6月29日の礼拝説教

 ヨハネ福音書14:1~7

過越祭を目前に控えた夜、主イエスは「あなたがたは私を探すだろう」と、弟子達と一緒に過ごす時間が終わろうとしていることをお伝えになりました。そして「あなたがたに新しい掟を与えある。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」とおっしゃいました。別れの時間が迫っている中で残されたキリストの言葉には、キリストの万感の想いが込められています。

先生との別れの時が来たことを告げられて、弟子のペトロは驚いて尋ねます。「主よ、どこへ行かれるのですか」それに対して、主イエスは「私の行くところに、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる」とおっしゃいました。謎めいた主イエスの言葉です。

ペトロは食い下がりました。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」。「離れ離れになるなど、死んでも嫌だ」、というペトロの気持ちのこもった言葉です。

しかしそれほど強く主イエスのことを慕って訴えるペトロに向かって、主イエスは衝撃的な言葉を告げられました。「鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないと言うだろう」

「あなたのためなら命を捨てます」と言ったペトロは、夜が明ける前に、あと数時間のうちに、まだその舌の乾かないうちに、「イエスなど知らない」と三度繰り返すだろう、と予告されたのです。

弟子達はこのペトロへの言葉を聞いて驚いたでしょう。主イエスと自分たちとの美しい師弟関係に皆心打たれていたところでした。

「そんなバカなことがあるだろうか。これだけ自分たちは主イエスのことを慕い、福音宣教の旅を共にしてきた。その自分たちがこのあとすぐ、『イエスなど知らない』と言ったりすることがあるだろうか。先生はたった今、自分たちの足を自ら洗ってくださった。共に夕食も囲んで、素晴らしい時間を過ごしているではないか。」

この時は、皆主イエスに対して強い気持ちを持っていました。誰もが、命がけで主イエスに従う覚悟を持っていました。

ペトロに話しをされていた主イエスは、弟子達全員に向かって「心を騒がせるな」とおっしゃいました。弟子達は、主イエスがおっしゃった「私が行くところにあなたたちは来ることができない」という言葉の中に主イエスがご自分の死に向き合っていらっしゃることを感じ取ったのでしょう。彼らは「心が騒いだ」のです。

主イエスは「心を騒がせるな」とおっしゃいました。しかし「私が死ぬことはないから安心しなさい」とご自分の死を否定なさいませんでした。むしろ主イエスは、「私はこれから死ぬけれども、恐れなくていい」と示されるのです。死を覚悟した主イエスの言葉と表情を見たら恐れるのが当然でしょう。なぜ弟子達は恐れる必要がなかったのでしょうか。

主イエスは「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」とだけおっしゃいました。全ては、神の御手の内にある救いのご計画の実現である、ということです。人の目には受け入れがたい悲劇に映るだろう、しかし、すべては神の大きな御心の中にある、ということをお伝えになるのです。

「先生はこれから自分たちと離れてどこに行こうとされているのか」、と考えている弟子達に、主イエスはこれから起こることの意味をお示しになりました。

「私の父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなた方のために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、私のいるところに、あなたがたもいることになる」

この言い方からすると、主イエスとの別れは永遠のものではなく、一旦は離れ離れになってもまた再会が与えられることになっていることが分かります。弟子達は、また主イエスを求める者たちは、やがて主イエスによって迎え入れられ、父の家、つまり神のもとに用意された場所に共に生きることになるという計画の中に入れられるのです。

「こうして、私のいるところに、あなたがたもいることになる」とおっしゃいました。

弟子達にとって、この夜、主イエスがおっしゃったことは謎でした。謎であると同時に、それはいくら解説されても分からないものでした。主イエスは前もってご自分に、また弟子達に何が起こるかということだけをおっしゃいました。あなたがたは私を見捨てて離れ離れになるが、神の下に場所を用意して私はまたあなたがたを迎えに来る、とおっしゃるのです。

当然、弟子達はそれを聞かされても理解できませんでした。主イエスは「私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言ってくださっても、分かりませんでした。その時は、です。

キリストの十字架と復活を見て、さらにそこからキリストを見捨てて逃げた自分をキリストご自身が迎えに来てくださったとき、彼らはあの夜のキリストの言葉の意味を本当の意味で知ることになるのです。

この弟子達の信仰体験は、私たちにも与えられているものです。聖書の言葉を読んでも、なんだかよくわからないし、すべて簡単に理解することはできません。しかし、その時キリストの言葉をたとえ理解できなくても、その言葉を心にとめて生きる中で、キリストが何かを見せてくださる時、何かを分からせてくださる時が与えられるのです。

二千年も前に書かれた聖書の言葉が、実は本当に自分のために書かれ、今の自分を生かしているということを教えられる瞬間があるのではないでしょうか。キリストの言葉を、その時は分からなくても、心に留めて生きる中で何かを見せられることがあるのです。信仰とはそういうものではないでしょうか。その時わからなくても、この方を信頼して生きる中でその意味が示されるのです。

