6月19日の説教要旨

使徒言行禄5:17~32

「ペトロとほかの使徒たちは答えた。『人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。』」(5:29)

アナニアとサフィラの夫婦が、人を騙して作ったお金の一部を捧げたことで教会の聖さを汚し、キリストの霊に打たれて死んでしまいました。その一部始終を見ていた人々は、本当に恐れるべき方を知りました。

キリストの使徒たちは、「あなたがたはメシアを十字架で殺してしまった」「しかし、十字架で殺されたナザレのイエスは復活なさって、あなたがたが悔い改めて立ち返ることを求めていらっしゃる」ということを伝え続けます。

使徒たちが告げる福音を聞き、使徒たちが行う様々な病や悪霊からの癒しを見て、民衆の多くがイエス・キリストに心を寄せ、教会の一員となっていきました。

しかし、キリストの福音を告げる使徒たちに対して反感を覚えた人たちがいました。主イエスを裁判にかけて有罪とし、十字架へと追いやった最高法院の人たち、ユダヤの指導者たちです。

今日読んだところには、大祭司とその仲間のサドカイ派の人たちが「ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた」、とあります。指導者たちが、使徒たちを「ねたんだ」、というのは、民衆が使徒たちの方に行ってしまったことを単に「うらやましいと思った」、ということではありません。この「ねたみ」というのは、元の言葉では「熱心さ」という意味もあります。

神の御心を正しく行うための「熱心さ」でした。ユダヤの指導者として、神の御心を正しく知り、神の前に正しく生きる、ということ、そして、ユダヤの民衆を神の御心に従った生き方へと正しく導くこと、指導することに熱心だったのです。指導者たちは、キリストの使徒たちが伝えていることは、神の御心に反していると思い、やめさせなければならない、という「熱心さ」を抱きました。

ここで難しいのは、指導者たちも、使徒たちも、両方が「神の御心に従おう」という「熱心さ」を持っていた、ということです。「どちらが本当に神の御心をおこなっているのか」、ということが問題となります。ナザレのイエスの復活を伝えているキリスト使徒たちが正しいのか、それとも、イエスを犯罪人としてローマの十字架へと差し出した指導者たちが正しかったのか、はっきりさせなければなりません。

今日私たちが読んだ場面には、指導者たちが使徒たちの活動をやめさせることができなかった、ということが記されています。

指導者たちは自分たちの権力を用いてイエスの復活を語ることをやめさせようとしました。使徒たちを捕らえて牢に入れてしまいます。

しかし、夜中に天使が牢を開け、使徒たちに「神殿の境内で命の言葉を民衆に告げなさい」と言います。最高法院の人たちは使徒たちを尋問しようとしたのにいなくなってしまったことに驚きました。しかも、牢から出た使徒たちは、そのままどこかに逃げて身を隠すようなことをせず、また神殿の境内に戻って、また同じ場所に戻って、同じ言葉を語り続けていたのです。

指導者たちはもう一度使徒たちを最高法院へと連行して、使徒たちに尋ねました。

「お前たちはイエスを殺した責任を私たちに負わせようとしているのか」

これに対してペトロたちは、「人間よりも神に従わなくてはなりません。あなたがたが木に付けて殺したイエスは復活させられました。私たちは事実の証人なのです」と答えました。

キリストの使徒たちは、自分たちの先生に有罪判決を下して殺した最高法院の人たちに恨みを晴らすために福音宣教をしたのではありません。ただ、天使に命じられたから、ただ聖霊にそのように導かれたから、見たことを告げていただけでした。

聖書は、神の御心を行っていたのは、指導者たちではなくキリストの使徒たちであったことを伝えています。

最高法院の人たちが権力をもって福音宣教をやめさせようとしても、使徒たちを止めることは出来ませんでした。なぜ、何の権力ももたないキリストの使徒たちを止めることが出来なかったのでしょうか。

キリストの証し人は、地上の権力を何も持っていません。今もそれは同じです。持っているのは、天からの権威です。天使が、神の霊が、使徒たちを語らせたのです。神は、使徒たちが黙ることをお許しになりませんでした。

彼らは、好き好んで、イエス・キリストを伝えるという危険を担っていたのではありません。彼らは、天からの命令によってキリストを証しし、その証しのための道筋が天から敷かれていったのです。

牢に入れられようが、大祭司にやめろと言われようが、使徒たちは、聖霊によって語り続けることを求められたから、福音を告げることをやることは許されませんでした。神の御心を行ったのは、使徒たちであり、もっと正確に言えば、神が使徒たちを用いて、ご自分の言葉を語って行かれたのです。

私たちは、当時の指導者たちからの圧力に負けずに福音を伝えていく使徒たちの姿を「強い、とても真似できない」と思うのではないでしょうか。しかし、そこにあるのは、福音が持っている強さであって、人間としての使徒たちの強さではないのです。

キリストの使徒たちだって、私たちと何ら変わらない、普通の弱い人間でした。この人たちは、一度はイエス・キリストを見捨てた人たちです。

主イエスは、「あなたがたは、私が種々の試練に遭ったとき、絶えず私と一緒に踏みとどまってくれた」と弟子達におっしゃったことがあります。主イエスの福音宣教の旅の中で、様々な試練があったのでしょう。イエス・キリストと一緒にいても、神の国を宣教するということには、色んな苦難があったのです。それでも、弟子達はその苦難をイエス・キリストと一緒に忍耐して何度も乗り越えました。

