6月3日の礼拝説教

 ヨハネ福音書13:12~20

イエス・キリストと弟子達の最後の時間を読んでいます。それは「過越祭の前」のこと、つまりキリストの十字架の前の晩のことでした。キリストは弟子達のために上着を脱ぎ、手拭いをとって腰にまとわれ、たらいに水を汲んで、弟子達の足を洗われました。

ヨハネ福音書に記録されているこの夜の様子は、他のマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書とはずいぶん違っています。私たちがよく知っているのは、最後の晩餐の席で、イエス・キリストがパンと葡萄酒をとって、「これは私の体である、これは私の血である」弟子達におっしゃって手渡された、現在の聖餐式の原型となった食卓の光景です。

しかしヨハネ福音書は、そのことよりも、キリストが弟子達の足を洗われたということに焦点を当てて、キリストが最後の夜に弟子達にこのように僕として仕える姿勢を示されたことを描いているのです。

ヨハネ福音書では、6章全体を通してイエス・キリストが、ご自分が天からのパンであり、命の水であることを示された出来事が書かれています。「私の肉を食べ、私の血を飲むものは、いつも私の内におり、私もまたいつもその人の内にいる」と群衆に語りかけていらっしゃいます。4つの福音書の内ヨハネ福音書だけ、キリストがご自分の体と血を人々に差し出される様子の描き方が全く違っているのです。

なぜこのような描き方をしているのでしょうか。少し、福音書の成り立ちについて解説を加えておきたいと思います。ヨハネ福音書は、他の三つの福音書よりも、10~20年、後に書かれたと考えられています。

つまり、ヨハネ福音書を最初に読んでいたのは、イエス・キリストが最後の晩餐の席でパンと葡萄酒をご自分の体と血として弟子達にお与えになり、ご自分の救いの御業を思い出すように、とお命じになっていたことをすでに知っていた人たちでした。

他の福音書ですでに知っていた人たちのために、さらにヨハネ福音書は書かれた、と言っていいでしょう。だから、マタイ、マルコ、ルカの福音書と重複する内容はとても少なくて、ヨハネ福音書独自の内容が描かれているのです。

ヨハネ福音書は、他の福音書とは異なる文体、異なる視点、異なる強調点で書かれています。他の三つの福音書とは違い、ヨハネ福音書は、ご自分が逮捕される最後の夜、弟子達の足を洗い、最後の晩餐を共にし、弟子達に最後の教えを残し、弟子達のためこの世のためにとりなしの祈りを捧げるイエス・キリストのお姿を非常に多くの文字を費やして描いています。最後に弟子達と過ごされる最後の時間の様子は、13章から17章にかけて長々と書かれているのです。

主イエスの最後の夜のヨハネ福音書の強調点はどこにあるのでしょうか。他の三つの福音書は、弟子達にパンと葡萄酒を配って、ご自分の体と血の象徴として思い出すようお命じになったことを描いています。

ヨハネ福音書は、弟子達に、最後の瞬間までこの世に徹底的に仕える、僕としてのイエス・キリストのお姿を我々に描き出そうとしています。私たちは、キリストに従う者としてどのような姿勢で生きていけばいいのか、ということを示されるのです。

ご自分の十字架を前にして、キリストは弟子達の足を洗われました。驚く弟子達に、質問されます。「私があなたがたにしたことがわかるか」

これまでキリストは多くのしるしを行い、人々を驚かせて来られました。皆、そのしるしの意味を知りたがりました。キリストはご自分が行われた御業の意味を細かく説明はなさいませんでした。しかしここでは、キリストは弟子達の足を洗ったことの意味を問うていらっしゃいます。

「私があなたがたにしたことが分かるか」

キリストがこの晩弟子達になさったことは、まさに「しるし」なのです。神の御業の奇跡なのです。それは神が人の足元にひざまずき、自らの手で洗われたという信じがたい奇跡でした。単に、弟子達との最後の時だから何か心に残るようなことをして感動させようとしたというのではありません。

主イエスは弟子達の足を洗われたことを、しるしとして、弟子達がどう理解したか、そしてどう理解すべきなのか、ということをここで説明されます。                

主イエスが否定されるのは、弟子達が互いの上に立とうとすることでした。ご自分の十字架の後、弟子達が愚かな権力争いを始めることほどくだらないことはありません。しかし実際、人間はそのようなことに終始するのです。

他の福音書でも、弟子達が「我々の中で一番偉いのは誰か」という議論をしたということが書かれています。キリストの弟子達がそうなのですから、私たちだってこのような思いを抱かないということはないでしょう。

主イエスはおっしゃいます。「主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗いあわなければならない。」

弟子達が「キリストの弟子」なのであれば、彼らはキリストがなさったことに倣い、キリストが生きたように、生きることになります。先生が弟子の足を洗うということは、先生が弟子の僕となって仕えた、ということでした。上に立って満足を覚えることではありません。それがキリストの模範でした。

私たちは、イエス・キリストを文字通り「キリスト・救い主」として、生きています。そうであるなら、我々が主イエスを超えるとか、他のキリスト者よりも一段高い位置に居座るとかいうことはあり得ないのです。

7:48に、ファリサイ派の人たちが、「律法を知らないこの群衆は、呪われている」と言ったことが書かれています。主イエスの教えに耳を傾ける群衆のことをそう言ったのです。ファリサイ派の人たちは、群衆よりも、主イエスよりも、自分たちの方が偉いと考えました。律法のことは自分たちの方がよく知っている、と。

