた。」
これを注意深く読むと、つまり主イエスは前日、人々がそれぞれ家に帰ってからオリーブ山に行かれ、次の日の朝までそこにいて、再び神殿にいらっしゃった、ということになります。夜通し、主イエスはオリーブ山で何をなさっていたのでしょうか。ただそこで野宿された、ということなのでしょうか。
キリストが姦通の現場で捕えられた女性を神殿の境内で許されたお姿が強く印象に残るので、この最初の一文が見過ごされがちです。しかし、キリストがオリーブ山での時間をもって、次の朝に、このような事件が起こった、ということをしっかりと踏まえなければならないと思います。
キリストが一晩オリーブ山で過ごされた、と聞いて思い浮かぶのは、ゲツセマネの祈りではないでしょうか。マタイ、マルコ、ルカの福音書には、キリストがオリーブ山のゲツセマネで祈られた夜の様子が記録されています。ご自分の十字架を前にして、血のような汗を流しながら祈られたキリストの苦しみのお姿が描かれています。
ヨハネ福音書には、ゲツセマネの祈りの場面は描かれていません。しかし、このことからわかるのは、足しげくゲツセマネに通われて、あの夜のような祈りの時間を持たれていたのだろう、ということです。
キリストにとってのオリーブ山での祈りは、罪びとを許すために自分の命を投げ出すための命がけの祈りなのです。その祈りがあって、この神殿の境内での罪の許しがあるのです。
キリストがこの朝姦通の現場を捕らわれた女性に「私はあなたを罪に定めない」とおっしゃいました。それは、「私の権力で許してやろう」という許しではないのです。「私はあなたの罪を背負って、あなたの代わりにこの命を投げ出そう」という許しです。
このキリストの言葉が、キリストの命を懸けた許しの言葉であるということを思い返したいと思います。結局、人を許す、ということは、キリストにしか、神にしかできないことなのです。
マタイ福音書の山上の説教の中で、キリストはおっしゃっている。
「人を裁くな。あなた方も裁かれないようにするためである。あなた方は、自分の裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」
それは彼女に新しい命をお与えになったということであり この言葉は私たちに向けても与えられています。
イエス・キリストは、人間によって裁かれました。有罪とされ、十字架で殺されました。そのキリストが、人間を命がけで許してくださるのです。私たちが一生かけて求めるのは、この方の「私はあなたを罪に定めない」という一言なのです。