07月04日の説教要旨

マルコによる福音書11:11~18

「葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなっていないかと近寄られたが、葉の他は何もなかった。」(11:13)

 過越祭への巡礼のため、主イエスと弟子達は、エルサレムの近くにあるベタニアという村に宿を取られました。

主イエスは日曜日に子ロバに乗って、武器も持たず、柔和で謙遜な姿でエルサレムに入場されました。それは、預言者ゼカリヤが預言したエルサレムの王の入場の姿そのものでした。

 エルサレムに入られる直前に主イエスはご自分の使命について弟子達におっしゃいました。「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た。」

罪にとらわれている人たちを取り戻すために、身代金としてご自分の血を流されるキリストの十字架への秒読みが始ました。その秒読みの中で、主イエスが何をなさったのか、ということを見ていきたいと思います。

私達が今日読んだのは、エルサレム入場の翌日のこと、月曜日の出来事です。

エルサレムに向かうためにベタニアの村から出ようとされた時、主イエスは葉っぱが茂っているイチジクの木をご覧になりました。それは遠くから見たらたくさん実をつけているように見える木でした。しかし、近づいてみると、その木にはイチジクの実が一つもなっていませんでした。主イエスは、その木を呪われます。

 そしてそのままエルサレムの町に入り、神殿の境内に入って行かれました。そこで商人たちが台を置いて、巡礼者たちを相手に、両替をしたり、生贄を売ったりしていたのをご覧になって、お怒りになって台や腰掛をひっくり返されました。

 ここを読んで、どう思うでしょうか。

月曜日に主イエスがなさったことは、私達にとっては首をかしげるようなことではないでしょうか。イチジクの木を、実がなっていないからと言って呪ったり、神殿で大暴れしたり・・・これまで私達が見て来た穏やかなイエス・キリストのお姿からは考えられないような振る舞いではないでしょうか。

イエス・キリストのこれらの振る舞いは、一体何だったのでしょうか。マルコ福音書は、この11章全体を通して、イチジクと神殿を交互に描いています。聖書は、イチジクの木に、その時代のエルサレム神殿を重ね合わせて私達に見せようとしているのです。

イチジクの木は、少し離れたところからだと、葉が茂っていたのでたくさんの実がついているように見えました。しかし、近くで見ると一つも実がなっていませんでした。

エルサレム神殿もそうだったのです。確かに遠くから見れば、立派な建築物でした。しかし、神殿の中では両替が行われ、生贄の売買が行われていたのです。

主イエスにとって、そのようなエルサレム神殿はもはや「祈りの家」ではありませんでした。離れたところから見てどんなに立派に見えたとしても、主イエスに言わせれば、その中身は「強盗の巣」だったのです。

イチジクの木はキリストご自身によって呪われ、枯らされてしまいます。それはエルサレム神殿の運命を暗示しています。実際にエルサレム神殿は、この出来事の約40年後、紀元70年にローマ軍によって破壊されることになるのです。

私達は、この月曜日のイエス・キリストの振る舞いを、「子供じみみた振る舞いだ」と言って、軽んじてはいけないと思います。

イエス・キリストが実を結ばないイチジクの木を呪われた、ということ、そして祈りがなかったエルサレム神殿から商人たちを追い出されたということ・・・これらのことを通して、信仰者は、自分の信仰を吟味しなければならないのではないでしょうか。

神殿は、ダビデ王の後のソロモン王の時代に建てられました。神殿の建築が完成した時、ソロモンはこのように祈りました。

「あなたの民イスラエルに属さない異国人が、御名を慕い、遠い国から来て、この神殿に来て祈るなら、あなたはお住まいである天にいましてそれに耳を傾け、その異国人があなたに叫び求めることを全てかなえてください。こうして、地上の全ての民は御名を知り、あなたの民イスラエルと同様にあなたを畏れ敬い、私の建てたこの神殿が御名をもって呼ばれていることを知るでしょう」

それに対して、神はこうお答えになりました。

「もしあなたたちとその子孫が私に背を向けて離れ去り、私が授けた戒めと掟を守らず、他の神々の元に行って仕え、それにひれ伏すなら、私は与えられた土地からイスラエルを断ち、私の名のために聖別した神殿も私の前から捨て去る。」

