9月15日の礼拝説教

ヨハネ福音書8:12~20

「私は世の光である。私についてくるものは闇の内を歩むことなく、命の光を持つことになる」

主イエスはエルサレムに下り、仮庵祭の中で人々にお教えになりました。これまでも何度か触れてきましたが、仮庵祭は「水と光の祭り」です。イスラエルの先祖が、出エジプトの際荒野で神から水をいただき、神ご自身が火の柱をもって夜寝ずの番をしてくださったことで解放への旅路を歩んだことを思い出す祭りです。

イスラエルは、出エジプトという40年の荒野の旅を通して、自分たちが神によって生かされているということを学びました。そして、荒野で神からいただいた命のパンであるマナを、命の水である岩からの水を、世の光である火の柱・神の守りを忘れないように、祭りを行ってきたのです。

主イエスはご自分の兄弟たちから「祭りに行って、自分の教えを言い広めてはどうか」と提案されました。しかしここで大切なことは、ご自分の意志で、時と方法をお選びになり、そうなさった、ということです。

仮庵祭が一番の盛り上がりを見せる最終日に、立ち上がって大声で叫ばれました。

「誰でも、渇いている者は誰でも私のもとに来て飲みなさい」

仮庵祭では、水汲みの儀式が行われます。その時を選び、主イエスは立ち上がって大声で叫ばれました。人々が自分を生かす命の水に心を向けているまさにその時、ご自分こそが生きた水の源であるということを宣言されたのです。

「渇いている人は、ここに来なさい」というのは、神が預言者を通してイスラエルに呼びかけられた言葉です。預言者イザヤを通して神はおっしゃいました。

「苦しむ人、貧しい人は水を求めても得ず、渇きに舌は干上がる。主である私が彼ら答えよう。イスラエルの神である私は彼らを見捨てない。」41:17

「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。・・・耳を傾けて聞き、私のもとに来るがよい。聞きしたがって、魂に命を得よ」55:1~3

そして同時に、ご自分のことを「私は世の光である」とおっしゃいました。それが今日私たちが読んだところです。

仮庵祭では最初の夜、4つの金のランプが神殿の庭に掲げられ照らされます。人々はそこで夜通し踊って祝います。そのようにしてイスラエルが出エジプトの際、荒野で神の光によって守られていたということに思いをはせるのです。

「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。」 出エジプト記13:21

イスラエルが大切にしてきた「光」とは何でしょうか。現代の我々は、「光」と聞くと電気の明かりを思い浮かべるでしょう。私たちは電気の光の中に生きているので、古代の人たちの見ていた闇の深さ、またその恐ろしさがどれほどのものであったかは想像しにくいと思います。

深い闇の中で与えられた小さなランプの光がどれほど人々に安心をもたらしたか、私たちの想像をこえたものがあったでしょう。ましてや、荒野の夜の闇となると、どんなに普段力があっていばっている人であってもなすすべ無くおびえるしかなかったでしょう。

その闇の中で求める光・その闇の中に与えられる光こそが、聖書が指し示すものなのです。それは、暗いところでものが見えるようになる、という意味での光ではありません。生きる中で感じる闇、道を失い、すべての方向がわからなくなった時に感じる闇の中で与えられる神の導きの光のことです。

人は、光を求めます。出エジプトの際の雲の柱、火の柱を今でも求めます。荒野での導きとは、道なきところに自分が行くべき道が示されるということです。それは、言葉を変えると「救い」です。道を失い、もうそのまま滅びるしかない自分に、また生きる道が与えられる、ということです。イスラエルの先祖は荒野で過ごす夜を、神の火の柱の光によって守られました。信仰者にとって、主なる神自身が光なのです。

詩篇27篇1節「主は私の光、私の救い、私は誰を恐れよう」

神ご自身が光です。そして私たちにとっては、イエス・キリストが光そのものなのです。

キリストは「私は世の光である」とおっしゃいました。つまりそれは、出エジプトによってイスラエルを救われた神ご自身であるということです。遠くからご覧になっていた神ではなく、イスラエルと共に荒野を歩み、守り導き続けられた神です。

聖書は、「光」のことを神の言葉・律法の象徴として伝えています。

「あなたのみ言葉は、私の道の光、私の歩みを照らすともしび」 詩篇119篇105節

イスラエルの人たちは、闇を知っていました。それは、単に太陽が沈んで暗くなった闇のことではなく、神から離れた闇です。罪です。

イスラエルの歴史は、神から離れた歩みの歴史、罪の歴史でした。罪の歩みの中で与えられる本当の救い・光は、神であり、神の言葉なのです。

そして今、イエス・キリストはご自分を「真の世の光」として人々に示されました。

「私に従うものは暗闇の中を歩かない」

そうおっしゃる方が、この世に来てくださったのです。キリストに出会う、キリストを知る、ということはそういうことではないでしょうか。キリストは、後で弟子たちに、「私は道であり真理であり命である」とおっしゃいます。キリストこそ、私たちにとって歩むべき道であり、私たちが求めて進む方向であり、私たちを生かす希望なのです。

