2月26日の礼拝説教

使徒言行禄18:1~11

「『恐れるな。語り続け世。黙っているな。私があなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、私の民が大勢いるからだ』」(18:9~10)

パウロ、シラス、テモテの三人、聖霊に導かれてアジア大陸からヨーロッパ大陸へと渡って来ました。ヨーロッパ大陸へと渡ってからここまで、3人はいくつかの町々に入り、福音宣教をしてきましたが、どの町でも滞在の期間は短いものでした。マケドニアでフィリピやベレア、そしてギリシャに入ってアテネに行きましたが、パウロたちは迫害を受けたり相手にされなかったりで、どの町にも長く滞在できませんでした。

しかしそのような中でも、全ての町で、わずかですがキリストの福音を信じる人が起こされて来ました。

パウロはアテネの次に、コリントという町にやって来ました。アテネと同じ、ギリシャの町です。迫害によって離れ離れになっていたシラスとテモテがようやくここでパウロに追いつき、三人は結局この町に1年6ヶ月滞在して福音宣教をすることになりました。いつも目まぐるしく町々を巡って福音宣教を続けたパウロたちでしたが、このコリントでは長く滞在してキリストを伝えることとなりました。

パウロたちの、コリントの町での宣教の様子を見ていきましょう。

まず、コリントという町についてです。この町は古代世界では最も大きな都市の一つでした。ローマの植民地であり、国際都市でした。人と財が集まってくる地理的条件に恵まれていました。陸と海の要衝で、人の行き来、船の行き来の中心であり、自然と商業の中心になって栄えていました。

パウロはこの町で、これまでとは違う仕方で福音宣教を始めました。職人として町に住み、働きながらキリストを語るやり方をとったのです。

パウロは、コリントの町でアキラとプリスキラというユダヤ人夫婦を訪ねました。紀元49年にローマ皇帝クラウディウスがローマからのユダヤ人追放令を出したことでローマからコリントの町に移住してきた夫婦でした。

二人はパウロと職業が同じだったので、パウロは彼らの家に住み込んで一緒に仕事をはじめました。「同じ職業」というのは、「テント造り」であった、とあります。この「テント造り」というのは、もう少し広く「革製品造り」という意味がある。パウロたちは様々な革製品を作り、販売して生計を立て、同時にその商業的な活動を通して福音を語っていきました。市場で、お店で、通行人や客を相手に会話をしながらキリストを伝え、一か所に腰を落ち着けて福音を語ることができたようです。

こうして見ると、パウロの福音宣教の仕方は、非常に柔軟だと思います。それぞれの町でどのように福音を語ればいいのか、いろんな状況に自分を合わせていっているのです。

パウロは、後にコリント教会に手紙の中でこう書いています。

「私は誰に対しても自由な者ですが、全ての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。・・・弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。全ての人に対して全てのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、私はどんなことでもします」

パウロ自身が後にそう書いているように、アジア大陸ではアジア大陸に適した仕方で、ヨーロッパ大陸に来ればそれぞれの町に適した仕方で、パウロは柔軟に福音宣教のやり方を変えていきました。福音を伝えるために、それぞれの場で自分を変えて行ったのです。

コリントではまず仕事をし、安息日にはユダヤ人の会堂に行って聖書を論じ、キリストの到来を告げました。コリントの町の会堂にはユダヤ人だけでなく、イスラエルの神を求めるギリシャ人もいた、とありますので、聖書を知っているユダヤ人には聖書を詳しく用いて、聖書をよく知らないギリシャ人には、聖書をかみ砕いて福音を伝えて行ったのでしょう。

そのようにして日々を過ごすうちに、シラスとテモテがマケドニアから追いついて来ました。するとパウロはそこで職人としての活動をやめ、み言葉を語ることに専念するようになりました。

このようにパウロは、非常に柔軟でした。コリントに来て革職人として働きながらキリストを伝え、シモンとテモテが来ると、職人としての働きをすぐに辞めて福音宣教に専念するようになったのです。

