05月30日の説教要旨

マルコによる福音書10:32~34

「一行がエルサレムへ上っていく途中、イエスは先頭に立って進んでいかれた。それを見て、弟子達は驚き、従う者たちは恐れた。」(10:32)

なぜ先頭に立ってエルサレムへと向かわれる主イエスのお姿を見て、弟子達は驚き、恐れたのでしょうか。弟子達は、主イエスがなさった二度の受難予告を思い出したからです。

これまで弟子達は、主イエスの受難予告を聞いても信じられませんでした。なぜこれほど力があり、人のために尽くし、人々から信頼を得ている方が、「私はエルサレムで殺されることになっている」などとおっしゃるのか・・・弟子達はあえてその話題には触れず、思い出さないようにしていたようです。

しかし、エルサレムに近づき、一行の先頭に立たれた主イエスのお姿を見ると、嫌でもこれまでの受難予告を思い出さざるを得ませんでした。

今日私達が読んだのは主イエスの最後の受難予告です。主イエスは、驚き恐れる弟子達を集めて最後に念を押されました。

「今、私達はエルサレムへ上っていく。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭うった上で殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」

弟子達は一言も言葉を発していません。何も言えなかったのでしょう。

弟子達は少なくとも、これから入って行くエルサレムには主イエスに対する敵意が待ち受けている、ということはわかっていたでしょう。これまで、エルサレムからやって来た律法学者たちと主イエスは激しく議論を交わして来たからです。

しかし、それでも、主イエスはエルサレムに向かわれるのです。なぜ「私は殺されるだろう」などと敗北宣言のようなことを前もっておっしゃるのか・・・しかも、エルサレムには危険があるとわかっているのに、なぜエルサレムにまっすぐ向かって行かれるのか・・・弟子達は驚き・恐れ、一言も言葉を発することが出来ませんでした。

弟子達は、主イエスと一緒に旅をして、長い時間を共にしてきたのに、主イエスがおっしゃること、なさろうとしていることがまだわっていません。無理解な弟子達の姿が福音書に記録されています。

しかしこの無理解な弟子達こそが、我々人間の等身大の姿なのです。聖書は、人間がどれだけ神のご計画に対してどれだけ鈍感で無知のか、どれだけ神のことを理解せず、信頼せず、神に背を向けて生きて来たのかという、罪の歴史の記録です。

そしてそれは同時に、愚かな人間を神がどれだけ愛し、ご自分から離れて破滅に向かおうとする人間を呼び戻そうとしてくださったのか、という神の人間に対する愛の歴史の記録でもあります。

驚き、恐れる弟子達への最後の受難予告の中で、主イエスはご自分のことを「人の子」という謎めいた呼び方をされました。「私」ではなく、「人の子」です。

これは、旧約聖書のダニエル書に出てくる呼び方です(ダニエル書7:13-14)。預言者ダニエルが、ある晩、夢の中で幻を見ました。

「人の子のようなものが天の雲に乗り、日の老いたる者の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた」

「日の老いたる者」・・・これは神のことです。その神から「人の子」と呼ばれる存在が全世界を支配する権能を受ける、という幻です。

ダニエル書には、地上の王が次々と起こって来るが、最後には、「人の子」と呼ばれる方に世界の全ての支配が与えられる、ということが預言されています。

そして今主イエスは弟子達の前でご自分のことを「人の子」と呼ばれました。「私こそ、神の権威をもつ『人の子』、全世界の支配者として世に到来したメシアなのだ」と、弟子達に示されているのです。

これから弟子達は、主イエスがエルサレムで逮捕され、有罪判決を受け、ユダヤ人から排斥され、ローマ人に十字架刑を宣告され、無残に死んでいくのを見ることになります。

主イエスは、ご自分の十字架が偶然に起る悲劇ではなく、神が歴史の中で準備をしてこられた救いの業である、ということをお伝えになっているのです。これから弟子達が見ることになる主イエスの十字架は、神から全ての権威を託された「人の子」による救いでした。

なぜ、キリストは「私はエルサレムで殺されることになっている」と言いながら、なおエルサレムへと進んでいかれたのか・・・それは、この世の罪人の罪を全てご自分が十字架で背負われるためでした。

神は、独り子に、十字架で死ぬことをお求めになりました。私達の罪を十字架の上で全て背負うことをお求めになったのです。そうやって神は私達をご自分の下に取り戻そうとされたのです。キリストが十字架で苦しまれる姿は、本来は、私がそうなるべきものでした。しかしイエス・キリストは、我々の罪を十字架で背負うために自らご自分を生贄として捧げてくださいました。

主イエスのご自分の十字架のことを「身代金」とおっしゃいます。神は独り子の血を身代金として払って我々を罪の支配から取り戻されました。大きな犠牲、大きな神の愛です。

パウロは、「イエス・キリストによって今日の私がある」と言っています。これこそ、全てのキリスト者が思うことでしょう。皆、キリストに出会う前は、「イエス・キリストの十字架など知らない、自分には必要ない、罪の許しなど信じなくても生きていける」と思っていたはずです。

しかし、私達が自分の罪を知った時、自分の罪と本当に正面から向き合わされた時、私達はあのイエス・キリストの無残な十字架のお姿に向き合わされます。

あのエルサレムのゴルゴタの丘での十字架は私の罪の身代わりだったのだ、と知った時、自分が今生きることが許されているのは、あの主イエスの痛みによるのだ、と思い知るのです。

パウロは「誰が神の御心を理解しつくすことが出来ようか」と言います。そして「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私達救われる者には神の力です」と言います。

イエス・キリストを信じる私達は、愚かでしょうか。信じない人たちから見れば、愚かでしょう。しかし、愚かでいいのです。自分の罪を知り、キリストの十字架の許しを知っている、それで愚かと呼ばれるのであれば、それでいい。イエス・キリストが十字架に上げられる前に馬鹿にされたように、私達も、馬鹿にされればいいのです。

さて、最後に見ておきたいのは、主イエスが弟子達になさった受難予告の最後で、「ご自分が殺された後、三日後にご自分が復活する」、ということをおっしゃっていることです。これは、受難予告であり、復活予告でもあったのです。

皆の先頭に立って歩まれる主イエスの先にあるのは、死は罪に対する勝利である十字架と、それは永遠の命につながる勝利としての復活でした。

今、私達はここで礼拝しています。ここにキリストの十字架によって生かされていることを賛美する群れがあります。これはキリストの勝利だ。

キリストは人々から馬鹿にされ、殺されました。同じように、キリストを信じる私達は、馬鹿にされ、自分の十字架を背負います。そして、キリストが復活なさったように、痛みの向こうにある希望へと信仰をもって進みます。私達の信仰の痛みは、勝利への行進そのものなのです。