7月9日の礼拝説教

使徒言行禄22:30~23:9

「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる」(23:3)

パウロがユダヤの群衆に語り掛けていると、群衆は突然騒ぎ始めました。近くにいたローマ兵たちは、パウロがヘブライ語で話していたので、その理由がわかりませんでした。兵士たちはパウロを鎖で縛り、鞭で打って何を話したのかを正直に言わせようとしたが、パウロが生まれながらのローマ市民であることがわかり、裁判もせずに手荒に聞き出すことができなくなりました。

ローマの千人隊長は、なぜユダヤ人たちがパウロに怒っているのかを正しく知るために、ユダヤの権威である祭司長や最高法院の人たちに尋問をさせることにしました。パウロが、ユダヤ人たちを扇動してローマへの反乱を起こそうとしていたのかどうかを明らかにする必要があったのです。

パウロは最高法院の人たちの前に立たされることになりました。それが今日私たちが読んだ場面です。これは、厳密にいえば裁判ではありません。千人隊長の代わりに、最高法院がパウロに行った「取り調べ」です。そしてこれが、パウロにとって最高法院の人たちに、自分の信仰の言い表す機会となりました。

パウロは最高法院の人たちに囲まれても、臆することなく、恥じることなく、「兄弟たち、私は今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました」と言いました。すると突然祭司長であったアナニアが「パウロの口を打て」と言いました。

神殿で騒ぎを起こしたトラブルメーカーが、悪びれもせずにユダヤの権威たちに「兄弟たち」と対等に呼びかけているのが気に入らなかったのでしょう。当時のユダヤ人にとって神殿で騒ぎを起こすことは、危険なことでした。神殿で暴動が起こったりすると、ローマ兵たちは徹底的にユダヤ人を弾圧することになるのです。反省の色が見られないどころか、「私は神の前で正しいことをしている」と言い表したパウロを見て、アナニアは怒って「パウロの口を打て」と言ったのでしょう。

それに対して、パウロは「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる」と言い返しました。「白く塗った壁」というのは、外側はきれいにしているけれども内側には汚いものを隠しているという意味の表現です。

イエス・キリストも、マタイ福音書で、よく似た表現を使っていらっしゃいます。偽善者たちに向かって、あなたたちは「白く塗った墓に似ている」とおっしゃいました。「外側は美しく見えるが、内側は死者の骨はあらゆる汚れで満ちている」という意味です。

さて、実際、大祭司アナニアは「白く塗られた壁」だったのでしょうか。アナニアはユダヤ教の最も高い権威にある大祭司でしたので、当然見た目は立派な人だったでしょう。その中身はどうだったのでしょうか。

歴史的な記録では、アナニアは強欲で、裏では汚職にまみれて莫大な富を手にしていた、と言われています。そしてアナニアはこの後、紀元66年に起こったユダヤ戦争の際に、ユダヤ人たちの手で暗殺されることになるのです。

その歴史を踏まえてこのパウロの言葉を読むと、私たちは真実を見出すことが出来るのではないでしょうか。

「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。」

このパウロの言葉の十数年後、実際に、アナニアは打たれることになるのです。

パウロはユダヤ人たちから誤解を受け、神殿から追い出され、ローマ兵に逮捕され、最高法院で大祭司と向き合うことになりましたが、パウロは、自分の意志とは全く違った仕方で、神の言葉を預言することになったのです。

「白く塗った壁」・・・外側はよく見えても内側は汚れているアナニアに与えられる神の裁きをパウロは預言しているのです。深いところで聖霊がパウロを導いていることが見えるのではないでしょうか。

私たちはここで、パウロがこの大祭司に向かって言った「白く塗った壁」という言葉を通して、自分自身を顧みなければならないのではないでしょうか。「自分はどうだろうか」、ということです。一人の信仰者として、「白く塗った壁」になっていないかどうか、一度立ち止まって自分を吟味しなければならないのではないでしょうか。

旧約時代、外側を取り繕い、内側は腐敗していたイスラエルに、神は預言者エゼキエルを通してこうおっしゃいました。

「平和がないのに、彼らが『平和だ』と言って私の民を惑わすのは、壁を築くときに漆喰を上塗りするようなものだ。漆喰を上塗りする者に言いなさい。『それは剥がれ落ちる』と。・・・お前たちが漆喰を塗った壁を私は破壊し、地面に打ち付けて、その基礎をむき出しにする」

イスラエルは神に選ばれた民でした。神の元へと立ち返るために選ばれた民です。その立ち返りの歩みの中へと他の人たちを招き入れることを求められていたのに、イスラエルは偶像礼拝に走ってしまいました。他の神へと向かってしまったのです。

外側は「神の民」として飾ることができていたかもしれません。「平和だ、平和だ」と言葉だけは言えたかもしれません。しかし中身は、「偶像の民」となっていました。

そのイスラエルに、神はエゼキエルを通しておっしゃいます。

「漆喰を上塗りする者に言いなさい。『それは剥がれ落ちる』」

その言葉通り、エルサレムはバビロンよって破壊されました。

旧約時代のエルサレム、そして今日読んだところに出て来た大祭司アナニアを通して、私達は自分自身を、そして教会としての内実を省みなければならないのではないでしょうか。

もし、私たちが、外側だけきれいで、内側に醜いものを抱えるような教会であったとしたら・・・「白い壁」「白く塗られた墓」になってしまったとしたら、神ご自身がキリスト教会を裁かれることになるのです。ここで、聖書から示されている信仰の警告を受けとめたいと思います。