私たちは出エジプトを思い起こしたいと思います。エジプトで奴隷とされていたイスラエルは、「エジプトから出て行きなさい」と言われました。モーセが指導者として立てられ、エジプトの奴隷から解放された後、イスラエルは40年間荒れ野を歩くことになりました。

何度もイスラエルの人たちは、「なぜエジプトから出てきたのか、荒れ野で死ぬためなのか」と不平を口にしました。それでも彼らは、昼は雲の柱、夜は被の柱となって導いてくださる神に従って歩き続けました。どこに行くのかわからない、何のために歩いているのかわからない、しかし、神の導きがそこにあるから、神を信じて歩き続けたのです。

荒れ野というのは、道のないところです。荒れ野で神の導きを捨てるということは、自分の道を捨てるということでもありました。

イスラエルが荒れ野の40年の意味を知るのは、約束の地に入る直前、旅の終わりでした。

神はモーセを通しておっしゃいました。

「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた・・・人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」

私たちにも、生きる上での謎があります。試練の時、苦難の時、「一所懸命に生きているのに、なぜ自分にこんなことが起こるのか」と、上に向かってて叫びたくなる時があります。自分が行こうとしている道を進めなくなって、「なぜ前に進めないのか」と悩む時があります。「主よ、なぜですか。キリストよ、なぜですか」と祈る時があります。

しかし、イスラエルが出エジプトの旅の最後にその意味を示されたように、「自分が歩むことを求められていた道は、ここに通じていたのか」と示される時が来るのです。

神の御心がわからず祈る時は、信仰の苦しみの時であるかもしれません。しかし、それでもあきらめずに、聖書の言葉を捨てず、祈った先で、キリストが自分のために用意してくださった道を知れた時、そこにこそ私たちの信仰の喜びがあるのです。

この夜、主イエスがおっしゃる「道」について、弟子達は理解できませんでした。「私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」とおっしゃる主イエスに、弟子の1人、トマスが言います。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちにはわかりません。」

ここで主イエスはおっしゃいます。「私は道であり、真理であり、命である」

「私が行こうとしている道はこういう道だ」という説明ではありません。「私が道である・道とは私である」という言い方をされています。

私たちはどのように「道」を探しているのでしょうか。その道を自分で切り開かなければならないと思っています。しかし、本当は、この方が道であり、この方が私たちに道をくださるというところから信仰の歩みは始まるのです。

主イエスは以前、「私は羊の門である」とおっしゃいました。これも、不思議な表現です。「あそこに行けば門がある」ではなく、「私が門である、私が入り口だ」という言い方です。そうであれば、このイエスという方こそが救いの道そのものであり、救いの入り口そのものであるということになります。

私たちはいつでも「救い」を求めています。「今自分を苦しめているこのことから救われたい」「今自分を支配している空しさから救われたい」という漠然とした思いを持っている。人間関係の悩みかもしれないし、仕事のつらさかもしれない、将来への不安かもしれません。些細なことかもしれないし、死の恐怖へのおびえのような重いものかもしれません。何であれ、心の奥底に、「助けてほしい」という思いを抱えて生きています。

自分で何とかできるのであれば、救いを求めたりはしません。解決策がわかっているのであれば、少しばかり努力をすればいいだけです。しかし、自分にはどうしようもないこと、自分を超えた存在にすがるしかないことがあります。そのようなことを感じた時に私たちは、救いに至る「道」をまた救いに通じる「門・入口」を求めるのです。

ユダヤでは、律法の言葉が、人々を神へと導き、神の支配のもとにとどめるものでした。そして今イエス・キリストは、ご自身が神へと導き、神の支配のもとに人々を休ませる律法そのもの、神の言葉そのものであることを明らかにされたのです。道を探し、真理を求め、命の置き所を探している者にとって、イエス・キリストこそが答えとなるのです。

弟子達はもうすぐそのことを、身をもって知ることになります。キリストを見捨てた自分たち、神から離れた自分たちが、次にどこに道を見出せばいいのか途方に暮れていた時に示された道が、復活のキリストでした。イエス・キリストを通して、弟子達は休息を見出し、永遠の神への礼拝の場を見出すことになります。

主イエスは以前サマリア人女性におっしゃいました。

「婦人よ、私を信じなさい。あなた方が、この山でもエルサレムでもないところで、父を礼拝する時が来る・・・真の礼拝をするものたちが、霊と真理意をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。・・・神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」

神を求める人は、エルサレム神殿ではなく、どこか特定の地上の場所ではなく、イエス・キリストという存在を通して神を礼拝することになるのです。そこにこそ、真の礼拝があるのです。

キリストを見捨てた弟子達は、復活のキリストにもう一度招かれました。それは、真理の道へと招かれ、再び命を与えられた、ということでした。今、私たちも真の礼拝の時に生きることを赦していただいています。

私たちがどこかに行く必要はないのです。ただ、キリストを求める、そこで神に向き合うことができるのです。キリストが私たちを迎え入れてくださる。私たちには既に用意された場所がある。私たちの命はすでに、イエス・キリストの命の中に包まれているのです。

今はわからなくても、キリストが私たち一人一人のために場所を用意してくださっていることを覚えて、キリストという道を求め歩み続けていきたいと思います。