9:34でも、主イエスに目を開けていただいた人が「あの方は神のもとから来られた方です」と言ったのに対して、「お前は、まったく罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言っています。

イスラエルの羊飼いであるはずの指導者たちは、自分たちの律法の知識にあぐらをかいて、「自分たちは群衆の上に立っている、自分たちは偉い」、と考えていました。キリストの弟子達も、彼らと同じように、「自分はキリストの直弟子だから、他の人たちよりも偉い」、と考えてしまう誘惑があったのです。

テモテの手紙1 1:15以下に、こう書かれています。

「『キリスト・イエスは、罪びとを救うために世に来られた』」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。私は、その罪びとの中で最たるものです。しかし、私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、私がこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」

その言葉通り、キリストは真のイスラエルの羊飼いとして、ユダヤ人に嫌われていたサマリア人、病の人たち、会堂から追放された人たちのもとにご自分の足で向かっていかれました。偉い人たちのもとではなく、低い人たちのもとに、まず、低い人たちのもとへと向かって行かれたのです。

キリストはおっしゃいます。「はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わしたものにまさりはしない。」キリストは弟子達に、ご自分の道を辿ることをお求めになったのです。

「遣わされた者」とは、ギリシャ語でアポストロという言葉です。「使徒」と訳されたりもします。主イエスはこれまで何度もご自分が天の父によって世に遣わされた方であることを弟子達に示してこられました。神がキリストを世に遣わされたのは、ご自分の救いの業を世にもたらすためでした。

そして今、キリストはご自分の弟子達を世に遣わそうとなさっています。ご自分を模範として世に仕えさせるためです。キリストがなさったことを、今度は弟子達が引き継いで世の中で実践していくためです。

私たち自身、今自分たちがキリスト者としてなすべきこと、実際にやっていることは、遡っていくとすべてキリストがなさったことであり、キリストが弟子達にお求めになったことです。私たちキリスト者は今、キリストからこの世に遣わされ、神の言葉と神の御業を託され、この世を生きているということがわかるのです。

我々は、「自分が神の御業を行うなどおこがましい」とか、「自分ごときの小さなキリスト証言にどれほどの力があるだろうか」、などとしり込みしてしまうこともあります。それは、どこかで、「自分は人より偉くなければキリストを伝えることができないのではないか」と思っているからではないでしょうか。自分の影響力や能力が人より優れていないと、キリスト者として誰かにキリストのことを伝えることはできない、とどこかであきらめてしまっているからではないでしょうか。

使徒パウロは、文字通り、キリストによって召され、「遣わされた」人でした。偉大な伝道者パウロとして我々はその名を知っています。しかし、パウロ自身は、手紙の中でこう書いています。

「考えてみると、神は私たち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。我々は世界中に、天使にも人にも、見世物となったからです。・・・今に至るまで、我々は世の屑、すべてのものの滓とされています」

「神は、知恵あるものに恥をかかせるため、世の無学なものを選び、力あるものに恥をかかせるため、世の無力なものを選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい人、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、誰一人、神の前で誇ることないようにするためです」

神に遣わされた人の業・言葉は決して弱くありません。パウロだからあれだけできた、ということではありません。私たちは、華々しくないかもしれませんが、弱くはないのです。

私たちは、私たち自身の業をこの世に残すのではありません。使徒言行録で、律法の教師ガマリエルが、キリストの使徒たちの業についてこういいました。「あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。」

私たちは、ただキリストに従えばいいのです。何か特別なことをする必要はありません。キリストがなさったように、キリストが弟子達にお命じになったように、世に仕え、互いに仕えあうのです。

さて、この席にはキリストを裏切ることになるイスカリオテのユダもいました。この席で、ユダも他の弟子達と同じようにキリストの言葉を聞いていました。キリストはユダが何をするか、この時知っていらっしゃいました。いや、ユダをお選びになった時から、知っていらっしゃいました。すべて存じの上で、ユダを弟子へと召されていました。

主イエスはおっしゃいます。「私は、どのような人々を選び出したかわかっている。しかし、『私のパンを食べている者が、私に逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない」

これは詩編41:10の言葉の引用です。もとの詩編の言葉を見ると、「私の信頼していた仲間、私のパンを食べる者が威張って私を足蹴にします」という言葉です。まさにユダは信頼した仲間の1人でした。日々、共にパンを食べた仲間でした。そのユダが、これからキリストを足蹴にしようとしています。

キリストは、「そのことも、神の不思議な救いの御業の中で用いられる」とおっしゃいます。「私の遣わすものを受け入れる人は、私を受け入れ、私を受け入れる人は私をお遣わしになった方を受け入れるのである」とおっしゃいましたが、ユダはキリストを最後まで受け入れることはできませんでした。それは、神を受け入れることができなかった、ということでした。

キリストを受け入れる人はどこにたどり着くのでしょうか。「事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである」と主イエスはおっしゃいます。

「わたしはある」ということを知ることになるとはどういうことでしょうか。「わたしはある」とは、モーセが尋ねた時にお答えになった神の名前です。「神が共にいてくださる」ということ、「インマヌエル」ということです。

私たちがこの世でキリスト者として生きる一番大きな真理は、「神、われらと共にあり」ということであり、キリストの命は、そのためにこれから十字架に上げられることになるのです。

神は、ご自分の独り子を十字架の上にお与えになるほどの愛をもって、我々と共にいようとしてくださいました。

これこそが、私たちが一生をかけて、命をかけて学ぶべき真理なのです。