7月7日の礼拝説教

ヨハネ福音書6:34~40

「私が、その命のパンである。私のところに来る人は、決して飢えることがない。私を信じる人は、決して渇くことがない」

イエス・キリストは、御自分を非難してきたユダヤ人たちにおっしゃいました。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るために私のところへ来ようとしない」

福音書を読むと、たくさんの人たちが、主イエスが行われた奇跡のしるしを目撃したことが書かれています。しかし、その人たちが全て「この方はまことにキリストだ」と信じたわけではありませんでした。

しるしを見たことによって、主イエスのことを自分に都合よく理解して、自分勝手に期待した人たちがいました。主イエスの教えを聞いて、「自分の聖書の理解とは違う」、と拒絶したりする人もいました。

主イエスご自身が、「聖書は私について証しをするものだ」とおっしゃっているように、福音書はいろいろな角度から、「この方こそ神の子・キリストである」と私たちに伝えています。そして、キリストをキリストとして受け入れなかった人たちの姿を通して、私たちは自分の信仰を、また聖書に対する私たちの姿勢を問うているのです。

このイエスという方が何者なのか。この方の言葉・業の権威はどこから来ているのか。

その言葉の意味、業の意味、そして福音書の中に残されたキリスト証言がどのように人を変えるのか。今の私たちにとって聖書が伝えているイエスという方は、私たちをどのように変えるのか。

今日はそのことを考えたいと思います。

主イエスはこの福音書の中で、御自分のことをいろんな呼び方でおっしゃっています。「私は〇〇である」という言い方をなさっているのを一つ一つを見ていくと、何か霊的な意味をもった言葉でご自身のことを言い現していらっしゃるのがわかります。

6章では、「私は命のパンである」とおっしゃっています。五つのパンと二匹の魚でお腹を満たした群衆に向かって、主イエスは「私は命のパンである」とおっしゃいました。群衆は当然考えさせられることになります。それが、今私たちが読んでいるところです。

この後も、主イエスは8章、9章で「私は世の光である」とおっしゃって、目の見えない人を癒されます。ヨハネ福音書の冒頭で主イエスのことを「この方は光であった」と書かれていますが、主イエスが目の見えない人に光をお与えになったことは、主イエスが世の光である、ということを象徴的に表しています。

10章では、「私は羊の門である」とおっしゃっています。「私を通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」

神の国を求める人にとって、主イエスご自身が入り口であることを告げていらっしゃいます。

更に10章で「私は良い羊飼いである」ともおっしゃいます。「私は羊のために命を捨てる」と約束なさるのです。

11章では、「私は復活であり 命である」とおっしゃって、死んだラザロという若者を生き返らせます。そして、「私を信じる者は、死んでも生きる」と謎めいたことをおっしゃいます。

弟子達と過ごす最後の夜に、主イエスは「私は道であり、真理であり、命である」とおっしゃいます。主イエスがこれから去って行かれることを知って不安がる弟子達に、「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える」と言って、御自分が道であり真理であり命であることを示されたのです。

そして最後に、「私はまことのぶどうの木である」と15章でおっしゃいます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と弟子達におっしゃって、「私につながっていなさい」とお命じになります。

このように、主イエスが「私は〇〇である」とおっしゃっている言葉を見ていくと、それだけ聞いてもよくわからない表現ですが、その霊的な意味を探ろうとすると、理解するのは難しくないと思います。

主イエスは、聞く人たちの日常の中にあるものにご自分をたとえていらっしゃいます。実は、神の国への招きは私たちの日常の中にある、ということを主イエスはお教えになっているのです。

さて、主イエスを求めてやってきた群衆は、「主よ、天から降ってくる神のパンをください」と頼みました。すると主イエスは「私が命のパンである」とお答えになります。

「命のパン」と聞いてユダヤ人たちが思い浮かべたのは、出エジプトの際イスラエルに天から与えられたパン、マナでした。イスラエルが、荒野で天からマナを与えられたように、自分たちにも天からパンが降ってくるのではないか、と期待したでしょう。

しかし、そのマナ・パンは、「私のことだ」と主イエスはおっしゃるのです。これを聞いた人たちは、すぐに理解できなかったでしょう。

私たちは、「イエス・キリストが命のパンである」ということは、聖餐式の言葉や賛美歌の歌詞などを通して馴染みがある表現となっていますが、キリストの十字架をまだ知らないこの人たちにとっては、謎の言葉だったでしょう。

申命記を見ると、なぜ神が40年もイスラエルに荒野を歩ませられたのか、なぜ40年も神ご自身がイスラエルと共に歩まれたのか、ということが語られています。神が荒れ野の40年間、マナを彼らにお与えになったのは、「人がパンだけで生きるのではなく神の口から出る全ての言葉によって生きる」ということを悟らせるためであった、とモーセは告げています。

