ヨハネ福音書15:18~21
イエス・キリストの告別の言葉を読んでいます。別れを目にして、残された時間が少なくなっていく中、キリストは一番伝えたいこと、伝えなければならないことを弟子たちにお話になりなります。
キリストは弟子たちに、「これから私たちは離れ離れになるけれども大丈夫だ」、とおっしゃいました。先生と離れ離れになりたくないと思っている弟子たちにとって何が「大丈夫」なのでしょうか。キリストと弟子達とのつながりは決して無くならない、だから「大丈夫だ」とおっしゃいます。
弟子たちは、自分たちが主イエスから愛されていること、主イエスが父なる神から愛されていること、そして神が世を愛されていることを聞きました。そしてそのつながりの中から自分たちの信仰が実を結んでいくこと教えられます。
弟子たちの元を去って行かれるイエス・キリストとどのようにつながることができるのでしょうか。「心配しなくてもいい、私の父の家には住むところがたくさんある。あなたたちのために場所を用意して戻ってくる」とキリストはおっしゃいます。
その言葉を聞きますと、弟子たちはこれからキリストと離れ離れになるけれども、またキリストが自分達を迎えに来てくださる。そしてその後にはもう何の苦労も無く、キリストによって平坦にされた道を静かに歩んでいくことができる将来が約束されているかのように聞こえます。
しかしイエス・キリストはここでおっしゃいます。
「世があなた方を憎むなら、あなた方を憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい。あなた方が世に属していたなら世はあなた方を身内として愛したはずである。」
キリストに従うがゆえに受けることになる憎しみがある、とおっしゃいます。キリストに従う信仰の道の上で、弟子達は、またキリスト者はこの世から憎まれることになるのです。
案ずることはない、心配することはない、私とあなたたちとのつながりはなくなることはない、大丈夫だと、告げながら、その先にはイエス・キリスト共に担う苦しみがあるということも明らかにされるのです。
信仰とは何でしょうか。キリストを信じるということはどういうことなのでしょうか。信仰の道を歩めば、たくさんのいいことが降って来て、この世の憎しみなどとは無縁になることのように期待します。しかし、キリストは甘いことをおっしゃいません。
使徒言行録には、後々弟子たちがどのような苦しみを担うことになったのかが記録されています。キリストがここで予告なさっているように、弟子たちはイエス・キリストのお名前をこの世で伝えていくために様々な試練と苦難の中を生き抜きました。
ナザレのイエスという方に何が起こったのか、またそれはどんな意味があったのかを伝えようとしても、受け入れる人よりも受け入れない人たちのほうが多かったのです。ある時は牢に入れられたり、鞭で打たれたりもします。
それでも弟子たちは、キリストの使徒として宣教の業を投げ出すことはしませんでした。キリストの十字架と復活の証人として、自分が置かれた場でキリストを証しし続けたのです。命の危険を感じるほどのことがあっても、それを越えて彼らはキリストの証を続けました。
なぜでしょうか。弟子たちが、キリストの十字架と復活を見て、この夜自分たちに告げられたことの意味を理解したからです。
使徒言行録の五章の最後を見ると、迫害の中でそれでも喜んでいる弟子たちの姿が書かれています。「使徒たちはイエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ」とあります。
教会の迫害者でありながらキリストに召されて使徒とされたパウロは、フィリピの教会の人たちにこう書いています。
「私にとって生きることはキリストであり、死ぬことは有益なのです。・・・あなた方には、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも恵みとして与えられているのです」
新約聖書に入っているフィリピの信徒への手紙はパウロが獄中から書いた手紙です。「獄中書簡」と呼ばれていますが、同時に「喜びの手紙」とも呼ばれています。パウロは「自分が監禁されているのはキリストのためである」と喜ぶのです。
ペトロも手紙の中で言っています。
「キリストは罪の為にただ一度苦しまれました。正しい方が正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなた方を神の元へ導くためです。」
「義の為に苦しみを受けるのであれば幸いです」
「愛する人たち、あなた方を試みるために身に降りかかる火のような試練を何か思いがけないことが生じたかのように驚き怪しんではなりません。むしろキリストの苦しみに与れば与るほど悦びなさい・・・あなたがたはキリストの名のために非難されるなら幸いです・・・キリスト者として苦しみを受けるのなら決して恥じてはなりません」
なぜイエス・キリストの弟子は、そしてキリスト教会はこの世から逆風を受けるのでしょうか。イエス・キリストがそうだったからです。キリストは人々の心を天に向けようとなさいました。しかし、この世に目を向けていた人、心をこの世に留めていたい人たちからは憎まれたのです。ヨハネ福音書1:11に光がご自分の民の元に来たけれども、民は光を拒絶したと書かれている通りです。
