ヨハネ福音書8:39~47
「今あなたたちは神から聞いた真理をあなたたちに語っているこの私を殺そうとしている。アブラハムはそんなことをしなかった。」
今日読んだところの前になりますが、38節で主イエスはこうおっしゃっています。
「私は父のもとで見たことを話している。ところがあなたたちは父から聞いたことを行っている」
この言葉はどういう意味なのでしょうか。お話しなさっている主イエスご自身の「父」と、話を聞いているユダヤ人たちの「父」はそれぞれ違うようです。また、「父のもとで見たことを話している」、というのと、「父から聞いたことを行っている」というのはどう違うのでしょうか。
考えさせられる、謎めいたイエス・キリストの言葉です。
これまでユダヤ人たちは、「ナザレのイエスがやっていることはモーセの律法に即して正しいのか正しくないのか」ということを見極めようとしてきました。一見するとナザレのイエスがやっていることはモーセが伝えた掟に反しているように見えたのです。仕事をしてはならないとされている安息日に、癒しの奇跡をおこなってきました。
しかしイエスが人々に律法の教えを説くのを聞くと、驚くほどモーセの律法について詳しく、また律法の言葉をまるで自分の言葉のように人々に教えていたのです。そして安息日であっても、神の力としか思えない力をもって人々を癒していたのです。
人々は「イエスは一体何者か」と何度も考えさせられることになりました。そして今「イエスは何者か」というところから「イエスの父とは何者か」そして「自分たちの父とは誰なのか」ということを考えさせられることになります。議論の焦点はモーセの律法に照らして、イエスは正しい人かどうか、ということから「アブラハムの子」というユダヤ人たちの自己認識に移っていくことになるのです。
主イエスの言葉を聞いてユダヤ人たちは「私たちの父はアブラハムです」と言い返しました。これはユダヤ人であれば誰もが思っていたことです。
創世記に神がアブラハムに幻の中で語られた出来事が記されています。神はアブラハムにおっしゃいました。「あなたから生まれるものが跡を継ぐ」
ある夜、神はアブラハムを天幕の外へと連れ出して夜空を見上げるようにおっしゃいました。「天を仰いで星を数えることができるなら数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」。アブラハムはその言葉を信じました。その後、神は共にアブラハムをお訪ねになり、百歳になったアブラハムに子供が生まれることをお告げになりました。その言葉は本当になり妻サラはイサクを生みました。
ユダヤ人たちは「あの時神がアブラハムに約束された祝福こそが自分たちである。自分たちこそがアブラハムの子孫である」と考えていました。それがイスラエルの信仰であり、自己認識だったのです。
旧約聖書にはそのような表現がいくつもあります。出エジプト記4章22節で神はファラオにおっしゃっています。「イスラエルは私の子、私の長子である」
またイザヤ書63章16節には信仰者たちの祈りが記されています。「あなたは私たちの父です。アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても主よ、あなたは私たちの父です。」
このようにイスラエルの人たちユダヤ人たちは、代々自分たちのことをアブラハムの子であり神の子であると考えてきました。実際そうなのです。主イエスご自身もユダヤ人たちに向かって「あなたたちがアブラハムの子孫だということはわかっている」とおっしゃっています。
しかし主イエスはそれでも「あなたがたは本当にアブラハムの子孫だと言えるだろうか」と問いを投げかけられます。
「アブラハムの子ならアブラハムと同じ技をするはずだ。ところが今あなたたちは神から聞いた真理をあなたたちに語っているこの私を殺そうとしている。アブラハムはそんなことをしなかった。」
ユダヤ人たちが、あの信仰の父と呼ばれるアブラハムの子孫であるならば、父アブラハムと同じことをするのではないか、ということです。
アブラハムは神を受け入れ神の言葉を信じ従った人でした。神の召しに従い、故郷を離れ、神の言葉に従い、独り子イサクを捧げようとしました。信仰の人アブラハムの生涯は、試練の生涯でした。信仰の試練の中で神に従い抜いたアブラハムは、だからこそ祝福の民の源となったのです。
アブラハムの信仰の歩みは、次の世代、またその次の世代へとつながり、世代を超えて信仰の実りを結んでいくこととなりました。私たちはその祝福の連鎖の中に生きています。私たちの信仰が次の世代への種まきとなり、私たちの信仰の足跡が、次の世代の人たちにキリストへの立ち返りの道しるべとなるのです。アブラハムが神に従ったように私たちがキリストに従うことが、のちへと続く種まきとなって、その種は神の御業によって実を結ぶことになります。
しかし、果たして主イエスに対して殺意を持っているこのユダヤ人たちは、神を信じ従ったアブラハムの信仰に倣っていると言えるでしょうか。神から遣わされた方を信じない、それどころか殺そうとするというのであれば、アブラハムは反対のことをしているということになります。
ユダヤ人たちは主イエスにさらに食い下がります。
「私たちにはただ一人の父がいます。それは神です」
