ルカ福音書24:13~35
「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(24:27)
失意の中、エルサレムを離れていく二人の弟子達に、主イエスが一緒に寄り添って歩き始め、主イエスの復活を知った弟子達がエマオからエルサレムに戻った、という出来事です。
エマオは、エルサレムから60スタディオン離れたところにある村だ、と書かれています。60スタディオンは、10kmの距離です。
イエス・キリストの二人の弟子が、エルサレムで主イエスが殺されたことを嘆きながら、失望の内にエルサレムから離れ、エマオへと歩いていました。彼らは、婦人たちから主イエスの墓が空っぽになった、という知らせを聞いていた。しかし、「この話がたわごとのように思われたので、婦人たちを信じなかった」と記されています。死んだ人が生き返るなどという馬鹿なことがあるはずがない、と受け入れなかったのです。
私たちが今日読んだ、エマオへの道行きは、「認識の出来事」としてよく知られています。二人は、復活なさったキリストと話しながら歩いたのに、この方がキリストだとは認識しませんでした。しかし、キリストと食卓を囲み、パンを受け取ると霊の目が開いて、キリストだと認識します。
私たちはここに、人がどのように復活のキリストを信じるようになるのか、という、「信仰の目の開き」を見ます。この二人の弟子達に起こったことは、キリストを信じる人であるなら、「これはまさに自分に起こったことだ」と、自分の歩んできた信仰の道を振り返ることが出来る場面でしょう。
後に、二人は聖書の言葉を聞いたとき、自分たちの心が燃えていた、と思い出すことになります。弟子達は、復活のキリストに出会って、初めて聖書に記されていることが夢物語ではなく、真実のことであり、自分も聖書の登場人物の一人であることを知りました。
キリストが不思議な仕方で出会ってくださり、聖書の真理を伝えてくださる時、それは私たちにとっても、心燃える時となります。絶望の中、昨日まで生きてきた場所から逃げようとする自分にキリストが寄り添い、共に歩き、み言葉を聞かせてくださり、聖書の真理を知って、行くべき道を歩み始めるのです。誰もが、イエス・キリストとの出会いを思い返す出来事ではないでしょうか。
私たちは、この「エマオへの道行き」の出来事を通して、自分自身のイエス・キリストとの出会いを思い返した時、「またわからないのか、私は復活してあなたと共に歩んでいるではないか」という声を思い返します。
二人の弟子の内の一人は、名前がクレオパといいました。もう一人の名前は記されていません。この「もう一人」が一体誰なのか、ということについてはいろんな説があります。
ヨハネ福音書にクレオパの妻であるマリアの名前があるので、この「二人の弟子達」というのは、クレオパとマリアの夫婦だったとも推測できます。
しかし、福音書はここであえてクレオパの同行者の名前を記していません。「クレオパとマリアの夫婦が歩いていた」、とは書いていないのです。
このことは重要なことだと思います。聖書がクレオパの同行者の名前をあえて記していない、ということに、何か特別な意味があるのではないでしょうか。
聖書は、この無名の弟子の姿に、私たち読者の姿を見せようとしているのではないでしょうか。聖書は、「今、あなたはエマオへと歩いている。クレオパと一緒に歩いているこの弟子はあなただ」と、私たちの姿をこのエマオへの道行き登場人物として見せ、信仰者としての在り方を問いかけているのではないか。
私たちはこのエマオ途上の弟子達とキリストとの出会いを通して、聖書から「これはあなたに起こったことであり、今もあなたに起こっていることだ」と見せられているのです。
二人の弟子達は、エルサレムから遠ざかりながら、道の上でエルサレムでの出来事を語り合っていました。この二人に、三人目が加わります。この三人目の人物は、復活なさったイエス・キリストでしたが、不思議なことに、この時の二人の弟子達にはそのことがわかりませんでした。
その三人目の人から「話しているのは何のことですか」と尋ねられて、クレオパは「あなたはエルサレムにいたのに、ナザレのイエスの十字架のことを知らないのですか」と驚きました。あれだけ話題になって、あれだけたくさんの人がゴルゴタの丘にその十字架を見に行ったのに、どうしてこの人はそのことを知らないのだろう、と不思議に思ったのです。
二人の弟子は、イエスという人がどのように活動を続け、そしてどのように最後に十字架に上げられて殺されたのかを語りました。恐らく、「イエスの活動はもうそこで終わってしまった。イエスが伝えた神の国をもう私たちは見ることができなくなった」と、悲観的なことを伝えたのだろう。
