8月1日の説教要旨

マルコ福音書12:13~18

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(12:17)

ユダヤの指導者たちは、ナザレからやって来たイエスという人をなんとか捕えようと、考えました。人々から褒め称えられながらエルサレムに入場してきたり、神殿の境内から商人を追い出して人々に教えを説いたりして、過越祭のエルサレムでやってほしくないことをしていたからです。

過越祭に巡礼に来ている人たちを刺激してほしくないし、ローマから目を付けられるようなこともしてほしくない。一番いいのは、このイエスという人を自分たちで捕らえてしまう、ということでした。

彼らは、なんとかしてナザレのイエスの捕えるための罠を考え出しました。それは、一つの質問でした。「皇帝に税を納めるのは、律法にかなっているかどうか」

少し、この質問の背景を踏まえておきます。彼らが聞いてきた「皇帝への税金」とは何か、ということです。

主イエスの時代、ユダヤ地方はヘロデ・アルケラオという領主によって治められていました。ヘロデ・アルケラオの父親は、主イエスがお生まれになった際、メシアの誕生を恐れ、ベツレヘムの地方の2歳以下の男の子を殺させた、あのヘロデ王です。

ヘロデ大王の死後、ヘロデ大王が支配していた地域は、三人の息子たちに分割されて統治されました。その一人が、ヘロデ・アルケラオで、彼はユダヤ地方の領主となったのです。

ローマ皇帝はヘロデ・アルケラオが領主として治めるユダヤ地方の人たちに税を課しました。それは人頭税だった。

人頭税というのは、文字通り「一人頭いくら」、という風に、無条件に課される直接税です。この人頭税は、ユダヤ地方に住むユダヤ人たちにとっては屈辱的なものでした。自分たちの国を占領している外国の王に、ただそこに住んでいるだけで税金を払わなければなりません。ローマ皇帝はユダヤ地方の人たちにとって異邦人・異教徒の王なのです。

実際、歴史を見ると、紀元6年にローマに対する暴動が起こっている。その暴動からまだ二十年ちょっとしか時間が経っていません。このユダヤ人に課せられていたローマへの人頭税が、ローマ帝国に対する火種となっていました。

このような中で、「皇帝に納める税金は律法に適っているか、適っていないか」と尋ねる、ということは、「ローマ皇帝と神と、どちらがあなたにとって大事か」、と公に尋ねるようなものです。

この質問をするために、ファリサイ派とヘロデ派の数人が主イエスの元に遣わされた、とある。

ファリサイ派は、神の律法を厳しく守り、実践していた人たちです。彼らはローマ皇帝への税金に対しては否定的だったでしょう。

ヘロデ派というのは、ユダヤ地方を支配していた、ヘロデ王家の政治の支持者たちです。彼らは、ヘロデ王家の政治を維持するためには、皇帝への税金はやむを得ないと考えていたでしょう。

そのような、それぞれの考えを持つファリサイ派とヘロデ派の人たちが一緒にやって来て主イエスに向かって質問したのです。

「先生、我々はあなた真実な方で、誰をもはばからない方であることを知っています」

主イエスが言い逃れ出来ないように、彼らはへつらいながら、ローマ皇帝への税金は神の律法に照らし合わせて、納めるべきか、納めてはならないのかをはっきり教えてほしい、と言ってきました。

これは聖書に書かれているように、主イエスの「言葉尻を捕えて陥れるため」に、律法の専門家が考えた質問です。主イエスがどう答えても、不利な立場になってしまうよう、よく練られています。

もし主イエスが「皇帝に納める税金は律法に適っている」と言えば、それを聞いていた人たちは、「イエスは神よりもローマ皇帝を選ぶのか」、と思い、主イエスはユダヤの人々からの支持を失ってしまいます。

もし「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っていない、納めるべきではない」、と言えば、ローマの兵士たちから反乱分子として危険視されることになります。

これに対して、主イエスはどう対応されたでしょうか。主イエスは、「皇帝に納税すべきだ」とも「皇帝に納税すべきではない」ともおっしゃいませんでした。

主イエスがまずおっしゃったのは、「デナリオン銀貨を見せなさい」ということでした。デナリオン銀貨は、ローマへの人頭税を支払うために用いられた硬貨です。

その銀貨には、皇帝の肖像が刻まれており、そして皇帝の像と一緒に「神の子」という称号も銘打たれていました。

当時のユダヤ人の人たちにとって、ローマ皇帝・異教徒の王様を「神の子」と讃えているデナリオン銀貨を用いることは屈辱でしたので、ささやかな抵抗として、日常ではデナリオン銀貨ではなく、皇帝の像が刻まれていない銅貨を用いていました。

主イエスはガリラヤ地方の人でしたから、ユダヤ地方の人のように人頭税を払う必要はありません。デナリオン銀貨を持ち歩く必要はなく、この時もお持ちではありませんでした。だから、「デナリオン銀貨を見せなさい」とおっしゃったのです。