主イエスは聞こうとしない彼らに対して、非常に厳しいことをおっしゃいました。「あなたたちは悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない」
痛烈な言葉です。「悪魔は最初から人殺しであった。」これは創世記の初めでカインが弟のアベルを殺したことを思い起こさせる言葉です。
ヨハネの手紙一3章12節以下にこう書かれています。
「カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く兄弟の行いが正しかったからです。だから兄弟たち世があなた方を憎んでも驚くことはありません」
私たちが今読んでいる新約聖書は、信仰の危機の時代に書かれました。信仰の危機だからこそ、このような信仰の書が紡がれました。ヨハネの手紙の中には「偽預言者が大勢世に出てきている」と書かれています。
イエス・キリストの時代数十年が経って、偽預言者たちがキリストの教えを捻じ曲げて世の人たちを惑わしていた時代に、正しいキリストへの信仰を守るために福音書や手紙が書かれたのです。
ヨハネの手紙では「反キリスト」という言葉が使われています。
「終わりの時が来ています。反キリストが来るとあなた方がかねて聞いていた通り今や多くの反キリストが現れています。・・・偽りものとはイエスがメシアであることを否定する者ではなくて誰でありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです」
キリストの時代から、聖書の諸文書が書かれた時代から長い時間が経った今、なぜ聖書はまた読まれているのでしょうか。反キリストの時代が続いているからでしょう。そうでなければ、聖書など読まなくても人はキリストへの信仰を持てるのです。
しかしキリストへと正しく導く言葉がなければ、人は神の国へと向かうことはできません。私たち人間にはいつでも、信仰の逆風が吹いているからです。
イエス・キリストは十字架と復活の御業を成し遂げられました。使徒言行録にはキリストが天に帰られた後どのようにキリスト者たちがイエス・キリストを世に証言したのかということ証しています。
聖書に記されている福音の物語は今の私達にまで連綿と続いて来ました。私たちはこの神の大きな救いの御業の物語のただ中を生きておりはい今も聖書に証しされているのです。聖霊の力によって動かされ、自分たちの思いを超えた信仰の道を日々示されているのです。
キリストが世に来られ、神の許しの御業を示してくださいました。そしてその御業を伝えるキリスト教会の群れが起こされました。しかしそれで終わりではなかったのです。
そこから教会の信仰の戦いは始まり、今まで続いて来ました。私たちは、自分にとって神に従い続けること、キリストを求め続けるということがどんなに困難なことかを知っています。四六時中世の誘惑に晒されているのです。
今私たちが生きているこの時代もまた反キリストの時代なのです。いろんな形でキリストの言葉ではなく、世の人々が聞きたがる言葉を語り、自分の正義のために神の名を用いる人は多いのです。
今まで、反キリストの時代ではなかったことはないでしょう。今日読んだ最後のところでイエスキリストはこうおっしゃっています。「神に属するものは神の言葉を聞くあなたたちが効かないのは神に属していないからである。・・・「神に属する人は神の言葉を聞く。しかし神に属さない人は神の言葉を聞こうとしない」
キリストを求める人はキリストの言葉を聞こうとするでしょう。しかしキリストに心を向けないものはキリストの言葉を聞こうとしません。当たり前のことです。自分が聞きたい言葉だけを聞き分けようとするのです。
私たちは、これからヨハネ福音書に証されている神の子イエス・キリストの十字架への歩みを見ていくことになります。人間が神を裁くという、信じられないようなことが起ころうとしています。
46節で主イエスはおっしゃっています。
「あなたたちのうち一体誰が私に罪があると責めることができるのか」
キリストの十字架を知っている人は、この言葉が胸に突き刺さるのではないでしょうか。そして神の子を自分のための犠牲とした自分の罪に向き合わされるからです。
いったい誰が神を裁くことができるでしょうか。誰もイエス・キリストを罪に定めることはできません。
仮庵祭の中で、姦通の罪を犯した女性が引き出されてきたとき、主イエスはユダヤ人たちにおっしゃいました。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者がまずこの女に石を投げなさい」
これを聞いた人たちは年長者から始まって一人また一人と立ち去って行きました。自分の罪を省みたとき誰もこの女性に石を投げることができませんでした。皆女性から去っていき 最後まで女性と共にいたのはイエスキリストお一人でした。
罪びとと最後まで共にいてくださるのはキリストであり、罪びとを本当に裁くことがお出来になるのはキリストだけなのです。
アブラハムは、神の言葉に黙々と従いました。その信仰の試練の先で、「篠山に備えあり」という真理を知ります。
十字架へと向かわれるキリストは弟子たちにおっしゃいます。
「私はあなた方のために場所を用意しに行く」
私たちの場所があるのです。天に、私たちの場所が用意されているのです。アブラハムが天の故郷を見上げて歩んだように、神が備えてくださっている天の宝、キリストが用意してくださっている場所を目指して参りましょう。