ヨハネ福音書15:9~17
別れの瞬間が迫っている中で伝える言葉は、普段の会話よりも重みが増します。限られた時間の中で一番伝えておかなければならないことを相手に伝えようとするので、慎重に言葉を選び、心を込めて相手に伝えようとします。思いが凝縮されたその言葉を、受け取る方もひと言も聞き逃さないようにと真剣に向き合います。
主イエスはご自分と弟子たちがこれから物理的に離れることになってしまうことをお伝えになりました。弟子たちにとっては驚きであり悲しみの報告でした。生きて行く希望が突然目の前から消えてしまうような思いを感じたでしょう。
しかし主イエスはこれから起こる別れはすべての終わりではない、ということを示されます。たとえ離れ離れになってお互いが見えなくなったとしても、主イエスと弟子たちとの関係までなくなってしまうわけではないのです。
ぶどうの枝がぶどうの木につながっているように「私につながっていなさい」と主イエスはおっしゃいます。枝が幹につながっていることで実を結ぶように、弟子たちはイエス・キリストにつながり続けて神を求めになる収穫の実を結ぶことが期待されているとおっしゃいます。
「私はぶどうの木。あなた方はその枝である。人が私につながっており私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」
イエスキリストが万感の思いをこめて弟子たちに示された、キリストにつながる人たちが結ぶ実とは何でしょうか。
詩編104編15節「葡萄酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ、パンは人の心を支える。」
神につながっている生活の喜びが歌われています。私たちがイエス・キリストにつながり、また神につながっているということが「信仰の喜び」という実を結んで行くことになるのです。
では、具体的に「信仰の喜び」とは何でしょうか
詩編133編1節「見よ、兄弟がともに座っている。なんという恵み、なんという喜び」
キリストを信じる者たちがキリストに繋がることによって共に座っている、そのことがすでに大きな喜びなのです。それ自体が信仰の交わりが結ぶ実なのです。私たちはこの礼拝の中にその喜びを見出すことができるのではないでしょうか。
キリストは9節で「私はぶどうの木、わたしにつながっていなさい」ということを別の表現でおっしゃいます。
「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛してきた私の愛にとどまりなさい」
イエス・キリストにつながるということはつまり、イエス・キリストの愛につながる、とどまるということなのです。
キリストは弟子たちに「私があなた方を愛したようにあなたがたも愛し合いなさい」とおっしゃいました。そしてここでは「父が私を愛されたように」とあります。神の愛がキリストに注がれ、そのキリストの愛が弟子たちに注がれ、弟子たちはキリストの愛にとどまることになるのです。
イエス・キリストの愛にとどまるという信仰の業がここまで脈々と受け継がれてきました。それがキリストから与えられた掟だったからです。弟子達・私たちがキリストの愛に留まるのは、何のためでしょうか。
「私の喜びがあなた方のうちにあり、あなた方の喜びが満たされるためである」とおっしゃっています。ぶどうの枝がブドウの木の幹から栄養を与えられて実を結ぶように、私たちもキリストにつながりそこから喜びをいただいて満たされていくのです。
主イエスは、ご自分の父であられる神こそが愛の源であることをおっしゃっています。父なる神がキリストを愛されるということがあって、私たちキリストに愛されるということがある、そしてキリストに愛されるということがあって私たちは互いに愛し合うということができるのです。このことが信仰の実を結んでいきます。キリストの愛に留まる人たちが互いに愛し合い、キリスト教会という信仰の実が大きくなっていくのです。
弟子たちはただ単に「愛し合いなさい」と言われたのではありません。「イエス・キリストに愛されたように」互いに愛し合いなさいという掟でした。
キリストがどのように弟子たちを愛してくださったのかを思い起こし、弟子たちは共に愛し合うことになります。そのように弟子たちが愛し合うことによって、それがやがてキリスト教会の中での互いにつかい合う姿勢を育んでいくことになっていきます。
私たちが今読んでいるこのキリストと弟子たちとの最後の夜こそ、我々キリスト者が立ち返るべき愛の姿と私たちの愛の源が示された時なのです。どこから来て、私たちがどこにとどまり続けるべきなのかという、信仰の道が明らかにされています。
キリストの使徒パウロはローマの信徒への手紙11章の最後でこう書いています。
「すべてのものは神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように。アーメン」
すべてのことは神の元から出て神に帰っていく・・・イスラエルの罪と救いの歴史を振り返りパウロが至った結論はこれでした。すべてのことが神から出て神によって保たれ神に向かっていくのです。
パウロは続けてこう言います。「こういうわけで兄弟たち神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄として捧げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です。」
私たちはなぜ礼拝を続けているのでしょうか。キリストの弟子たちやパウロのように直接イエスという方と言葉を交わしたこともないのに、です。
