12月21日の礼拝説教

 イザヤ書8:5~10

マタイ福音書のはじめに、ヨセフという人の夢に天使が現れいいなずけのマリアが男の子を生む、ということを伝えたことが書かれています。

「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」

そしてマタイ福音書は、その夢の意味を、こう記しています。

「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」

「インマヌエル」、という言葉ほど、聖書の信仰を言い表している言葉はないでしょう。神が私たちと共にいてくださる・・・聖書はただそのことを伝えるために書かれました。

イスラエルは国の滅びや偶像礼拝の危機、外国の支配の中で希望を捨てず、自分たちの歴史、そして預言者たちの言葉を記録し、命がけで後世に聖書の言葉を通してインマヌエルの真理を伝え続けてきたのです。

そして今、私たちのもとにまで、インマヌエルという言葉が届けられています。

聖書の中で、時代的に初めて「インマヌエル」という言葉をつかったのは、預言者イザヤです。私たちが今日読んだイザヤ書の8章で、イザヤは「インマヌエル」という言葉をつかっています。

彼は「神我らとともに在り」という意味のインマヌエルという言葉を、誰かを示す言葉として用いています。

「その広げた翼は、インマヌエルよ、あなたの国土を覆い尽くす」

イザヤは誰かに向かって「インマヌエルよ」と呼び掛け、「あなた」と呼び掛けているのです。

私たちは今日、考えたいと思います。インマヌエル、神が共にいてくださる、とはどういうことなのか。「神が共にいてくださる」、と聞くと確かに、心強い思いがするし、喜びを感じます。その喜びも簡単に忘れてしまったり、薄れてしまったりします。我々信仰者にとって、この世の誘惑に囲まれて、まずは自分に目が向く日常の中で、インマヌエルという言葉に常に新鮮な喜びを覚えていることは簡単なことではありません。

日常の忙しさの中で、特に、試練の中にある時、私たちはインマヌエルという言葉にすがろうとしながらも、少なからず、疑いを抱き、静かに祈るひと時を持つことが少なくなってしまうのではないでしょうか。

キリストの御降誕を覚えるこの礼拝の中で、私たちはその喜びを深く探り、心に刻み付けて行きたいと思います。

預言者イザヤは、BC740に神に預言者として召され、それから約40年間神の言葉を伝え続けた人です。イスラエルが南北に分裂していた時代です。北イスラエル王国と、南ユダ王国に分裂していました。イザヤは南王国で預言者として働きました。

そしてそれは、イスラエルの北西にあった強大なアッシリア帝国の脅威におびえていた時代でしたこの8章の背景には、南ユダ王国の危機がありました。アッシリア帝国がその勢力を広げる中で、小さな国々は、生き残りをかけて反アッシリア同盟を作りつつありました。南ユダ王国も、隣国の北イスラエル王国と、アラムから反アッシリア同盟に加わるよう誘われていました。誘われていた、というよりも、脅されていたのです。「反アッシリア同盟に加わらないと、武力で攻め入るぞ」と武力で威嚇されていたのです。

隣国が武力で威嚇してくる中、ユダ王国は国中が騒ぎ立ちました。ユダ王国の王であったアハズは、あろうことか、アッシリアに助けを求めようとしていました。アッシリアに助けを求めるということは、アッシリアの支配に入る、ということであり、それはつまりアッシリアの神の支配に入る、ということを意味していました。イスラエルの神を捨て、アッシリアの神を自分たちの神とする、ということです。アハズ王は、そうすることでしか、小さなユダ王国は生き残ることはできないと考えたのです。

そういう中で、イザヤは預言者としてユダ王国の王、アハズのもとに遣わされました。イザヤは伝えます。

「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」

隣接する国々が同盟してこの国を脅かしている。しかし、神は「静かにしていなさい」、とアハズ王におっしゃるのです。

「落ち着いていなさい。静かにしていなさい。恐れることはない・・・心を弱くしてはならない・・・彼らの計画は実現しない」

しかし、アハズ王は静かになどしていられませんでした。目の前にアラムと北イスラエル王国の連合軍が、反アッシリア同盟に加わるよう脅しをかけてきているのです。しかし小さな国々がどんなに集まろうとも、巨大なアッシリア帝国に対抗できるはずがないのです。

ユダの王として、どうすればいいか。アッシリアに降って、アッシリアに守ってもらうしかない、そうやって生き残るしかない、アッシリアの神を拝むことになっても、滅ぼされるよりもいいではないか、と思っていました。

恐れ、焦るアハズ王に、神はイザヤを通して「主なるあなたの神にしるしを求めよ」とまで言ってくださいました。それでも、アハズは「私は主を試すようなことはしない」と、自分がまるで信仰深い者であるかのように、神に頼ることを拒絶します。一刻も早くアッシリアに助けを求めて助かろう、ともがくのです。

こうやって静かに聖書を読むと、アハズ王の不信仰の方に目が行きます。しかし、もし自分がこの時のアハズ王だったとしたらどうでしょうか。ユダ王国は小さく弱い国でした。自分が一国の王として、他国からの侵略にどう備えるでしょうか。預言者から「静かにしていなさい」と言われても、何か手を打って国を、国民を守らなければならない立場にあるのです。

この後アハズは、エルサレム神殿の財宝をアッシリアの王に送り、アッシリアの神の祭壇の見取り図と作り方の説明書を祭司に送り、エルサレムの中にアッシリアの女神像を作ることになります。

