12月26日の説教要旨

イザヤ書8:16~9:6

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」(9:5)

クリスマスを迎え、私たちは救い主・イエス・キリストがこの世界にお生まれになったことを共に礼拝の中で祝いました。「救い主がお生まれになった」、ということを祝い喜んでいますが、それではあらためて、「救い」とは何なのでしょうか。私たちがこの方によって「救われた」、というのはどういうことなのでしょうか。

イエス・キリストという救い主は、私たちを何から救い出してくださったのか、そしてどのように救い出してくださったのか、それを知らなければクリスマスの本当の喜びは分からないでしょう。

多くの人は、「自分は誰かに救われなければならないような危機的な状況にはない」、と言います。聖書が言っている「罪からの救い」について聞いても、「自分は罪人呼ばわりされるようなことはしていない」と言います。

しかし、聖書が私たちに伝えている「罪」とは、「神から離れて生きていること」であることを知ると、誰も罪とは無関係だとは言えなくなるでしょう。「神など必要ない、救いなど必要ない、キリストなど知らなくてもいい」と言っている人こそ、実は聖書が伝えている罪の闇は深いのです。

この世にお生まれになった救い主、メシアはどのように「神から離れた暗闇」から私たちを解放してくださったのか、今日もイザヤ書の言葉を見ていきたいと思います。

BC8世紀のイザヤの時代のユダ王国は揺れていました。アッシリアや、周辺諸国の圧力の中でどう生き延びるか、ということに汲々としていました。ユダ王国の王、アハズは結局アッシリアの支配に入ることにします。イザヤはそれに対して「人ではなく神に頼れ。静かにしていなさい」と伝えました。しかし、外国の圧力の前に静かにしていることなんてできないアハズ王は、イザヤが伝える言葉を聞きませんでした。

神は、ご自分の言葉をイスラエルに伝えようと預言者を送って来られました。

18節でイザヤはこう言います。

「見よ、わたしと、主がわたしにゆだねられた子らは、シオンの山に住まわれる万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である」

実は、イザヤとイザヤの二人の息子たちがユダ王国に送られた、ということ自体が、神がユダ王国に示された救いのしるしだった、というのです。

「イザヤ」は、「神は救い」、という意味の名前です。

イザヤの長男の「シュアル・ヤシュブ」は、「残りの者は帰ってくる」という意味の名前です。

次男の「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」は「分捕りは早く、略奪は速やかに来る」という意味の名前です。

この親子の名前そのものが、イスラエルに示された神のメッセージでした。「神を自分の救い」とする限り、「生き残ることができる」が、そうしないのであれば「侵略されてしまう」、ということが、イザヤ親子の名前を通してユダ王国に象徴的に示されていたのです。

しかし、ユダ王国の人たちは、イザヤと二人の息子たちの姿や名前には目を向けず、イザヤが語る言葉に従うこともありませんでした。

ただ、周辺諸国の軍隊とアッシリアの強さにだけ心が向き、神以外のところに救いを求めていたのです。

8:16でイザヤは「私は弟子達と共に証の書を守り、教えを封じておこう」と言います。聞く耳を持たないのであれば、語る言葉を聞かせない、ということです。神の言葉を語ることをやめ、教えを記録の中だけに封じ込めたのです。

そして、これからユダの人たちがどうなるか・何に苦しむか、ということを預言した。

「この地で、彼らは苦しみ、飢えてさまよう。民は飢えて憤り、顔を天に向けて王と神を呪う。地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。」

かなり厳しい口調です。神の言葉を聞かなかった人たちは、神の言葉が聞こえなくなる、そして今度は、神の言葉を聞こうとしても与えられなくなる、と言うのです。

イザヤと同じ時期に北王国で預言活動していたアモスも同じようなことを言っています。

「見よ、その日が来れば、と主なる神は言われる。私は大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。人々は海から海へとめぐり、北から東へとよろめき歩いて主の言葉を探し求めるが見出すことはできない」

神の言葉を聞こうとしない人には、神の言葉が与えられなくなるという苦しみが待っている、と預言者たちは言います。イザヤは「今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」とまで言っています。