自分たちの愛の限界を知っているからではないでしょうか。私たちの愛情よりも大きな愛を注がれ、それが歴史の中で示され。その愛によって真に生かされているということを知って、私たちは礼拝という業を続けているのではないでしょうか。
だから私たちは礼拝をするのです。キリストが私たちに身を捧げてくださったように、私たちもキリストのために身を捧げ、礼拝を通して隣人に仕えていくのです。
主イエスがおっしゃる愛とはどのような形を伴うのでしょうか。主イエスは僕として、弟子たちの前にひざまずいて足を洗われました。そして、良い羊飼いは羊のために命を捨てる、とおしゃいました。そして十字架の上で世の許しのために全ての罪を担い、世のために死なれました。
「友の為に命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と主はおっしゃいます。「友のために」というのは「友の代わりに、身代わりになって」ということです。友が生きるために自分が犠牲になるということまで含まれた言葉なのです。
イエス・キリストはこの夜、弟子達に、「あなたがたが私を選んだのではなく、私があなた方を選んだ」とおっしゃいました。普通ユダヤ教のラビは自分で弟子を探すことはしません。若い人たちが自分の先生を探して回って、弟子にしてもらうよう頼みこみます。
主イエスの弟子達も、自分で先生を選び、自分の意思でここまで従って来た、と思っていたでしょう。しかし主イエスは、彼らが主イエスを選んだのではなく、主イエスご自身が、彼ら一人一人を選ばれた、ということを明言されました。
主イエスがどういう基準で弟子を選ばれたのかは私達には分かりません。弟子達を一人ひとり見ていくと、むしろなぜこんなにも不完全な人たちを選ばれたのかと不思議に思います。
むしろ、その不完全さ、彼らのつまずき、信仰の弱さまで、主イエスは大切にいつくしんで彼らを選ばれたのです。不完全だからこそ、イエス・キリストにつながっていなければならない人たち、弱いからこそ、キリストにつながり自分では結び得ない収穫の実を結ぶ道へと招き入れられたのです。
弟子たちはこれからキリスト教会の芽生えとなっていく人たちです。彼らの中心には何があったのでしょうか。それはイエス・キリストから愛され、許されたという事実です。そしてキリストの許しと愛を受けた者として、互いにそれを実践しなさいと言われたことです。
「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」というキリストのご命令、そして罪の赦しの恵みに打たれた彼らの祈りがありました。彼らは祈らなければやっていられなかったでしょう。キリストを見捨て、キリストを知らないと言ってしまったあの夜の記憶は消えないのです。
私たちはどのように教会につながるのでしょうか。教会が「愛の共同体」であるというならば、その愛というのはキリストの愛のことです。私たち一人ひとりが、特別に愛が深くて、そのような立派な人たちが自分の意思で集まって教会を作り上げているのではありません。
このような自分でもキリストは許してくださったという愛に打たれ、その許しの中でしか立ちえない人が集まって、共に祈る群れがキリスト教会です。その祈りの中に、同じように思う人が一人、また一人と与えられ、キリストの愛の共同体は続いていくのです。
イエス・キリストは、この後ご自分を見捨てて逃げてしまう弟子達に、「私はあなたがたを友と呼ぶ」とおっしゃいます。僕ではなく、友と呼ぶ、とおっしゃいます。私たちキリスト者の働きは、キリストに命じられて強制的にやることではなく、喜びをもって、自分の意思でキリストと共に働くところへと出向いていくことなのです。
このキリストと弟子達の最後の夜から2000年が経ちました。今でもキリスト教会という愛の共同体は生き続けています。キリスト者は時として神の僕として忙しく働きます。忙しすぎて、キリストが私たちのことを親しく「友」と呼んでくださっていることを忘れがちになってしまうこともあります。キリストのために、という声をそれぞれがもって、振りかざして、自分の正義を押し付けあうことが起こってしまいます。
使徒パウロはこう書いています。「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない。」
「愛がなければすべてがむなしい」
教会が常に立ち返らなければならない本質がここにあります。キリスト教会はそこに集う人たちが頑張って愛の共同体を作ろうと相談してできた群れではありません。キリストに許していただくしかなかった者たちが祈り続けそこに聖霊が注がれてキリストに愛されるように互いに仕え会う姿勢を生きるようになりました。それがこの世界の人々を愛の共同体の内側へと呼び込む力となっていったのです。
私たちがキリストにつながっていれば、そこにまた新たな収穫が示されます。今、私たちがこの礼拝の中にいるということが、次の信仰者に立ち返りの場所を示すことになっていくのです。
私たちはすぐに自分で収穫を作り出そうとしてしまいます。しかしそんなことは求められていません。キリストにつながるということが私たちの最大の使命なのです。そこから本当に必要な収穫が神によって用意されます。それは新しく愛という形で実っていきます。
「アポロが植え、パウロが水を注いだ。しかし育てるのは神である」とパウロは手紙の中で書いています。教会の成長は誰の手柄でもありません。祈る群れに神が聖霊を注がれ、成長させてくださるのです。
キリストに繋がることによって得られる収穫のみは愛です。一番大事なことはイエスキリストに繋がり続けるということなのです。