8月18日の礼拝説教

ヨハネ福音書7:19~31

「うわべだけではなくさばくのはやめて、正しいさばきを下しなさい」(7:24)

イザヤ書11:3にこう記されています。

「エッサイの株から芽が萌え出で、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊が留まる。知恵と識別の霊。主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。」

預言者イザヤが残したメシア預言です。その方は、「目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない」と言われています。

主イエスはエルサレム神殿で、人々に向かっておっしゃいました。

「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」

メシア到来の預言を受け継ぎ、聞いてきた人たちが、実際に目の前に現れたメシアにどのように向き合ったのか、今日も見ていきたいと思います。

エルサレムでナザレのイエスを待ち受けていたユダヤの指導者たちは、神殿でイエスが人々に教えを説くのを聞いて驚きました。

「この人は学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」

誰かの弟子になったわけでもない、何年も聖書を学んだわけでもないナザレのイエスが、聖書の深いところまでお教えになっていたのです。

主イエスは「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求めるのである」とおっしゃって、ご自分の教えが聖書の自分勝手な解釈ではなく、ご自分をおつかわしになった方のものであることを示されました。

そしてその場にいた人たちに逆に質問されました。

「モーセがあなた方に律法を与えたのに、なぜあなた方は、私を殺そうと狙うのか」

主イエスは以前、エルサレムのベトザタの池のほとりで、38年間病気で立てなかった人を癒されました。その癒しを行ったのが安息日だったため、ユダヤの指導者たちは、「安息日のおこなってはならないことをした」と非難し、殺意を抱くようになりました。

そのことを指摘して、「なぜ私を殺そうと狙うのか。あなたがたこそモーセの律法に反しているではないか」、とおっしゃるのです。

それを聞いた群衆はその言葉の意味が分かりませんでした。「誰もあなたのことを殺そうとしていないではないか」と言います。実際、エルサレムの群衆はそうだったでしょう。

しかし、ユダヤ人指導者たちの心のうちにはまだ主イエスへの殺意が残っていたのです。主イエスは何が人の心のうちにあるのかをご存じでした。

主イエスはユダヤ人たちの律法の理解の矛盾を明らかにされます。ユダヤの人たちは生まれたばかりの赤ん坊に割礼を施していました。子供が生まれて8日目にはそれが安息日であっても割礼を施して良いと考えていました。そうやって割礼の掟を優先させて、律法を守っていたのです。

主イエスはそのことを引き合いなさっています。割礼は体の一部分に関わることです。しかし、主イエスが安息日に行われた癒しは体全体の癒しでした。安息日に割礼を施すこと許されるなら、体全身を癒す業は、なおさら正しいことではないか、ということです。そもそも、主イエスを殺そうと考える人たちは、「あなたは殺してはならない」という十戒の第五戒を破ろうとしているのです。

安息日に誰かを癒すことは、律法に反することなのでしょうか。「安息日は仕事の手を休めて神を礼拝しなさい」とモーセの律法は確かに言っています。しかし、それは、安息日に人を癒してはいけない、ということなのでしょうか。人を癒すということが、誰かを礼拝から引き離すこと、神に背を向けることなのでしょうか。

主イエスは、律法の細部に目を奪われてしまっている人たちに、神の御心の根本を問いかけていらっしゃいます。主イエスの教えは、これまでになかった真新しい教えに聞こえました。しかし、そんなことはありません。主イエスの教えは、誰よりも保守的なものでした。

マタイ福音書5章での山上の説教の中でおっしゃっている。

「私が律法や預言者たちを廃棄するために来た、と思ってはならない。廃棄するためではなく、満たすために来たのだ」

主イエスは律法の新しい解釈をもたらされたのではありません。神がお求めになること、神の御心を実現させるために来られたことを明言していらっしゃいます。人々が失いかけていた、律法のもともとの意味を、神の思いを取り戻すために世に来られたのです。

最後に主イエスはおっしゃいました。

「うわべだけで裁くのはやめて、正しい裁きを下しなさい」

主イエスは神殿の境内で、こんなにも大胆に人々にお話しなさいました。ユダヤ人の指導者たちが聞いたら黙っていないようなことでした。しかし、指導者たちは主イエスのことを捕えようとしていませんでした。このことを群衆は不思議に思ったようです。

「これは、人々が殺そうと狙っている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。」

ここまで大胆なことを神殿で話したら、普通は捕えられてしまうのに、指導者たちがこの人に何もしないということは、この人がキリストだと認めたということなのだろうか・・・人々は新しい議論を始めました。ナザレのイエスについて、「いったい何者なのか」いうことをまた新たに考え始めたのです。

