4月27日の礼拝説教

 ヨハネ福音書12:27~36

イエス・キリストは、「私はよい羊飼いである」とおっしゃり、続けて、「私にはまだ囲いに入っていない羊がいる、そしてその羊たちのために私は命を捨てる」とおっしゃいました。

羊は、囲いの中で羊飼いに守られていることで、平和と自由を楽しむことができます。しかし、羊飼いから離れ、囲いの外にこそ自分の自由があるのではないかという誘惑に負け、いるべき場所から離れてしまい、道に迷い、なすすべを知らず途方に暮れる羊もいます。主イエスは、そのような羊を命懸けで迎えに行く羊飼いにご自分を例えられました。

イスラエルは長い間、自分たちを神の恵みの支配のもとへと連れ戻してくださる方を待ち続けてきました。自分たちが、羊飼いから離れ、囲いを出てしまった羊の群れであることを知っていたのです。何百年も外国の支配の中で生きてこなければならなかったイスラエルは、自分たちを救い出してくれる存在を待ち続けてきました。

これまでの歴史の中で、預言者たちが、イスラエルの牧者の到来を告げてきました。人々は、聖書に記録されている預言者たちの言葉を信じ、希望を持ち続けてきました。イスラエルの人々は、自分たちを外国の支配から救い出し、神の恵みの支配へと連れ戻してくださる方、メシアを待っていたのです。

人々は、メシアがいつの日か来て、羊飼いが羊を導くように自分たちを神の支配へと導いてくれる、と信じてきました。そして自分たちの目の前に、人々の病を癒し、聖書の教えを伝え、ついに死人を墓の中からよみがえらせたナザレのイエスという人が現れました。

群衆は「この方こそメシアではないか、救いの時が来たのではないか」、という期待を抱きました。

主イエスはこれまで、何度も「私の時は来ていない」とおっしゃってきました。しかし、ご自分のもとにギリシャ人たちがやってきた時、ついに、「人の子が栄光を受ける時が来た」と宣言されました。

ユダヤ人ではないこのギリシャ人たち、異邦人がご自分を求めてやってきたのをご覧になって、主イエスは「囲いに入っていない羊たち」がご自分を羊飼いとして求める時が来たことを悟られたのです。

「囲いに入っていない羊たち」であるギリシャ人たちがご自分のもとに来た今、そして神の招きの福音が全世界に広がる時が来たことを悟り、「人の子が栄光を受ける時が来た」とおっしゃいました。

主イエスは「今、私は心騒ぐ」とおっしゃいます。「栄光を受ける時」とは、ご自分が「羊のために命を捨てる時」、「十字架の死によって栄光を受ける時」のことだったからです。

ご自分の死の時が目の前に来たことを悟られました。心が乱れ、胸が張り裂けそうな思いで、ご自分の死へとまっすぐに歩んでいかれることになります。神の子であれば、十字架の死など怖くなかったのではないか、と思う人もいるでしょう。

しかし、我々と全く同じ人間としてお生まれになった神の子は、我々と同じように、恐怖を感じられるのです。

私たちは誰でも、自分の死を考える時、心騒ぐでしょう。いつか自分は死ぬのだろうという漠然として思いを持っていても、あなたの命はあとこれだけだと言われて、心騒がない人はいないでしょう。

ただ知識として「いつか人は死ぬ」ということを知っていることと、事実として間近に自分の死を感じることは全く違います。

キリストは我々と同じ一人の人間として、死に対して恐怖を覚えていらっしゃいます。私たちが死に向き合う時に心騒ぐように、キリストも心の内に痛みと恐怖を感じていらっしゃいます。

ヨハネ福音書の特徴の一つに、イエス・キリストのセツセマネの祈りが描かれていない、ということが挙げられます。

マタイ、マルコ、ルカによる三つの福音書には、イエス・キリストがご自分の死の時を前にして、オリーブ山にあるゲツセマネという場所で、もだえ苦しみながら神に祈られたお姿が描かれています。

弟子達も祈られる主イエスの傍にいました。しかし、主イエスの激しい苦しみの祈りの傍らで、弟子達は眠ってしまいました。起きていられなかったのです。「心は燃えていても、肉体は弱い」と主イエスから言われてしまいます。

十字架というご自分に与えられた使命のために祈るキリストと、心は燃えていても肉体は弱い弟子達との姿が対照的な場面です。

ヨハネ福音書はそのような、壮絶な主イエスのセツセマネの祈りのお姿を描いていません。しかし、よく読んでいくと、ゲツセマネの祈りと同じ言葉を、祈られています。

28節「『父よ、私をこの時から救ってください』と言おうか。しかし、私はまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現わしてください。」

これがキリストの祈りだった。

主イエスの本心は、「父よ、この時から救ってください」「できれば十字架を取り去ってください」というものでした。誰だって、好き好んで十字架に上がる人などいないのです。

