12月7日の礼拝説教

 ヨハネ福音書18:19~27

ヨハネ福音書には、いわゆる「クリスマス物語」がありません。天使がヨセフ、マリアそれぞれにキリストの誕生を告知して、この夫婦の間にイエスという名前の赤ちゃんが生まれる、という出来事は描かれていません。

ヨハネ福音書では、世にお生まれになった神が、世に受け入れられなかった、ということが序文で言われ、創造のはじめよりも前からあった神の子が十字架へと上げられていく様子が描かれていくのです。

今日私たちが読んだのは、まさに「世は言を理解しなかった」という序文の実現です。逮捕されたイエス・キリストがまず連れて行かれたのは、現職の大祭司カイアファの舅であったアンナスのもとでした。アンナスは、カイアファの前の大祭司です。

アンナスは、大祭司の職がカイアファに代替わりしても、裏でカイアファ以上の権力を握っていたようです。最高法院の下役たちは、そのことをわきまえて居ました。カイアファではなく、まずアンナスのもとに連れて行った、ということがそのことを物語っています。

私たちはここで、キリストが逮捕された後のヨハネ福音書の描き方に注目したいと思います。キリストと、弟子のペトロの姿を交互に描いていくのです。

13:18で主イエスは、「私は、どのような人々を選び出したのかわかっている」とおっしゃいました。そしてペトロに対しては直接こうおっしゃいました。「私のために命を捨てるというのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでにあなたは三度私のことを知らないと言うだろう」。キリストはペトロがこの夜どのように振舞うかを前もってご存じでした。

ヨハネ福音書は、イエス・キリストがアンナスに対して毅然と弁明なさるお姿と、不安に駆られたペトロが主イエスのことを知らない・自分はイエスの弟子ではない、と否定を重ねてしまう姿を交互に描き、この夜のそれぞれの対照的な信仰の姿を臨場感豊かに描くのです。

ヨハネ福音書の、キリスト逮捕の夜の描き方は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書と随分違っています。最後の晩餐やゲツセマネの祈りの場面はありません。その焦点・強調点はイエス・キリストの十字架への歩みであり、屋敷の中にいるイエス・キリストと、外にいるペトロとの比較にあります。キリストが胸を張り、毅然と救いの十字架へと自ら歩んでいかれるお姿と、自分だけは助かろうとそのキリストを否定するペトロの対照的な姿は対照的です。

もっと言えば、良い羊飼いとして羊のために命を投げ出すキリストのお姿と、羊飼いから離れ逃げ去ってしまった羊の対照的な姿を描いているのです。私のために命を投げ出そうとしてくださるキリストと、そのキリストを知らない、と言ってしまう私たちの弱さを、福音書は私たち読者に突き付けています。

イエス・キリストはこの後、アンナスからカイアファ、カイアファからポンテオ・ピラトのもとへとたらいまわしにされることになります。このアンナスからの尋問は、公の裁判ではありませんが、ヨハネ福音書に記されているユダヤの権威からの尋問は、ここだけです。今日私たちが読んだキリストの言葉が、ユダヤ人に対するイエス・キリストへの弁明となっているのです。

アンナスは、二つのことについて主イエスに尋ねました。主イエスの弟子たちについてと、主イエスの教えについてです。

イエス・キリストの福音宣教を通して、ユダヤの人たちの中から、イエスに従おうとする人が多く起こされました。このことは、アンナス、またユダヤの指導者たちにとって、不安の種でした。

そうやって、公の秩序が、ナザレのイエスによって乱されることに、そして何より、自分たちの支配の秩序が崩されていく、ということに危機感を抱きました。それは、自分の支配力の低下、権威の低下ということにつながります。公の秩序が乱れれば、ユダヤはローマからの締め付けが強くなります。

アンナスは、ナザレのイエスの教えが、真のものかどうかを知ろうとしました。真の神から人々を引き離そうとする偽預言者は、処刑されなければならない、と申命記13:1以下の律法に記されています。

主イエスは、一つ目の質問、「ご自分の弟子たちについて」は、何もお答えになっていません。良い羊飼いとしてご自分の羊である弟子たちを守ろうとなさったのでしょう。

しかし、ご自分の教えについては、はっきりとおっしゃいました。「私は世に向かって公然と話した。私はいつもユダヤ人がみんな集まる会堂や神殿の境内で教えた。秘かに話したことは何もない。なぜ私を尋問するのか。私が何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々が私の話したことを知っている」

確かに、イエス・キリストは福音宣教の中で、全てを公に語ってこられました。アンナスをはじめ、ユダヤ人指導者たちも皆、その内容を知っていたはずです。キリストの福音宣教を振り返ると、キリストが何かの奇跡を行われるたびに、何かをお教えになるたびに、ユダヤ人やユダヤ人指導者たちとの議論になりました。まるで公開裁判のような様子でした。

安息日に、病気で横たわっていた人を癒された時には、「それは正しいことか」とユダヤ人たちから責められました。それに対して、主イエスは父なる神や、律法とモーセをご自分と引き合いに出しながらご自分を証しされました。