弟子達は、ナザレの預言者がイスラエルを率いて、もう一度強いイスラエルを取り戻してくれると信じていました。しかし、殺されてしまいました。しかも十字架で殺されてしまいました。彼らは確かに主イエスの死を見たのです。
「エルサレムでこんなことがあって、自分たちは失望しているのだ」ということを伝えると、この二人は、三人目の人から「まだわからないのか」と言われてしまいます。「物分かりが悪く、心が鈍く、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と叱られます。
その三人目の人は、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と言って、聖書全体を説明して、ナザレのイエスの十字架の意味を語って聞かせた。
二人は、この人の話に驚き、もっと聞きたい、と思ったのでしょう。エマオに到着しても、この三人目の人物を引きとどめ、なおも話を聞こうとしました。
夕方になり、夕食の食卓を三人で囲みました。ここをよく読んでみると、面白いことがわかります。二人がこの人を引き留めたのに、三人目の人物が、この食卓の主人として取り仕切っています。この人が讃美の祈りを唱え、パンを裂いて、二人に渡しています。
そして不思議なことに、その人からパンを受け取った瞬間に、二人は、その人が復活なさったイエス・キリストだと分かりました。そして、わかると同時に、その人が見えなくなったのです。
このエマオでの食卓は、キリストからパンを渡され者の信仰の目が開かれた、という出来事なのです。
エルサレムから絶望感をもって出てきた二人の弟子達は、ここから希望に満ちてエルサレムへと引き返しました。
この時まで二人の弟子達の頭の中にあったのは、「自分はこれからどうすればいいのか、何を信じていけばいいのか」ということでした。三日前までは、ナザレのイエスを救い主だと信じ、この方が自分の生き方を示してくださると信じて従って来ました。
しかし、ナザレのイエスは十字架で殺されてしまい、いきなり、自分たちが歩むべき道が奪い去られました。
彼らにできたことは、エルサレムから離れることでした。留まりたくない場所、もうそこに居たくないと思う場所から逃げることでした。「昨日までの自分たちが信じてきたものは何だったのか」「これからどうすればいいのか」・・・彼らはエマオへと向かってはいたが、迷子になっていました。次にどっちに向かって一歩を踏み出せばいいのか分からなくなっていました。
しかし、復活の主との出会いは、次の一歩をどちらに踏み出せばいいのかを確かに教えてくれました。弟子達がエルサレムに戻るということは、復活のキリストとの出会いがなければ絶対になかったことです。
エルサレムに戻ると、復活なさった主イエスが弟子のシモンにも出会われた、ということが話されていた。女性たちが告げた、空の墓の問題は解決されました。あの方は、本当に復活なさったのです。
主イエスが復活なさったということ、このことが、弟子達が新たに生きる希望となりました。キリストとの出会いは私たちが歩む道を変えるのです。キリストに出会う、ということは、生きる道が、方向が、目的が変わる、ということなのです。
「主イエスは確かに自分に出会い、言葉をかけてくださった」と振り返って思う瞬間があるのではないでしょうか。その時には主イエスだとはわからないかもしれない。しかし、後から思い返すと、「確かにあの時キリストは自分と一緒に歩いて、行くべき道を教えてくださったと分かる」ことがあります。
私たちは自分たちの肉の目でキリストの姿を捉えることはできません。しかし、肉の目に捉えることのできないキリストとの出会いは、私たちを確かに変えるのです。
信仰者にとって、キリストが復活なさったということは決して消えない希望です。もしも「主イエスが十字架で殺された」、ということで全てが終わっていたのであれば、聖書に記されていることは全て過去のこととして読まれることになったでしょう。
しかし、聖書は、今のことが記されているのです。聖書は、「この方は今、復活なさり、生きてあなたと共に歩んでくださっている」と伝えています。
弟子達は、聖書の解き明かしをキリストご自身から聞かされました。「聖書に記されていることは全て、あなたに起こったことなのだ」、と教えられえたのです。
復活なさったイエス・キリストは今も私たちの目には見えない形で、共に歩いてくださっています。私たちが「ここから逃げ出したい」と思う時も、私たちにはわからない仕方で寄り添い、必要な言葉を聞かせ、「まだわからないのか」と叱ってくださいます。
キリストの十字架の後、秩序を失い、生きる道・目的を失った弟子達に寄り添い、希望をお与えになったキリストは、あのエマオへの道でそうなさったように、今も私たちを神の国へと寄り添って、共に歩いてくださっているのです。