創世記3:14~24
「アダムは女をエバと名付けた。彼女が全て命あるものの母となったからである」(3:20)
神がお創りになったエデンの園は、完全な豊かさと美しさをもっていました。人はそのエデンの園に置いていただき、自分が創り出された土に仕え、土を守り、そこから与えられる恵みを夫婦で楽しむ命が備えられました。心地よい風が吹く夕方には、一日の生活の充実感をもって神と語り合う時間をもっていたのです。
しかし、人は蛇の誘惑によって、一瞬でその平安を失ってしまうことになりました。創世記は、その悲劇を淡々と描いています。そしてその悲劇を通してイスラエルの信仰の失敗の歴史を描き出し、神から離れた偶像礼拝がもたらす悲惨な現実を突きつけるのです。
神の言葉を捨てた人間は何を失ったのでしょうか。神を中心に世界・自分見る、という視点を失ったのです。自分を世界の中心に据え、自分だけを見るようになり、神に対して恥を覚える者となってしまいました。
風が吹く夕方、自分を探しに来てくださった神に向かって「私はあなたから隠れています。裸であることを知って恐ろしくなったのです」と言う者になってしまいました。そして「自分以外のものが悪い」と他に責任を押し付ける者となり、神を中心とした大地との調和、神を中心とした夫婦の調和が崩れました。
神への不従順によって人間が何を失ってしまうのか、聖書は一番初めに楽園で人間が犯した失敗を描き、警告を発しているのです。
まず私達は今日読んだ場面で、神が蛇、女、人にそれぞれなんとおっしゃったのかを見たいと思います。
女が「自分は蛇に騙された」と言ったので、神はまず蛇を裁かれました。蛇に対して、蛇が呪われるものとなり、生涯這いまわり、塵を食らうことになる、とおっしゃいます。そしてこれまで普通に語り合っていた蛇と人は互いを忌み嫌い、殺しあうことになると言われました。
次に神は女に対して言葉をお与えになります。女は蛇のように呪われはしませんでした。しかし、三つの辛い現実が示されます。出産の痛み、夫を求めなければならない生活、男による支配です。
そして最後に神は男に向かって言葉を発せられました。男自身は蛇のように呪いは受けてはいません。しかし、「男のゆえに、土が呪われるものとなった」とおっしゃっています。
神の言葉に背いた人間の罪によって、大地が呪われることになったというのです。
エデンの園ではありあまる豊かさを大地から得ていた人間でした。しかし神から離れたせいで、自分が土に返る時まで汗を流し、苦労しても楽園でそうだったように豊かな実りがもたらされることはない、と宣言されます。
土から造られ、土に仕える存在であったアダムは、神から離れることで土との調和を失いました。それどころか、アダムは、土の上で苦しむことになったのです。園の中で与えられた豊かな木の実はなくなり、大地に仕えて園を守るという調和が崩れ、風を感じながら夕方神と語らう至福の時間はもうなくなってしまいました。これから一生男は呪われた土の上で労苦し、そして死ぬという定めとなったのです。
神が夫婦におっしゃった言葉を見ると、この世に生きる辛さが凝縮されていないでしょうか。
私たちがこの創世記を読む際に気を付けなければならないのは、字面を読んでそのまま自分の生活に持ち込んではならない、ということです。
神がここでそうおっしゃったから、「女は男に支配されるべきものである」とか、「外で働くのは男の役割であり、土の上で苦しむのは男だから仕方ない」とか、いうことではないのです。聖書がここで描いているのは、神に背き楽園を失った「あるべきでない」人間の姿なのです。
私たちが聖書を読む際に一番気をつけなければならないのは、その言葉、その物語が書かれた時代背景を踏まえる、ということです。どのような時代に書かれ、その時代の人たちはこの物語に何を見出したのかを踏まえて読まなければ、「男はこうあるべきだ、女はこうあるべきだ」、というような、安っぽい理解になってしまいます。
創世記の物語は、この創世記が記されたその時代のイスラエルが置かれた現実と、なぜイスラエルがそのような苦しみに陥ったのか、ということを描き出しているのです。
この不思議な物語は、紀元前のイスラエルの人たちにとって単なる娯楽ではありませんでした。神が人をエデンの園の外へと出され、人は出産の痛みを感じつつも生きるために土の上でもがき、しまいに死ぬ者とされた・・・イスラエルはこの物語の中に信仰の教訓を見出していました。
創世記が書かれたのは、イスラエルがバビロン捕囚を体験した時代です。BC6世紀、イスラエルの民は聖なる都エルサレムを失い、異教の国バビロンへと連行され、偶像の信仰に囲まれる苦しみの生活を体験しました。
神の言葉に背いてエデンの園から追放されたアダムとエバに、自分たちの姿を重ねて見たでしょう。神の言葉に背を向け、祝福を失った男と女の悲惨は、当時のイスラエルの人たちの現実そのものだったのです。
何百年も預言者たちが偶像礼拝をやめるよう神の言葉を伝えたにも関わらず、イスラエルはやめませんでした。遂に、バビロンの軍隊によってエルサレムに裁きがもたらされました。エルサレムは破壊され、人々はバビロンへと連行されて行きました。異教の地バビロンで、偶像礼拝の誘惑に囲まれた中での生活を余儀なくされたのです。
バビロンでの捕囚生活の中で、家が途絶えないように女性は子を産むことが求められ、家父長制度の中で男に支配されていました。男は炎天下、土の上で来る日も来る日も働かねばならず、その日一日を生き延びるのに精いっぱいでした。
そういう人たちが、この創世記を読んだのです。その時代のイスラエルの人たちにとって、ただ確かだったのは、苦しみの先で死ぬ、ということだけでした。神から離れ、「死ぬ者となった」という厳しい現実が創世記に記されています。
