10月26日の礼拝説教

 ヨハネ福音書17:7~12

弟子達への告別を終えて、イエス・キリストは弟子たちの前で神に向かって祈られました。キリストはこれから世を離れて行かれます。この17章の「大祭司の祈り」と呼ばれているイエス・キリストの最後の祈りは、父なる神に向かって祈られた言葉であり、同時に、最後に弟子たちにお聞かせになった祈りの言葉でもあります。

これは神とイエス・キリストの間だけで完結する祈りではありません。この後世に残され、神がキリストに託され、これからキリストが彼らに託されることになる使命を担っていく弟子たちが聞かなければならない祈りの言葉でした。

この夜、弟子達はただのおびえた小さな集団でした。自分たちに託された福音宣教の使命がどれだけ重いものなのか、まだわかっていません。自分たちの先生が自分たちのもとから去って行く悲しみのせいで、この夜、自分たちが言われたことの本当の意味はまだとらえきることができていません。

しかし、その弱く小さな11人こそ、これからこの世をひっくり返す宣教の業を続けるキリスト教会の核となっていった人たちでした。そうして見ると、私たちが今日読んだこのキリストの祈りは、後のキリスト教会を勇気づけ、励まし、歩む道の正しさを教える力となっていったことが分かります。

6節でキリストは弟子達のために何をなさったのかをおっしゃっています。

「世から選び出して私に与えてくださった人々に、私は御名を現わしました」

キリストは「神のお名前を弟子達に現わした」とおっしゃっています。「神の名前を知る」とはどういうことなのでしょうか。

それはただ、「この神様の名前は〇〇だ」と、知識として神の名前を知る、というだけのことではありません。聖書で言われている「神の名前を知る」というのは、自分の祈りをどこに持っていけばいいか、自分の心をどこに据えて生きればいいのかを知る、ということです。

「神を知る」、ということは、創造主を知り、最後の審判における裁き手を知る、ということですので、自分の命の源を知り、自分の命がどこに向かっているのかを知る、ということでもあります。

キリストが「神の御名を現された」、それはつまり、本当の意味で自分の命を知る喜びを世に示されたということです。「神の御名を知る」ことによって、人は世界・自然・他者に対して、そして自分に対してどうあるべきか、という姿勢を作り上げるのです。

なぜ人は、神という存在を捨てることができないのでしょうか。「神などいない、神など必要ない」と言っている人でも、その存在を全く無視して生きることはできません。特に、自分の死と向き合うとき、神という存在を通して自分の命に向き合わされることになります。

この世でどれだけ財・力をもったとしても、祈ることも知らず、この世の富・世の栄光にしか自分の心を据えることができないのであれば、ある時、何も見えなくなってしまうのです。ある時突然空しさと退屈に襲われるのです。

旧約聖書では「神のお名前を知る」ということの大切さが強調されています。

詩編9:11「主よ、御名を知る人はあなたに寄り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない」

詩編20:8「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは我らの神、主の御名を唱える」

これらの詩編に残されたイスラエルの祈りから分かるように、「神のお名前を知る」ということは、「神への信頼に生きる」ということなのです。この世で自分が持っているどんな力よりも、頼るべきものがあることを聖書は教えてくれています。

私たちがキリストからこう祈るように、と命じられた「主の祈り」は、「天にまします我らの父よ、御名があがめられますように」という言葉から始まります。

「御名があがめられますように」というのは、「あなたのお名前が聖なるものとされますように」という意味の言葉です。「聖なるものとされる」、というのは、「区別されますように・大きくされますように」という意味です。

神のお名前がこの世の何からも聖いものとして区別されること、そして神のお名前がこの世の中で大きくなること、すべての人に知られること、私たちは祈り願います。簡単に言ってしまえば、世のすべての人が真の神を知り、礼拝するようになることを願っているのです。

イエス・キリストが「世から選び出して私に与えてくださった人々に、私は御名を現しました」とおっしゃったということは、弟子たちに、神のお名前、神の存在をしっかりと伝えきった、ということです。

キリストが世に来られたのは、このためでした。神のお名前を世にお伝えになるためです。そしてキリストはこの夜、ご自分こそが、「道であり、真理であり、命である」と弟子たちにおっしゃいました。

神のお名前はこの方のもとにあるのです。この方を求めることこそ、行くべき道を歩むことであり、求めるべき真理を知ることであり、本当の意味で「生きる」ということなのです。

キリストはこれまで、私は〇〇である、とおっしゃってきました。「私は命のパンである」「私は世の光である」「私は真のブドウの木である」という風に、ご自分を何かになぞらえてご自分が何者であるかを話してこられました。

キリストはご自身を通して、「弟子達にとって神がどのような存在であるか」ということを示してこられました。命のパンとして人を生かし、世の光として生きる道を照らし、真のブドウの木として立ち返るべき場所を示してこられました。

そして今、キリストは「私は御名を現しました」とおっしゃいます。弟子たちは少なくとも、自分たちを生かすもの、自分たちの道を照らすもの、自分たちが立ち返るべき場所を教えられたのです。