仮庵祭では、主イエスの教えを聞いた人たちが驚きました。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」。それに対して主イエスは、「私の教えは、自分の教えではなく、私をお遣わしになった方の教えである」と、ご自分が何者であるかを示されました。

姦淫の女性が主イエスのもとに連れてこられ、律法に従って石内の刑に処すべきかどうか、と試された時、「罪のない者からこの女性に石を投げなさい」とおっしゃいました。そして年長者から順にその場から去っていったあと、「私はあなたを罪に定めない」と神の許しの宣言をなさいました。

ナザレのイエスは神のもとから来たのか、悪魔のもとから来たのか、ということも人々のうわさになったりしました。

主イエスが目の見えない人を癒された時には、癒された本人と両親が取り調べを受け、結局癒された人は、会堂から追放されてしまいます。

そして、ラザロを復活させて人々が皆驚いたことで、大祭司カイアファは、「このものはユダヤに混乱をもたらしている。そのせいでローマによってユダヤが攻められるよりも、このもの1人が死んだ方が良い」と言いました。

ユダヤの指導者たちは、既に、主イエスの教えをよく知っていたのです。そしてイエス・キリストが行われた癒しの奇跡や、神の国の教えの信ぴょう性に関わらず、もう既に有罪の判決を下していたのです。

ヨハネ福音書は、逮捕されたキリストの描き方がほかの福音書とは違う、ということをお話しました。ほかの福音書とは強調点が違うからです。ほかの福音書では、イエス・キリストは十字架に至るまで、沈黙を貫かれています。屠り場に連れて行かれる子羊のように、沈黙なさるキリストのお姿が描かれています。

しかしヨハネ福音書は、毅然とご自分の身の潔白を主張されるキリストを描いています。ヨハネ福音書を読んだキリスト者たちは、この福音書が書かれた時代の教会の姿をここに見たでしょう。

私たちもヨハネ福音書のこのキリストのお姿に、教会の姿を重ねて見ます。この世の中で、キリストがアンナスから尋問されたように、私たちも尋ねられるのです。

「あなたたちが言っていることは本当か。あなたたちのキリスト証言は本当か。神が我々と共にいてくださっているというのは、本当か」

そう尋ねられた際、私たちは、胸を張りたいと思うのです。この時のキリストのように。その先に、痛みと恥があったとしても、それは「生みの苦しみ」として私たちの信仰の喜びへと変えられていくのです。

ペトロは、のちに手紙の中でこう記しています。1ペトロ4:12

「愛する人たち、あなた方を試みるために身に降りかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように驚き怪しんではなりません。むしろキリストの苦しみに与れば与るほど喜びなさい・・・あなたがたはキリストの名のために非難されるのなら幸いです・・・キリスト者として苦しみを受けるのなら決して恥じてはなりません」

あの夜、大祭司の中庭で自分はイエスの弟子ではない、そんな人は知らない、と言ったペトロが、「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい」と教会の人たちに励ましの言葉を書いているのです。ペトロは確かに変えられています。

使徒言行録を見ると、ペトロが復活のキリストを証しする様子も記録されています。大祭司から尋問された時、あの夜、キリストがアンナスから尋問されたように、ペトロは大祭司と向き合うことになりました。

大祭司はペトロに言いました。「お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」

ペトロはナザレのイエスのことをエルサレムで語るな、と釘を刺されました。しかしペトロは毅然としてこう言いました。

「人間に従うよりも神に従わなくてはなりません。私たちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を許すために、この方を導き手とし、救い主としてご自分の右に挙げられました」5:28以下

ペトロをはじめ、あの夜イエス・キリストのもとから離れた弟子たちは、もう一度復活のキリストによって召し出され、聖霊を受け、キリストがそうなさったように、この世からの逆風を受けながら福音宣教を続けました。キリストの十字架と復活を通して、自分たちの死に勝る力を見たからです。

「この世」は「この世の中」だけで完結しているのではない、天の国がある。弟子たちはそのことを知ったのです。そして自分たちの思いや力を超えて、聖霊が自分たちに働き、天の国を、イエス・キリストを、また神の招きを指し示す器として自分自身を差し出していったのです。

使徒パウロは、こう書いています。

「すべてのものは神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。こういうわけで兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄として捧げなさい。これこそあなた方のなすべき礼拝です」

キリストはご自分の命を何に捧げられたのかキリストの命は、どんな実りを結んだのか。それは、今、ここにある私たちの礼拝です。キリストは、命を懸けて、この礼拝を創造してくださいました。私たちがその証人です。

一度はキリストを否定して、逃げ出してしまった弟子たちが再び召されたように、キリストから離れていた私たちは聖霊によってこうして集められ、礼拝の群れとして生かされるようになりました。

私たちは、キリストがそうであられたように、弟子たちがそうなったように、天の国を見据えて、この世で永遠の命を指し示すのです。

信仰は、人を変える力があります。逃げるしかなかった弟子たちが、命を懸けてキリストに従う道を選び取ったように、私たちも変えられていくのです。アドベントの時、この世の力に向かって、命を懸けて毅然と信仰の道を示してくださったキリストに感謝を深めたいと思います。