12月11日の説教要旨

創世記19章

「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。」(19:29)

ソドムで起こったこと、そしてソドムに起こったことを続けて読みました。

ソドムの町に入った二人の旅人を暴力で自分たちの支配会に置くために、町中の男たちがロトの家にやって来ました。ロトはなんとか旅人たちを守ろうとした、守り切ることはできませんでした。戸が破られようとしたその時、二人の旅人たちが出てきてロトを家の中へと引き入れ、ソドムの男たち全員に目つぶしを食らわせ、戸口がわからないようにしました。

この二人の旅人たちは、神のみ使いでした。男たちが目を開けられなくなった隙に、使いたちはロトに自分たちが何者であるかを告げ、身内の人たちを連れてソドムの町から逃げるように伝えました。

ロトは嫁いだ娘たちの婿たちのところへ行き、「ここから早く逃げよう。主がこの町を滅ぼされるのだ」と言いましたが、婿たちは冗談だと思い、従いませんでした。ロトは一晩中婿たちを説得し続けていたようです。

夜明け近くなると、み使いたちはロトを急き立てました。「早く、妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に降る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう」

16節を見ると、まだ「ロトはためらっていた」、とあります。婿たちがロトの言葉を信じない、ということは、婿たちに嫁いだ自分の娘たちもソドムの町から出ない、ということです。娘たちも滅びに巻き込まれてしまう、ということでした。

16節には、「主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた」とあります。どうやら三人目の旅人、主なる神ご自身が、アブラハムとのやりとりを終えて、追いつかれたようです。主はロトのためらいをご覧になって、「憐れまれ」ました。神は、ロトの痛みをご存じでした。

しかしそれでも、正しい人ロトが滅びに巻き込まれることを良しとされませんでした。アブラハムに「正しい人を巻き込むことはしない」、と約束された通り、神は正しい人ロトの一家をみ使いに手を取らせて町の外へと連れて行かれました。

そして言われます。

「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない」

ソドムの町から出て行く、ということはロトにとって降ってわいたような話でした。昨日まで、この町から出て行くなどということは考えてもいませんでした。しかし、いつの間にかソドムの罪は膨らみ、もう滅びるしかないところまで来ていたのです。

ソドムからの脱出のためにロトに与えられた時間は一晩だった。私たちはここで、出エジプトの思い出すことが出来るのではないでしょうか。

エジプトでの奴隷生活に苦しんでいたイスラエルの民の叫びを聞かれた神は、モーセをお選びになり、イスラエルの民をエジプトから救い出されましたが、その際、イスラエルの民がエジプトから出て行くために与えられた時間は、やはり、一晩でした。あわただしく、ほとんど何も持たず、イスラエルはただ神の導きを信じて出て行くしかありませんでした。そこからイスラエルにとって長く、不安な旅が始まったのです。

この時のロトは、まさに、エジプトから出て行こうとするイスラエルそのものです。ロトはソドムから出て行くことをためらいました。「命がけで山に逃れよ」とおっしゃる主に対して「主よ、できません」と言いました。まだソドムに未練があったのです。

ソドムは肥沃な土地で、ロトも豊かな生活が出来ていました。ここまで自分の生活を築き上げてきたのに、突然町を離れ、肥沃な低地から山に移って新しく厳しい環境で生活をまた築いていくということは大変なことでした。ソドムから出て行ったら次はどんな土地で、どんな生活になるか分からないのです。

「山に逃れなさい」とおっしゃる神に対して、ロトは、「できません。あそこにある小さな町なら近いので、あそこで私の命を救ってください」と言いました。ロトは豊かな低地の生活を捨てきれなかったのではないでしょうか。

しかし、交渉してくるロトの願いを神は聞き入れられました。ロトの一家がその小さな町ツォアルに着いた時、主はソドムとゴモラの上に天から、硫黄の火を降らせ、滅ぼされました。こうしてロトの一家は、罪に対する滅びから神ご自身の手によって救い出されたのです。

これで全てが終わったか、というとそうではありませんでした。ロトの妻が、「振り返ってはいけない」と言われていたにも関わらず、後ろを振り向いたので塩の柱になってしまったのです。

聖書はこのことを26節でただ一言、「ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった」と簡潔に書き記している。ロトの妻に起こったことを、聖書は全く何も解説を加えていません。しかし、塩の柱とされたロトの妻の姿は、大きな警告となって私たちの目の前に示されているのではないでしょうか。

ロトの妻は、ただ、後ろを振り向いた、というだけのことでした。しかし、神の救いの中で、後ろを振り向いいてしまうということがどれほど恐ろしいことなのか、ということを聖書は伝えているのではないでしょうか。

出エジプトの際、旅の中でイスラエルは何度もエジプトを振り返りました。「荒野を旅するよりも、エジプトで奴隷であった時の方がマシだった」、と何度もモーセに訴えました。そのたびに、イスラエルは神から罰を受けました。

神はエジプトから脱出したイスラエルを荒れ野で養いつつ、その後もイスラエルに40年間寄り添って共に歩み、約束の地まで導き入れられました。そしてモーセは、40年の荒れ野の旅を最後に振り返り、「この荒れ野の40年は、神に委ねることを学ぶための旅だったのだ」、とイスラエルに語りました。

