9月12日の説教要旨

マルコによる福音書13:1~2

「イエスは言われた『これらの大きな建物を見ているのか』」(13:2)

主イエスと弟子達が神殿の境内を出て行きながら交わした短い会話です。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんと素晴らしい建物でしょう」と一人の弟子が言ってきました。主イエスは「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」とお答えになります。

とても短い、一言ずつのやりとりですが、このやりとりを通して、一つのことがはっきりします。イエス・キリストがご覧になっていたものと、弟子達が見ていたものが全く違っていた、ということです。

主イエスと弟子達はガリラヤ地方からエルサレムを目指して過越祭への巡礼の旅をしてきました。日曜日にエルサレムに入ってから、主イエスの目に、そして弟子達の目には何が映って来たのでしょうか。それぞれ考えてみたいと思います。

主イエスがエルサレムに入られた日曜日、まず行かれたのは、エルサレム神殿でした。その日は神殿の様子を見て回られただけで宿へと戻られました。神殿の様子をご覧になって主イエスが何を思われたのか、何もおっしゃっていません。

しかし、主イエスの神殿に対する思いが、翌日の月曜日に明らかになります。

月曜日に神殿の境内に入られた主イエスは、そこで巡礼者を相手に両替をしたり生贄を売ったりしていた商人たちを追い出され、「あなたがたは祈りの家を強盗の巣にしている」とお怒りになりました。

そしてさらにその翌日の火曜日には、神殿の賽銭箱に銅貨二枚を献金して、全財産を失ったやもめをご覧になります。

私達はこの方が神の子であり、キリストであることを知っています。神の子が、神の家である神殿に入られたのだから、喜ばれるのが本当です。主イエスは、エルサレムに入られてから、一度でも笑われたでしょうか。主イエスが神殿でご覧になって喜べるようなものは見出すことがお出来にならなかったのです。

神殿が神殿でなくなっていた、ということ、単なる立派な建物に成り下がっていることに心を痛めていらっしゃいました。建物が素晴らしい分、祈りがないということ、律法が行われていないということが浮き彫りになっていたのです。

神殿に失望された主イエスに向かって、弟子の一人が言います。「先生、ご覧ください。なんと素晴らしい石、なんと素晴らしい建物でしょう。」

主イエスがおっしゃったのは「これらの大きな建物を見ているのか」という言葉でした。「私とあなたとは見ているものが違う。あなたはただ、建物の立派さに目を奪われているだけだ」というこということです。

弟子達が立派な神殿に目を奪われるのは当然のことだったでしょう。弟子達はガリラヤ出身の、農村地域の人たちです。ガリラヤの町々にはこのような建築物はありません。壮麗な神殿の姿に素朴に感動していたのです。

元々、神殿はソロモンによって造られました。紀元前586年にエルサレム神殿はバビロニア帝国によって破壊されてしまいますが、バビロンでの捕囚生活を生き延びてエルサレムに戻ってきた人たちによって、紀元前515年に神殿は再建されます。エルサレム神殿はイスラエルの信仰の中心であり、イスラエルの象徴そのものでした。

主イエスの時代にはヘロデ大王が始めた更なる神殿の大改修・再建を進められていました。何十年にもわたる大工事で、主イエスの時代になってもまだ終わっていなかったほどです。改修工事の途中であっても、主イエスの時代の人たち、そして弟子達はこの神殿の大きさ、美しさに目を奪われたでしょう。

この時、主イエスと弟子達の間には距離がありました。それぞれ、見ているものが違うのです。今、主イエスは神殿から出て行かれます。そしてもうこの後は、神殿には二度とお入りになることはありません。

この時、主イエスは弟子達に衝撃的な言葉をお聞かせになりました。

「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

この神殿は、跡形もなく徹底的に崩れることになるだろう、という神殿崩壊の預言をされました。主イエスの目に映っていたのは、目の前に立っている立派な神殿の姿ではなく、破壊され、廃墟になってしまった神殿の運命だったのです。

神の家・祈りの家であるはずの神殿は、徹底的に破壊されることになる、という主イエスの神殿崩壊預言は、実際、この40年後の紀元70年に実現することになります。ユダヤ人は、ローマに対して反乱を起こし、結局ローマ軍によって神殿ごと滅ぼされることになります。主イエスの預言は実現するのです。

神殿崩壊の預言は、主イエスの前の預言者たちによってもなされて来ました。例えば、紀元前8世紀に預言者ミカは堕落したエルサレムの指導者たちに向かってこう言っています。「お前たちのゆえに、シオンは耕されて畑になり、エルサレムは石塚に変わり、神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる。」

