12月3日の礼拝説教

創世記2:15~25

「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(2:15)

創世記では、天地が造られた後、大地・土から人が造られる様子が2章で描かれています。5節を見ると、人が土から形作られる前には天地は雨もなく木も草もはえておらず、耕す人もいない「荒野」のような世界であったことがわかります。人が造られてから、その「荒野」に潤いが与えられていきました。神が人間のためにこの世界の秩序を整えていかれたということを聖書は私たちに教えてくれています。

15節「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」

「エデンの園」と聞くと、美しい木が生えており、清らかな川が流れ、人が何もしなくても悩んだり焦ったりすることなく生きていくことができる園を思い浮かべるのではないでしょうか。

しかし、神は何もしなくてもいい場所としてエデンの園を用意されたのではありませんでした。人は「土を耕し、守ること」を神はお定めになったのです。人は楽園で座っていればいい、ということではありませんでした。15節の「耕す」という単語は「仕える」という意味に近い言葉です。土から形作られた人は、土に仕え、土を守ることが使命とされたのです。「仕える」とは、自分を低くして相手に自分を差し出すということです。我々人間が仕える相手は土なのです。私たちが今、足をつけて生きている大地なのです。

神は人を土からお創りになりました。つまり人は「土なる存在」です。そして9節にあるように、人をお創りになったのと同じ土から木を生えいでさせられました。人は土から造られ、そして土からもたらされる実りによって生きるものとされました。

聖書は、この創世記の初めで世界の根源、人間の根源を教えてくれている、ということを以前お話ししました。私達はこの創世記の物語から、私達人間の根源的な使命を、「生きる」ということの大元を学ぶことができます。

聖書が私たちに伝えている内容は決してむつかしいことではありません。難しいことではありませんが、私たちがすぐに忘れてしまうことです。人はすぐに、自分が生きる上での根源を忘れてしまうのです。

人は土から造られました。土は、人間の命の根源です。そして、人は命を終えると土に返ります。私たちはそのことを知っているでしょう。しかし、私たちはそのことをすぐに忘れるのです。

命の根源を忘れ、人間こそが大地の支配者であり世界は自分のために存在していると思い上がった時に、人間は互いに血を流し、自然を簡単に破壊する道に踏み込んでしまいます。私たちは、土・大地を支配しているように思っていますが、逆なのです。土から自分が生きるためのものを勝ち取っているのではありません。大地・自然に仕えることで、神からの恵みをいただき、生かされているのです。人はこの世界・大地に生きるためには自然に対する畏怖の念、そしてこの世界をお創りになった神から生きる糧が来るということを忘れてはならないのです。

創世記は、人が土の上で生きるための姿勢を教えてくれています。鳥のさえずりを聞きながら、何にもしないで木の実を食べるような生活が求められているのではありません。人が土に仕え、土から生きる糧が与えられるという神の秩序を通して、私たちの心は創造主へと向かうのです。そこから、命の源である神への讃美が、祈りが、礼拝が生まれてくるのです。

使徒パウロはこう書いています。る。

ロマ11:36「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」

全ては神から出て、神に帰る・・・創世記の初め、つまり聖書が最初に私たちに教えているのは、この循環なのです。

さて、このエデンの園の物語の中で、神は一つ不思議なことをなさっています。園の中央に命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられ、「善悪の知識の木からは食べてはいけない。食べると必ず死んでしまう」とおっしゃいました。

神は、人間のためにご用意なさった園の中に、一つの制限をお与えになったのです。なぜ神は、食べると死んでしまうような危険な木を園の中央に置かれたのでしょうか。また、どうして、「善悪の知識」が、人間の死に結びついてしまうのでしょうか。

私達には不思議に思えることです。今まで、このことについていろんな議論がされ、理由が考えられてきました。恐らく、神が善悪の知識の木を園の中に置かれたのは、人間の有限性が示された、ということではないか、と言われています。

人は神の似姿として造られたと書かれています。「似ている」ということは、「神ではない」、ということでもあります。人には超えてはならない一線があるのです。そういうことではないでしょうか。

「善悪の知識」と聞くと、普通はいいことだと思うのではないでしょうか。善悪の分別がつくこと、道徳心を持っている、ということであれば、いいことではないか、と思うのです。しかし、聖書が伝えている「善悪の知識」は、人を死に追いやる知識として言われています。人が知るべきでない知識、人を死に誘う知識のようです。

使徒パウロが、こんなことを書いています。

「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。・・・あなたがたは、罪の奴隷であった時・・・どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行きつくところは、死にほかならない」ロマ6章15節以下

パウロは、二本の道の岐路があることを伝えています。神の支配の内に生きて永遠の命に至るか、罪の支配に生きて死に至るか、という岐路です。それを踏まえると「善悪の知識」とは、罪の知識・神から離れる道を教える知識のことである、ということがわかります。