パウロは福音を語る町、福音を語る相手、福音を語る状況に合わせて、どんどん自分を変えています。「福音のためなら私はどんなことでもします」という姿勢を見ることが出来ます。

このようなパウロの姿勢を通して私達は励まされ、また慰められるのではないでしょうか。「どこに行ってもこういうことをしなければならない」という重圧を、信仰者としてどこかで感じているのではないでしょうか。しかし、重圧を感じながら自分を追い込むようなことはしなくてもいいです。自分にできることを自分がやれる仕方で、キリストに仕えて行けばいいのです。

さて、そのようにしてパウロはコリントの町でキリストの福音を語り続けましたが、時間が経つにつれてコリントのユダヤ人たちから反感を買うようになってきました。パウロが語る福音に対して、「反抗し、口汚くののしった」、と書かれています。どうやらコリントのユダヤ人のほとんどはパウロが語る福音を受け入れなかったようです。

パウロは自分が伝える福音がコリントのユダヤ人に受け入れられないと分かるとすぐに、「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。私には責任がない。今後、私は異邦人の方へ行く」と言って、ユダヤ人にキリストを伝えることをやめました。「もう少し頑張って、ユダヤ人たちを説得しよう」とは考えなかったようです。

ここだけ見ると、パウロはいとも簡単にコリントの町にいたユダヤ人たちへの福音宣教の責任を放棄しているように思えるのではないでしょうか。

パウロは、福音を受け入れないユダヤ人たちに対して「服の塵を振り払った」と書かれています。これは、神の言葉を預かる預言者として「自分の責任を全て果たした」ということの表現です。

預言者の責任は、預かった神の言葉を伝える、ということでした。伝えた相手が受け入れるかどうか、ということは、相手の問題です。

旧約聖書にエゼキエルという預言者が出てきます。エゼキエルは、紀元前6世紀に預言者へと召された人です。イスラエルがバビロンに滅ぼされ、祭司であったエゼキエルも捕囚としてバビロンに連行され、バビロンで預言者へと召された。エゼキエルは、預言者として召された際、神からこう言われました。

「たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたは私の言葉を語らなければならない」

相手が聞くか聞かないかは、預言者の責任ではない。

預言者の責任は、伝えるか伝えないか、だ。

大体、預言者が伝える神の言葉は、神からのお叱りの言葉であり、普通であれば聴きたくない言葉でした。ほとんど聞き入れてもらえないのです。それでも預言者は、神から預かった言葉は全て伝えなければなりませんでした。そして預言者が語った言葉を受け入れるかどうか、その後のことは預言を聞いた側の責任だったのです。

エゼキエルと同じ時期に預言者として活動したエレミヤも、神からこう言われた。

「主の神殿の庭に立って語れ・・・全ての者に向かって語るように、私が命じるこれらの言葉を全て語れ。一言も減らしてはならない。彼らが聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない」

神は、正しい道からはずれてしまったイスラエルに、預言者を通して正しい道に立ち帰るよう招いて来られました。パウロの時代にもそれは変わりません。神はイエス・キリストに立ち返り、全ての人が神の元にある平和の内に一つになることをお求めになったのです。キリストの使徒たちは、そのために働きました。パウロたちの使命は、神の言葉を一つも減らすことなく伝えることだった。あとは、福音を聞いたその人の問題だったのです。

今、神の言葉は、教会を通して世に伝えられています。つまり、私達が今、旧約の預言者たち、キリストの使徒たちに託された神の招きの言葉が託されている、ということです。

イエス・キリストはおっしゃっている。

「全てのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」

教会は、この聖書の言葉を、一言も減らさずに、大事に受け止め、信じ、そして伝えていきます。聖書には何が書かれているのでしょうか。一言でいうと、「神は全ての人を愛し、お求めになっている」、ということです。

キリスト教会はなぜイエス・キリストという方を伝えているのでしょうか。キリストを通して神が世にご自分の愛を示されたからです。「私が神に招かれたように、あなたも神に愛され、招かれている。イエス・キリストがその証拠です」と、を教会はキリストを指さして世に伝えるのです。