イエス・キリストが神殿でご自分のお姿を公に現し、皆に聞こえる言葉でご自身が光であることを示されたことがどれだけ大きな意味をもつことであったか、ということを捉えたいと思います。

イスラエルは出エジプトの荒野を神と共に歩みました。神に導かれて、一歩一歩が守られ、歩みを進めることができました。40年間、神は、昼間は雲の柱としてイスラエルを導き、夜は火の柱として寝ずの番をしてくださったのです。

イスラエルの民は、そこに神を見ながら歩きました。しかし荒野を歩き続けるのはつらいのです。イスラエルは叫びました。

「荒野を歩くよりもエジプトで奴隷として生きるほうがよかった」

我々地上を生きる人間にとって、つらいのは、神のお姿が自分の目には見えない、ということではないでしょうか。目に見えないから、神の存在そのものを疑ったり、辛いことがあれば「神は本当にいらっしゃるのか、神は本当に今の自分をご覧になっているのか」、と不安になって信仰が揺れるのです。

では神のお姿が見えたら、私たちの信仰の不安はすべてなくなるのでしょうか。そうではないでしょう。神のお姿が目の前に見えていたとしても、たとえ昼は雲となり夜は火となって守り導いてくださるのが見えていたとしても、「今よりも過去のほうが良かった」、と思うことがあれば、神に不満をぶつけるのです。出エジプトのイスラエルの民の姿を通して、そのことが示されています。全幅の信頼を寄せて従うことに疑問を持ってしまうのです。

ヨハネ福音書は、イエス・キリストのことをとても象徴的に描き出しています。人を生かす水として、パンとして。そして世を照らす光として描きます。

私たちは今、世の光を知っています。光を知っている、ということは、すべての悩み・迷いが消えてなくなる、ということではありません。

マタイ福音書の山上の説教の中で、主イエスはおっしゃいます。

「あなた方は世の光である。」

キリストはご自分に従う信仰者たちのことを「世の光」と呼んでくださいます。

「あなた方は世の光である」とおっしゃって、言葉が続きます。「山の上にある町は、隠れることができない・・・そのように、あなた方の光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなた方の立派な行いを見て、あなた方の天の父をあがめるようになるためである」

世の光である方が、私たちのことを「世の光である」と言ってくださり、「あなた方の光を人々の前に輝かしなさい」とおっしゃいました。

私たちは、キリストという光を知る者として、隠れることは許されないのです。神を信じ、キリストに自分をゆだねる限り、私たちが自分自身のことを「自分は立派じゃない、他の人たちの信仰に比べたら、自分など取るに足らない」などと思っても、神は私たちを隠れたままにはされません。必ず信仰の器としてお用いになります。だからこそ、信仰ゆえの苦しみがあるのです。

イエス・キリストはご自分を十字架の上にさらされました。十字架の上で、世の光として人々に神の栄光を示されました。私たちはあの方の御業に倣うのです。キリストの最期は、「光」と呼ぶには悲惨すぎる壮絶な死でした。しかしそこには命をかけた許しが確かに光っていました。

私たちの信仰生活もそのように用いられていくのです。キリストの歩みは、人々からの賞賛に満ちていたと思われがちですが、そうではありませんでした。敵意を抱かれ、殺意を抱かれ、「あの人は人々を惑わしている」「誰がこんなひどい話を聞いていられようか」と皆離れていったのです。

使徒パウロは手紙の中でこう書いています。

「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」

確かにそうでしょう。自分を求める人は、キリスト・神が見えなくなります。

だからパウロは言います。

「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい・・・あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむとも、恵みとして与えられているのです」

主イエスは以前、サマリアの女性におっしゃったことがあります。「私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」

井戸に水を汲みに来ていたサマリア人女性は、その言葉を聞いて、水瓶をその場において、命の水である方のもとに人々を招くために走って行きました。この女性は、はじめは主イエスが何をおっしゃっているのかわかりませんでした。しかし話しているうちに、「この方こそメシアだ」、と信じるようになりました。

人目を避けて生きていたこの女性にとって、人々を主イエスのもとに招くということは試練だったでしょう。しかし、大切な水瓶をその場に残して、人々の元へと走って行った。メシアを知って、そうせざるを得なかったのだ。突き上げられたのです。命の水、世の光である方がここにいらっしゃる、と自分から声を発しました。

キリストのために苦しむことも恵みであるというパウロの言葉を、私たちもかみしめたいと思います。