「神の御名を現す」それは、イエス・キリストがご自身を現される、ということでした。キリストをどう見るか、どう向き合うか、ということが、私たちの生き方を決めていくと言っていいのです。

このキリストの祈りは、やがて弟子達の祈りとして引き継がれていくことになります。この夜のキリストの祈りは、教会の祈りとなって今の私たちまで受け告がれているのです。私たちが今日読んだこの17章のキリストの祈りは、私たちの祈りでもあるのです。

キリストが弟子たちのために執り成しの祈りをされたように、私たちもキリストから教えていただいた神のお名前、真の神の存在を世に伝え、世のすべての人たちのために執り成していきます。

キリストは神を、「聖なる父」と呼ばれています。先ほどもお話ししたように、「聖なる」というのは、区別されている、という意味の言葉です。私たちは、神のことをどれだけ生活の中で特別に「区別」しているでしょうか。この世の何よりも聖いものとして「区別」しながら生活しているでしょうか。神のお名前が私たちにとって尊いのは、神のお名前によって私たちが守られているからです。

「私は、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、私は身元に参ります。聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。私たちのように、彼らも一つとなるためです。」このようにキリストは祈っていらっしゃいます。キリストは神の聖いお名前の内に、弟子達を守って来られたのです。

箴言18:10にこうあります。

「主の御名は力の塔。神に従う人はそこに走り寄り、高く上げられる。」

キリストは、ご自分のことを「よい羊飼い」とおっしゃいました。「よい羊飼いは、羊のために命を捨てる」「私はあなた方をみなしごにはしておかない」

「神の御名を知る」、ということは、その大牧者イエス・キリストの守りに生きる、ということなのです。

弟子達は、イエス・キリストが神の元から遣わされた方であると信じました。そしてキリストは弟子たちのことを祈りの中でこうおっしゃいます。

「世から選び出して私に与えてくださった人々」

キリストの弟子達は神が選び出してキリストにお与えになった人たちだ、とおっしゃいます。弟子達は、自分でイエスという方を先生に選んだと思っていたでしょう。しかし実際は、彼らは神によって世から選び出され、キリストに与えられた人たちでした。

私たちはどうでしょうか。何か偶然のきっかけがあって、キリストを自分で選んだのでしょうか。私たちは自分の力で神を探し出し、信仰を獲得したのではないのです。実は、私たちが神を知る前に、神は私たちを知ってくださっていて、ご自分のものとしてくださったのです。私たちの思いを超えた、神による選びの不思議がここにあります。

預言者エレミヤが預言者として神から召し出された時、神はこうおっしゃいました。

「私はあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、私はあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」エレ1:5

エレミヤは生まれる前から、母の胎に宿る前から、神に知られていました。エレミヤ1人が特別なのではありません。私たち一人ひとりがそうなのです。エレミヤが預言者として選ばれていたように、キリストの弟子たちが選ばれていたように、私たちも、生まれる前から、神に知られ、神に選ばれ、そして今この礼拝堂にいるのです。

自分の側からすると、「あの時、ああいうことがあって神のお名前を知り、信じるようになった」というようなものかもしれませんが、本当は、それよりもずっと前に、私たちが母の胎に宿るよりも前に、私たちには道と真理と命が与えられたのです。その感謝をもって、神と世をとりなす祈りを続けていきたいと思うのです。

11節で、キリストは、「聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください」と祈っていらっしゃいます。これは、「御名のうちに彼らを置いてください」という言葉です。

神のお名前の内に置く、とはどういうことでしょうか。この「置いてください」という言葉は子供を愛する親が、子供を世に向かって送り出す時に見守る、という意味が含まれています。

弟子達はこれから彼らだけで、この世に遣わされることになります。安全なところから出て、生きていかなければならない。傷つけられることもある。それでも弟子達はこれから、自分たちの力を超えたことを成し遂げなければならないのです。そしてその彼らの姿を通して、神の栄光が示されていきます。

弟子たちは弱いのです。小さな群れなのです。それでも、神のお名前の内に置かれることによって、彼らは生涯を神の御名を現すために、キリストの栄光を示すために捧げました。

キリストの弟子たち、また私たちキリスト教会の一人ひとりは、それほど華々しい能力でキリストを証しするのではありません。地道に、今日もキリストに信頼し、明日も神に頼る、そういう信仰生活を続けていくだけです。

この世の誘惑に心が揺れ、身の回りにあるいろんな問題に振り回されながら、キリストを忘れそうになり、祈りでつらさを吐き出しながら生き続ける、そんなつまずきに満ちた私たちの信仰生活を通して、キリストが、神が栄光をお受けになるということは不思議なことです。

使徒パウロは、神に願いました。「わたしからとげを取り去ってください」と三度願いました。すると神は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」

それを聞いて、パウロは勇気づけられました。「キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」

私たちは神の御名の内に置かれています。キリストがそのように祈り願ってくださったからです。キリストの守りの内に生き、私たちの姿はキリストを映し出す者として用いられています。

今、キリストを知らない人、今キリストに敵対する人たちも、キリストはお求めになっています。私たちはその執り成しの祈りを、託されているのです。