神は、正しい道を外れた人がそのまま滅んでいくことを良しとされません。だからこそ、預言者は、使徒は、教会は、神の招きの言葉を全て伝えなければならないのです。

神は預言者エレミヤにおっしゃいました。

「私が命じるこれらの言葉を全て語れ。一言も減らしてはならない。彼らが聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない」

預言者エゼキエルを通してこうもおっしゃっている。

「私は悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち返って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」

神の言葉を託された私たちは、自分に与えられたタラントンを増やそうとしたかどうか、ということが問われることになります。実際に成果が実ったかどうかということよりも、自分に与えられた場所で、できる範囲でできることをしたかどうか、小さなタラントンを神のために用いたかどうか、ということです。

パウロは自分が知っている全てを語りました。そしてコリントの町のユダヤ人に対して、服の塵を払い、「責任を果たした」、ということを示したのです。

キリストの福音を受けいれたティティオ・ユストという人が、ユダヤ人の会堂の隣に家を持っていました。コリントのユダヤ人と決別したパウロたちはそこに移り、キリストの福音を語るようになります。そこにクリスポという人がキリスト者の群に加わり、その家族も洗礼を受けました。この人はユダヤ人の会堂の、会堂長だった人です。多くのユダヤ人たちの反感の中で、コリント教会はここから始まっていきました。新しい神の教会の小さな芽吹きです。

使徒言行禄を読んでいると、パウロたちの福音宣教はなかなかうまくいかなかったことがわかります。「聖書に預言されてきたキリストが来られた」、とパウロが伝えてもユダヤ人たちはなかなか受け入れませんでした。辛さを覚えていたと思います。

そのような中、神は幻の中でパウロに語り掛けられました。

「恐れるな、語り続けよ。黙っているな。私があなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、私の民が大勢いるからだ」

パウロはどんな時でも、福音を語り続けました。苦難の中でも宣教をやめなかった理由が、ここにあります。「神が共にいてくださる」ということです。

出エジプト記で、「イスラエルの民をエジプトから導き出せ」と命じられたモーセが、神に名前を尋ねる場面があります。神は「私はある、私はある、という者だ」とお答えになりました。

神はそのお名前の通り、40年間イスラエルの共にあって、荒れ野を導き、夜は寝ずの番をし、約束の地へと導かれました。出エジプトという荒れ野の40年の苦しみを通して、イスラエルは神が自分たちと共にいてくださる方であり、自分たちは神に生かされているということを学んだのです。

キリストの使徒たちもそうでしょう。福音を告げる長い旅路の中で、「神が自分と共にいてくださる」ということを学んでいったのです。使徒たちは、自分たちの宣教の中で、何度、聖霊の導きを見せられたでしょうか。何度、「神が自分と共にいてくださる」、と思ったでしょうか。

今は教会がその奇跡を見せられているのです。私たち信仰者は、自分の信仰生活の中で、「神が共にいてくださる」ことを思い知らされていきます。自分が思ってもいなかった場所へと連れて行かれ、考えてもいなかった道を歩まされるようになる・・・そしてその道の上で自分が変えられていく・・・思ってもいなかった自分へと造り変えられていく・・・そのような体験を誰もが持っているのではないでしょうか。

神がそれぞれに働きかけて、出会いの場をお創りになります。神は、人間には見えていないところであっても、全てをご覧になっています。全てが神の御手の元、進められていきます。私たちが自分の手で何かを作り上げるのではないのです。神を求める私たちの祈りや礼拝が不思議な仕方で用いられて、神がご自分の恵みの支配を広げていかれるのです。

私たちはイエス・キリストを信じている。天使は、この方がお生まれになる時、「その子はインマヌエルと呼ばれる」と言いました。インマヌエル、「神、我らと共にあり」、という意味の言葉です。

「恐れるな。語り続けよ。私が共にいる。この町には私の民が大勢いる」。これは、キリストが今私たちに語り掛けていらっしゃる言葉です。

私たちを召して、共に歩み、守ってくださる方が、そうおっしゃっています。だから私たちはここで礼拝を続け、神が示される道がここにあることを世に示すのです。