さて、大祭司とのこのようなやりとりがあってから、パウロは最高法院に対して弁明してこう言いました。

「兄弟たち、私は生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、私は裁判にかけられているのです」

なぜパウロがこんなことを言ったのか我々は不思議に思うのではないでしょうか。実際には、これは裁判ではないし、「死者が復活するという望みを抱いている」ということでパウロはここに引き出されているわけではありません。

実際には、パウロが神殿で禁止されている場所に異邦人を連れ込んだと勘違いして群衆が騒いだだけです。そしてパウロを逮捕したローマ兵が、ローマ市民であるパウロを裁けないから最高法院が尋問しているだけなのです。

しかしパウロはここで「死者の復活」ということをいきなり持ち出しました。周りを見回して、ここでは正しく話を聞いてもらうことはできない、と知って最高法院全体を巻き込んだ議論へと向かわせようと機転をきかせたのです。

ここで最高法院の中で議論が割れました。同じユダヤ教であってもファリサイ派とサドカイ派は、聖書の解釈が違っていたからです。

サドカイ派は今の旧約聖書の初めの5つ、モーセ五書と呼ばれている言葉だけを自分たちの信仰の基準にしていました。「もう神の啓示はモーセ五書で終わっている」という立場でした。モーセ5書の中には、死者の復活は出てこないので、サドカイ派の人たちは、復活を信じていませんでした。

それに対して、ファリサイ派の人たちは、「まだ神は我々に御心を示し続けてくださっている」と信じていました。ファリサイ派は、モーセ五書だけでなく預言書や知恵文学などを加えた、今私たちが旧約聖書と呼んでいる書物の言葉を信仰の基準としていたので、復活を信じていました。

パウロの言葉を聞いて、復活はあるのかないのか、ということをファリサイ派とサドカイ派の人たちが議論を始め、その議論が激しくなったので、結局パウロはそこからまた兵営に連れて行かれることになりました。

マタイ福音書16章で、ファリサイ派とサドカイ派の人々が主イエスに「天からのしるしをみせてほしいと言ってきた場面があります。「本当にナザレのイエスは天からのメシアなのか、証拠がほしい」、と言って来たのです。

それに対して主イエスはこうおっしゃいました。

「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」

そしてその場を立ち去られました。

「与えられるのは、ヨナのしるしだけ」とはどういうことなのでしょうか。旧約聖書のヨナ書を見ると、ヨナは大きな魚に飲み込まれ、三日目に吐き出され、異邦人に神の言葉を伝えに行った人です。

三日目に魚の腹から出て、神の言葉を伝えた「ヨナのしるし」とは、イエス・キリストご自身の復活のことでした。十字架で殺され、三日目に復活されたイエス・キリストの福音は今、パウロを通して異邦人へと伝えられています。神から離れていた人たち、神を知らなかった人たちに、神の元へとまっすぐに続く道が与えられることになったのです。

ファリサイ派もサドカイ派の人たちも、その時は主イエスの言葉を聞いて理解できなかったでしょう。

ヨハネ福音書で、主イエスはご自分に敵意を抱くユダヤ人たちにこうおっしゃっています。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るために私のところへ来ようとしない」5:39

イスラエルの人たち聖書の預言を信じて、メシアが来るのを待っていました。しかし、イエス・キリストは十字架にかけられて殺されてしまいました。三日目に復活され、それを目撃したキリストの使徒たちが証ししてもなかなか受け入れようとしませんでした。

以前にも、最高法院はキリストの使徒たちを捕まえて尋問しています。(4~5章)

「もうイエスのことを話すな」と言われても、使徒たちは黙りませんでした。ペトロたちは言いました。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。私たちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手として、救い主として、御自分の右に上げられました」

「ヨナのしるし」は与えられたのです。天からのしるしは既に与えられたのです。メシアは復活なさったのです。そのことがなければ、そしてそのことを信じることがなければ、いくら「証拠を見せてほしい、しるしを示してほしい」と言われても、神を知る道はありません。

「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父の下に行くことが出来ない」とキリストはおっしゃいました。復活の主こそが、私たちにとって信仰の始まりであり、信仰の全てです。

パウロが最高法院の人たちに「死者の復活」を持ち出して考えさせようとしたのは、そこからしか自分の信仰の弁明を始めることが出来なかったからでしょう。

「ヨナのしるし」は私たちの前に与えられています。このしるしにどう向き合うか、それが私たちの信仰の姿勢です。私たちの前には、「命に至る道」と「死に至る道」が常に置かれています。私たちには、どちらを選んでもいい自由が与えられています。「ヨナのしるし」とキリストがおっしゃった、ご自身の復活の神秘に、改めて向き合いたいと思います。

私たちは今、聖書の証しをどう捉えているでしょうか。「聖書に書かれていることは、もう昔のことだ」とどこかで距離を感じていないでしょうか。確かに、福音書も使徒言行禄も、過去の出来事の記録です。パウロの手紙も、1世紀のものです。

しかしなぜ、私たちは聖書の言葉を「過去の遺物」として捨てることができないのでしょうか。聖書が時代を超えて真理を私たちに伝えているからでしょう。歴史の主であり、生きていらっしゃる神が、聖書の言葉を通して私たちに語り掛けてくださっているからです。

神は、聖書を通して、イエス・キリストの復活を通して、聖霊の導きを通して、今でも私たちに語り掛けてくださっています。自分が「白く塗られた壁」にならないよう、「ヨナのしるし」を信じ、弱いまま、小さいまま、聖く歩んで行きましょう。