7月31日の説教要旨

使徒言行禄9:10~19

「『わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう』」(9:16)

ある人は、「キリスト者の使命は神がなさろうとすることをしっかりと見ることだ」と言っています。私達は自分の信仰生活を省みる時に、自分を見ようとします。「自分に何ができるか、どれだけのことができるか」ということを考えたりするのではないでしょうか。

しかし、使徒言行禄を通して示されているのは、「神が何をなさろうとしているのか」、ということです。そして私たちの信仰は、その神の御業をしっかりと見ようとすることなのだ、と言うのです。

使徒言行禄を読みながら、私たちは予想を裏切られる展開を見せられているのではないでしょうか。

キリストの使徒にとても相応しいとは思えない人たちに聖霊が注がれて教会が作られました。

一度はキリストを見捨てた人たちがエルサレム神殿に言って堂々とキリストを証ししたりするようになりました。

「イエスを十字架に上げろ」と叫んだ人たちが使徒たちの証しを聞いて、何千人も洗礼を受け、キリストの招きに応じました。

迫害を受けたキリスト者たちはエルサレムの外へと追い散らされ、そこで教会が終わるかと思うと、キリスト者たちは、それぞれが逃げていった場所で、キリストを証しして、福音はむしろ広まっていきました。

サマリアの人たちやエチオピア人の高官といった、ユダヤ人以外の人たちにもキリストの福音が告げられ、福音は広まっていきました。

聖書を見ると、信仰者たちは、いつも神の御業に驚いています。イエス・キリストは弟子達にこうおっしゃったことがある。

「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」

神は私たち信仰者が望むよりも前に、本当に必要なものをご存じです。そして私たちが求めるよりも先に、私たちの予想を超えた仕方で備えてくださっています。私たちは使徒言行禄を通してそのことを見せられる。

私たちも、このキリストの言葉が真理であることを、自分たちの信仰生活の中で何度も見せられます。私たちは祈りを通して、自分が欲しいものではなく、神が私に必要である、と思われたものをいただいているのです。

教会の迫害者、サウロの姿を見ましょう。サウロは、キリスト者をもっと迫害しようとしてダマスコへと向かっていました。その道の途中で復活のイエス・キリストに声を掛けられ、目を見えなくされてしまいます。目が見えなくなったサウロは人々に手を取ってもらい、ダマスコの家の中に入り、三日間食べも飲みもしませんでした。

サウロはこの後、キリストの使徒パウロとなり、アジアからヨーロッパへと渡りキリストを証しする旅を続けることになる。

サウロが使徒とされるために、三日間、目が見えなくされ、飲み食いすらできない時間が与えられました。このことには大きな意味があった。

復活の主は、すぐにでもサウロを使徒とすることが出来たはずです。しかし、キリストはサウロにこの三日間をお与えになりました。サウロにとってこの三日間というのは、何もできなかった、何も見えなかった「無駄な」「無意味な」三日間ではありませんでした。

サウロにとってこの三日間は闇の中で救いを待つ時間でした。目を見せなくされたことによって、神の言葉に聞くことを学ぶ時となったのです。サウロは、神を待つ時間を与えられました。

サウロは後に、伝道の同労者であったテモテへの手紙の中で、こう振り返っているます。

「私を強くしてくださった、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、私を忠実な者とみなして務めにつかせてくださったからです。以前、私は神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていない時知らずに行ったことなので、憐みを受けました。」

サウロを通して、自分自身のことを振り返ると、私たちもそれぞれ、このような時間を過ごしたことがあるのではないでしょうか。自分が正しいと思っていた道がいきなり見えなくなり、どこからか救いがもたらされるのを待たなければならない中へと放り込まれる時です。前に進むことが出来なくて、ただ、神に答えを求め続けた時間、神を待つ時間を過ごしたことはないでしょうか。その時は「停滞」のように思えたかもしれません。しかしあとで振り返ると、それは神に聞くことを学ぶ時間であった、ということがわかるのです。

サウロにとってのこの三日間の意味、そしてなぜなぜ神がサウロをキリストの使徒としてお選びになったのか、サウロを迎えに行くアナニアに、神ご自身の言葉で語られています。

「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるために、私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、私は彼に示そう」

この時サウロ本人が聞いたら驚くような言葉です。「異邦人にイエス・キリストキリストの福音を伝えるために召された」、と言われています。この時、サウロはイエスをキリストであると信じるキリスト者たちを迫害していました。そして、サウロは自分がユダヤ人であることに誇りをもっていました。「自分は神を知らない異邦人とは違う」、という誇りを持っていました。

神はそのようなサウロを、「異邦人に」「イエスがキリストである」、と伝える使命へと召されたのだ。

そして、もう一つの理由が驚きです。

「私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、私は彼に示そう」

神のため・キリストのために苦しむためにサウロは召されたのです。

この神の言葉は、私たちに、信仰者としての使命について新しい視点を示すのではないでしょうか。キリスト者の信仰生活は、「苦しみがなくなる生活」ではないのです。洗礼を受けてキリストを知った人は、何の苦しみもなくなる、ということではありません。生きていればしんどいこともあり、うれしいこともあり、山があり谷があります。それはキリスト者もキリスト者でない人も同じです。

それでは、キリスト者としての喜びとは、信仰の喜びとは何なのか、ということです。

神はサウロが、「私の名のためにどれだけ苦しまなければならないかを示す」とおっしゃいました。サウロが神・キリストのために苦しむ道を歩くことになる、とおっしゃるのです。