しかし主イエス逮捕される夜、弟子達は最後にこう言われてしまいます。

「今夜、あなたがたは私を見捨てて逃げるだろう」

弟子達は、言い返しました

「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しています」

立派な覚悟です。しかし、それほどの覚悟をもっていたのに、弟子達は主イエスが逮捕されるに及んで、皆逃げ去りました。ペトロなどは三度「イエスを知らない」と言ってしまいました。どんなに強い気持ちを持っていても、どんなに心が燃えていても「肉体は弱い」、ということが明らかになります。キリストの直弟子とはいえ、弱い人間なのです。

ではなぜ、その弟子達が、最高法院を前にしても逃げず、福音を語ることをやめなかったのでしょうか。

弟子達がご自分を見捨てて逃げてしまう弱さを持っていることをご存じだったイエス・キリストは、「私はあなたのために、信仰がなくならないように祈った」とおっしゃいました。

弟子達は、自分の人生の中で何度、キリストを見捨てた夜のことを思い出したでしょうか。そして、何度、イエス・キリストの「あなたのために、信仰がなくならないように祈った」という言葉を思い出したでしょうか。

弟子達は、イエス・キリストが自分の弱さを全てご存じであったこと、そして、その弱さを全てご存じの上で、信仰がなくならないように祈ってくださっていた、ということを何度も振り返ったでしょう。

主イエスを見捨てるという信仰の失敗を犯した、あの弱かった弟子達が今、神殿で主イエスの復活を語り、逮捕されても、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と明言します。彼らはキリストを見捨てる、という痛みを知っていたのです。それに勝る痛みはない、ということも。

今、弱い使徒たちが強められています。何によってでしょうか。キリストの祈りによってです。「あなたの信仰がなくならないように祈った」というそのキリストの祈りによって彼らは再び立ち上がることが出来のです。

教会には、イエス・キリストを証しする使命が託されています。私達は何によってキリストの復活を証しする教会として立つことが出来ているのでしょうか。教会の強さとは何でしょうか。

教会に集っている私たちには、何の強さもありません。知識や財産や、権力が強い人たちが集まっているから教会は2千年もたち続けてきたのでしょうか。「私は神など必要ない、キリストの救いなんていらない」と言えるほど強い人が集まっているのでしょうか。

そうではありません。逆です。教会には、「キリストなしには生きていけない」、ということを思い知らされた、弱い人たちが集まっているのです。

教会は、キリストを求めるからこそ強いのです。キリストを求めなければ何にもできないような弱い群れのために、イエス・キリストが「あなたがたの信仰が無くならないように私は祈っている」と言ってくださっている、そのことが、教会の強さなのです。

私達自身には、福音宣教のための強さなどありません。あるのは、私たちを支えているキリストの祈りです。

使徒たちが持っていた強さは、指導者たちが持っていた強さとはまるで違うものでした。神がお求めになっていることを行っていく・・・彼らの強さは、ただそこに根差していました。

イエス・キリストの許しを求める弱い群れの祈りを神が聞きあげてくださり、聖霊をもって導いてくださるから、弱い教会はこの世で強くあれるのです。

使徒パウロは、「私は弱い時にこそ強い」と手紙の中で書いています。神は、私たちの弱さを通して、御自分の強さを示されます。神はむしろ、私達の弱さを用いて、世の無学なものを用いて、ご自分の言葉を語って行かれるのです。

旧約聖書に列王下6章に、預言者エリシャがアラムの軍隊に包囲された時のことが記されています。エリシャの従者は、「どうすればいいのですか」と慌てました。

エリシャは、従者にこう言いました。

「恐れてはならない。私たちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」

エリシャが祈ると、従者は、火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見ました。

旧約時代の預言者たちもキリストの使徒たちと同じ、生身の人間でした。彼らも、恐れながら、泣きながら、イスラエルの中で神の言葉を伝え続けました。国全体を敵に回すこともありました。

しかしそれでも、預言者たちはイスラエルの罪を伝え、神に立ち返るよう訴え続けた。なぜでしょうか。

キリストの使徒と同じです。神がそうお命じになったからです。キリスト教会も同じです。

パウロは、同労者のテモテにこう手紙を書いている。

「み言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」

いい時も、悪い時も、み言葉を伝えなさい、神がお求めになることを語りなさい、と言っています。

教会は、いい時だけキリストのことを語るのではありません。苦しい時も、語ることを求められています。神が、そのことをお求めになっているからです。教会の福音宣教の使命の根拠は、それが全てです。

イエス・キリストを証しするということは、いつでも困難を伴います。「キリストは蘇られた」と言っても、誰も信じてくれません。それでも、私たちはそのことを伝えます。復活のキリストに罪赦された者として。

だから信仰生活というのは、キリストのために苦しむ生活だ、と言っていいでしょう。

使徒言行禄のこの後を読むと、キリストの使徒たちが喜んでいる。

41節「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ」

キリストのために苦しむことができるようになったことを彼らは喜んでいます。苦しむことを喜ぶなどということは、本当はおかしなことです。

パウロもフィリピの教会に同じことを書いている。

「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」

イエス・キリストは前もってこのことをおっしゃっていた。

「私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる時、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなた方より前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」

キリストは私たちのためにご自分が痛みを担ってくださいました。私たちはそのキリストを十字架で殺しました。そのキリストが今、私達の信仰が無くならないように祈ってくださっています。

次は、私たちがキリストのために働き、時にはキリストのために苦難を覚え、そうやってキリストに報いていく番でしょう。私たちにはキリストのために苦しむという信仰の喜びがあるのです。

「人間ではなく、神に従う」、そのことを続けてまいりましょう。