ヨハネ福音書19:1~8
イエス・キリストを逮捕したユダヤ人たちは、ローマ総督ポンテオ・ピラトのもとに連行しました。目的は一つでした。ナザレのイエスをローマの処刑法・十字架刑に処してもらうためです。民衆を扇動してローマに反乱を企てた者として葬りたいと考えたのです。
ピラトは明け方に起こされました。
ユダヤ人たちは、異邦人との接触をけがれとして考えていたので、自分たちはローマ人であるピラトの官邸の中には入らず、外で待ち、ナザレのイエスだけを官邸の中に入らせました。
ユダヤ人たちは、「この男が悪いことをしなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言います。そんなあいまいなことで、誰かを死刑にすることはできません。ピラトは外にいるユダヤ人たちと、中にいるナザレのイエスの間を行き来して、話を聞き、対応しなければならなくなりました。
はじめに総督官邸の外でユダヤ人たちがイエスに死刑を求めていることに対応し、次に官邸の中でナザレのイエスが持っているという権威・王権について話を聞きます。しかし、イエスに何の罪も見いだせなかったピラトはまた外に出て、ユダヤ人たちにイエスが無実だから釈放するように促しました。
ピラトはユダヤ人たちに言いました。
「過越祭にはだれか一人を釈放するようになっているが、あのユダヤ人の王を釈放してほしいか」
過越祭には恩赦が与えられる制度があったようです。このように言えば、ナザレのイエスを手放すきっかけになるとピラトは踏んだのです。しかし、ユダヤ人たちは「バラバを釈放してほしい」を答えました。
過越祭での恩赦にイエスを選ぶよう促しましたが、ユダヤ人たちは、強盗であったバラバの釈放を求めました。皮肉にも、ユダヤ人たちは、「ユダヤ人の王」ではなく「強盗」を求めたのです。
ピラトは、次の手段に移りました。ナザレのイエスを鞭打たせ、痛めつけて弱々しい姿にしてやれば、ユダヤ人たちはイエスのことを手放すだろう、と考えました。
ローマには肉体的な処罰にいくつかの段階がありました。何か、教訓を教えるために軽く痛めつける程度のものから、鞭の先に金属片をつけて肉をえぐり出すような鞭打ちまでありました。ここでのイエスに対する鞭打ちは、立ち上がれなくなるほどのひどいむち打ちではなかったでしょう。 朝早くから総督に手間をかけさせたことへの処罰といった程度のものだったのではないでしょうか。半死半生にする、というよりは、外にいるユダヤ人たちに「イエスはローマにとって何の脅威でもない、こんなにも弱く、何の力もない者である」とわからせる程度の鞭打ちでした。
兵士たちは主イエスを鞭打ち、茨の冠をかぶせました。哀れで無力なナザレのイエスに、紫の服をまとわせて王様のように装わせます。そして「ユダヤ人の王万歳」と嘲り、敬礼の代わりに平手で打った、とあります。
傍目に弱々しく見えるぐらいに痛めつけろ、という命令だったのでしょう。主イエスに、はっきりとわかる傷と侮辱が与えられました。
ピラトは外に出て言いました。
「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、私が彼に何の罪も見いだせないわけがわかるだろう」
そしてピラトは、鞭打たれいばらの冠を頭に載せられ紫の衣をまとった、弱々しく哀れな姿となったナザレのイエスをユダヤ人たちに見せたのです。
ピラトは大声で言いました。「見よ、この男だ」。これは、元の言葉では「何という男だ」という意味の言葉です。「お前たちが大げさに訴えているのは、実はこんなに無様で弱々しい、全く恐れるに足らない男なのだ」と伝えようとしたのです。ローマにとって何の脅威でもない、釈放してもユダヤにとって何の害もない、ということを見せようとしました。
ピラトがナザレのイエスを鞭打たせ、侮辱させたのは、無実のイエスを救うためでした。しかしその姿を見ても、ユダヤ人たちは収まりません。「イエスを十字架につけろ」と叫び出しました。
外にいたユダヤ人たちは、「この男がどんな罪を犯したのか」というピラトの最初の質問にまだ答えていません。ピラトが直接イエスを調べても、死罪に当たるような何かは見出せませんでした。改めてナザレのイエスの無実を主張しました。「あなたたちが引き取って 十字架につけるが良い 私はこの男に罪を見いだせない」
ここで初めて、ユダヤ人たちは、なぜナザレのイエスを死刑にしたいのかを告げました。「この男は神の子と自称しました。私たちの律法によればそれは死罪に当たります」
ナザレのイエスは、彼らの目には、「神の子」に見えなかったのです。聖書を読み、神の子・メシアの到来を待ち望んでいた彼らの目に、鞭うたれ、いばらの冠と紫の服を着けられて侮辱されているこの方のお姿は、「神の子と自称した罪びと」として映っていたのです。
主イエスは以前おっしゃったことがあります。
「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るために私のところへ来ようとしない」
まさに、その通りです。今、誰も主イエスのことを神の子として見ている人はその場にいません。これは預言者イザヤの預言の実現でもあります。
イザヤ書53章に、苦難の僕の詩があります。
「私たちの聞いたことを、誰が信じ得ようか」
「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。恐るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた」
