マルコ福音書15:33~41
「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(15:38)
「道が拓かれる」
詩編の22編で、このような嘆きが歌われています。
「私は虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。私を見る人は皆、私をあざ笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう』」
「犬どもがわたしを取り囲み、さいなむ者が群がってわたしを囲み、獅子のように私の手足を砕く。骨が数えられるほどになった私のからだを、彼らはさらしものにして眺め、私の着物を分け、衣をとろうとしてくじを引く」
イエス・キリストの十字架はまさに、この詩編の嘆きの言葉が現実になったものでした。そこには、これ以上ない孤独と絶望がありました。ゴルゴタの丘の上、大地は暗くなり、御自分の弟子や仲間もなく、目の前には敵だけがいたのです。
極限の孤独の中、これ以上ない絶望の中で、主イエスは「わが神、なぜ私を見捨てたのですか」と叫ばれました。ゴルゴタの十字架を包んだ暗闇は、神に見捨てられた絶望、そしてキリストが担ってくださった私達の罪そのものでした。
十字架刑を受けた人は何時間も苦しむことになります。十字架の横木に釘で手を打ち付けられ、自分の体重を足で支えないといけないのです。肉体の痛みに加えて、呼吸をすることが出来なくて苦しみます。長い時間痛みに苦しみ、ゆっくりと意識を失っていき、最後には窒息死することになります。
しかし、主イエスの死の瞬間はゆっくりと意識を失っていくようなものではなく、突然でした。「大声を出して息を引き取られた」とあります。
ヨハネ福音書には、主イエスの最後の言葉として「成し遂げられた」という一言が記録されています。「成し遂げられた」・・・それはご自分が神の救いの御業を成し遂げた・自分の使命を果たした、という勝利の言葉とも読めます。
しかし、このマルコ福音書では、ただ、主イエスが大声で叫ばれた、という事実だけが記録されていて、何をおっしゃったのかはわかりません。勝利の叫びだったのか、絶望と苦痛の叫びだったのかわかりません。私たちはマルコ福音書に記録された、キリストの死をどのように受け止め、理解すればいいのでしょうか。
主イエスの死は、一人のユダヤ人が息を引き取った、というだけの出来事ではありませんでした。この方の死は、この世界の歴史の大きな転換点でした。
主イエスの死によって、神殿の奥深くで、異変が起こりました。息を引き取られた瞬間に、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」のです。
エルサレム神殿には垂れ幕が二つありました。一つは、至聖所の入り口にありました。祭司が一人だけで、その垂れ幕を通って中に入り、香をたく場所・至聖所の入り口を垂れ幕が仕切っていたのです。
そして、至聖所の中に、さらにもう一枚、至聖所の中でも最も神聖な空間を区別する垂れ幕がありました。年に一度、祭司がその中に入り、贖罪の捧げものを捧げるのです。
この二枚の垂れ幕の内、どちらが裂けたのかはわからりません。福音書にはそのことは書かれていません。しかし、どちらの垂れ幕が裂けたのか、ということが大事なのではありません。至聖所に至る垂れ幕が裂けた、ということが持つ、その意味が大事なのです。
20メートル近い高さの垂れ幕がただやぶれたというのではありません。「上から」「真っ二つにされた(受身形)」と記されています。聖書は、神が、上から垂れ幕を裂かれた、ということをつたえているのです。
このことを、ヘブ10:19―20ではこう説明しています。
「兄弟たち、私たちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生きた道を私たちのために開いてくださったのです」
十字架の上でイエス・キリストの肉体が裂かれた、ということはすなわち神殿の垂れ幕が裂かれた、ということであり、それは神への道が開かれた、ということだったのです。
祭司だけが入れることになっていた、神との出会いの場所が、祭司以外の人たちにも開かれたのです。神との出会いの場所を遮っていた垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、誰もが神の元へと行けるように、道が拓かれました。
イエス・キリストの死が神殿の中にあった垂れ幕を真っ二つに裂いた、ということ、それは、祈りを失い、「強盗の巣」となっていたエルサレム神殿の中心を破壊した、ということでもあります。ここから、神の目に「強盗の巣」とみなされたエルサレム神殿は、ここから崩壊への道をたどることになります。40年後のローマ軍による破壊への秒読みがここから始まったのです。
そしてキリストの死は、人の手によらない霊の神殿を打ち立てました。キリスト教会です。
イエス・キリストの死と共に、もう一つ、不思議なことが起こっています。ローマの百人隊長が、十字架で死なれたイエス・キリストを見上げて「この人は本当に神の子だった」と信仰を告白したのです。この人は十字架刑の責任者でした。この人の指示で主イエスは十字架へと上げられたのです。