それこそが、バビロン捕囚の中で生きる意味を見失いかけていたイスラエルの人々の現実だったのです。国を失い、ただその日一日を生き延びることが、生きる全てとなっていた無味乾燥な時代に創世記は記されました。エルサレムを失った人たちは、楽園を失った夫婦に自分たちの姿を重ね、信仰の失敗の教訓としたのです。
そのようにして聖書を読むと、神がくださった祝福の生活を自ら捨ててしまったイスラエルの姿が透けて見えてきます。聖書は、ある意味、イスラエルの嘆きの書です。「なぜ自分たちは滅んでしまったのか。自分たちはどこで道を踏み外してしまったのか。自分たちをそそのかす蛇の声とは一体何だったのか。」
女が男に支配されながらも男を求めなければならないような苦しみ、男が必死で汗を流して働いても報いが少ない苦しみ・・・そのような苦しみが一体どこから来ているのか・・・。
驚くべきことに、創世記は神を責めていません。この世に生きる苦しみを神のせいにしていないのです。神はもともとは祝福の世界をお創りになったのに、人間が自らその楽園を捨ててしまった、その愚かさを描いている。「この愚かさを繰り返してはいけない」、という信仰の教訓として創世記は書かれました。
創世記は私たちにただ生きる絶望を伝えているのでしょうか。最後にこのことを考えたいと思います。
創世記が示しているのは、罪の絶望だけなのでしょうか。「あなたには今もこの先も、希望を持つことはできない」ということなのでしょうか。
22節に神の心の言葉が書かれています。
「人は善悪を知る者となった。」
これは以前にお話ししたように、「支配者になろうとする存在となった」ということです。
そして神は一つのことを憂いていらっしゃいます。
「今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となる恐れがある」
人は支配者になろうとする心を持ってしまった、自分中心の生き方を知ってしまった・・・そのような人間が、それぞれが「自分こそ世界の中心である」と思うようになったらどうなるか・・・。
人間同士で殺し合い、自然をも支配しようとして大地を痛めつけることになります。今この世界にある環境破壊の問題も、一番の大元は創造主を見失っている、という人間の罪に原因があるのです。
そのような人間が「命の木を知ってはいけない」、と神は思われました。だから人はエデンの園から追放されたのです。永遠の命に相応しくないと思われたからです。
これを読むと、もう人間は神に見捨てられたように見えます。しかしそうではありません。聖書は、「人が神から離れた」ということと同時に「神がここから人を取り戻すために追いかけ始められた」という希望を記した書なのです。
エデンの園を追放された人間を取り戻そうとなさる神の救いの御業がここから始まりました。神の言葉に背いた夫婦は、それで終わりではありませんでした。
「アダムは女をエバと名付けた」、とあります。
エバは命という言葉です。土なる存在アダムは、神の言葉に背いた絶望の中で、「命」という意味の名前を女に与えました。「死」ではなく「命」という名前です。「彼女が全て命あるものの母となったからである」と書かれています。
アダムは、自分の妻、女に希望を見出してエバという名前を付けたのです。「自分たちで命が途切れるのではない、自分たちから続く命がある」という希望が、このエバという名前に込められています。夫婦で共に生きて行こうとする姿勢が現れています。確かにエデンの園での美しい生活という祝福を失った二人でしたが、生きることを捨てていないのです。
そして神も彼らをお見捨てになりませんでした。
「アダムと女に皮の衣を作って着せられた」とあります。
神は二人に守りを与えていらっしゃいます。
二人が蛇の誘惑に負けた時、二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、イチジクの葉で腰を覆いました。しかし、これからエデンの園の外で生きることになる二人には、イチジクの葉では間に合いません。神は皮の衣で二人を守られました。
神はここからイスラエルという信仰の契約共同体をお創りになり、世界をイスラエルへと招きいれる道を造っていかれることになります。バビロンで捕囚とされたイスラエルは、70年の捕囚の苦しみの後、エルサレムに連れ戻されます。そして異教の国々に囲まれ迫害を受けながらも、破壊されたエルサレムを再建していくことになるのです。
そのイスラエルにとって、この創世記の物語は失敗の教訓となり、希望となったのです。
そして今、時が満ちてイエス・キリストという救い主が世に来て、永遠の命を示してくださいました。聖霊が祈りの群れの上に注がれ、キリスト教会が建ち、今もキリストの霊が教会を永遠の命へと導かれています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」
キリストは救いの完成へとイスラエルを、教会を導いてくださいます。新約聖書の一番後ろに置かれているヨハネ黙示録は、世界の終わりの幻が記されています。
黙示録の中でヨハネは天使が語る言葉を聞きました。
「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。・・・勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう」
「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼田の目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」
私たちには帰って行く天の故郷があります。神は私達のために「命の木」をご用意してくださっています。命の木へと我々を連れ戻してくださるためにキリストは世に来てくださったのです。今、私たちは希望の時を歩んでいます。自分の罪に気づいた時こそ、実は神の元へと立ち返る歩みが始まる希望の時への転換点となるのです。