それでは、信仰をもつということは、ただ苦しい思いをする、損をすることだ、ということなのでしょうか。

サウロは、イエス・キリストを知って、後悔したでしょうか。そんなことはありません。サウロは後に、「キリストを伝えないことは私にとって不幸なのです」と言っています。サウロにとって、「キリストのために苦しむ」ということが「喜び」となったのです。

イエス・キリストは、人々におっしゃった。

「重荷を負うて苦労している者は私の元に来なさい。休ませてあげよう。」

キリストのもとに行けば重荷がなくなる、というのではありません。キリストが共に担ってくださる、ということです。

ここにキリスト者の喜びがあります。どんなにしんどいことがあっても、キリストが共に担ってくださっているということを知っている・・・それが信仰の喜びです。キリストが共に担ってくださっているのであれば、その重荷には意味があるのです。

サウロが後に使徒となって様々な迫害や苦難に会っても、なぜキリストを伝えるために歩きつづけたのでしょうか。キリストが自分と共に歩いてくださり、苦難を共にしてくださっていることを知っていたからでしょう。

私達の信仰生活も同じです。今、キリストが共に歩んでくださり、共に重荷を担ってくださっているからこそ、喜びがあるのです。

さて、サウロがいたダマスコに、アナニアというキリスト者がいました。このアナニアという人は、聖書のここだけに出てくる人です。キリストの使徒として目立つ福音宣教をして名を残した人ではありません。この人が何歳ぐらいで、どんな仕事をしていたのか、どのようにイエス・キリストを信じるようになったのか、何も記されていません。

そのアナニアが突然神から名前を呼ばれれました。アナニアは、ためらわずに「主よ、ここにおります」と答えました。

私達はこのことに注目したと思います。この人は、主イエスの直弟子でもなく、キリストの使徒でもなく、大勢いたキリスト者の一人でした。普通に考えるとまさか自分に神が呼びかけてくださるなどとは考えないでしょう。

しかし、この人はアナニアは神から名前を呼ばれて驚いたり、不思議に思ったりせず、素直に、「主よ、ここにおります」と答えていいます。神に召される心構えでいた、ということではないでしょうか。

このアナニアを見て考えさせられます。私たちは普段どれだけ、神がご自分の名前を呼んでくださっていることを思い返しているでしょうか。そしてどれだけ備えているでしょうか。

突然、「あなたが行こうとするその道ではなく、私が示す道に行け」という神の導きが与えられることがあるのです。

私たちはそれぞれ、不思議な仕方でこの礼拝へと導かれたことを忘れてはならないと思います。ここに来るまでには、自分の思いを超えた、呼びかけ・導きがあったはずです。

旧約聖書を見ても、預言者サムエルや預言者イザヤは、神の声を聞いて、「私はここにおります。僕は聞いております。お語りください」「私がここにおります。私を遣わしてください」と言って、神の導きに従いました。

このことは、聖書の登場人物だけに限られたことではなく、全ての信仰者が祈りを通して行っている日々の信仰の従いの姿勢なのです。私たちも祈りの中で自分の中から雑音を消し、神の静かな御声に耳を傾けたいと思います。

さて、アナニアに告げられたのは、「サウロのところに行け」、ということでした。アナニアは神がサウロという人物をご存じないのでは、と思い、サウロが教会を迫害した人であることを神に詳しく告げました。

もちろん、神はサウロが何をしたのか、どういう人なのか、よくご存じでした。神に召されたアナニアには、まだ神の御心がわからなかった。

しかし、アナニアは最後には神の言葉に従いました。アナニアにとって大切なことは、神に従う、ということだったのです。今の自分の思いで自分が決めるのではなく、自分を選び、召し出された神の御心を信じて従う、ということでした。

アナニアにとってこの決断は、簡単なものではなかったでしょう。サウロだけではなく、アナニアにも、信仰の戦いがりました。神のご計画が人の思いを超えている、ということは、それを告げられる人間には神の御心に従うための戦いがあるということです。

アナニアはサウロがいる家に向かった。教会の迫害者のところに行くのだから、命がけの覚悟が必要だったでしょう。

そして神がおっしゃったように、サウロに「兄弟サウル」と、信仰の兄弟として呼びかけました。その瞬間、サウロの目からうろこのようなものが落ちて、元通り見えるようになりました。

アナニアとサウロの出会いは、神の言葉がなければなかったことです。サウロにとってダマスコへの道は、「教会の迫害の道」から、「復活のイエス・キリストとの出会いの道」となりました。「迫害者から使徒へと生まれ変わる道」となったのです。

一人のキリスト者が、誰か一人を信仰の兄弟として受け入れること、そこには、必ず神の働き、聖霊の働きがあります。その人の過去の歩みがどんなに恥ずべきものであったとしても、聖霊はそれを越えて、神の元へと招くのです。そしてその先には、信仰の友として受け入れる一人の信仰者が必ずいるのです。

アナニアに受け入れられたサウロは、後に使徒パウロとなり、異邦人に向けてキリストの福音を伝えていくことになります。

私たちは、このことを通して、一人の人が、誰か一人を信仰の友として受け入れるということの中に、どんなに大きな神のご計画があるか、ということを見ます。それは私達に与えられてきた恵みであり、またこれから私達が担う重い信仰の使命でもあります。

キリストを求める誰かを受け入れる教会がそこにある、ということ、そのこと自体が、神の創造の御業なのです。