しかし、「皇帝への税金は神の律法に適っているか」と聞いてきたファリサイ派とヘロデ派の人たちは、皇帝を「神の子」と讃えている銀貨を持っていたのです。

何気ないやりとりだが、これはとても大事な意味を持っています。このことで、ファリサイ派・ヘロデ派の人たちの下心は丸裸にされてしまいました。周りで見ていた人たちから、「なんだ、あの人たちは皇帝の像が刻まれた銀貨を持ち歩いているのか」と見られたでしょう。

彼らは主イエスから「(君たちが常日頃から持ち歩いている)これは誰の肖像と銘か」と聞かれました。彼らは「肖像と銘」を聞かれましたが、「皇帝のものです」と肖像についてだけ答えています。皇帝のことを「神の子」と讃えている銘については答えていません。恥ずかしかったのでしょう。せめて、皇帝を「神の子」と呼ぶことは控えました

主イエスは、ここまでおっしゃると、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と一言おっしゃって、このやり取りを終えられました。

さて、我々は、この主イエスの言葉を聞いてどう思うでしょうか。ファリサイ派とヘロデ派の人たちに、皇帝への納税が律法に適っているか、適っていないか、はっきり白黒つける答え方はされませんでした。ローマ皇帝のみか、神のみか、というような答えをされなかったのです。

神の子イエス・キリストであれば、「この世の王ではなく、ただ神のみに従いなさい。ローマ皇帝に税金など納めなくてもいい」とおっしゃってもおかしくなかったと思います。しかし、主イエスは、信仰生活とこの世での日常生活を全く分けて考えてはいらっしゃらないのです。

この主イエスの言葉は、この世で信仰生活をしている私達にとって、とても大切な指針を示していると思います。私達は、「信仰生活の中で、どうすれば神に従うことができるのか」、ということを考えます。信仰における義務と、この世で生きていくための義務を、相容れないもの・相反するものとして考えてしまうことはないでしょうか。

そのように突き詰めていくと、「神に従う、ということは、この世の誰にも従わない、ということではないか。自分が生きている社会の中で神だけを見て、社会の秩序には従わない、ということではないか」という極端な考えに流れてしまいます。こうなると、「神に従う、キリストに従う」、ということが「人とは関わらない」ということになりかねなません。

新約聖書のヤコブの手紙の中に、こういう言葉があります。

「私の兄弟たち、自分は信仰を持っているという者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。」

神への義務を果たしても、隣人に対しては何もしない、となるとその信仰は本末転倒でしょう。神はお喜びになりません。

主イエスの言葉は、信仰者としての在り方と、この世の社会に生きる、一人の社会人としての在り方を矛盾するものとして捉えられていません。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」返しなさい、とおっしゃいました。とても単純な答えだ。

私達が神を信じる、ということと、今、この世の中で、この社会に対して一人の人間として責任を果たす、ということは別のことではないのです。

確かに、神を信じて生きる、ということは、この世とどのように距離を保つか、ということが大きな問題になって来ます。しかし、信仰というのは、世を捨てる、ということではありません。世捨て人になることが信仰ではないのです。

ヨハネ福音書で、十字架に上げられる直前に主イエスは弟子達にこういう言葉を残されました。

「あなた方には世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」

主イエスは弟子達に「世を捨てなさい」、とおっしゃったのではありません。「この世の中で、信仰者として勇気をもって生きていきなさい。既に世に勝っている私があなた方と共にいるのだから」、と言ってくださったのです。

実際、我々信仰者は、信仰の務めと、生活の中で、社会の中で果たさなければならない務めに挟まれることがあります。神に対して、社会に対して平等に仕える、ということが難しいこともあります。

しかし、キリストの弟子であることと、社会の一員であることに「どちらか」という意識になってしまいがちな私達に、キリストの言葉は、柔軟な考えを示してくださいます。生きていく中で、その場その場で、果たすべき責務を担って行けばいいのです。

今日我々が読んだのは、キリストがいかにうまく機転を利かせて、指導者たちの言葉の罠から逃れられたのか、ということではありません。イエス・キリストは我々人間が陥ってしまう、「神か人か」、とか、「天上のことか地上のことか」、というような極端に走ってしまう我々の姿勢に注意を促してくださったのです。神か皇帝か、天だけを見るべきかこの世だけを見るべきか、というような、あれかこれかの二元論の話ではありません。

キリストは、我々に、この世にありながら天を見据える視点を教えてくださいます。律法の精神を、「心を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛しなさい」とおっしゃいました。「人のことは放っておいて神だけを愛せばいい」とか「人を愛せば神を忘れてもいい」、などとはおっしゃいません。

我々は神からも、人からも様々なものを受けています。神から受けたものは神に、人から受けたものは人に、できる範囲で返していけばいいのです。キリストは、天を見上げながら、この世を生きている私達に柔軟な姿勢を示してくださいます。神の律法は、我々を柔軟に生きる道へと導いてくれるのです。