5月28日ペンテコステ礼拝説教

使徒言行禄20:17~35

「今、神とその恵みの言葉とにあなたがたを委ねます。この言葉は、あなたがたを作り上げ、聖なるものとされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることが出来るのです」(20:32)

使徒言行録は、文字通りキリストの使徒たちの言葉と行いを記録したものです。しかし、はじめから丁寧に読んでいくと、その使徒たちを導いた聖霊の働きの記録である、ということがわかります。

使徒たち召し出し、最初の教会を作り、今の私達まで導いてきた聖霊の働きに思いを向け、私達キリスト教会がもっている本当の「強さ」とは何か、私達の強さは何に根差しているのか、ということを捉えて行きたいと思います。

パウロの、最後の旅の様子を私達は見ています。聖霊はパウロに、これからエルサレムに行き、その後ローマに行く、という道を示していました。神のご計画を信じてエルサレムに向かう途中で、パウロたちを乗せた船はミレトスの港に停泊しました。その時間を使って、パウロはエフェソ教会の長老たちを呼び寄せて最後の別れをします。

パウロは自分がこれまでどのようにイエス・キリストに仕えて来たか・聖霊に導かれてきたか、ということを語り、その生き証人であるキリスト者として自分と同じようにキリストへの信仰に留まるよう励ましました。

パウロは、次に何が起こるのかを知らないままに、それでも聖霊の導きを信頼して「神の道・主の道」を歩いてきました。これまで苦難、投獄、嘲笑、暴力がありました。それでもパウロは、自分に与えられた様々な痛みをも、「自分に必要な神から与えられた試練」として、「神のご計画の実現のために必要な試練」として向き合って来たのです。試練のたびに、神はパウロのために新しい道を切り開いてくださってきたのです。

その自分の信仰の体験を踏まえた上で、パウロは、エフェソ教会の長老たちに言っています。

22節 「今、私は、霊にうながされてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるのか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とが私を待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきりと告げてくださっています。」

聖霊は、パウロを、困難の無い道へと恵みをもって導いて下さる、というのではありませんでした。「困難と投獄」が待ち受けている道へと導こうとしていたというのです。

パウロは以前から、教会の人たちに伝えて来ました。

14:22 「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」

そもそも、神がパウロを召された時、パウロの行く道についてこうおっしゃっっています。

9:15 「私の名のために、どんなに苦しまなくてはならないかを、私は彼に示そう」

パウロは「キリストを信じれば辛いことがなくなる、楽に生きられる」などというご利益を伝えません。「罪びとのために苦しんでくださったキリストに倣い、神の元へと立ち返ること」を教えるのです。

パウロは、自分の役割を、後に手紙の中でこう書いています。

フィリピ3:13「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」

パウロは信仰の歩みの先に、「賞・ご褒美」があることを言っています。信仰の試練・苦難の先に、神が私たちのために用意してくださっている何かがあるのです。だから、パウロは自分が苦難の中にありつつ、「皆一緒に私に倣う者になりなさい」と手紙に書くのです。「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです・・・しかし、私たちの本国は天にあります」

パウロはエフェソ教会の長老たちに別れを告げ、もう二度と会うことはないことを知っていました。彼はここで、少し突き放したような言い方をしています。

26節「今日はっきり言います。誰の血についても、私には責任がありません。私は、神のご計画を全て、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです」

自分のやるべきことは全てやったのだから、あとはあなたたちの責任だ、という言い方で、少し冷たく感じます。

パウロは自分の手紙の中でもこう書いている。

ロマ15:19「私は、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」

今のイスラエルからバルカン半島までの範囲を巡り、福音を全て語り尽くした、と断言しています。

パウロが「福音を語り尽くした」と言っているのは、自分が大きな群れを作った、ということではありません。パウロが関わって来た諸教会は、家の教会で、今のように何百人もいるような規模のものではありませんでした。たかだか数十人です。ある群れは数人でした。誰かの家に集まって、肩を寄せ合って福音を聴き、キリストに従っていた人たちです。

パウロが神から与えられた責任は、大きな教会を作ることができたかどうか、ではなく、示された場所で語るべき言葉を全て語ったかどうか、ということでした。イエス・キリストの十字架と復活を語り尽くしたかということだったのです。

これこそ、神が預言者にお求めになったことでした。旧約の預言者エゼキエルに神はこうおっしゃっています。

3:18 「もしあなたが悪人に警告して、悪人が悪の道から離れて命を得るように諭さないなら、悪人は自分の罪のゆえに死ぬが、彼の死の責任をあなたに問う。しかし、あなたが悪人に警告したのに、悪人が自分の悪と悪の道から立ち返らなかった場合には、彼は自分の罪ゆえに死に、あなたは自分の命を救う。」

預言者は神の言葉を語ったかどうか、ということを問われます。その後は、預言者の言葉を聞いた人の責任となるのです。預言者の責任は、神から語れ、と言われて事を全て語ったかどうか、ということでした。

パウロがエフェソ教会の長老たちにはっきりと「私には責任はない」と言っているのは、預言者としての使命を果たした、ということなのだ。

こうして見ると、パウロが「誰の血についても、私には責任がありません」と言ったのは、無責任にエフェソ教会のことを投げだしたのではないことがわかります。むしろ、パウロはエフェソ教会に対して、預言者としての全ての責任を果たし、福音を全て伝えた、ということを言っているのです。