神はアハズの決断をお怒りになり、そして悲しまれました。神が預言者イザヤの口を通して「インマヌエル」という言葉を世にお示しになったのは、その時でした。

私たちが今日読んだ8章で、神がイザヤを通して、ユダ王国がアッシリアに攻めこまれる日が来ることを示されたことが書かれています。アッシリアは、ユダ王国を助けてくれなどしないのです。ユダ王国を脅しているアラムと北イスラエル王国を滅ぼし、結局その勢いでユダ王国まで攻め入ってくることになります。

6節「この民はゆるやかに流れるシロアの水を拒んだ」とあります。「シロアの水」とは、エルサレム神殿のある丘から流れる水のことです。それは、イスラエルの命の象徴でした。「シロアの水を拒んだ」ということは、神による救いを拒んだ、ということ。神に生かされるのを拒んだ、ということでした。

7節「それゆえ、見よ、主は大河の激流を彼らの上に襲い掛からせようとしておられる。すなわち、アッシリアの王とその全ての栄光を」

大河の激流とは、ユーフラテス川のこと、つまり、アッシリアの侵略を表しています。その激流・アッシリアの侵略は、ユダ王国にまで及び、アッシリアに救いを求めたユダ王国の国土が蹂躙されるということです。

8節の最後で、イザヤは言います。

「その広げた翼は、インマヌエルよ、あなたの国土を覆い尽くす。」

ここで、「インマヌエル」という存在への呼びかけがあります。このインマヌエルという存在について、イザヤは何も解説していません。一体誰のことなのか、よくわかりません。「あなたの国土」とあるので、ユダ王国を支配する誰か、というようなことは推測できますが、それ以上のことは分りません。

インマヌエルの国土がアッシリアによって攻め入られる、というのであれば、もうインマヌエルと呼ばれるその人も滅ぼされてしまうのでしょうか。そうではないようです。このあと、9節以降、イザヤの口調ががらりと変わっています。

9~10節「諸国の民よ、連合せよ。だがおののけ。遠い国々よ、共に耳を傾けよ。武装せよ、だがおののけ。武装せよ、だがおののけ。戦略を練るが良い、だが挫折する。決定するがよい。だが実現することはない。神がわれらと共におられるのだから」

インマヌエルという存在、「神我らと共に在り」ということを体現する方がイスラエルと共にある。だから、イザヤは諸国に向かって、「攻めるなら攻めて来い」、と言うのです。

預言者は、ユダ王国を攻めようとする全ての国々に向かって、宣戦布告のような、大胆な言葉を言い放ちます。「来るなら来い」、と言うのです。神が我らと共にあって、お前たちの計画は実現しない、ただ、神の支配がここに残る、と宣言します。

イスラエルの歴史は、偶像礼拝の歴史でした。何度もイスラエルの神から離れ、外国の神、異教の神、偶像礼拝に染まりました。そしてその先にあったのは、国の滅びでした。

BC722年、北イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされます。

BC587年、バビロニア帝国によって南ユダ王国も滅ぼされます。

旧約聖書は、その滅びの中で書かれました。神から離れた信仰の民はどうなってしまうのか、ということを猛烈な反省と共に書かれ、後世に残されてきました。

国が滅びても、イスラエルの民は信仰の希望を捨てませんでした。神は、「インマヌエル」という真理をお示しくださり、インマヌエルと呼ばれるメシアの到来を約束してくださっていたからです。

イザヤは、続く9章で、幻を見ています。

「ひとりのみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君と唱えられる」

「インマヌエル」「平和の君」と呼ばれる方の誕生を彼は見せらました。「私たちのために生まれるだろう」ではなく、「生まれた」と、完了形の言葉でその誕生の様子を伝えています。

イザヤは、これが一体誰のことなのかは記していません。イザヤ自身、この平和の君がいつ、どこで、生まれるのか知らないのです。やがて生まれるであろう一人の男の子の姿を神から見せられただけです。しかし彼は確信をもってメシアの降誕を預言します。

このイザヤ預言の後、王国は滅びに向かっていくことになります。神が共にいてくださるはずのイスラエルがなぜ滅びたのか。イスラエルが、神から離れたからです。

しかし、滅んでも、イスラエルの民は終わりませんでした。神の招きの御手を払いのけたことによる滅びの先で、まだ神は共にいてくださることが預言者を通して言われ、切り株からひこばえが生えてくるように、新しいイスラエルがまた生まれてくることになるのです。そしてインマヌエルと呼ばれるメシアを通して、全ての民をインマヌエルの平和の内へと招き続けてくださることになるのです。

神は預言者を通して、イスラエルの滅びの向こう側にある、インマヌエルという真理の希望を残してくださいました。そして我々が読んだ、このイザヤ預言が語られてから700年以上がたち、時が満ちて、天使がインマヌエルと呼ばれる方の誕生を告げました。

今から2000年前、「インマヌエルと呼ばれる」と告げられた男の子が生まれました。天使がヨセフに告げたのは、あのイザヤの預言でした。このメシアは、その御生涯を通して、その十字架の死と復活の奇跡を通して、インマヌエル、神共に在り、という希望を世に示してくださいました。

イザヤ書30:15「まことに、イスラエルの聖なる方、我が主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち返って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と。」

クリスマスの礼拝の時、聖い静けさの中に身を置き、安らかな信頼を味わいたいと思います。あの時代の波の中で恐れおののき、揺れ動いていたアハズ王は私たちの姿そのものです。あの時アハズに差し出された神の御手は、今の私たちにも差し出されているのです。その御手をつかんだ先で私たちは、神に立ち帰り、安らかに信頼することにこそ力がある、という真理を示されるのです。