5月7日の礼拝説教

使徒言行禄19:11~20

「悪霊は彼らに言い返した。『イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ』」(19:15)

三度目の福音宣教の旅に出たパウロは、エフェソの町にやって来ました。ユダヤ人の会堂に入り「聖書に預言されていた通り、救い主が来た」と伝えましたが、なかなか受け入れられませんでした。困難を覚えながらも、パウロは結局2年間そこに滞在することになりました。「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた」とあります。このことで、エフェソの人たちはパウロと、パウロが伝える福音を知っていくことになりました。

今日私達が読んだのは、エフェソの町で、ユダヤ人の祭司長スケワという人の7人の息子たちが、主イエスのお名前を使って悪霊を追い出そうとしたけれども、逆に悪霊にやられてしまった、という場面です。

使徒言行禄はスケワのことを「ユダヤ人の祭司長」と書いていますが、「ユダヤ人の祭司長」はエルサレムにしかいません。恐らく彼は「各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たち」の中の一人で、エフェソのユダヤ人たちが、祈祷師スケワの癒しの力に尊敬を払い「ユダヤ人の祭司長」という呼び名で呼んでいたのでしょう。

古代の地中海沿岸の世界では、癒しを行う人たちがいました。スケワの息子たちもそうでした。彼らはパウロという人がイエスという名前をつかって多くの奇跡を行っている、という噂を聞いたのでしょう。パウロの真似して「イエス」という名前をつかって悪霊払いを試みました。

しかし、彼らは逆に悪霊にやられてしまうのです。「イエスのことは知っている。パウロのことも知っている。だが、お前たちは何者だ」と言われ、裸にされ、傷つけられてしまいます。このことを見ると、イエスというお名前は我々人間が安易に利用してはならないものだ、ということがわかる。

エフェソは古代において魔術書の生産地でした。この事件をきっかけに、エフェソの町で魔術を行っていた多くの人は、自分が持っていた魔術書を持ってきて、皆の前で焼き捨てることになりました。銀貨5万枚分にもなる魔術書が焼き捨てられた、と書かれています。

イエス・キリストのお名前を安易に利用した人たちが悪霊に痛い目にあわされたことで、主イエスのお名前が広まった、ということは皮肉なことです。しかしそのような人間の失敗を通しても福音は広まって行く、ということでしょう。

我々は今日読んだ出来事から問われています。キリストのお名前、つまりイエス・キリストという存在を我々自身をどう捉えているでしょうか。

イエス・キリストは、福音宣教の中で多くの癒しや悪霊払いの奇跡を行われました。そのたびに人々からいろんなことを言われました。皆、主イエスが行われる奇跡の力の源は何か、ということを知りたがっていたのです。

ある時、主イエスの悪霊払いを見た人たちが「あの人は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのだ」と言いました。しかし、主イエスは冷静にお答えになった。

「悪霊の力で悪霊を追い出すのであれば、それはサタンが内輪もめしている、ということになる・・・私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」

悪霊の力で悪霊を追い出すなどという馬鹿なことはありません。主イエスはご自分の業を「神の指」とおっしゃいます。悪霊に勝る力、悪霊を追い払う力をお持ちの主イエスがあなたのところに来たのであれば、それは神の国・神の支配があなたに及んだ、ということなのです。

主イエスは、加えてこうおっしゃっています。

「人の子の悪口を言う者は皆許される。しかし、聖霊を冒涜する者は許されない」

主イエスがもっていらっしゃる力の源、その権威の源である神・聖霊を冒涜する人は許されません。

私たちが聖書を読む上で一つ踏まえておかなければならないのは、当時の世界には主イエス以外にも奇跡を行う人がたくさんいた、ということです。使徒言行禄にも、何人も魔術師が登場します。

サマリアにはシモンという魔術師が魔術を行い、人々を驚かせていました。そこにペトロがやって来て人々に洗礼を授けると聖霊が降るのを見ます。シモンは、ペトロに金を払って、「私にも聖霊を授ける力を授けてください」と言いますが、「神の賜物を金で手に入れられると思っているのか」と叱られてしまいます。

キプロス島にも、パウロの宣教の邪魔をしたバルイエスというユダヤ人魔術師がいました。彼は目が見えなくされてしまったことが記録されている。

聖書は私たちにはっきりと、天からの力による御業と、人間の手による不思議な業を区別して示しています。そしてその力の源を見分けることを私たちにいつも求めているのです。

さて、スケワの7人の息子たちは、主イエスのお名前を持ち出して悪霊に立ち向かいました。聖書には、こう書かれています。

「試みに主イエスの名を唱えて『パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる』」と言った。

ここに、彼らの信仰の姿勢が現れています。彼らは、「試みに」こんなことをしてみたのです。自分がキリストに救われ、キリストに召され、用いられて悪霊に立ち向かったというのではありません。「パウロにできるのであれば、自分たちもイエスの名前を使って悪霊払いができるのではないか」、という思いでした。浅はかなスケワの息子たちは逆に悪霊に痛めつけられてしまいました。

この出来事は滑稽さを帯びた、笑い話のようにも読めるでしょう。しかし、スケワの息子たちと悪霊のやり取りの中に、私たちの信仰生活の本質が透けて見えます。

この悪霊の質問は、私たちにとっても重要な意味を持っているのではないでしょうか。スケワの息子たちは、「お前たちは何者だ」と悪霊から問われています。彼らは何と答えたでしょうか。何も答えていません。答えることができなかったのではないでしょうか。この時、悪霊が納得できるような答えができたら、悪霊は逃げ去って行ったかもしれません。

