ヨハネ福音書5:1~18
「もう、罪を犯してはいけない」
今日はペンテコステ礼拝です。キリストが天に昇って行かれ、地上に残された信仰者の群れの祈りの上に聖霊が注がれました。キリストの十字架を見てから隠れていた人たちが聖霊の注ぎによって、地の果てに至るまでキリストを証言する者として召されることになりました。聖霊の働きは今に至るまで続き、キリスト教会が立ち続け、キリストを求める人が新たに起こされています。
不思議ではないでしょうか。私たちが誰かに教会に来るようにと説得して回っているわけではありません。むしろ、私たちが思ってもみなかったところから、聖霊に招かれた人が教会へとやってくるのです。ペンテコステの今日、特にその聖霊の導きの不思議を覚えたいと思います。
今日私達は、主イエスによる癒しと、その後に問題が起こったことを読みました。主イエスはガリラヤのカナから、ユダヤ人の祭りに参加するために、エルサレムへと上って来られました。そしてベトザタの池と呼ばれる水のほとりで、孤独の絶望の中で癒しを求めていた人を癒されました。
その病人にとっては、「ただ癒された」、というだけでなく、キリストに見出された、という救いの出来事でした。救いを求める人、祈り続ける人のところに、救い主は時を選んで訪れてくださいます。そして、信仰者の祈りと救い主が出会う時、人の思いを超えた奇跡が起こるのです。私達はその不思議を聖書から教えられます。
その癒しの出来事の後に何が起こったのでしょうか。1人の人がキリストに見出され、癒されたことを、ヨハネ福音書は単なる「美しい救いの出来事」として描いているわけではありません。この癒しの業によって、ユダヤ人たちの中に主イエスに対する殺意が生まれることになった、ということが書かれているのです。
誰かの病を癒すことでなぜ殺意を抱かれるようになるのでしょうか。感謝されたり、更に救いを求められたりしたというのであればわかります。しかしどうして、誰かを助けることによって殺意を抱かれてしまうのでしょうか。
人間が聖書の言葉・神の御心を歪んで理解してしまうと、神の言葉であるイエス・キリストの救いの御業の意味も、いびつにゆがめられてしまうのです。その聖書への思いが熱心であればあるほど、ゆがんでしまいます。そのことが、ここに現れています。
その日はユダヤ人の祭りであっただけでなく 安息日でもありました。神殿とその周辺にはたくさんのユダヤ人がいたでしょう。
キリストは安息日に38年間寝たきりだった人を癒され、こうお命じになります。
「起きなさい。あなたの寝床を担ぎなさい。そして歩くのだ」
癒されたその人は、キリストに命じられた通り、自分が今まで身を横たえていた「寝床を担いで」歩きました。ユダヤ人の祭りの最中であり安息日であったので、周りには多くのユダヤ人がいました。「安息日に寝床を担ぐことは許されていない」と周りにいたユダヤ人たちから問題視されてしまいます。この「ユダヤ人」というのは、特に、ユダヤ人の指導者たちです。
これは以前主イエスが神殿で大暴れされた時に、「あなたは何の権威でこんなことをしたのか」と聞いて来た人たちでした。彼らは律法の言葉に関すること・神殿に関することに敏感でした。当時、聖書の律法に書かれている掟を遵守することはユダヤ人にとって生きることそのものだったのです。律法の掟を守って生きるということが、神の恵みの支配に留まる生き方でした。律法から逸れてしまうと、それは、神の支配の外に出てしまう、ということを意味しました。
ユダヤ人たちは、床を担いだ人を見て、「それは安息日にしてはならないことだ」と言っています。安息日の由来は創世記の初めに記されている通りです。神は世界をお創りになり、創造の御業を終えられてから手を止めてその世界を覧になりました。だから被造物である我々人間も、神がなさったように、働く手を止めてこの世界を見るのです。そうやって、創造主への思いを、また創造主に愛されている被造物である自分たちへの思いを深めるのです。それが 安息日です。
安息日は、人が仕事の手を止めて、世界を、また自分を見つめ、創造主へと思いをはせる礼拝の時となりました。
確かに、安息日は大切なものでしょう。問題は、それでは何が「仕事」とされるのかということです。神へと思いを向けることの妨げになる「仕事」とは何なのでしょうか。主イエスがなさった癒しは、神の礼拝を邪魔する「仕事」だったのでしょうか。神の御心にそぐわない「仕事」だったのでしょうか。
安息日に「床を担ぐ」ことは、「神に心を向けていないことだ」、と周りにいたユダヤ人たちは考えました。彼らはこの人が癒されたという救いの御業ではなく、安息日に床を担いではいけない、ということの方に心を向けました。
私たちはこれをどう見るでしょうか。
主イエスに癒された人はユダヤ人たちに答えました。
「私を癒してくださった方が床を担いで歩きなさいと言われたのです」
それを聞いたユダヤ人たちは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのは誰だ」と聞きます。主イエスに癒された人自身、自分を癒してくださった方が一体誰なのか、まだわかっていませんでした。
主イエスは、御自分の奇跡の力を人々に見せびらかすようなことはなさっていません。御自分の力を誇示して注目を集めて人々を信仰へと導くようなことはなさっていないのです。むしろ、神の救いを求めている人を探し出し、その場にいた人、周りにいた人たちに気づかれないように、人々の間に紛れて救いの御業を行っていらっしゃいます。
聖書には、「病気を癒していただいた人は、それが誰であるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである」と書かれています。癒された本人でさえも、その方がイエスという方であることすら知らなかったのです。互いの自己紹介すらすることなく分かれたようです。
