8月22日の説教要旨

マルコ福音書12:28~34

「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、『あなたは、神の国から遠くない』と言われた」(12:34)

神殿の境内で、主イエスはファリサイ派、ヘロデ派、サドカイ派の人たちから議論を仕掛けられました。

「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているかどうか」

「世の終わりの復活は本当にあるのか。もし復活があると言うのなら、世の終わりにこんな困ったことになるのではないか」

主イエスは皇帝への税金に関しても、復活の信仰に関しても、明確に聖書に基づいてお答えになりました。「立派にお答えになった」のを見て、一人の律法学者が質問をして来ます。

この人は、ファリサイ派やサドカイ派の人たちのように、主イエスを陥れようとしたのではありません。これまでのファリサイ派、サドカイ派の人たちとの議論を聞いて、「この方こそ神の言葉・律法を最もよく知る方ではないか」、と思い、期待して質問をしたのです。

「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」

これだけたくさんある聖書の言葉の内、一番大事な言葉はどれか、一言でまとめると聖書は我々に何を求めているのか、という質問です。これだけたくさんある神の教えの中から、一番大切なものを一つ抜き出すということは困難なことのように思えます。しかし、これは難しい質問のように見えて、実は一番初歩的なものではないでしょうか。

私達もこのような質問を受けることがあると思います。イエス・キリストことを全く知らない人であれば、「聖書はどんなことが書かれているのですか」とか「イエス・キリストは、一言で言うと、どのような人物のですか」と尋ねるでしょう。それを考えると、この人の質問は、律法に関する最も初歩的なものだと言っていいと思います。

しかし、ここで面白いのは、そのような初歩的な質問を律法の専門家である律法学者が主イエスに尋ねた、ということです。一体なぜ、この人は、主イエスにこのようなことを聞いたのでしょうか。

考えられるのは、この律法学者は、日々聖書を研究する中で、聖書の本質がだんだん見えなくなっていたのではないか、ということです。一所懸命に律法に向き合い、律法の奥深さを知れば知るほど、逆に真理が見えづらくなってしまった。それで改めて、ファリサイ派やサドカイ派の人たちからの律法に関する難題に立派にお答えになった主イエスに聞いてみよう、と思ったのではないでしょうか。

恐らく、この人は、恥を忍んでこの質問をしたのではないでしょうか。自分の渇きを抱えて、律法の原点についてイエスというガリラヤの教師に尋ねたのでしょう。

主イエスのお答えは、こうでした。

「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、私達の神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」

これは申命記6:4~5の言葉で、当時のユダヤ人たちは、毎日この言葉を暗唱して祈っていました。「どれが第一の掟ですか」という質問をされると、おそらく多くの人がこの申命記の言葉を答えたのではないでしょうか。これを聞いて、律法学者は、「やはり、この人もそう思うのだな」、と納得したと思います。

しかし、主イエスは「第二の掟はこれである」と続けられました。「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つに勝る掟は他にない」

主イエスは一つのことを聞かれて、二つのことを答えとされました。律法学者の、「どれが第一でしょうか」という質問に対して、主イエスは「第一の掟は、これで、第二の掟はこれである」、こういう答え方をなさったのです。

「心を尽くして神を愛しなさい」という第一の掟と、「隣人を自分のように愛しなさい」という第二の掟と切り離せない、ということです。この二つの掟は、二つで一つなのです。

「神を愛する」ということと「隣人を愛する」ということは、一体なのです。主イエスが律法学者にお示しになった大きな真理はこれでした。心を尽くして神を愛しても、隣人を自分のように愛することがなければ聖書が求めていることを実践しているとは言えません。逆に、隣人を自分のように愛しても、心を尽くして神を愛することが無ければ、律法を満たしているとは言えません。

律法学者は、主イエスの答えを聞いて、感動しました。そしてすぐに主イエスがおっしゃったことを受け入れました。

「先生は、おっしゃる通りです。『神は唯一である。他に神はない』とおっしゃったのは本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす捧げものやいけにえよりも優れています。」

この人は、神への捧げものとは何か、神への生贄とは何か、ということを日々考え、行き詰って悩んでいたのかもしれません。主イエスの答えは、律法学者の心に光を差し込んだようです。神を愛することと隣人を愛することは一つである、ということが聖書の第一の掟である、と知って、彼の心は晴れました。

