ヨハネ福音書19:8~15
ローマ総督ポンテオ・ピラトは、総督官邸の外でナザレのイエスの死刑を求めるユダヤ人たちをなだめるために官邸の中でイエスを鞭で打たせました。そして紫の服を着せて、傷つき、弱く憐れなその姿をユダヤ人たちに見せました。そうすれば、ユダヤ人たちが満足して帰っていくだろうと考えたのです。
「見よ、この男を。なんと憐れな姿だろうか。これが本当にユダヤ人の王に見えるか。この者は何の危険性もない、ただの憐れな男だ」
ピラトはユダヤ人たちに訴えます。それで全てが終わると思っていました。しかしユダヤ人たちのイエスに対する殺意は消えませんでした。「十字架につけろ」と叫ぶ彼らに、ピラトは、「私はこの男に罪を見いだせない」と言います。これが、ピラトの良心でした。無罪の者を、有罪にすることはできない。しかも、ユダヤ人たちの言いなりになって、誰かを死罪にするなどということはできないのです。
「律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」
これを聞いて、ピラトは恐れました。イエスが「神の子」であるかもしれない、という恐れです。それが本当なら、「神の子」をむち打ち、侮辱したことになります。
本来ならば、ピラトはローマ総督なのですから、ユダヤ人たちの言うことを受け入れる必要などなかったのです。相手にせず、追い返すことができた人です。しかし、ピラトの中に恐れが生じました。恐れたピラトが主イエスに対してどうしたか、それが、今日私たちが読んだところです。
ピラトは官邸の中に入って、主イエスに尋ねました。
「お前はどこから来たのか」
これは主イエスの出身地を尋ねているのではありません。イエスは本当に天から来た神の子なのかどうかを、尋ねています。
ナザレのイエスが自分のところに連れてこられた時、ピラトはこう尋ねました。
「お前の同胞や祭司長たちが、お前を私に引き渡したのだ。一体何をしたのか」
「一体何をしたのか」という質問が今、「お前はどこから来たのか」に変わりました。「お前はどこから来たのか」、これは、言葉を変えると、「お前は一体何者なのだ」ということです。「本当に神の子なのか」ということです。
ピラトだけではなく、人がこのイエスという方に向き合う時、実は誰もがこの質問を投げかけるのです。
「あなたは何者ですか。あなたは本当に天から来られたのですか」
しかし主イエスはここでピラトにお答えになりませんでした。「イエスは答えようとされなかった」とあります。これはピラト自身が、イエス・キリストを前にして自分で悟らなければならないことなのです。
主イエスご自身、弟子たちに問われたことがあります。
「あなたがたは、私を一体何者だと思うか」
キリストを前にしたとき、人は誰でも、弟子たちのように、ピラトのように、聖書を通して生涯問われ続けるのです。
「あなたはナザレのイエスとは何者だと思うか」
聖書は、このイエスという人物が何をしたのか、ということを記録しています。しかし本当に大切なのは、その時周りにいた人たちがこの人のことをどのように捉えたか・信じたか、ということなのです。
「イエスがどこから来られた方なのか・この方は本当に天から来られた方なのか」、これはヨハネ福音書でここまでずっと語られてきた大きなテーマです。
3章では、イスラエルの教師ニコデモが主イエスに向かって「あなたが神の元から来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです」と言いました。しかし、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と主イエスから言われ、その夜は理解できませんでした。
また群衆も主イエスを求めるようになりました。しかし、「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる」という言葉を聞いて、「誰がこんな話を聞いていられようか」と主イエスのもとから離れて行きました。
イエスという方に出会う人は、必ず、「あなたはこの方を誰だと言うのか」と問われることになるのです。そして、信仰の決断の求められるのです。
ピラトもこの時そうでした。主イエスは、ご自分が天から来られた神の子であることをこれまで公然と話してこられました。しかし、ピラトから「お前はどこから来たのか」と問われたのに、主イエスは「答えようとされなかった」のです。ピラトは、この方と一対一で向き合う中で、その答えを見出さなければならなかったのです。
「真理とは何か」という質問に対しても、主イエスはお答えになりませんでした。これと同様に、「イエスとは何者か」ということは、ピラト自身が主イエスの沈黙の中で見出さなければならないのです。
ピラトは本当の意味で、イエス・キリストに向き合うことができませんでした。
「私に答えないのか。お前を釈放する権限も十字架につける権限もこの私にあるとことを知らないのか」とせかします。
彼は「イエスとは何者か、また自分はイエスにとって何者なのか」、と腰を据えて考える姿勢をもっていませんでした。「自分に主導権がある、自分に支配権がある、自分が信じるかどうかを決めてやる。お前は私の手の上にあるのだ」・・・こういう姿勢です。これでは、主イエスの本当のお姿に近づくことはできないでしょう。
ピラトがイエス・キリストを前に自分の権威を見せつけたことは、皮肉です。人間が神に対して自分の権威を誇示しているのです。
ヨハネ福音書の序文に、こうあります。