ユダヤ人たちは「天からのパン」という言葉を、単なる食べ物としてのパンではなく、「自分たちを活かす神の言葉」の象徴としてつかってきました。「律法」「聖書」「神の知恵」の象徴です。自分たちを神のもとへと導き、神とともに生きるようにさせる言葉のことを、「天からのパン」と言っていたのです。

箴言9章5節「私のパンを食べ、私が調合した酒を飲むがよい。浅はかさを捨て、命を得るために、分別の道を進むために」

主イエスは群衆に「私は命のパンである」とおっしゃり、サマリア人女性には、「私が与える水を飲む者は決して渇かない」とおっしゃいました。主イエスはご自分こそが、世の人々の命の源であり、神ご自身であることをお伝えになっているのです。

しかし、そのことを主イエスの十字架と復活をまだ見ていない人たちは信じることはできませんでした。この群衆は、主イエスが行われた奇跡を見てこの方を預言者と信じ、自分たちの王様にしようとしました。自分たちの都合で、自分たちの期待をかけて主イエスのことを見ていたのです。

今でも、イエス・キリストを特別に思う人はいるでしょう。しかし、聖書の証言を信じて本当に神として従う人はどれだけいるでしょうか。この方を、自分の知恵や知識の型にはめて、自分に何か利益をもたらしてくださる方・何か道徳的な業を行って偉人のように期待して信じる人は多いのです。

私たちも、この群衆と同じようにキリストにパンを求めています。この場面を通して問われるのは、「私たちはキリストにどのようなパンを求めているのか」ということなのです。

私たちは礼拝の中で、「主の祈り」を共に祈ります。その中で、「日用の糧を今日も与えたまえ」と祈ります。日毎の糧とはなんでしょうか。字義通りに言えば、毎日の食べ物、ということになります。

しかしキリストは、弟子達に「私にはあなたたちの知らない食べ物がある」とおっしゃいました。私たちが信仰を通してしか知ることのできない食べ物・糧があるのです。

主の祈りで「日用の糧・日毎の糧」を祈り求めるということは、単に「今日もお腹が減りませんように」、という願いではありません。神はモーセを通して、荒れ野でマナが与えられてきたイスラエルに、「人はパンだけで生きるのではない」とおっしゃいました。イエス・キリストも、荒野で悪魔に対して「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る言葉によって生きる」と言って、誘惑に対抗されました。

私たちがキリストに求めるパンは、荒野のイスラエルを生かし、約束の地へと導き入れた神の言葉・神の導きのことです。それこそが、私たちが日毎に祈り求める天からの糧なのです。神の国へと、また終わりの日の復活へと、永遠の命へと向かわせ、導き入れてくださる神の言葉、キリストの招き、聖霊の働きのことです。

主イエスを求めて来た群衆は「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と聞いてきました。主イエスは「神がおつかわしになった者を信じること、それが神の業である」とお答えになりました。

先週も少しふれましたが、「イエス・キリストを信じる」、ということは、既に神の業なのです。私たち人間の業ではなく、救いを求める私たちに答えてくださった神の御業であり、私たちの「キリストについていく」という決断・信仰は神からいただくものなのです。

「日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りは、神の導きを求めることであり、私たちがキリストに従う、ということです。私たちが神に向かって「パンが欲しい」と訴えるのは、自分の全てを イエスキリストに差し出すということでもあるのです。

マタイ福音書の山上の説教の中で、キリストはこうおっしゃっています。

「全てのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」

神がこの歴史の中でお与えになって来た言葉は、無駄になることはありません。主イエスは「私の下に来る人を、私は決して追い出さない」とおっしゃっています。群衆を祝福のパンで満たした際、弟子達に「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」とおっしゃいました。祝福のパンはそのパンくずさえも無駄になることはありません。神の言葉は、無駄になることなく世の人々を神の元へと導くために働きます。

イザヤ書55:10以下

「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も、空しくは私のもとに戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす」

信仰者としての自分は、また私たちの信仰生活は、パンくずの一つのように小さいものでしょう。しかし、キリストは大事に拾い上げて、御自分の御業のために惜しみなく用いてくださる。全てのことは、何一つ無駄にならないのです。

「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように働くということを、私たちは知っています」ロマ8:28

このパウロの言葉が真実であることを、私たちは信仰の歩みの中で見せられていくのです。

「私をおつかわしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。私の父の御心は、子を見て信じる者がみな永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである」

私たちは終わりの日に祝福の一粒として集められます。私たちの日々は、その喜びに向かって生きているものであることを感謝したいと思います。