パウロは、これからエフェソ教会に苦難が待ち受けていることをはっきりと伝えました。自分が去った後、「残忍な狼」が外からやってくること、教会の中から「邪説を唱えて弟子達を従わせようとする者」が現れることを告げました。

それを知っていても、パウロはエフェソ教会の人たちに別れを告げるのです。なぜでしょうか。もうエフェソ教会は十分に成長して、自分がいなくても、どんな苦難も簡単に乗り越えていける、ということでしょうか。それほどエフェソ教会の長老は、教会員は人間的に優秀だった、ということでしょうか。そうではありません。自分が福音を伝えきったエフェソ教会は困難に立ち向かえるだけの信仰を持っていることをパウロは確信していたのです。

パウロは自信をもって、「今、神とその恵みの言葉にあなたがたを委ねます」と言っています。外から来る迫害、内から起こる混乱に対して、エフェソ教会の長老たちは、また信徒たちは、立ち向かっていく武器を十分にもっていました。それは、「神に自分たちを委ねる」、という信仰でした。「キリストに信頼して自分たちを委ねる」ということが教会の武器なのです。

パウロはそのことを自分の経験から知っていました。教会の働きは、聖霊に導かれている。教会の働きは、神から与えられています。それが、教会の強さです。私達には神に根差した強さがあるのです。

パウロはエフェソの長老たちに「『神の群れ』に気を配ってください」と言っています。長老たちに、「羊飼い」としての役割を求めています。

聖書ではよく、信仰共同体のことを、羊飼いに養われる羊の群に例えて描いています。エフェソ教会の長老たちにとって、教会の人たち、キリスト者たちは、神から任された群れでした。

イエス・キリストを三度「知らない」と言ったペトロは、復活のキリストから言われました。

「ヨハネの子、シモン、私の羊を飼いなさい」

キリスト教会は、キリストの羊の群れです。神は、御自分から離れた群れ取り戻すために、独り子イエス・キリストの命を代償として支払われた。そのことは、旧約の預言者が前もって預言していました。

預言者エゼキエルは、イスラエルの牧者・羊飼いの到来を預言しました。神はエゼキエルの口を通しておっしゃいます。

「見よ、私は自ら自分の群を探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっている時に、その群を探すように、私は自分の羊を探す。」 34章

エゼキエルは、神ご自身がイスラエルの羊飼いとして世に来られる時を預言しました。その羊飼いこそイエス・キリストだったのです。イエス・キリストはヨハネ福音書で、「私はよい羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃっています。そしてキリストは、御自分の弟子に「私の羊を飼いなさい」とおっしゃったのです。

教会の使命とは何でしょうか。大牧者イエス・キリストに養っていただく、ということです。羊飼いキリストの下で、キリストの守っていただき、キリストと共に生きる、ということ。キリストから離れない、ということです。

今、神の招きの言葉・キリストの福音は、我々に託されています。私たちは福音という神の声に聞き従って神の元に生きる群れです。パウロはエフェソ教会の長老たちに「この言葉は、あなたがたを作り上げ、聖なるものとされた全ての人々と共に恵みを受け継がせることが出来るのです」と告げました。

パウロは自分の福音宣教を振り返って、「金銀のむさぼったことはなかった」、と言っています。この世の金銀財宝に勝る宝を見据えていたのです。教会がもっているもの、教会の財産とは何でしょうか。イエス・キリストが共にいらっしゃる、ということです。自分たちには大牧者がいる、ということです。キリストが共にいてくださっている、ということ、キリストの下に養われているということがどんなに大きな財産であるかを教会は知っています。

パウロは、イエス・キリストの「受けるよりは与える方が幸いである」という教えを長老たちに念押ししています。使徒たち、キリスト者たちは、キリストに倣う者です。キリストの教えを知り、その言葉の通りキリストがどのように生きられたかを我々は知っています。キリストは最後まで神の御心に従われました。十字架の上でも、神から離れることはありませんでした。キリストは、最後まで、御自分を神のために、人のために「与え尽くした方」でした。

神の恵みは、そのようなキリストに従うキリスト者の実生活に現れることになります。金や銀といった地上の富を積み上げる共同体ではなく、天にある宝を指し示す共同体として私たちは自分たちの姿を世にさらすのです。

パウロがエフェソ教会に告げた言葉は、今もまっすぐに私たちに向けられています。私たちには、試練の中にも道があるのです。

パウロは、後にテモテにこう手紙を書いている。

「福音のために、私は宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、私はこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、私は自分が信頼している方を知っており、私に委ねられているものを、その方がかの日まで守ることがお出来になると確信しているからです」

パウロは福音のためにいろんな苦しみを受けました。しかし、決して福音を捨てようとしませんでした。キリストご自身が、世の終わりまでご自分の福音を守ることを信じていたからです。

パウロは長老たちに言う。

「目を覚ましていなさい」

キリストもおっしゃった言葉です。一瞬の隙をついて、神の群を破壊する誘惑が入り込んでくる・・・それが、信仰者が本当に戦わなくてはならないものなのです。

私達はイエス・キリストという羊飼いに養われる群れです。そこに、本当の強さがあります。聖霊に導かれて、自分の霊的な目を開いていたいと思います。