神はエルサレム神殿を無条件に守られる、などと言うことはおっしゃいません。

「あなたがたが私を捨てるのであれば、私は神殿を捨てる」とおっしゃるのです。

キリストが呪われたイチジクの木が枯れた、ということには深刻な信仰の問題が隠されています。神殿がもし、「祈り」という実を結ばないのであれば、神ご自身によって呪われ、倒されてしまう、ということです。

主イエスにとって、神殿の境内に両替のための台を置いたり、ここで生贄を売ったりすることは冒涜でした。主イエスは、境内にいた人たちに向かって叫ばれます。

「こう書いてあるではないか「『私の家は、全ての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』」

『私の家は、全ての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』とは、イザヤ書56章に書かれている言葉です。預言者イザヤは、ユダヤ人だけでなく、異邦人たち、全世界の人たちが真の神にもとに集められる日が来ることを預言しました。

イザヤ書56章にそれらの言葉があります。

「私は彼らを聖なる私の山に導き、私の祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。」

「追い散らされたイスラエルを集める方、主なる神は言われる。既に集められた者に加え、更に加えて集めよう、と。」

イザヤがこの言葉を人々に伝えたのは、イスラエルの人たちが絶望に打ちひしがれていた紀元前6世紀の終わりごろのことです。

イスラエルはバビロンという大きな国に滅ぼされ、人々は捕囚としてバビロンに70年間とらわれていました。70年間の囚われの生活の後、ようやく解放されてエルサレムに帰ることができましたが、彼らを待っていたのは、70年前に破壊されたままの、廃墟の都でした。

エルサレムに帰って来た人たちは、エルサレムの復興、神殿の再建どころか、自分たちの日々の生活すらままならなかったのです。イスラエルの人たちは苦しみました。

イザヤは、その廃墟のエルサレムで苦しんでいた人たちに、希望の預言をしました。「やがて、この破壊された神殿が建て直され、そこは全ての国の人々の祈りの家となるだろう。」

廃墟の中でイスラエルの復興を目指した人たちにとって、イザヤの言葉は希望となりました。「いつかここが、神の祈りの家と呼ばれる日が来る」と信じて働いたのです。

やがて、エルサレム神殿は再建され、主イエスの時代には壮大な規模の建築物になっていました。しかし、神ご自身がエルサレム神殿に入ってご覧になったのは、商人たちが両替や生贄を売って商売をしている光景であり、とても「祈りの家」と呼べるものではなかったのです。

主イエスは、神殿の境内から全ての商人を追い出されました。このことも預言者によって預言されています。

ゼカリヤ1421に、神が来られる「その日には万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる」とあります。

イエス・キリストが神殿で台をひっくり返し、商人たちを追い出された時、メシアによって真の礼拝が取り戻される、というゼカリヤ預言が実現しました。

ヨハネ4章で主が一人のサマリア人女性とお話をされる場面があります。話しの中で、主イエスはおっしゃいました。

「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」

主イエスが神殿で商人たちの台をひっくり返し、追い出されたこと・・・これらの一見奇妙とも思えるこれらのふるまいは、全て、今の私達の礼拝へと続くものでした。

私達の礼拝は、私達の信仰生活は、私達の教会は本当に祈りの家となっているか、キリストによって喜ばれるものになっているか・・・そのことが問われています。

我々キリスト教会も同じなのです。キリスト教会であっても、そこに祈りがなければ、キリストご自身の手によって、言葉によって、滅ぼされてしまいます。

新約聖書には、手紙がたくさん入っています。四つの福音書と、ヨハネ黙示録以外は、全て手紙です。何の手紙かというと、当時の教会が抱えていたいろんな問題に対するキリストの使徒たちの手紙だ。

教会の中に実際に起こっていたたくさんの問題に対して、キリストの使徒たちは手紙を書いて、ある時は叱り、ある時は指導しました。これだけたくさんの教会への手紙が残されている、ということは、それだけ1世紀の教会にはたくさんの問題があった、ということでしょう。キリスト教会こそ、あのイチジクの木のように見せかけだけの信仰になる誘惑を受けているのです。

キリストが実をつけていないイチジクの木を呪われたように、私達の中に本当に悔い改めや祈りや賛美が無ければ、キリストご自身の手によって教会は枯らされてしまいます。

私達は、本当に祈りの家で、霊と真理をもって礼拝をしているか、今日のキリストのお姿から省みていきましょう。