イザヤは人々のために罪を担い、救い出す神の僕の姿に誰も気づかなかったという悲劇を歌っています。
ピラトは、鞭打たれ嘲られたイエス・キリストをユダヤ人たちに見せて、「見るがいい、なんと憐れな男だ」と示しました。確かに、その姿は憐れで、ユダヤ人たちが言っている「ユダヤ人の王」には見えませんでした。しかし、人の目にはそう見えても、霊的な視点で主イエスのお姿を見るとイザヤ書に預言されたあの「苦難の僕」の姿が重なるでしょう。
「誰が信じ得ようか」・・・確かにイザヤが預言した通りです。
イザヤは言います。
「彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり打たれたから彼は苦しんでいるのだと」
まさに、ユダヤ人たちはそう考えていました。「ナザレのイエスは神の子を自称した」とピラトに伝えています。だからこんな風に打たれるのは当然で、それは神からの罰だ、と信じていました。
しかし、イザヤの預言を知る人ならば、この痛めつけられたイエス・キリストのお姿は、「苦難の僕」と呼ばれた救い主であり、真の王がご自分の栄光へと進まれる姿であることがわかるでしょう。
憐れなイエスの姿を見せ、ユダヤ人たちを満足させて終わりにしよういうピラトの思惑は失敗に終わりました。ユダヤ人たちは「十字架につけろ」と叫び始めたのです。そこには、イザヤの預言の実現があったのです。
ここに来て、はじめてユダヤ人たちはイエスが犯した罪の内容を告げました。
「その男は神の子と自称しました。だから我々の律法ではでは死罪に当たります」
結局ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしたのは、ローマに対する反逆罪ではなく、神の子と自称した、というユダヤの律法の問題でした。そして自分たちではイエスを公に殺すことができないから、というので、ピラトに頼みに来ていたことが明らかになりました。ユダヤ人たちにはイエスを十字架にあげる以外の選択肢はなかったのです。
ピラトはこの夜、三度、「私はこの男に罪を見いだせない」と繰り返しています。「私はイエスの弟子ではない」と三度繰り返したペトロのように、ピラトはこの夜、三度、「この男に罪を見出せない」と言っています。
しかし、ローマ総督であったピラトの言葉であっても、無力でした。神の子の十字架という神の救いのご計画が、不思議な仕方で進んでいきます。無実のイエスを守ろうとするピラトの意志に反して、主イエスは十字架へと押しやられていきます。神への篤い信仰をもっていたユダヤ人たちは、神に従おうとして、神の子を「十字架でに上げろ」と叫ぶのです。
「ナザレのイエスは神の子と自称した」、というユダヤ人たちの言葉を聞いて、ピラトは恐れました。ローマ帝国でユダヤ地方を監督するほどの権威があるのに、総督ピラトは何を恐れたのでしょうか。
ピラトはローマ人でした。ギリシャ人とローマ人は「神々の子供たち」に関するいろんな物語を信じていました。「神々の子供たち」とは半分神・半分人間のような存在で、この地上で奇跡を行う存在として信じられていたのです。
もしイエスが本当に「神の子」であれば自分は神の子を鞭で打ったということになります。同時に、ユダヤ人指導者たちがローマの政府に対してポンテオ・ピラトは自分たちの律法や文化を尊重してくれない、と告げ口されることも恐れたでしょう。そして何より、ピラトは、ユダヤ人たちのイエスに対する殺意の強さを恐れました。
ポンテオ・ピラトは、本当はユダヤ人たちの願いを退けることができた人です。彼らの訴えは、相手にする必要のないものでした。しかし、彼は、ここで恐れたのです。ピラトの肩書も、権威も、ピラト自身が見失ってしまいました。そこからまたナザレのイエスとユダヤ人の間の行き来が続くことになります。
ピラトは再び建物の中に入り、ナザレのイエスに「お前はどこから来たのか」と尋ねなければなりませんでした。これは出身の村の名前を聞いているのではありません。「地上の者なのか、天からの者なのか」、という、質問でした。
不思議なことに、「イエスは答えようとされなかった」、と書かれています。このキリストの沈黙こそが逆に、ピラトへの問いとなっているのではないでしょうか。また、私たちへの問いとなっているのではないでしょうか。
「私が天からの者か、地上の者か、あなたはどう思うか」
私たちは、どのように答えるでしょうか。
イザヤは預言しています。
「彼がさし貫かれたのは私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって私たちは癒された」
この時のピラトも、ユダヤ人たちもわかっていませんでした。自分たちの目の前に立つ、鞭打たれたイエスという人が、自分という者の罪のためにその痛みを担ってくださっているということを。この方こそ、天から来られた、世の罪を取り除く神の子羊である、ということを私たちはここで見つめたいと思います。
私たちは今、預言者イザヤが「誰が信じ得ようか」と言ったことを目撃しています。普通は信じられない、ということです。神の子が、人間たちの叫びによって十字架に上げられていく、ということが、実は神の救いの御業だった、ということ。誰が信じられるでしょうか。
私たちは、このキリストの沈黙の中に、自分の身を置いて、キリストからの問いかけに真摯に答えていきたいと思うのです。
「あなたは、私を何者だと思うのか」