ロトの一家がソドムから救い出されたのは、ある意味で小さな出エジプトでした。罪の支配から、神が救い出してくださり、神の御手の内に、恵みの支配へと立ち帰って行く旅でした。しかし、ロトの妻は、ソドムの町を振り返ってしまいました。それは、罪の支配を振り返ってしまった、ということでしょう。

イエス・キリストは弟子達に、ソドムの出来事についてお教えになっている。

「ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失うものは、かえって保つのである」

キリストは、ソドムの滅びの出来事を、過去のこととしてお話しなさっていません。「人の子」、つまり御自分が世に再び来られる時に、同じことが起こる、とおっしゃっているのです。私たちは、ソドムの滅びを、むしろ将来自分たちに起こることとして見つめなければならないのです。

そのようにして見ると、塩の柱とされたロトの妻の姿は、私たちにとって大きな教訓となるのではないでしょうか。ロトの妻は、み使いの救いの導きに全てをゆだねることが出来ず、後ろを振り返ってしまいました。その一瞬の迷い・未練が、どんなに恐ろしいことになるのか、を私たちはここで学びたいと思います。

さて、ソドムの滅びを離れたところから見た人がいました。アブラハムです。アブラハムは朝早く起きて、神と語り合った場所に行き、山の上から低地を見ました。昨日までそこにあった町が、なくなり、地面から煙が立ち上っている光景が目に飛び込んできました。

聖書は、このことも非常に簡略に書いています。神による滅びを見たアブラハムが何を思ったのか、ということは何も記されていません。私たちはただアブラハムの心情を想像するしかありません。

ソドムの町には10人の正しい人すらいなかったのか、という虚脱感があったのではないでしょうか。そして罪に対する神の裁きの厳しさも、アブラハムの心を打ったのではないでしょうか。

私たちは、聖書が、創世記が、我々読者に何を伝えようとしているのか、アブラハムの立ち位置に立って、しっかりここで見つめなければならないと思います。創世記には、人間の罪が描かれています。神が裁きを行われ、罪を滅ぼし、そして罪の中から信仰者を救い出す様が描き出されています。そして創世記は私たちに不信仰の結末を生々しく見せるのです。

神は人の罪を決して見逃すということはなさいません。信仰が豊かな霊の実を結ぶように、不信仰も、罪の実を結ぶのです。不信仰が結ぶ実、それは、滅びです。

不信仰の町ソドムは神によって滅ぼされました。今一度、ソドムの罪とは何だったのかを振り返りたいと思います。

預言者たちが、このソドムの滅びについて書いている。

紀元前626年ごろ、預言者ゼファニヤがこんな預言を残しています。

「金も銀も彼らを救い出すことはできない。主の憤りの火に、地上はくまなく主の熱情の火に焼き尽くされる」

ゼファニヤは、イスラエルを嘲り、驕り高ぶった民に対して、「必ずソドムとゴモラのようになるだろう」と預言しました。「このことが彼らに起こるのは、彼らの傲慢の故であり、万軍の主の民を嘲り、驕り高ぶったからだ」と言っています。

神の民イスラエルをあざけることは、神に対して傲慢になる、ということだ、と言うのです。

ゼファニヤの預言から40年ほどして、預言者エレミヤも、エルサレムを滅ぼしたバビロンについてこう告げました。

「バビロンは主に向かい、イスラエルの聖なる方に向かって傲慢にふるまった」

「傲慢な者よ、見よ、私はお前に立ち向かうと万軍の主なる神は言われる。」

「神がソドム、ゴモラと近隣の町々を覆された時のように、と主は言われる」

神に対する傲慢、これこそソドムの罪でした。そして神に対する傲慢に対して、神の裁きは向かうのです。

私たちはソドムの町の様子と、そこに起こったことを見て来ました。私たちはこの創世記の物語から何を学ばなければならないのでしょうか。今、私たちの世界にはどれだけ多くのソドムの町があるでしょうか。どれだけソドムの人がいるでしょうか。省みたいと思います。

今日読んだ最後のところで、聖書はこう書いています。

「こうして、ロトの住んでいた低地の町は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。」

ソドムとゴモラと聞くと、「滅びの出来事」として思い返されがちですが、実はこれは「滅びの中からの神の救いの出来事」なのです。私たちが続けて読んできたこの一連の出来事は、神が、信仰者を滅びの中から救い出された、という出来事でした。

預言者イザヤは言っています。

「もし、万軍の主が私たちのためにわずかでも生存者を残されなかったなら、私たちはソドムのようになり、ゴモラに似たものとなっていたであろう」

自らの罪で沈んでいく愚かな人間です。しかし、神はご自分を求め、叫ぶ者をお見捨てにはなりません。自ら足を運び、手を取って救い出してくださいます。

神はロトの手をとって、「命がけで逃れよ」とおっしゃいました。神への傲慢という罪は、私たちの命に関わることなのです。だから、キリストはこの世に生まれ、命を懸けてくださったのです。

イエス・キリストは今でも、「命がけで逃れよ」と私たちの手を取って罪の滅びから導き出して下さっています。キリストがお生まれになった意味と、その恵みを深く覚えたいと思います。