創世記は、私達が今立たされている岐路を、この物語を通して教えているのです。命に至る道と、死に至る道の分かれ目・・・神に向かう道と、神から離れる道の分かれ目です。

聖書が言っている「死」とは何でしょうか。創世記やパウロが伝えている「死」というのは、単なる「肉体の死」ではありません。実際、人が善悪の知識の実を食べても死にませんでした。神がここで「必ず死んでしまう」とおっしゃっているのには、何か別の意味があるのです。

律法や預言書を見ると、「こういうことをした者は死なねばならない」という表現が出てきます。これは、死刑の宣告の言葉ではありません。祭司が、礼拝に相応しくない人に対して言っていた表現です。例えば、偶像礼拝をする人や、隣人の妻を犯したり、弱い者を苦しめている人は、礼拝に相応しくないとされ、命の領域である礼拝に加わることが許されませんでした。

「あなたは命の領域である礼拝に参加することが許されない」ということを、祭司は「あなたは死なねばならばない」という表現で伝えていたのです。

そのことを踏まえると、神が「善悪の木の実を食べると死ぬ」と人におっしゃったのは、「その木の実を食べると礼拝に相応しくない悪を知ってしまう」という意味だったのでしょう。

人は、信仰の道と不信仰の道、神と共に生きる道と神から離れる道、という二本の道の岐路に立たされています。そしてそれが、私たちが今置かれている現実であるということを創世記は警告しているのです。私達を礼拝から遠ざけようとする知識は、今も私達の周りに溢れているのではないでしょうか。

私達は考えたいと思います。楽園とは何でしょうか。神との交わりがあるところが、楽園です。インマヌエル、ということです。創造主を知り、自分たちを生かしている大地に海に、創造主から与えられている恵みとして、信仰をもって仕える生活・・・そこに楽園はあります。

預言者たちは、礼拝こそ命の領域であることを伝えて、真の神への立ち返りと訴え続けました。私たちは今、この礼拝の中へと自らの足で向かって来ました。礼拝こそ命の領域だからです。

神を求める人が集まっているここに、楽園があります。命があります。ただ気が合うから、仲良しだから集まっているのではありません。本当に恐れるべき方を知り、命を与え生かしてくださる方に讃美と祈りを捧げ、自分が行く道を示していただくために、ここにいるのです。そしてそこで信仰の友に出会うのです。

それが、救い主イエス・キリストがおっしゃった、「神の国は近づいた・神の支配が来た」という福音です。私たちは神の恵みの支配へとキリストに導き入れられたのです。

大切なことは、聖書を通して私たちの本当の支配者を知ることです。自分こそが自分の、そして大地の支配者であると信じ込む知識の実ほど恐ろしいものはありません。私たちはそのような知識・思いによって、神から離れ、自ら滅びへと向かっていくことになるのです。

さて神は、園の中に生きる人をご覧になって、「人が独りでいるのはよくない」、と思われました。十分な食べ物、美しい環境があってもそれだけでは人にとって十分であると思われませんでした。人は独りで生きるべき存在ではない、ということが描かれています。

人は土から造られ、1人で生きてやがて土に返るだけの空しい存在ではいのです。言葉を交わし、互いに生きる意味を与えあい、教えあう存在「助け手」を、神は必要と思われました。

神は獣や鳥を人のところへ持ってこられ、人はそれに名前を付け、同じ世界に住むものとしましたが、獣も鳥も本当の「助け手」とはなりませんでした。動物と仲良くなっても、神がお考えになるような、存在を共有するような本当の助け手とはなりませんでした。

神は人の「外」ではなく人の「内」に助け手をお求めになりました。人のあばら骨の一部を抜き取り、女を作り上げられます。人はそれを見て、「ついに、これこそ私の骨の骨、私の肉の肉」と言いました。

これも不思議な物語です。一体何を伝えようとしている物語なのでしょうか。男と女という二つの性別が出来た、ということでは終わっていません。男と女という性の区別がありながら、同時に、男と女が一体となる、という夫婦の形が語られているのです。

「二人は一体となる」とあります。「一体となる」というのは、「一つの肉となる」、という言葉です。

男と女に分けられた二人が、また一つになる、という不思議が書かれている。ただ一緒に過ごす、暮らす、というだけではありません。二人で一つの存在となる、存在を共有する「夫婦」という単位を神は創造されたのです。互いに、神を指し示し、神の恵みの内に留まるために励ましあう単位です。

創世記には、不思議な神話が描かれているのではない。実は私たちの今、私たちの現実、そして生きる意味が、描き出されています。行くべき道を示し、行くべきでない道も示して警告を発しています。夫婦のことについても、夫婦であることの意味、その根源を教えてくれています。

全ては、神と共に生きるための知恵なのです。私たちは自分の日常の中にどれだけ神の御業を見出しているでしょうか。創世記の物語を通して省みてみていきたいと思います。

私たちは日常の中で、この大地・隣人・家族に仕えていくことで神と共に生き、生かされている恵みを知り、本当の安らぎと幸福を感じていくのです。

イエス・キリストは、そこへと至る道へと私達を導き入れてくださいました。その為にこの世に生まれてくださいました。キリストへの感謝を深くしたいと思います。