律法学者が尋ねた質問は、難しいようでいて、実は難しくない質問だったと思います。聖書の教えというのは、十戒に集約されているのです。十戒は文字通り、十の戒めです。初めの4つは、神を愛するための戒めであり、残りの6つは、隣人を愛するための戒めです。

主イエスの答えは、十戒を単純にまとめたものでした。その当時誰も知らなかった、真新しい教えではありません。むしろ、人々の方が、聖書の一番核になる教えを見失いかけていた、ということでしょう。

私達は、主イエスがお答えになった大切な掟の内容そのものよりも、律法学者がなぜこれほどまでに驚き、感動したのか、ということに注意を向けたいと思います。

律法学者が主イエスの答えを聞いて、これだけ驚いた、ということは、日々聖書を研究していた律法学者でさえ、聖書の本質を見失うことがある、ということです。神が私達にお求めになっていることは、本当は複雑なことではありません。律法学者のように、聖書の専門家でなければ理解できないようなことではないのです。

神が私達にお求めになっているのは、神を愛し、隣人を愛するということです。これだけです。単純なことです。しかし、こんな簡単なことを我々はすぐに忘れてしまうのです。

教会の中でもすぐにそういうことは起こります。ヤコブの手紙にこういう言葉があります。

「もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなた方は罪を犯すことになり、律法によって、違反者と断定されます。」

このようなことを書いている手紙が残っている、ということは、教会の中で、神への信仰はもっているが、隣人への愛は実践できていなかった、という状況があった、ということでしょう。

主イエスがおっしゃっているのと同じことをパウロも書いています。

「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すね、盗むな、むさぼるな』そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするのです。」(ロマ13:8~10)

私達はなぜ、「神を愛し、隣人を愛する」という単純なことをすぐ忘れてしまうでしょうか。「愛する」ということが難しいからです。いつも、自分だけを愛そうとするからです。神に・隣人に心を向けさせないようにする力が私達に働いています。聖書はその悪しき力を「罪」と呼んで、その働きについて教えてくれています。

「罪」という力がなぜ恐ろしいのかというと、自分だけを愛するように人を仕向けて、神への愛を、隣人への愛を破壊するからです。自分だけを愛させる力、それが罪の力だ。

福音書を読んでいると、主イエスは、律法学者やファリサイ派やサドカイ派の人たちとは仲が悪かったような印象を持ちがちです。しかし、実際は理由もなく敵対していたわけではありません。。それぞれが、律法のことを、聖書のことを真剣に捉えていたからこそ、真剣な議論になっていたのです。

ここを読んでわかるのは、イエス・キリストなしでは、人は迷う、ということです。律法学者も、とてもまっすぐに神の国を求め、神の言葉に従おうとしていたのです。しかし、熱心に研究していた学者であっても、律法の中心が何かわからなくなってしまっていました。

キリストに出会って、この律法学者は変えられたでしょう。この人がこの後イエス・キリストの弟子となったかどうかはわかりません。しかし、自分が向き合う律法とは何なのか、何のための言葉なのかを知って、新しい信仰の姿勢で聖書に向き合い始めたことは間違いありません。

主イエスは律法学者の喜びの言葉を聞いて、「あなたは、神の国から遠くない」とおっしゃっいました。そして、そのやり取りを周りで聞いていた人たちの中に、「もはや、あえて質問する者はなかった」とあります。この律法学者だけでなく、周りで見ていた人たち、主イエスを危険視した人さえも、イエス・キリストを通して、神が何を自分たちにお求めであるか、ということをはっきりと知りました。

質問する人がいなくなった、ということは、皆、はっきりと道が見えた、ということでしょう。はっきりと、自分のあり方、生き方を知った、ということです。イエス・キリストとの出会いは、このように人を変えていくのです。

キリストに出会う、ということは、道を見出す、ということです。ヨハネ福音書で主イエスはおっしゃっています。

「私は、道であり、真理であり、命である」

神を愛し、隣人を愛するというこの単純な真理に生きる、ということが私達に課された信仰の戦いでしょう。聖書の言葉を武器にして罪の誘惑と戦っています。

主イエスがここで律法学者におっしゃっているように、人は、神への愛・隣人への愛に生きることから、神の国に生きることが始まるのです。