「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」1:11
また、主イエスは最後の祈りの中で神にこうおっしゃっています。
「あなたは子に全ての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」17:2
全ての人に永遠の命を与え、また全ての人を裁く権威を神から与えられている神の子に対して、ピラトは自分の権威を語りました。滑稽な姿ではないでしょうか。
そのピラトに、主イエスはおっしゃいます。
「神から与えられていなければ、私に対して何の権限もないはずだ。だから、私をあなたに引き渡したものの罪はもっと重い」
以前、主イエスはおっしゃったことがあります。「私は命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは私が父から受けた掟である」10:18
ピラトはおそらく彼はイエスに勝る力を持っていると考えていました。しかしキリストの命は、神の支配の内にあるのです。「神から与えられていなければ私に対して何の権限もないはずだ」というのは、元の言葉では「上から与えられていなければ」となります。「上から」というのは、「天から」ということです。
これが、主イエスのピラトに対する答えとなっています。この方は、「上から・天から」から来られた方なのです。
「私をあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」という言葉を聞いて、ピラトはまた考えざるを得ませんでした。このように自分のことを冷静に捉え、権威について深く理解している者が、本当に頭に血の上った反逆者なのだろうか、とイエスの無実を改めて確信しました。
ピラトはまた外に出て、ユダヤ人たちにイエスには何の罪も見いだせないということを伝え、釈放しようとしました。しかしユダヤ人たちはそのピラトの良心をつぶそうとして叫びます。
「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称するものは皆、肯定に背いています」
今度はピラトを裁き始めるのです。ユダヤ人たちは知っていました。ピラトが持っている権威は「上からのもの」つまり、皇帝からのものである、ということを。もしイエスを釈放するのであれば、ローマ皇帝、ローマ帝国に対する反逆だ、と叫ぶのです。
当時のローマ皇帝ティベリウスは自分以外のものは全員自分の敵であるという強迫観念を持っていた人でした。実際、紀元31年にはピラトの友人を要職から追放したりもしています。「あなたは皇帝の友ではない」と言われることは、ピラトにとって脅威でした。
ついに、ピラトはイエスを裁きの座へと座らせることにしました。ユダヤ人たちの主張に対して自分の正義・良心を貫くことができなかったのです。
「父は誰をも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」と主イエスは以前おっしゃったことがあります。5:22 しかし今、皮肉なことにその「神の子」が裁きの座に座らされてしまいました。
「それは過ぎ越し祭の準備の日の正午ごろであった」と書かれています。金曜日の正午で、それは祭りの中で過ぎ越しの子羊たちが生贄として捧げられる時間でした。まさにその時に「神の子」は、「世の罪を取り除く神の子羊」として生贄としてささげられることになったのです。
ピラトは最後の試みとして、ナザレのイエスの打ちひしがれた姿をユダヤ人たちに見せ、「見よ、あなたたちの王だ」と言いました。そして自分たちの王を「十字架にかけろ」と言っているおかしさに気づかせようとしました。
それでも、十字架を求める叫びは収まりませんでした。「殺せ。殺せ。十字架につけろ」
「あなたたちの王を私が十字架につけるのか」とピラトが言っても、ユダヤ人たちは「私たちには皇帝の他に王はありません」と言い返しました。これこそユダヤ人たちの罪を表す言葉です。イスラエルにとって本当に王であるべき支配者は、神のみなのです。もしくは、神によって油注がれた者、メシアのみです。
旧約聖書の士師記に、イスラエルの人から「我々を治めてください」と言われたギデオンがこう答える場面があります。「私はあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる」
ユダヤ人たちはピラトに言いました。「私たちには皇帝のほかに王はありません」。彼らは異邦人の王・ローマ皇帝を受け入れ、神の子イエス・キリストを捨てたのです。それはメシアと真の神ご自身を拒絶するということであり、神との契約を破るということでした。そして神の子イエスを有罪とすることは、イスラエルの一員として自分に有罪判決を下すということでした。
愚かです。しかし、この愚かさの罪を担うためにキリストは自ら裁きの座に身を置かれているのです。私たちは、ピラトとユダヤ人たちの愚かなやりとりの中で、沈黙して裁判の席に着かれるイエス・キリストの姿を見つめたいと思います。そこにこそ、真の神の知恵があるのです。
ヨハネ福音書の序文に、こう記されています。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」1:12
鞭打たれ、弱々しく十字架に上げられていったナザレのイエスを、神の子と信じることは、愚かに映るでしょう。しかしその愚かと見えることの中に、私たちの罪の許しという神の神秘があるのです。私たちはここで、ピラトと共に、ユダヤ人たちと共に、自分の罪を顧みたいと思うのです。