使徒言行禄15:1~12
「全会衆は静かになり、バルナバとパウロが自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いていた」(使徒言行禄15:12)
私たちは、「救い」という言葉を教会の中でよく聞きます。聖書にもよく出てくるのを見ます。しかし、その意味を何となくしか理解していないのではないでしょうか。
聖書が言う「救い」とは、罪の支配から解放され神の支配へと入れられることです。神から離れた闇を生きていた者が、神を知って光の中に生き始める、ということが「救われた」ということです。
イエス・キリストが、一人の女性を癒されたことがあります。12年間出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしても直してもらえなかった女性です。この人は、誰にもばれないように、人ごみに紛れて後ろから主イエスの服の房に触れました。「この方に振れさえすれば、癒される」、と信じたです。
主イエスはそれに気づかれました。「私に触れたのは誰か」とおっしゃって、その女性を探されました。女性は隠しきれないと知って、ひれ伏して、触れた理由と癒された次第を人々の前で話しました。主イエスはその女性におっしゃいました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」
救いを求める一人の女性が、ナザレのイエスという方に一縷の希望を見出してその服の裾に触れました。その女性を救ったのは、その女性の信仰だった、ということがわかる出来事です。
私たちは、改めて、「救い」とは何か、そして信仰が持つ力がどんなに大きいのか、ということを今日考えて行きたいと思います。
私たちはここまで使徒言行禄を読んできました。アンティオキアの町に異邦人教会が出来、そこから送り出されパウロとバルナバは福音宣教の旅を続けてきました。二人は旅を終えて、一旦異邦人伝道の拠点であるアンティオキア教会へと戻りました。2人がアンティオキアの町に戻って来たところで、大きな問題が起こりました。
ユダヤ地方からある人々がやって来て、アンティオキアの町のキリスト者たちに、「あなたたちの信仰生活は間違っている」ということを伝えたのです。「モーセの慣習に従って、割礼を受けなければ、あなたたちは救われない」とその人たちは言いました。
アンティオキアの教会は異邦人キリスト者たちで構成されていたので、当然割礼を受けていない人たちばかりでした。そこに、おそらくエルサレムからでしょう、ユダヤ人キリスト者が来て、「あなたたちも信仰者であるなら、ユダヤ人のように割礼を受けなさい。そうしなければ救われない」と言ったのです。
当時のユダヤ人にとっては、割礼こそ信仰のしるしであり、割礼のない信仰生活は考えられませんでした。エルサレムという信仰の本場からやって来た、聖書をよく知っていて聖書の掟を実践しているその人たちの言葉は影響力がありました。
異邦人教会だったアンティオキアの人たちは、戸惑ったでしょう。
「キリスト者は、キリストを信じるだけではだめなのか。割礼を受け、ユダヤ人の習慣に従わなければ、本当にキリスト者となることはできないのか。割礼を受けなければ、神を信じる、ということにはならないのか。」
パウロとバルナバは、そんなことを言ってきたエルサレムの人たちに激しく反対した。二人ともユダヤ人でしたが、「割礼を受けなければ救われない」とは考えていませんでした。イエス・キリストへの信仰をもった異邦人たちを、割礼を受けていないそのままで、神が受け入れられたのを、自分たちの宣教の旅の中で見たからです。
パウロとバルナバは、この問題について話し合ってはっきりさせるために、アンティオキアからエルサレムへと向かうことにしました。
パウロとバルナバはエルサレム教会に行くと、まず教会の人たち、使徒たち、長老たちに歓迎されました。そこで二人は、自分たちの宣教活動の様子を語り伝えます。
ユダヤから外へと出て行き、地中海沿岸の異邦人の町々を巡る中で、キリストを信じる人たちが生まれ、キリスト教会が出来、長老に任命された人たちが今もしっかりとキリストへの礼拝を続けていることを語りました。
二人は「自分たちが何をしたか」ではなく、「神が自分たちと共にいて行われたこと」を語った、とあります。パウロとバルナバは、自分たちの手柄ではなく、「神がなさったこと」をそのままエルサレム教会に報告したのです。
キリスト者は、キリストをどれだけ信仰しても、割礼を受けなければ、神に愛していただけないのでしょうか。どんなに神を信じていても、割礼を受けなければ本当に救われないのでしょうか。
このことは、使徒パウロが後々まで戦ったことでした。
ガラテヤの諸教会に、パウロは手紙でこう書き送っています。
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」
「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」
今の私たちからすれば、なぜ当時のユダヤ人キリスト者がそんなに割礼にこだわるのか、よくわからないのではないでしょうか。
当時のユダヤ人にとって、信仰の父であるアブラハムが割礼を受け、モーセの律法にも割礼の掟があることから、割礼のない信仰というのはあり得るのか、ということは大きな問題だったのです。
いわば信仰の本場であるエルサレムから来たユダヤ人キリスト者が聖書を持ち出して、「信仰だけではだめだ。割礼を受けて初めて救われるのだ」と言われたら、異邦人キリスト者たちは当然混乱します。
パウロたちがそれを言っても、ファリサイ派からキリスト者になった人たちは「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言い張りました。