人々は「この人こそ、本当のキリストではないか」、と思い始めました。しかし、同時に戸惑いもありました。群衆はこんな風に言っています。「しかし、私たちは、この人がどこの出身が知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、誰も知らないはずだ」

ユダヤ人の間に伝わっていた伝承では、メシアは預言者エリヤによって示される時まで隠れているだろう、言われていました。メシアがどこから来るのかは誰にも分からないとされていたのです。そしてそのメシア自身も、自分がメシアであるということに最後の瞬間まで気づくとはないと考えられていました。

マラキ書3:1「あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる」

神が神殿に突然来られるというマラキの預言を、人々は「メシアは誰にも知られていない人だろう」と考えられるようになったのでしょう。

主イエスは「ヨセフの子イエス」とか、「ナザレのイエス」として人々に広く知られていました。「ナザレのイエスは、メシアであるように思える。しかし皆によく知られているから、やはりメシアではないのだろうか」、という戸惑いが人々の間にあったようです。

「イエスとはいったい何者なのか」

このことで迷い、人々の間で戸惑うのは、今の私たちも同じではないでしょうか。

よっぽど特別な神秘体験をしないと人はキリストを信じることはできないのではないか、と多くの人は考えます。普通の人には見えないものが見えるような人だけが信仰を持つことができるのではないか。特別な人が、または立派な人が、信仰というものを持つことができるのではないか、と思われています。

しかし、キリスト者として私たちはどう考えるでしょうか。私たち自身、信仰というものをどんなふうに捉えているでしょうか。私たちは自分がほかの人と違う何か特別なものをもっているから、キリスト者になれたのでしょうか。

そうではないでしょう。信仰は特別な人だけに与えられる特別なものではないことを、自分を通して知っています。神によって造られた私たちが、神と共に生きること、そして神を忘れそうになり神から離れてしまいそうになる私たちを連れ戻してくださるキリストに従うことは、実は私たちにとって呼吸したり食事をしたりするぐらい日常のことであり、自然なことなのです。

神は私たちの手が届かない、思いも届かないほど遠くて、高いところにいらっしゃる方だ、と思い込んでいないでしょうか。神は私たちと同じ地平に立ち、私たちの日常を共に歩んでくださる方です。イエス・キリストが来られたのは、私たちの生活の真っただ中でした。聖書が伝えているのは、そのことです。

神は私たちにわかる言葉で、今も語り掛けてくださっています。キリストが群衆にお話しなさったように。

7章の28-29節で主イエスはご自分がどこから来たのかを非常にはっきり語られました。

「私は自分勝手に来たのではない。私をおつかわしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。私はその方を知っている なぜなら私はその方のもとから来たのであり その方が私を遣わされたからだ」

これを聞いた人々は また 主イエスのことを捕えようとしました。しかし「イエスの時はまだ来ていなかったのでそのことは起こらなかった」、と書かれています。神の救いの御計画が、神の御手の内に進められています。

今、私たちが聖書を通してみているのは、地上に来られた神・メシアを前にして、世の人々が分裂する姿です。これはいつでも起こっていることです。キリストを前にして、信じる人と、信じない人に分かれる。主イエスをキリストとして受け入れて従う人と、キリストに対して、またキリスト者に対して敵意を抱く人に分かれるのです。

主イエスを信じる私たちにしても、主イエスを疑う時があります。神の御心がわからなくなる時があります。しかし、私たちは考えたいと思います。キリストを否定しようとして、完全に否定することはできるでしょうか。キリストを否定するには、聖書の言葉を否定するには、私たちは信仰生活の中で、あまりにも多くのしるしを見せられてきたのではないでしょうか。

わかりやすい、何か神秘的で非科学的な現象を見せられたとかいうことではなく、必要な時に、何かが自分に与えられてきた、絶望しかないと思う中で道が与えられた、という体験を、信仰生活の中で思い出すことができるのではないでしょうか。

人との出会いが、言葉が、思ってもみなかった道が、不思議な仕方で与えられてきたことを思い返すと、私たちはキリストのしるしの中に生かされていることを思わされます。聖書を通してわかるのは、キリストは私たちの目の前にいらっしゃる、ということです。人々の前に立ち、私たちにわかる言葉で神の言葉を教えてくださっています。

今、キリストは私たちの肉の目には見えないかもしれません。しかし、聖書の言葉を通して、聖霊の働きを通して、限りなく私たちの近くにいてくださっているのです。私たちの心の内までご覧になって「私が命のパンである」と呼び掛けてくださっています。

「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、いつも私の内におり、私もまたいつもその人の内にいる」

私たちはこのことを一生かけて知っていくのです。