11月19日の礼拝説教

ヨハネ福音書1:35~43

「『来なさい、そうすればわかる』」(1:39)

洗礼者ヨハネは、「荒野で叫ぶ声」として、人々に歩むべき道を示し続けて来ました。彼が指し示していたのは、世にいらっしゃる神の言・救い主イエス・キリストと共に歩む「道」でした。ヨハネの使命は、キリストという「道を」を指し示すことでした。彼は主イエスのお姿を見るたびに、「見よ、神の子羊だ」と人々に行っています。

洗礼者ヨハネには弟子達がいました。エルサレムの都でから離れた荒野で、洗礼者ヨハネの下で厳しい信仰生活を送っていた人たちがいました。ヨハネは、その人たちを自分の弟子として受け入れてはいましたが、その人たちに「ずっと私の下に留まって、私の教えに従って過ごしなさい」とは言っていませんでした。

ヨハネは、「荒野で叫ぶ声」として、自分の弟子達にも、「私ではなく、私の後から来られる偉大な方に従いなさい。私が指さす方を見なさい。その先に、あなた方が本当に求め従うべき方がいらっしゃる」と、言い続けて来たのでしょう。

ヨハネの弟子達は、自分たちの先生が常々「私は荒野で叫ぶ声である」と言うのを聞きながら、「いつ、先生が言っているメシアは来るのだろうか、いつ、自分が本当に従うべき方が現れるのだろうか」と、荒野でメシアの到来を待っていたのです。

荒野にいるヨハネこそメシアではないか、という期待を持ってエルサレムから送られて来た人たちに、「私はメシアではない」とヨハネははっきり答えました。皮肉にも、その人たちがエルサレムに帰って行った翌日、ヨハネは自分のもとに歩いて来たイエスという人を見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と言いました。

弟子達はついにヨハネが「見よ、あの方だ」と言うのを聞きました。ヨハネはその翌日にも、自分から洗礼を受け歩いているイエスという人を見つめて、「見よ、神の子羊だ」と言いました。

その際、二人の弟子達がヨハネと一緒にいました。ヨハネが「見よ、神の子羊だ」と言ったということは、その二人にとっては「私から離れて、あの方に従いなさい」と言われたのと同じことでした。

「二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」とあります。

私達はここに、ここに信仰の共同体である教会の芽生えを見ることができます。普通、教会はペンテコステの日に聖霊が上から注がれて出来た、と言われることが多いでしょう。ペンテコステの聖霊はキリストを信じて祈り従う小さな信仰の群れの上に注がれました。ではその小さな群れは、どこから始まったか。イエス・キリストに従い始めたこの二人の小さな従いから始まっていったのです。

二人はイエスに近づきました。初めはただ、おそるおそる、イエスという方がどこに泊まっているのか、ということを知ろうとしただけです。そこから「従う」という信仰の生き方に変わっていくことになります。

37~38節には、二度、「従う」という言葉がつかわれています。二人の弟子は主イエスに「従い」、そして主イエスは二人が「従ってくるのを見て」声をかけられました。「従い」ということは、福音書において、いや、聖書全体において、一番大きなテーマです。

私達はそれぞれ、どのように主イエスに従うようになったでしょうか。初めはこの二人のように、恐る恐る近づいて行ったのではないでしょうか。「自分が本当に従うべきものは何か、自分を委ねることのできる真理は何か」、ということを考えているところに、この二人にとってのヨハネのように、キリストを指さす誰かがいたり、何かのきっかけがあって、少しずつ近づいて行ったのではないでしょうか。

友人だったかもしれない、家族だったかもしれない、本やテレビやラジオだったかもしれない・・・キリストを指し示す誰か・何かがあったでしょう。そして示された方を見て、本当にその方が自分の道となる方であるかどうかを知ろうとしたでしょう。

キリストはご自分のもとに近づいて来た二人に、逆に問いかけていらっしゃいます。。

「何を求めているのか」

これが、この福音書で発せられた最初のキリストの言葉です。

「何を求めているのか」

私達は福音書全体を通してこのことを問われることになります。

ヨハネ福音書の最後で、一度はキリストを知らないと言ったペトロが、復活のキリストから問われます。

「あなたは私を愛しているか」

これこそ信仰者が一生涯を通してキリストから、神から問われ続けることではないでしょうか。

「あなたは私を求めるか。あなたは私を愛しているか」

「何を求めているのか」というキリストの一言は、改めて私達が心の奥底で求めている救いを思い起こさせます。私達はキリストに何を求めているのでしょうか。実は、私達は「何か」を求めている。そして「誰か」を探し求めているのです。

私たちがキリストに求めているのは、キリスト教の知識ではありません。知識としてのキリストではなく、キリストご本人です。幼子がただ親を求めるように、私達はキリストを求めるのです。キリストに求められることを求め、そしてキリストと共に生きることを求めています。一言で言うと、「インマヌエルのぬくもり」ではないでしょうか。

