10月19日の礼拝案内

 ヨハネ福音書17:1~5

ヨハネ福音書17章には、イエス・キリストの祈りの言葉が記録されています。「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた」とあります。弟子達と過ごす最後の夜、イエス・キリストは語るべきことを全て語り終え、弟子達の前で祈りの言葉を紡いでいかれました。

聖書には、語るべき言葉をすべて語り終えた人が、祈りをささげるという姿が記録されています。たとえば、創世記では、イスラエルと呼ばれるようになったヤコブが、自分の12人の息子たちに遺言を伝え、それが終わると、 12人一人ひとりに祝福の祈りを捧げたことが書かれています。

モーセも、イスラエルの民をエジプトから救い出した後語るべき神の言葉をすべて伝えた後、祝福の祈りを捧げたことが申命記に記されています。

イエス・キリストも同じように、この世で語るべき言葉をすべて弟子達に残された後、世に残されることになる弟子達のために祈られました。その祈りの言葉を、弟子たちは聞いたのです。そして、弟子たちはそのキリストの祈りに加わり、キリストと共に神に祈ったでしょう。

イエス・キリストは弟子たちのために、そしてこの弟子たちに続くすべての信仰者のために、祝福を願って祈りをささげてくださいました。弟子たちがこの祈りに加わったように、私たちもこのキリストの祈りに連なります。そのように考えると、これは、私たちの祈りであると言っていいのではないでしょうか。

今日私たちが読んだこの17章のイエス・キリストの祈りは「大祭司の祈り」と呼ばれたりもしています。大祭司は、神と民との間に立って仲立ちをする役割を担う人です。この17章の言葉を見ますとイエス・キリストはまさに大祭司の立ち位置で祈っていらっしゃいます。この後世に残される弟子たちのために、そしてそのあとに起こることになる信仰者の群れ・教会のために祝福を執成してくださっています。

ヨハネ福音書には、現在私たちが「主の祈り」と呼ばれている祈りの言葉そのものは書かれていません。しかし、このキリストの「大祭司の祈り」は、「主の祈り」と内容がとても似ています。

父なる神のお名前があがめられることが強調されています。神の業が天で行われるように、地上でも同じように行われることが願われています。そして、弟子達が世の悪しきものから救われることが求められています。この「大祭司の祈り」と呼ばれるキリストの祈りの中には、「主の祈り」で祈られている要素がしっかりと詰まっているのです。

この祈りの内容は、大まかに捉えると、三つの単純な願いとなっています。

「父よ、子に栄光を与えてください」

「父よ、あなたのお名前によって彼らをお守りください」

「父よ、彼らが私と共にいるようにしてください」

この世がイエス・キリストの栄光を知り、信仰者たちが守られ、そしてキリストと共に生きることができるように、というのが、この祈りの柱です。それはまさに、「主の祈り」で祈られていることと全く同じではないでしょうか。私たちにとって、これほど大切な、そして恵みに満ちた祈りの言葉はないのではないでしょうか。私たちのために死んでくださる方が、ご自分の死を前にして、ご自分を殺す者たちのために執り成してくださっているのです。

私たちは普段どのように祈っているでしょうか。自分の願いを神に訴えることは割と簡単にできるでしょう。しかし、祈りを通して、誰かを許す痛みを、そしてその痛みに勝る「キリストに許された」という圧倒的な恵みを、どれだけ感じながら祈っているでしょうか。自分の祈りの原点として、私たちはこのキリストの最後の祈りの言葉に向き合いたいと思います。

さて、キリストの祈りの最初の言葉は、「父よ、時が来ました」でした。これまでキリストは、「まだ私の時は来ていない」とおっしゃってきました。しかし、弟子達に全ての言葉を聞かせ、全ての業をお見せになった今、「時が来た」とおっしゃるのです。

「父よ、時が来ました」、この言葉によって、キリストの地上での福音宣教が終わったことが分かります。あとは、イエス・キリストご自身が天から神によって遣わされた神の子としての栄光を受けるだけのところまで来た、ということです。

ワインを水に変えたことも、盲人の目を癒されたことも、ラザロを墓から生き返らせたことも、全て、ご自分には神の権威があり、神の栄光をもっていらっしゃることを示すものでした。

旧約の預言者も、まさにこの「時」のことを預言してきました。

イザヤ書40:5「主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る」

預言者イザヤは、神の栄光が全ての肉なるものに示される時を見据えていました。天にいらっしゃる神は、地上に生きる肉なる存在の自分たちの目には見えない、観ることができないと皆思っていました。

しかし、主の栄光が私たち人間の肉の目に見せられる時が来る、とイザヤは預言していたのです。それこそ、イエス・キリストの十字架の時でした。神と共に世の初めからいらっしゃった方が世に人間としてお生まれになり、言葉と業を通して、私たちの目に、神の栄光を見せてくださったのです。