さて、8:23まで読むと、神の招きに背を向けたイスラエルはもう終わりだ、神に見捨てられた、と思うのではないでしょうか。もう神を見出すことはない、神の言葉が与えられることのない闇の世界になるのか、と思えます。

しかし、イザヤがこれらの滅びの言葉の後に、神はそれでも裏切りのイスラエルを追いかけてくださる、ということを預言しています。

「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、のちには海沿いの町、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」

イザヤは暗闇の中に光が差し込む救いの預言を語り始めるのです。

確かに、イザヤが言ったように、神の言葉に耳を貸さなかったユダ王国は、皮肉にも自分たちが助けを求めたアッシリアの軍隊に国を蹂躙されることになります。アッシリアの軍隊は北からやってきて、海沿いの町々を薙ぎ払っていきます。ここに出てくる「ゼブルン」や「ナフタリ」というのは、北の国境の土地です。つまり、北からからやってくる軍隊に一番先に侵略される場所です。それらの土地は、アッシリアの軍隊による破壊によって暗闇となりました。

しかし、イザヤはそれらの場所こそのちに「栄光を受ける」と預言する。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住む者の上に、光が輝いた」

イザヤは、罪による滅びが与えられた一番闇の深い場所に神の栄光の光がもう一度差し込まれることを預言するのだ。そして9章に入り、それらの場所を踏みにじった軍隊が、今度は滅ぼされることをほのめかします。

神に背を向けたイスラエルは、神に見捨てられて終わり、というのではありませんでした。罪の闇に栄光の光が与えられる、とイザヤは預言するのです。その光とは、一人の男の子の誕生でした。。

「ひとりの嬰児が私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた。権威が彼の方にある。その名は、『驚くべき指導者、地からある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」

罪の中に差し込む救いの光、それは、メシアの誕生でした。神の言葉を聞こうとしても聞くことができない飢え渇き、主の言葉を聞くことができない苦しみから救い出してくださるメシアがお生まれになる、という救いの預言です。

聖書は、2,000年前にガリラヤで神の国の福音の宣教を始めたイエスという方にこのイザヤのメシア預言の実現を見ています。ヨハネ福音書は、このイエスという方こそ、神の言葉であった、ということを証します。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった・・・光は暗闇の中で輝いている。・・・言は肉となって、私たちの間に宿られた。「

イエス・キリストは神の言葉に飢え乾く暗闇の中に与えられた神の言葉そのもの・命の光だったのです。

神は、一度はご自分の言葉に耳を傾けないイスラエルに対して、自分の言葉を封印されました。もうイスラエルが求めても、神の言葉を聞けなくなる日が来る、聞きたいと思っても、聞けなくなり、神のみ言葉に飢え乾く日がくるだろう、と預言者たちは厳しく伝えました。

しかし、神はイスラエルをお見捨てにはならなかったのです。時代を超えて、神のみ言葉を聞くことができない飢え渇きは、このイエスという方によって満たされることになります。

イエス・キリストは大声で叫ばれました。

「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」

時代を超えて、イスラエルは神の言葉を与えられるのです。

旧約聖書の創世記で、ヤコブが兄のエサウから一人で逃げる場面があります。野宿をするヤコブに、神は約束されました。

「見よ、私はあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。私は、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」

これは、私たちに与えられた約束でもある。

ヤコブは神の言葉を聞いて言いました。

「まことに主がこの場所におられるのに、私は知らなかった」

これこそ、私たちが生きる中で思い知らされることではないでしょうか。

「神など信じなくても生きていける、キリストなど知らなくても困らない」とうそぶく私たちは、生きる中で神が自分と共にいてくださる、ということを思い知らされるのです。

イザヤのインマヌエル預言は、イエス・キリストの誕生によって実現しました。

神、我らと共にあり。

「私は決してあなたを見捨てない」と神は約束された。

時代を超えて実現していく神の大きな救いの招きの御業に思いをはせたいと思います。そして、その約束をご自分の命をかけて果たしてくださったイエス・キリストに感謝をささげましょう。