「割礼を受けていない人は神に救われていないのか。キリストを信じるだけでは不十分なのか」このことについてエルサレム教会での話し合いは続いた。
使徒たちと長老たちが集まり、「異邦人キリスト者にも割礼は必要かどうか」という議論を更に続けました。
議論を重ねた後、最後に立ち上がったのはペトロでした。ペトロも、パウロと同じように、自分の異邦人伝道での体験を語りました。
ペトロも、カイサリアの町で、割礼を受けていない異邦人でありローマの百人隊長コルネリウスに聖霊が降ったのを見たのです。
異邦人コルネリウスがもっていたものは何だったのか。コルネリウスの何に聖霊が降ったでしょうか。それはコルネリウスの信仰だった。コルネリウスの割礼ではなく、信仰でした。
ペトロだってユダヤ人でしたので、聖書の掟を重んじていました。
「自分はユダヤ人であって、異邦人のように神を知らない人間ではない。ユダヤ人として、自分の信仰が汚れないように異邦人を訪問したり、異邦人と付き合ったりはしない。自分は割礼を受けている。」・・・そう思っていたのです。
そのようなペトロに、神は前もって、幻の中で「神が清めた物を、あなたは清くないなどと言ってはならない」御告げになりました。それを聞いたとき、ペトロはその言葉の意味が分かりませんでした。
ペトロは割礼を受けていない異邦人コルネリウスの元へと導かれ、聖霊が注がれたのを見て、神がおっしゃったことの意味を悟っていったのです。「神は人を分け隔てなさらない。神がご覧になって喜ばれるのは、ユダヤ人だろうが異邦人だろうが、その人の信仰である」と。
ペトロは、エルサレム教会の中で、その時神がなさったことを皆に語り聞かせました。そして、「主の恵みによって救われる、ということは、異邦人も同じことです。」「異邦人キリスト者に、割礼を強要することは、神を試みることであり、重荷を負わせることだ」
私達は、今、「自分が・誰かが割礼を受けているかどうか」、ということを教会の中で問題にはしません。救われるためには割礼が必要かどうか、という議論は、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間に線引きが色濃く残っていた一世紀の教会の中で起こっていたことです。
この議論は、今の私たちにとってそれほど重要な議論に思えないでしょう。しかし、教会の中でいろんな線引きが出来てしまう、というのは、いつでも教会の中で起こっていることではないでしょうか。
今日私たちが見たのは、ユダヤ人と異邦人、エルサレムとアンティオキア、割礼と無割礼という線引きでした。
その後も、例えば、コリント教会では、「私は誰それにつく」という派閥が生まれたり、豊かな人たちと貧しい人たちの間に、線引きが出来たりしていました。キリストの復活を信じるはずの教会の中に、死者の復活を信じることができずイエス・キリストの復活はなかった、と言う人たちがいたことも書かれています。
テサロニケ教会では、冷静に教会生活を続ける人と、もうすぐこの世が終わると信じて、熱狂的になる人たちがいたことがわかります。
人が集まる限り、同じキリストの名のもとに集まった人たちであっても、いろんな形の線引きが生まれてしまうのだ。
人が集まる教会には様々な人間的な問題が起こってきました。しかしそれでも、教会は今日まで一つの信仰に立ち続けてきました。
教会はどのようにして人間が生み出す様々な問題に向き合って来たのでしょうか。
この時のエルサレム教会の人たちを見ればわかります。エルサレム教会の人たちは、12節にあるように、「静かに」聞いたとあります。自分の律法の実践に対する考えも全て出しあったところで、「何よりも、神が何をなさってきたのか」、ということに耳を傾け始めたのです。
エルサレム教会の人たちは、「自分はこう思う」という話し合いから、「神はこうお考えだ」という理解へと移っていきました。神のご計画の方に目を向け、自分の口を閉じて、神の御心を聞くことに専念したのです。
教会の中に何か問題が起こってきた時、信仰の群れの中に線引きが、壁が出来始めた時、私たちが立ち返るのは、聖書の言葉です。自分の意見を言いあって、声の大きな人の意見が通る、というのであれば、教会はすぐにダメになってしまうでしょう。しかし、私たちには立ち返るべき神の言葉、聖書があります。そこに教会の失敗事例集があり、見つめるべきイエス・キリストのお姿があります。
私たち信仰者は、「黙って聞く」、というところから、神の言葉を聞き、神のご計画を知っていくのです。預言者サムエルは、少年の時、自分の名前を呼ぶ声に向かって、「どうぞお語りください。僕は聞いております」と答えました。そこからサムエルの、預言者としての歩みは始まりました。
信仰の業は、神の言葉を聞こうとするところから始まるのです。自分が黙って、神の言葉を受け入れるためにまず自分が空っぽになるところから始まるのです。自分が固執して握りしめているものを、神を信頼して手放すところから始まるのです。
今日でも、神は新しいことをなさろうとしています。自分が当たり前だと思っていたことでも、時代が変わると、やり方が変わってくることもあります。大切なことは、どんなに時代が変わっても変えてはならないことと、変えてもいいところを、聖書と祈りを通してわきまえる、ということです。
1世紀の教会の中であった議論を通して、キリストへの信仰こそが全てだ、ということが示されました。聖書を通して私たちに与えられる教えは、とても簡単です。キリストを信頼する、ということです。
この方こそ、神から離れた私たちを神の元へと導いてくださる羊飼い、メシアです。心を静かにして、この世の雑音、自分の身勝手を促す誘惑に惑わされず、キリストの服の裾を触ったあの名もなき女性のように、低く、そしてひたすらにキリストを求めていきたいと思います。
「安心しなさい。あなたの信仰があなたを救った」
このキリストの言葉を、自分の全てとしたいと思います。