キリストはどのような思いで祈られたでしょうか。

詩編42編に、魂の痛みの中から神に向かって祈る詩人の詩が記されている。

「枯れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める。神に、命の神に、私の魂は渇く」という言葉で始まっています。

祈りながら、詩人は自分自身に言い聞かせます。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め、わたしはなお、告白しよう。『御顔こそ、わたしの救い』と。私の神よ」

イエス・キリストは、十字架を前にして、詩編42編の祈りの詩人のような思いで祈りの言葉を紡がれたでしょう。

そしてヨハネ福音書は、このキリストの祈りに対する天からの神の声を記録しています。

「私はすでに栄光を現わした。再び栄光を現わそう」

そしてその神の声は群衆にも聞こえたのです。神の声が人々にも聞こえた、ということは驚きです。旧約聖書では預言者にしか聞こえなかった神の声が、キリストの祈りを通して人々にも聞かせられたのです。

人々は天から響いた声に混乱しました。「雷が鳴った」という人もいれば、「天使がこの人に話しかけたのだ」という人もいた、と書かれています。

主イエスは「この声が聞こえたのは、私のためではなく、あなた方のためだ」とおっしゃいました。周りにいた群衆は、確かに神の声を聞きました。神は確かに、キリストを通してご自分を示されています。

そして今、聖書の言葉を通して、神は我々に御声を聞かせてくださっています。私たちは、この時イエス・キリストのそばにいた群衆の中の1人なのです。

今、私たちは問われているのです。イエス・キリストの祈りの言葉と、天から響いた神の声を、実際にそばでどのように聞いているでしょうか。自分のためにとりなしてくださる祈りとして、そしてこの方に真の神の栄光があることを示される天の声として、聴くことができているでしょうか。

出エジプトをした際、イスラエルの人たちはシナイ山の上に雷鳴のように鳴り響いた神の声を聞きました。「私はシナイ山に下る」とおっしゃり、神は民と出会おうとなさいました。

しかし、「宿営にいた民は皆、震えた」と書かれています。「私のもとに来なさい」とおっしゃる神の声を聞いてもそこから動けませんでした。怖かったのです。民は恐れのあまり動けなかったのです。

そして、「モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った」と書かれています。

神聖な神と出会うことは、これほどまでに恐れをもって備えなければならないことがわかります。私たちは神の招きの言葉を今、どのような姿勢で聞いているでしょうか。本来、神から言葉をいただくことはそれほど厳粛なことなのです。

神を知らない人、神に従わない人にとって、神の声ほど恐ろしく響くものはないでしょう。まさに、自分の頭の上で鳴り響く雷鳴のようなものです。しかし、神に従う人であるなら、それは喜びの響きとなるのではないでしょうか。私たちはキリストの十字架の後の時を生きています。今、この地上にキリストはいらっしゃいません。しかし、イエス・キリストの証言である聖書があります。聖書を通して、私たちは神の声の響きの中を生きる恵みが与えられています。

主イエスはおっしゃいます。

「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される」

イエス・キリストの十字架の時が来た、ということは、この世の裁きの時が来た、ということもありました。神の支配が来る、ということは、この世の支配者の支配が終わる、ということでもあります。神の声が聞かされたにも関わらず、その声に従おうとしない人たちはどこに行くことになるのでしょうか。神以外のところに行くしかありません。どんどん神から離れていくことになるのです。

「私は地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」

人々は主イエスが「地上から上げられる」とおっしゃったことの意味が理解できませんでした。主イエスはご自分が十字架の上に上げられる、ということと、天へと引き上げられる、という二重の意味を示していらっしゃいます。

「その人の子とは誰ですか」と人々は尋ねましたが、主イエスははっきりとはお答えになりません。ただ、「光は、いましばらく、あなた方の間にある」とだけおっしゃいました。

「光と闇」、とか、「昼と夜」というのは、この福音書のキーワードです。もうすぐ世の光であるイエス・キリストが取り去られることになります。キリストは、「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」とおっしゃいました。

キリストへの立ち返りの時は、有限です。それは、当時のエルサレムの人たちだけなく、今の私たちも同じです。私たちにとって、神への立ち返りのために残された時は有限であり、立ち返ったとしても、神から引き離そうとする誘惑は続きます。だからこそ、イエス・キリストの十字架は、神から離れた世のすべての人に、立ち返る場所を示しています。

私たちは今、救いと裁きの狭間を生きています。その緊張感を忘れてはならないのです。そして、この世界は終わりに私たちを待っているのは光であるということを、覚え、安心と信頼をもってキリストを求めて生きたいと思うのです。

使徒パウロは、エフェソの教会にこう書き送っています。

「むなしい言葉に惑わされては習いません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。あなた方は、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」

世の終わりにキリストは再び来てくださいます。私たちの今は、光の再臨を待つ時なのです。その時に、キリストの光に直接触れることができるのです。

「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」

大切に、キリストの戒めを受け止めたいと思います。