7月10日の説教要旨

使徒言行禄8:1~25

「散っていった人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」(8:4)

ステファノの殉教をきっかけに、エルサレムのキリスト者たちに対して大迫害が起りました。エルサレムで大きく成長したキリスト教会でしたが、一日でバラバラにされてしまいました。そして迫害を受けたキリスト者たちはエルサレムの外へと追い散らされてしまったのです。

しかし、教会はここから不思議な成長を遂げていくことになります。エルサレムから逃げ去ったキリスト者たちは、ただ逃げたのではありませんでした。逃げながら、その先々でイエス・キリストの福音を告げ知らせ、そのことによってエルサレムの外へと福音が広まっていったのです。

私達は、今日読んだところで、ユダヤ人とは交流がなかったサマリア人たちへとキリストの福音が伝えられていった、ということをみました。教会への迫害を通して、福音はエルサレムの外へと、全世界へと広まっていったのです。人間の知恵や力を超えた神の摂理をここに見ることが出来ます。

エルサレムから追い散らされた人たちは、サマリアへと逃げました。エルサレムから逃げて来たユダヤ人たちによって、サマリア人に福音が語られ、多くの人がそれを受け入れ、洗礼を受けることになりました。

キリストの福音がユダヤからサマリアへともたらされた、ということ、そしてサマリアの人たちがユダヤ人たちがもたらした福音を受け入れた、ということ・・・そこにはとても大きな意味があります。

ユダヤとサマリアは、もともとは一つのイスラエルでした。それが、ソロモン王が死んだ後、北と南に分裂してしまいます。そしてBC722年に首都サマリアがアッシリア帝国によって滅ぼされ、北王国は滅亡しました。その後は南のユダ王国だけが細々と生き残って来ました。

昔は一つだったイスラエルだったが、歴史の歩みの中で、北と南に別れ、民族的に、信仰的に別々の歩みをするようになっていきました。教会が生まれた時代紀元1世紀には、サマリアとエルサレム、サマリア人とユダヤ人の間には大きな断絶があったのです。

それが今、イエス・キリストの十字架と復活を通して、ユダヤの人とサマリアの人がキリストへの信仰の中で一つになっていった、というのです。それは、二つに引き裂かれたイスラエルが、もう一度神の元に一つとされたという、神の平和を象徴するような出来事でした。

私たちはここに、福音が持つ力を見ます。人間の努力だけでは壊すことが出来ない壁・埋めることが出来ない溝を超えさせる福音の力です。仲間同士、似た者同士、内輪だけでまとまって強くなっていくようなものではありません。

イエス・キリストの福音は敵対する者同士を一つにします。神の元に全ての人を一つにしていく平和の力です。

エフェソの信徒への手紙の中で、パウロはこう書いています。

「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊します」

これが、聖書が伝えている「神の救い」です。救いとは、「和解」のことです。壊れていた関係が、イエス・キリストへの信仰によって回復させられることです。

神との関係が壊れていた罪びとは、キリストの許しを知り、悔い改めることで神の元へと立ち返ることが出来ました。そして今、壊れていたユダヤ人とサマリア人の関係も、キリストの福音によって回復しています。

神との関係が、隣人との関係が、イエス・キリストを信じることによって回復されていきます。全ての人が神の元に集められ一つになる「救いの完成・和解の完成」に向けて、聖霊は今も教会に注がれ、私たちを通して働いています。

さて、サマリアでの様子を見ていきたいとおもいます。ここで大きな働きをしたのが、フィリポという使徒でした。「フィリポ」というのは、ギリシャ語の名前なので、教会の中でもギリシャ語を話すユダヤ人の一人でした。つまり、ステファノと一緒に、選ばれた7人の使徒の内の一人でした。

サマリアの人たちはエルサレムから逃げて来たフィリポが語るイエス・キリストの出来事を知りました。そしてフィリポの行う奇跡の業を見て、驚き、イエス・キリストを信じ、神の国の福音を信じ、洗礼を受けました。

その中にシモンという魔術を行う人もいました。このシモンという人は「魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた」とあります。

シモンとフィリポを比べてみると、面白いと思います。シモンもフィリポも、二人とも、「人々を驚かせた」、という点では同じでした。しかし、人々は魔術師シモンではなく使徒フィリポの業と言葉を求めました。そして魔術師シモン自身も、「信じて洗礼を受け、フィリポに付き従い、素晴らしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた」とあります。

この二人の違いは何だったのでしょうか。

魔術師シモンは自分のために力を使っていました。そして「自分が偉大である」、ということを自分で言っていました。彼は、自分が偉大な人物であることを示すために魔術を行い、人々を自分へと引き付けようとしていたのです。

フィリポは違っていました。全てがその反対でした。フィリポはイエス・キリストのために力を使い、言葉を語ったのです。自分ではなく、自分に言葉と力を与えてくださったイエス・キリストが偉大であるということを伝えるためです。フィリポが使う力、語る言葉は全て人々をキリストへと導くためでした。

もし、フィリポが自分の名声を高めるために語り、働いていたのであれば、人々はシモンとフィリポを同じように見たでしょう。ただ、驚いて見るだけで終わったでしょう。

しかし、サマリアの人々は、フィリポの業と言葉を求めました。人々は、フィリポが自分の名声のためではなく、自分たちサマリア人をキリストへと導くために誠心誠意キリストの福音を伝えている、ということを感じたのでしょう。フィリポが伝える福音を聞き、フィリポが行う奇跡を見て、サマリアの人たちは「喜んだ」とあります。

魔術師シモンと、フィリポの違いはここにあります。シモンの働きは自分への注目を集めるためのものでした。そこに人々の喜びはありません。あるのは、シモンの喜びだけです。