紀元前6世紀にも預言者エレミヤが神の言葉をエルサレムの人たちに伝えています。「主はこう言われる。もしお前たちが私に聞き従わず、私が与えた律法に従って歩まないのであれば、私はこの神殿・都を地上の全ての国々の呪いの的とする。」

神殿が崩壊するなどという不吉なことを預言した預言者たちは、人々から嫌われました。エレミヤは実際に、殺されそうになります。

主イエスも同じでした。神殿が崩壊するなどということを言う人は、イスラエルの神を冒涜するようなことでした。それでも、主イエスは神殿崩壊の預言をしなければならなりませんでした。エレミヤがそうしたように。

紀元前のイスラエルは、預言者たちの言葉を聞いても、神の前に悔い改めることをしませんでした。預言者たちの神殿崩壊の預言は、バビロンの軍隊によって現実のものとなります。

そして今、神の子イエス・キリストが、時代を超えて預言者たちと同じことをおっしゃいます。

弟子達を含めて一体どれだけの人が、この方の言葉に耳を傾けたでしょうか。祈りが失われ、商売が行われ、律法学者たちは神の律法を自分たちのために用い、弱い人たちが守られていない神殿は、40年後、破壊されてしまうことになるのです。

神殿が破壊されることになる、ということは、もう祈りの家はこの世からなくなってしまうということなのでしょうか。うではありません。

ヨハネ福音書4章で、主イエスとサマリア人女性の出会いが描かれています。女性は言います。

「私どもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」

当時、ユダヤ人はエルサレムに、サマリア人はサマリアに礼拝の場所をそれぞれ持っていました。ユダヤ人は、サマリア人に対して、エルサレム神殿こそ、正当な礼拝の場所だ、と言っていたのです。

この女性の言葉に対して、主イエスはこうお答えになりました。「婦人よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもないところで、父を礼拝する時が来る。」

エルサレムでもなくこのサマリアの山でもないところで礼拝する時が来る、とおっしゃっていますが、新しい礼拝の場所として、どこが言われているのでしょうか。それは、イエス・キリストの復活を信じて祈っていた群れに聖霊が注がれて広がっていった、キリスト教会でした。全世界の、イエス・キリストの名のもとに祈る群れ、その一つ一つが、霊と真理をもって捧げられる真の礼拝である、ということが示されていくことになるのです。

使徒パウロがコリント教会の人たちにこう書き送っています。

「あなたがたは、神の畑、神の建物なのです。」

「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれも他の土台を据えることは出来ません。」

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」

主イエスの時代のエルサレム神殿は、大きな石で造られていました。しかし、それは結局は「人の手によって造られたもの」でしかありませんでした。

エルサレム神殿はやがて滅び、新しい祈りの家が建ちあがることになるのです。それは建築物ではなく、祈りの共同体のことであり、国や民族を超えて聖霊を注がれた信仰の共同体でした。つまり、私達です。

今、ここにいる私達は、神の神殿です。三宅島伝道所は小さな祈りの群れにしか過ぎません。「神殿」などとはとても呼べないような貧しい祈りの群れです。しかし、大切なことは、私達が礼拝している建物の大きさではない、ということです。私達の祈りが、イエス・キリストを土台とし、キリストの名のもとに祈っているかどうか、ということです。二人、三人が祈るところには、キリストが共に居てくださり、あの壮大なエルサレム神殿に勝る、霊の神殿となるのです。

弟子達も、エルサレムの人々も、あの立派なエルサレム神殿が崩れるなどということは考えもしなかったでしょう。しかし、神殿が神殿でなくなった時、神殿が神の家・祈りの家でなくなった時には、それは単なる建物でしかなくなるのです。そしてそれは年月が経てば滅びることになるのです。

神殿崩壊預言というのは、人々が、信仰者が一番聞きたくない言葉だし、一番信じようとしない言葉です。しかし、私達は、旧約の預言者たち、そしてイエス・キリストの神殿崩壊預言を通して、謙虚にならなければならないと思います。

主イエスが十字架で殺され、復活された後、弟子達は主イエスがおっしゃった一つ一つの言葉を思い出し、吟味し直したでしょう。神殿が神殿でなくなったらどうなるか、ということを我々は聖書から学ばなければなりません。教会が教会でなくなった時、私達はどうなるのか・・・預言者たちやキリストの言葉は、今のキリスト教会に向かって、私達に向かって、その在り方を問い続けています。