キリストは、「どこに泊まっておられるのですか」と尋ねる二人に、「来なさい、そうすればわかる」とおっしゃいました。「私は誰それの家に滞在している」という答え方ではありません。二人の本当の興味は、キリストの宿泊場所ではありませんでした。本当にこの方が、自分の一生をかけて従うだけの方なのかどうかを見極めてたかったのでしょう。

2人は主イエスと一日共に時間を過ごし、この方こそキリストであると知りました。全ては、イエス・キリストの後に付いて行く、従うところから始まるのです。そしてその従いの中で、全てが示されていくのです。

キリストの後ろを歩む中で、私達は「何を求め、どこに向かえばいいのか」が示されていくことになります。キリストはご自身に従うところから始まる道へと招かれるのです。

ヨハネ福音書を読んでいると、私達は何度も同じ問いを投げられることになります。

「何を求めているのか」

そして私達は同じ招きを与えらます。

「来なさい。そうすればわかる」

ヨハネの二人の弟子たちは、世に来られたイエス・キリストに出会いました。それは、二人にとって、「荒野に道が通された」、ということでした。この世の中に示された、天のみ国・永遠の命へと至る道です。

創世記で、神が人間を探される場面があります。アダムとエバが蛇の誘惑によって食べてはならない実を食べ、楽園の木の間に隠れ、神から身を隠してしまいました。神は、人をお求めになります。

「どこにいるのか」

これこそ私たちが置かれている現実です。

神は今でも「あなたはどこにいるのか」と探し求めてくださっています。神が私達を求めて「どこにいるのか」とおっしゃるその声こそ、イエス・キリストなのです。神の招きの言葉は、私達と同じ人となって世に来てくださいました。

今もキリストは私達に語りかけてくださいます。

「何を求めているのか」

「来なさい、そうすればわかる」

2人の内の1人は、アンデレという人でした。アンデレともう1人の弟子はイエスの宿泊先に一緒に留まり、丸一日、主イエスと時間を過ごしました。2人が主イエスとどのような話をしたのか、どんな教えを受けたのか、何をして過ごしたのか、ということは何も書かれていません。しかしアンドレは、その一日で主イエスこそメシアであると確信しました。

「この方こそキリストだ」、と確信したアンドレがまずしたことは自分の兄弟シモンにそのことを知らせに告げに行く、ということでした。

「私達はメシアに出会った」

アンドレは自分の兄弟のシモンに福音を伝えたのです。そして、自分の兄弟シモンを主イエスのところに連れて行きました。

ヨハネ福音書を読むと、アンドレは何度も誰かを主イエスの下に連れてきていることがわかります。

ある時は「こんなに大勢の人には、何の役にも立たないでしょうが」と言いながら、5つのパンと二匹の魚をもった少年を主イエスのもとに連れて行きました。そのことがきっかけになり、キリストの御手によって5千人の人たちの空腹が満たされることになります。6:8

またある時は、祭りのためにエルサレムに巡礼に来ていたギリシャ人たちが「イエスにお会いしたい」と言うので、主イエスに引き合わせました。それがきっかけになり、異邦人たちが福音を聞くことになりました。12:22

全ては、主イエスの「来なさい、そうすればわかる」という言葉にアンデレが従ったところから始まりました。そしてアンデレは主イエスの元へと誰かを招くために、同じことを言うのです。

「あの方こそメシアです。来なさい、あの方のところに一緒に行こう。そうすればわかる」

私たちが本当に主イエスこそメシアだと信じた時、その福音を自分の内にとどめておくことは出来なくなります。誰かが私達に主イエスを指し示し、それに従って主イエスこそメシアであるとわかった時、私達は今度は次に他の人たちに向かって「来なさい、そうすればわかる」と言うのです。

アンデレは自分の先生であったヨハネの「見よ、神の子羊だ」という声に従い、主イエスに向かいました。主イエスに「来なさい、そうすればわかる」と言われてそれに従い、主イエスこそメシアであると知りました。そしてアンデレは自分の兄弟シモンを主イエスの下に連れて行ったのです。

アンデレがしたことは小さな招きの業でした。自分の兄弟を主イエスのもとに連れて行った、ただそれだけでした。

キリストはこのシモンにケファ・岩というあだ名をつけられます。岩というのは、礎・基礎の象徴です。このシモンという人こそ後に教会の中で中心的な役割を担っていくことになるペトロです。

ペトロが後にどのように福音宣教していったか、ということを見ると、アンドレのこの小さな招きがどんなに大きな業であったかがわかります。

私達の日々の小さな業も、これと同じ重みを持っています。誰かにキリストを示すということは、決して小さな業ではありません。私達は有名な福音宣教者ではありません。華々しく目立つ活動をしているわけでもありません。しかし、イエスを指し示し、イエスに向かって歩むことで信仰の足跡が道になり、次の信仰者のための道しるべとなるのです。

「来なさい、そうすればわかる」

日々祈り、礼拝に向かう私たちの姿が、世の人々にそのように証しすることになるのです。