フィリポが伝える福音は、サマリアの人たちに喜びをもたらしました。そもそも「福音」というのは「喜びの知らせ」という意味の言葉です。サマリアの人たちは、フィリポの癒しや悪霊払いの業を通して、神の恵みの支配が自分たちのところにも及んだことを知って喜んだのです。

「ここに神の国がある。ここにまで神の恵みの支配が、神の招きが及んだ」と。

魔術師シモン自身も、フィリポを通してイエス・キリストの福音を知り、洗礼を受けました。しかし、シモンはこの後、過ちを犯します。彼は、フィリポの後からサマリアにやって来たペトロとヨハネが人々に手を置くと聖霊が降るのを見ました。そして「自分にもあの力が欲しい」、と思い、お金を差し出して、「私にも力を授けてください」と申し出ました。うらやましかったのでしょう。

ペトロはシモンにこう言いました。

「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を、金で手に入れられると思っているからだ」

シモンは恐れて、「おっしゃったことが何一つ私の身に起こらないように、主に祈ってください」と言いました。

このシモンの姿は滑稽で、何となく憎めません。とても人間臭いと思います。シモンはたくさん金を持っていたようです。お金には価値があり、お金で神の賜物も買うことが出来る、と当然のように思っていたようです。

人がやっていることをうらやましく思い、お金を出して欲しがる浅ましいシモンでした。しかし、当たり前のことですが、この世にはお金をいくら積んでも買えないものがあります。そしてお金・この世の財産が、福音が持つ価値を見る目を曇らせることがあります。

私たちは、一人の若者を思い出すことが出来ると思います。子供のころから律法を正しく守って来た若者が、「完全になるにはどうすればいいですか」とキリストに尋ねてきたことがあります。

キリストは「完全になりたいのであれば、財産を貧しい人たちに与え、それから私に従いなさい」とおっしゃいました。しかし、その若者はそれを聞いて悲しみながら去って行きました。その若者は「金持ちだったからである」と聖書には記されています。若者は、財産を手放すことが出来なかったのだ。自分が持っている財産以上に、イエス・キリストに価値を見出すことができなかったのです。

天に富を積もうとする私たちの目を、地上の富がどれほど曇らせるのかということを教えてくれる出来事だと思います。

魔術師シモンの姿を通して、私達は、福音が持っている価値の質について、考えさせられます。それは、地上の富で買うことのできない、天の宝でした。シモンは、自分が受けた洗礼は、地上の財産に勝る価値があることを思い知らされました。私達も、このシモンの姿を通して、自分が信じる福音・自分が受けた洗礼の価値を改めて捉え直すべきでしょう。

フィリポが語るイエス・キリストの福音を聞いた、サマリアの人たちは洗礼を受けました。フィリポの業と言葉に感動して賞賛した、感謝した、ということで終わったのではないのです。洗礼を受けたのです。

「洗礼を受けた」、ということは、文字通り「生まれ変わった」、ということです。昨日までの「キリストを知らなかった自分」「神から離れた罪びとであった自分」と決別し、イエス・キリストと共にある新しい命を生き始めた、ということです。自分の心を、地上から天に向けてキリストに向かう生き方を始めた、ということです。

福音を信じたサマリアの人たちは、新しい命を生き始めました。ユダヤ人が伝える福音をサマリア人が受け入れ、同じ信仰をもって再び神の前に一つになる・・・そんなこと、昨日までは誰も考えもしなかったでしょう。聖霊はそうやって、人間が作り出した壁・溝を超えさせるのです。全ての敵意を超えて、神の元へと全ての人を集めるのです。

さて、フィリポはその後どうしただろうか。サマリアに留まり、福音を語り続けたでしょうか。そうではありません。

ペトロとヨハネがサマリアに来るのと入れ替わりで、彼はサマリアを離れています。フィリポは、ただ福音の種をそこで蒔いて、あとは、その種が育つに任せて、次の場所へと聖霊に連れて行かれました。

私たちはこれを見て、「もったいない」、と思うのではないでしょうか。「せっかくフィリポがサマリアで有名になったのだから、この後も長くサマリアに留まって、福音宣教を担えばいいのに」、と思うのではないでしょうか。もっと長くサマリアに留まっていたら、フィリポの名声はもっともっと高まったかもしれません。

しかしキリストの使徒は、そこで与えられた使命を果たしたら、次に聖霊が示す場所へと向かい、またそこで自分がなすべきことをするのです。

出エジプト記の最後には、イスラエルの民がどのように荒れ野を歩いたか、ということが書かれている。

「(主の栄光の)『雲が幕屋を離れて上ると、イスラエルの人々は出発した。旅路にあるときはいつもそうした。雲が離れて昇らない時は、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった』」

イスラエルの人たちは、毎日毎日歩いていたのではありません。出発して歩くべき時、留まるべき時を、神が教えてくださり、40年間歩きとおしたのです。イスラエルは自分たちでいつ出発するかを決めていたのではありません。神がお示しになったのだ。

教会・キリスト者の歩みはそのようなものなのです。神から「行け」、と言われれば行き、「留まれ」、と言われれば留まります。「急げ」、と言われることも、「待て」、と言われることもあります。私たちはその御声に従うのです。

私たちは、キリストの使徒たちがそうしたように、与えられた場所で、与えられた賜物を用いて、働きます。自分に示された場所で、小さな福音の種まきをする、ただそれだけです。

私たちには福音の種が託されています。そのための小さな賜物も与えられています。我々は自分の弱さ、賜物の小ささを嘆く必要はありません。神が、我々一人一人に応じて、その時・その場に必要なものを全て用意してくださるのです。

神からそれぞれに与えられた賜物と、聖霊の導きに感謝しつつ、「次の場所」へと自分の身をゆだねていきたいと思います。