私たち自身、キリストとの出会いを思い返すとこのようなものだったのではないでしょうか。自分とキリストとの出会いを振り返ると、キリストは本当に時を選んで自分の前に来てくださった、と思い起こすことが出来るでしょう。聖書を読んでいきなり信じた、教会に行ってすぐに信じた、という人はほとんどいないでしょう。
不思議な仕方で自分はここまで導かれてきた、それはあの時から始まっていた・・・あれが、キリストが自分の思いを知って迎えに来てくださった瞬間だった・・・と思い出すのではないでしょうか。そしてキリストは離れてしまいそうになる自分をその後も、何度も迎えに来てくださった、と思い返すのではないでしょうか。
キリストとの出会いは一つの点で終わることはありません。キリストは私達を探し求め続けてくださいます。出会ってくださり、癒してくださり、道を示してくださり、そしてその道を私たちの肉体の死を超えて共に歩んでくださいます。
この後、主イエスは御自分が癒された人に神殿で会われました。癒された人が見つけたのではなく、主イエスがまたこの人に出会われた、という書き方がされています。
キリストは、神殿の境内でこの人にもう一度出会われておっしゃいます。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
なぜ主イエスはこの人に「もう罪を犯してはいけない」とおっしゃったのでしょうか。どういう意味なのでしょうか。この「もう罪を犯してはならない」というのは、「私に出会う前の古い自分に戻ってはならない」ということでしょう。「あの池のそばで、自分を素通りする人たちの背中を見て痛みを覚えていた、あの時の自分に、私に出会う前の自分に戻ってはならない。そのために私につながっていなさい」ということです。
一度私たちに出会ってくださったキリストは何度も、「私につながっていなさい。私から離れてはいけない。罪を犯してはいけない」と言い続けてくださいます。今に至るまで聖霊を通してキリストが我々に語りかけてくださっているのは、これなのです。
この一言が、この癒された人を変えました。この人は、このキリストの一言を聞いて、自分の身に起こった癒しは、罪の癒しであり、神との関係の回復であることだったと悟りました。そしてこの人は変わったのです。
15節「この人は立ち去って、自分を健やかにしたのはイエスだとユダヤ人たちに告げた。」
この人は、自分の体と罪を癒してくださった方をユダヤ人たちに証しました。イエスという方を積極的に人々に伝え始めたのです。
それまでは、ただ癒された人でした。それが、キリストに言葉をいただき、道を示されたことで、自分が次になすべきことを知ったのです。自分に出会い、癒し、救ってくださったのは、あの方だ、と証言しはじめました。
キリストに出会った人の次の一歩は、自分で決めた一歩ではありません。
詩編37:23
「主は人の一歩一歩を定め、み旨に適う道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。」
信仰者は、自分の思いを超えた道を歩むよう導かれることになるのです。聖書に書かれている小さな言葉が、人が踏み出す次の一歩を大きく変えることになります。
ユダヤ人たちは、安息日にこの人を癒し、「寝床を担いで歩け」と言ったのがナザレのイエスであることを知りました。彼らはナザレのイエスのことを覚えていました。神殿で暴れ、「この神殿を三日で建て直して見せる」と豪語した青年です。あのイエスが今度は安息日に「床を担いで歩け」と言ったというのです。
16節「ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。安息日にこのようなことをしておられたからである」
「安息日にこのようなことをしていた」というのは、「何度もしていた、し続けていた」という意味の言葉です。
主イエスが安息日に癒したり、「床を担ぎなさい」と命じたりされたのは、この人だけではなかったようです。それがたとえ安息日であっても、主イエスは救いを求める人たちのところへと足を運び、求められる限り御手を伸ばされていたのです。しかし、ユダヤ人たちは、主イエスのことを「神の御業を行う方」ではなく、「安息日に仕事をして聖書の掟を破っている人」として見ました。
主イエスはユダヤ人たちの非難に対しておっしゃいました。
「私の父は今もなお働いておられる。だから私も働くのだ」
ユダヤの指導者たち、教師たちは、神は安息日であっても怠けてはいらっしゃらないということは知っていました。神は安息日であっても雨を降らせ作物を実らせ、人をこの世に生まれさせ、天に召される・・・この世界の営みを進めていらっしゃることは知っていました。しかしナザレのイエスが安息日を破るだけでなく、神を自分の父と呼んでご自身を神と等しい者としてことに、更に驚きました。
ユダヤ人たちは、聖書の言葉に対して熱心だったのに、自分たちの間の前に来られた神の子に気づいていません。私たちはこの時のユダヤ人たちから学びたいと思います。安息日に私たちが心を向けることは何なのでしょうか。安息日であっても、この世界の中で救いへの招きを進めていらっしゃる神の御業ではないでしょうか。
「信仰とは何か」、ということを考えさせられます。何かの規則を杓子定規に守る、ということになりがちです。しかし、何かの掟を守ることを大事にしすぎて、キリストの御心が見えなくなるのであれば本末転倒でしょう。それが本当に神に喜ばれる信仰かどうかを吟味しなければならないのではないでしょうか。
主イエスのことを神と見ることのできなかったユダヤ人たちは、主イエスを殺そうと狙うようになります。人間が神を殺そうとするその姿こそ、聖書が私たちに警告している罪の姿なのです。
イエス・キリストによって安息日に癒され、自分が生涯かけて証しする方を知った人がいました。同時に、キリストの御業を見ても、それは神の掟に反している、と考えた人がいました。
私達はいつでも、信仰と不信仰の分かれ目に立たされていることを覚えたいと思います。