マルコ福音書15:21~32
「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」(15:30)
二千年前に、エルサレムのゴルゴタの丘でナザレのイエスというユダヤ人青年が十字架刑で処刑されたこ出来事の中に、私たちはどれだけのことを見ているでしょうか。
1世紀のユダヤ人の歴史家、ヨセフスという人は、「紀元30年ごろ、エルサレムでイエスという人が十字架で殺された」と記録しています。ただ、それだけを書いています。歴史家ヨセフスにとっては、「そういうことがあった」という、一言で片付く出来事だったのでしょう。
しかし、一世紀のキリスト者たちは、この方の十字架を単なる「罪人(ざいにん)の処刑」では終わらせませんでした。彼らはナザレのイエスという方に関して膨大な証言を集め、福音書を紡ぎあげ、この方の十字架が神の許しと招きの御業であったことを後の世に残したのです。
我々は、このイエスという方の十字架を私たちはどう見るでしょうか。改めて考えたいと思います。
極限の痛みの中、キリストは最後まで、誰からも憐みを受けることなく黙ってすべてを甘んじてお受けになりました。私たちはゴルゴタの丘の光景を通して、神の子が罪人のためにどれだけの痛みを引き受けてくださったのか、そして罪びとの目にどれだけ神の子の本当のお姿が見えていなかったのか、ということを知ります。
人々はここまで、主イエスのことを「ダビデの子」と呼んできました。強いイスラエルを築き上げたダビデ王の再来として期待したのです。しかし主イエスは人々が期待した強いユダヤの王ではなく、羊飼いとしてのダビデの再来でした。ユダヤ人を指導してローマに反乱を起こすメシアではなく、イスラエルのために自分を犠牲にして、神の元へとすべての人を招くメシアでした。
主イエスの十字架の罪状が「ユダヤ人の王」と掲げられたことは、これ以上ない皮肉です。主イエスはローマへの反乱者と一緒に十字架に上げられました。「二人の強盗」というのは、主イエスの代わりに釈放された反乱の指導者バラバの配下の者たちでしょう。まるで、ローマに反乱を起こしたユダヤ人の王であるかのように扱われています。主イエスの本当のお姿とはまるでかけ離れています。人々がどれだけこの方のことを理解できていなかったか、ということがわかります。
しかし、この人間の無理解さえも神の救いのご計画の中に入っていました。主イエスご自身は、御自分がお受けになる痛みについて、「すでに聖書に書かれている」と何度もおっしゃってきました。
ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて山に登り、モーセとエリヤと共に話された後、山を下りるときに、主イエスは三人におっしゃいます。「人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてある」
ユダがご自分を裏切ろうとしていた過ぎ越しの食卓では、「人の子は、聖書に書いてある通りに、去って行く」とおっしゃいました。
ゲツセマネの園にご自分を逮捕しに来た人たちには、「これは聖書の言葉が実現するためである」とおっしゃいました。
主イエスは何度も何度も、ご自分に与えられる痛み、侮辱、すべての人から与えられる死について、「すでに聖書に書かれている・預言されている」とおっしゃって来ました。ゴルゴタの丘でこの方がお受けになった痛みは全て神のご計画の内にあったのです。
主イエスは弟子達に受難を予告されました。
「人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人のことを侮辱し、唾をかけ、鞭うったうえで殺す」
全て、その通りになっています。
ユダヤの指導者たちから有罪とされ、ローマ兵からは鞭で打たれ、いばらの冠をかぶせられ、頭をたたかれ、唾を吐かれました。そして今、十字架の上でユダヤ人からの痛みをお受けになっています。
それだけではありません。
「そこを通りがかった人」から、「祭司長たちと律法学者」たちから、そして「一緒に十字架につけられた人たち」からののしられました。
主イエスの十字架の周りには誰一人味方はいなかったのです。「たとえ死ぬことになってもあなたを見捨てることはありません」、と言った弟子達でさえ一人もいません。近くにいて主イエスの受難の予告を聞いていた弟子達でさえそうでした。
聖書の言葉をよく知っていた祭司長、律法学者たちですら、主イエスの十字架に神の御心を見出すことはありませんでした。十字架に上げられたナザレのイエスを初めて見るユダヤ人たちならなおさら、この方のことを理解することはなかったでしょう。