また、預言者ハバククは、こう預言しています。

2:3「たとえ、遅くなっても、待っておれ、それは必ず来る、遅れることはない・・・水が海を覆うように、大地は主の栄光の知識で満たされる」

まさに、聖書は、預言者たちの預言の実現を記録しています。「父よ、時が来ました」とキリストがおっしゃったのは、イザヤが言った「主の栄光が肉の目に見せられる時」の実現です。そしてハバククが言った、「大地が主の栄光の知識で満たされる時」の到来なのです。

1世紀のキリスト者たちは、イエス・キリストの十字架こそ、預言者たちが残した言葉の実現であったと知りました。無実の罪で十字架に上げられたそのお姿は、世の罪を全て背負って死なれた神の子の栄光の姿でした。イエス・キリストの十字架の死という最大の謎を通して、神は深い救いのご計画をお示しになったのです。

一番弟子のペトロは、後に手紙の中でこう記しています。

「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」1ペトロ2:25

イエス・キリストの十字架、それこそ、神が世の罪の許しを示された場所であり、神から離れて生きていた我々が立ち返る場所なのです。

イエス・キリストは、祈りの中で、「永遠の命」について語っていらっしゃいます。ヨハネ福音書では、「永遠」とか「命」という言葉が多く使われていますが、我々にとって、「永遠の命」は神秘です。

「永遠の命」という言葉の意味は、それを聞いただけで分かります。しかし、それが本当に一体どういうものか、ということについては、よくわからないのです。「永遠」とは何か。終わりのない時間だ、ということは分かりますが、永遠の命となると、自分の理解を超えた言葉になるのではないでしょうか。

イエス・キリストは祈りの中で「永遠の命」の定義についてこうおっしゃっています。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」

「永遠の命」と聞くと、永遠という時間的な長さの方にばかり意識が行きます。「想像もつかないほど長く生きること」というイメージでとらえがちだが、そうではないのです。時間の長さではなく、それがどのような時間なのか、ということに目を向けなければならないのです。神を知り、キリストを知って生きる命、それが「永遠の命」なのです。

逆に言えば、神を知らなければ、キリストを知らなければ、どんなに長く生きても「永遠の命」と呼ぶことはできないのです。そして、どんなに自分の生涯が短いとしても、神を知りキリストを知って生きたなら、肉体の死の先にも神とキリストとの結びつきは消えることがないのです。

イエス・キリストは「インマヌエル」と呼ばれます。インマヌエル、神我らと共にあり、という意味の言葉です。「神我らと共にあり」という真理は、壊れることはないのです。それは、肉体の死を超えて、それが永遠に続く恵みなのです。キリストを知る、ということは、永遠の命を知る、ということであり、永遠の命を知るということは、キリストが永遠に私と共にいてくださるという真理を知ることなのです。

イエス・キリストはこの祈りの中で、父なる神、神の子イエス・キリスト、そして我々信仰者が一つとなることを願われています。我々がキリストと一つとなるということは、自分がキリストになる、とか、自分をキリストと名乗ることができるようになるとかいうことではありません。

キリストと同じ使命を抱く、ということでしょう。神がキリストを世に送られたように、私たちも世に送られるということです。だからキリストは「あなたがたには世で苦難がある」「世が私を憎んだように、あなたがたをも憎むようになる」と弟子たちにおっしゃったのです。

しかし、キリストは「勇気をだしなさい」とおっしゃいました。

「私は既に世に勝っている」

既に世に勝っていらっしゃる方が、我々と永遠に共にいてくださるのです。神は独り子を世に送られました。独り子イエス・キリストは、世を救う、という使命、神の元へと全ての人を連れ戻すという使命を持って世にお生まれになりました。

今、その使命は我々に託されています。我々は、その使命を、キリストの祈りに包まれて果たしていくのです。私たちは永遠の命に至る知識を預かっているという責任を忘れてはならないのです。

1ヨハネ2:6「神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。」

1ヨハネ2:24~26「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子が私たちに約束された約束、永遠の命です」

この夜、キリストは、伝えるべきことを弟子たちに全てお伝えになりました。そして最後に執り成しの祈りをささげてくださいました。祈りを通して、私たちは知ります。神が、私たちと共にいてくださるということ。キリストが、私たちと共にいてくださるということ。

ホセア 6:1~3

「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、癒し、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし、三日目に立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる」

自分がなすべきことをなし、語るべきことを語ったら、あとは神に祈り、執成すしかないということは私たちも知っているのではないでしょうか。大地を潤す春雨のように私たちを訪れてくださる神の御業を、祈って待つことができるということが、私たちの信仰の強みではないでしょうか。