キリストと同じ道を歩むということは、その逆風をキリストと共に受けるということなのです。キリストは弟子たちにおっしゃいました。「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ」
イエス・キリストがこの世を神の元へと導くために、苦難の道を行かれるのであれば、キリストに従う人たちも同じ信仰の苦難の道を行くということでしょう。この世がイエス・キリストを迫害するのであれば、キリストに従う信仰者たちのことも迫害するということでしょう。私たちがイエス・キリストよりも優れた者となってキリストに向けられた逆風が吹かないなどということはないのです。
しかしなぜキリスト者はこの世からの逆風を受けるのでしょうか。どの福音書でもキリストに従う信仰者達への苦難がキリストご自身の口から前もって言われています。
なぜキリスト者たちは迫害されなければならないのでしょうか。愛に満ちたイエス・キリストの教えが素晴らしさを知れば、みんな自然に私たちが言うことを受け入れて私と同じ道を歩くようになって、キリストを求め始めるのではないでしょうか。
キリストの時代、また弟子たち・使徒たちの時代は、ローマ帝国は宗教に対して非常に寛容でした。いろんな宗教がありましたが、それぞれの宗教がローマ皇帝への尊敬や忠誠を邪魔しない限りは許されていました。
当時はローマ皇帝が神の子として神の権威を持って政治にあたっていました。しかし1世紀のキリスト者たちは、神は唯一の神でありイエス・キリストこそがまことの神の子であり、ローマ帝国は神の子ではないという信仰を持っていました。
そのようにローマ皇帝のことをただひとりの人間として捉えイエス・キリストがメシアであり神の子であり従うべき方である、と信じる信仰は危険視され、ローマ帝国の中で迫害されることになったのです。
更にキリスト者たちは同じ時代のユダヤ人たちからも迫害されました。キリスト者たちは、主イエスのことをキリストと呼び「主」と呼びました。「主」という呼び方は、ユダヤ人たちが神に対して用いた称号です。
イエスという人間に対して「主」という言葉を使うことは、人を神とすることであり、偶像と変わらないと思ってユダヤ人たちはキリスト者を迫害したのです。
十字架の上で殺されたナザレのイエスを主と呼び神の子と信じることはローマ人にとってもユダヤ人にとっても受け入れられることではなかったのです。
私たちがキリストを伝える「世」とは、そのような相手です。今も変わりません。「キリストに従いなさい」、と伝えることは、「昨日までの自分を捨てなさい」、ということです。
「今あなたが信じている何か以上に、信じるべき方です」とか「あなたが大切に思っている何か以上に、大切にすべき方です」と言われると、それまでの自分を捨てることになります。当然、良くは思われないでしょう。
キリストを十字架へと追いやり我々キリスト者を迫害するであろうと言われている「この世」に対して、また、今私たちが実際に生きて、キリストを伝えるために遣わされている「この世」に対して、私たちはどのような姿勢であればいいのでしょうか。
この後を読んでいきますと、この世はますます主イエスを憎み主イエスを逮捕します。そして十字架に上げられる前に、ポンテオ・ピラトから尋ねられます。
「お前がユダヤ人の王なのか」
それに対して主イエスお答えになります。
「私の国はこの世には属していない」18:36
この言葉を見ると、イエス・キリストが私たちを連れて行こうとしてくださる「神の国」というのは、今私たちが生きている「世」とは全くつながりのない、別世界のことのように聞こえます。
私たちが「この世」を捨てていわゆる世捨て人にならなければキリストがおっしゃる神の国は見えないのでしょうか。
そうではないでしょう。14:17で、キリストはおっしゃっています。
「神が真理の霊をくださるが、この世はその霊を見ようとも知ろうともしないので受け入れることができない。」
14:27では、イエス・キリストが平和を弟子たちに残されるけれども、それは「世」が与えるような平和ではない、ということもおっしゃっています
イエス・キリストの弟子となって従っていた12人は、キリストご自身が私は十字架で死ぬということを予告され、それでは自分たちのこの地上での栄光はどうなるのかという不安を大きくしていきました。
キリストが弟子たちに残そうとされたのは、弟子たちがこの世で偉くなるということではありませんでした。弟子たちが低くなって互いに使い合いキリストに愛されたように互いを愛し合うという道でした。キリストがおっしゃる神の国はそこに実現するのです。
この夜のイエス・キリストの言葉は弟子に向けられた言葉です。そしてそれはつまり教会に向けられた言葉でもあります。キリストの十字架と復活の後、聖霊が注がれ教会が立ち上がりました。そして教会は迫害されました。
サウロという青年が教会を迫害していたとき彼はイエス・キリストの言葉を聞きました。「サウロよ、なぜ私を迫害するのか」
教会を迫害するということはイエスキリストを迫害するということなのです。
人々は私の名のゆえにあなた方を迫害するようになる。わたしを遣わしになった方を知らないからである、とキリストはおっしゃいました。逆の言い方をすれば、神を求める人は、キリストを知ることになる、ということでしょう。
私たちは、そこで用いられるのです。旧約の預言者たちのように、悪口を言われたり、信じてもらえなかったりしても、そこまでして伝えようとするイエス・キリストというお名前は、必ず私たちの姿を通して、神を求める人たちの心に刻まれるのです。