百人隊長にとって、ナザレのイエスは、ユダヤ人の王を自称して逮捕され、ローマへの反逆の罪で十字架に上げられた犯罪人でしかなかったはずです。同じユダヤ人たちからさえも最後まで馬鹿にされ、侮辱され、弱々しく死んでいった、一人の犯罪人でした。
十字架の上で侮辱され、絶望の叫びを上げ、弱々しく死んでいくナザレのイエスを見た百人隊長が、なぜか「本当に神の子だった」と信仰を告白した、というのです。
なぜなのでしょうか。主イエスの十字架での最期を見ると、どこにも神の子だと思えるような要素はありません。イエス・キリストの死の何が、この百人隊長を信仰に導いたのか、百人隊長は何をキリストの死に見出したのか、聖書は何も書いていません。
「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という絶望の叫びがあり、最後に大声を出して死んだ・・・それだけです。主イエスが十字架の上で華々しい奇跡を行われた、とか、主イエスの祈りにこたえて神の声が聞こえてきた、というのならわかります。しかし、ナザレのイエスはこのゴルゴタの丘で、暗くなったゴルゴタの丘で、無残に、誰の助けもなく無残に死んだのです。
百人隊長は、誰よりも、一番近くでナザレのイエスの死を見ました。しかしこの人はナザレのイエスへの信仰告白から一番縁遠い人だったはずです。異邦人の軍人・ローマの百人隊長で、十字架刑の責任者です。その人が、神の子らしくない死に方をしたイエスを見て、「この人はキリストだ」と信仰を告白したのです。
私たちはこのことに、「神殿の垂れ幕が上から真っ二つに裂けた」ということの意味を見ます。ローマの百人隊長は、ユダヤ人でもなく聖書を良く知っている祭司や律法学者でもありませんでした。異邦人の死刑執行人でした。その人が、暗闇のゴルゴタの丘に神の姿を見出したのです。いや、上から見せられた、と言った方がいいかもしれません。信仰の道が「向こう側から」拓かれたのです。神の御手が働いたとしか言いようのないことです。
キリストの十字架の前で、私達は信仰の分かれ道に立たされます。主イエスを侮辱していたユダヤ人たちに神の子の本当のお姿は見えませんでした。そして死刑執行の責任者であった異邦人が「本当にこの人は神の子だった」と信仰を告白しました。
このゴルゴタの十字架をどう見るか、ということが、私たちの信仰の分かれ道となります。この方の十字架を、神に見捨てられて十字架で死んだ罪人と見るか、世の全てを背負い私の身代わりとなって死んでくださったメシアと見るか・・・罪人の死と見るか、神の子による犠牲の死と見るか。
この時、十字架の周りにいた人たちは主イエスの叫びをどのように聞いたでしょうか。この時、主イエスの周りには弟子達はいませんでした。皆、主イエスを見捨てて、どこかに逃げ去っていました。百人隊長のように、強い思いをもって十字架の主イエスを見ていた人はいなかったのでしょうか。
聖書には、主イエスに従って来た女性たちが、遠く離れてこの十字架を見守っていたことが記されています。その中には、「小ヤコブとヨセの母マリア」という人がいました。この人は、主イエスの実の母マリアです。自分の息子の十字架を、マリアはどのような思いで見たでしょうか。
この女性たちが、後に、キリストの復活の目撃者となり、弟子達にキリストの復活を伝える証言者となります。彼女たちはこの時、自分たちの目で、確かに主イエスの十字架の死を見届けました。三日後に、この方の空っぽの墓も、自分たちの目で実際に見ることになります。そしてこの数人の女性たちの証言が、後のキリスト教会の信仰の拠り所となるのです。
ローマの百人隊長と、女性たち・・・この人たちは、主イエスの十字架の死に何かを見ました。それを見せたのは、聖霊ではないでしょうか。神殿の垂れ幕を真っ二つに裂いた力が、彼らの心の中にあった垂れ幕を裂いて、信仰の目を開かせたのです。このちいさな信仰の証言者たちから、イエス・キリストへの信仰は世界へと広まっていくことになります。
ヘブ6:19―20「私たちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入っていくようなものなのです。」
私たち教会は荒波の中でも錨をおろしてじっと耐える船のようなものです。イエス・キリストという方に魂の錨を下ろし、日々天の故郷へと向かうのです。天の故郷への道は、上から拓かれました。今、私たちも、聖書を通してゴルゴタの丘に立ち、百人隊長や女性たちと一緒に、キリストの十字架に神の子の尊い犠牲を見ています。
イエス・キリストの十字架の死からの復活という、誰にも信じられないようなことを証言した人たちがいて、今の私達の信仰生活があります。誰も信じてくれないことを、声高に「あの方は本当に十字架の死から蘇られた」と伝え続けた人たちがいて、今の私達の礼拝があります。
我々は、日々の信仰の試練の中で、キリスト者たちが伝え続けたキリストの十字架と復活の証言へと立ち返ります。そして、キリストの証言者として用いてくださる聖霊に身を委ねるのです。