さて、もし私たちが、この時ゴルゴタの丘のキリストの十字架を見たら、なんと声をかけたでしょうか。「この方は神の子で、今私たちの罪を背負って死のうとしてくださっているのだ」と言えたでしょうか。頭を振りながら、周りにいた人たちと一緒に、この方に向かって侮辱の言葉を吐いたのではないでしょうか。
キリストは十字架で血を流すご自分のお姿を通して、私たちの罪を教えてくださっている。
十字架に上げられた主イエスに向かってユダヤ人たちは様々な侮辱の言葉を吐きました。
「神殿を打ち倒しし、三日で建てる者」
「メシア、イスラエルの王」
彼らが侮辱するために吐いた言葉は皮肉にも、真実でした。
この方はエルサレム神殿を打ち倒し、霊の神殿を三日でお建てになる方でした。この方は本当にメシアであり、イスラエルの王でした。
イエス・キリストの十字架の死は、確かにエルサレム神殿の終わりでした。古い神殿はここで滅びるのです。この後、キリストが息を引き取られた瞬間に、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けます。キリストはご自分の命と引き換えに、神へと通じる道を拓かれるのです。
十字架の死から三日後、キリストは復活され、「人の手によらない」神殿、霊の神殿、神の畑を新しく打ち立てられます。キリスト教会です。
人々は少しずつ、自分たちが十字架で殺したナザレのイエスが実はメシアであり、イスラエルの王、この天地の王・神であることに気づいていくことになります。
「他人は救ったのに、自分は救えない」と人々は十字架のキリストに向かって叫びました。確かに、主イエスはこれまで多くの人を奇跡の業で癒し、悪霊を追い出してこられました。「あれだけの力があったのだから、十字架から降りることだってできるはずだ」、そう考えたのでしょう。
主イエスは以前、ご自分に与えられる痛みの意味について弟子達にこうおっしゃいました。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである」
「これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である」
この方は、自分を救えないのではないのではありません。救わないのです。自分を救うことが許されていないのです。十字架から降りることは許されないのです。神が、御自分に十字架で死ぬことをお求めになっているからです。今、身代金としてご自分の命を自ら差し出すことが神から与えられた使命であるということをご存じだったのです。契約の血をご自分の体から流すことが求められているのです。
イエス・キリストは十字架の周りで御自分を侮辱する一人一人を、その罪から救いだすために、今痛みを引き受けていらっしゃいます。主の十字架の周りで叫ぶ人たちは、自分たちの罪をこの方にどんどん負わせています。
この十字架の三日後に、人々は墓の中からよみがえられた主イエスを見ることになります。一人や二人ではありません。キリストの弟子達だけではありません。多くの人が殺されたはずのイエスを見ました。
復活なさったキリストにペトロはもう一度招かれ、宣教へと押し出されました。そしてエルサレムの人たちに告げました。
「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
ゴルゴタの丘で主イエスに向かって侮辱の言葉を吐いた人たちは、自分が神に対して何をしたのか、ということに気づかされ、「すべての人に恐れが生じ」ました。
ナザレのイエスをキリストだと信じていた教会の人々を、サウロという若者が先頭に立って迫害していました。サウロはある時、復活のイエス・キリストは話しかけられます。「なぜ私を迫害するのか」
サウロは復活の主の声を聴き、この方が神であることを知り、キリストの使徒パウロとして残りの生涯を生きることになりました。
神の子を侮辱し、殺した人たちが悔い改め、教会の群となっていき、教会を迫害する者が、悔い改めて使徒となっていったのです。
キリストの十字架は人を変えるのです。キリストを十字架に上げ、侮辱して殺した罪びとを、キリストの復活の証人へと変えるのです。
この方の十字架に自分の罪を見出した人は、新しい道を歩み始めます。キリストの証人として、永遠の命に向かって新しく生き始める者とされるのです。神へと立ち返っていく歩み、天の故郷を目指す歩みとなります。キリストの十字架に変えられた者として、改めて今日私たちに見せられた十字架の主のお姿を見つめましょう。