我々人間は常に悪霊から「お前は何者だ」と問われているのではないいでしょうか。「イエスのことは知っている。しかしお前は何者だ」、悪霊からそう聞かれて私たちはどう答えるでしょうか。

自分の名前を答えるでしょうか。

自分の社会的な肩書で答えるだろうか。

自分の家系図を持ち出すでしょうか。

悪霊がここで尋ねているのは、もっと霊的なことです。「お前は何者だ」とは、言葉を変えると「お前と神とどういう関係にあるのか。お前とキリストとの関係はどういうものか」ということです。我々はいつでも、神との関係、キリストとの関係を問われているのです。自分は神とどれぐらい近くにいるのか、今自分はキリストからどれくらい離れてしまっているのか・・・

実は、聖書が全体を通して私たちに問いかけているのはそれなのです。創世記の初めで、神は、御自分から身を隠したアダムとエバを「どこにいるのか」とおっしゃって探されたことが書かれています。「あなたはどこにいるのか」という神の声は、今も私たちに向けて発せられています。

「お前は何者だ」という悪霊の問いと、「あなたはどこにいるのか」という神の問いは、結局は同じことでしょう。我々キリスト者は、神との契約関係をいつでも問われているのです。本当に神の御前を生きているか、イエス・キリストの十字架の痛みに対して誠実に生きているか・・・。

パウロはどうだったでしょうか。

パウロは後に、手紙の中でこう書いている。

「思い上がることのないようにと、私の身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです・・・主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」

「私たちは・・・宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために」

「このわたしには、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」

悪霊は、私たちに向かって「お前は一体何者か」と問いかけてきます。その問いを通して私たちが問われているのは、「あなたは誰のものなのか、あなたは誰に仕えているのか、あなたは誰の配の中に生きているのか」ということです。

私たちは「イエス・キリストだ」と答えるのです。「私はイエス・キリストのものであり、キリストに仕え、キリストの支配の中に生きている。私はキリストの器であり、私たちの弱さを通してキリストはご自分の栄光を示されるのだ」と。

スケワの息子たちに起こったことを見ると、福音宣教の中に潜む誘惑の怖さを見ることが出来るでしょう。キリストの使徒であっても、また我々キリスト者であっても、信仰の落とし穴はいつでも目の前にあるのです。

イエス・キリストのお名前を安易に自己目的のために利用してしまうという誘惑です。キリストのお名前を自己目的のために使う際には、キリストのお名前を、まるで命のやどらない商品のように扱ってしまうことになります。スケワの息子たちは、主イエス・キリストのお名前を、便利な道具のように用いました。

フィリピの町にいた、占いの霊に取りつかれた女奴隷を使って金もうけをしていた主人たちと同じです。その結果痛い目にあいました。

キリスト教会の歴史の中でも、キリストの名を自己目的のために、自分の名を高めるために、自分の栄光のために用いた人はたくさんいました。しかし、その人たちは滅びて来ました。神の裁きを受けることなく悪霊の支配に甘んじて生き続けることはできないのです。

神に栄光を帰す信仰生活の中で私たち人間は誘惑を受けます。今でも、聖書を利用して、キリストの教えをもとにして、自分に都合のいい教えを作り出してしまう人はたくさんいます。キリストのお名前を利用して、自分がキリスト・神になろうとする人たちです。

使徒言行禄の14章を見ると、リストラの町で、バルナバとパウロはそれぞれ、ゼウス・ヘルメスという神の化身として崇められてしまったことが書かれています。二人は、必死で「自分たちは神ではない」と言って否定しました。

しかし、自分だったらどうしただろうか、と考えさせられるのではないでしょうか。自分に向けられた尊敬はいつでも心地いいものです。キリスト者にはそのような誘惑がいつも付きまとっています。キリスト者だからこそ、誘惑は向かってくるのです。

我々は洗礼を受けて、キリスト者になります。キリストのことを全てをわかって洗礼を受けるのではありません。キリストを知るために、洗礼を受けるのです。

イエス・キリストは弟子達におっしゃった。

「私に向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行うだけが入るのである」

洗礼を受けたところから、長い道を、苦難と誘惑の中でも忍耐と希望をもって、神に対して誠実に歩み始めます。そしてキリスト者はその道の上でキリストを主とする、ということがどういうことなのかを歩きながら知っていくのです。

キリストのお名前を利用して、ただ口で呼ぶだけでなく、神の御心を行おうと苦しむ中で、一人一人の信仰者の苦難・忍耐・練達・希望を通して、神の言葉が持っている力は世に示されていくのです。この土の器を、この弱い器を、神が用いてくださるからです。

悪霊は今でも「お前は一体何者だ」と問い続けています。

神も、「あなたはどこにいるのか」と呼びかけてくださっています。

私たちは悪霊からも、神からも問われています。

悪霊から「お前は一体何者だ」と問われたら、「私はキリストの器だ」と答えればいいのです。

神から「どこにいるのか」と問われたら、「あなたと共にいます」と答えればいいのです。

この世にある誘惑の中で、はっきりとそう答える者でありたいと願います。イエス・キリストのお名前に、畏れと誠実さをもって日々を過ごしていきましょう。