4月17日イースター礼拝の説教要旨

マルコ福音書16:1~8

「彼女たちは、『だれが仮名の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。」(16:3)

イエス・キリストが十字架で殺されたのは金曜日でした。それから三日目の朝、つまり、日曜日の朝、数人の女性が主イエスが葬られた墓に向かって歩いていました。主イエスの遺体に香油を塗ろうとしていたのです。彼女たちは、そこで、空になった主イエスの墓を見ることになりました。

イエス・キリストの証言をまとめて編纂された4つの福音書にはすべて、この朝のことが記録されています。この朝、確かに十字架で殺されたはずのイエス・キリストの墓が空になった、ということ、それが決定的な事実として報告されているのです。

この朝、ナザレのイエスの墓が空になっていた、ということが、後のキリスト教会の信仰の基盤となりました。死者が復活した、という信じがたいことが・・・いや、信じる方がおかしいようなことが、教会の信仰の基盤となったのです。

後に、使徒パウロがコリント教会にこう書いています。

「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたのある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」

確かに、死人が蘇ったということは、誰にとっても信じがたいことです。後のキリスト教会の中にも、キリストの復活を疑う人が出始めていました。

しかし、パウロは言うのです。

「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」

この日の朝起こったことを忘れないために、キリスト教会は毎週日曜日の朝に礼拝を捧げています。私たちはイースターの今日、改めて私たちの信仰の根拠は何か、そして信仰の希望は一体どこにあるのか、ということを確かめたいと思います。

キリストの復活という奇跡を目撃したのは、数人の女性たちでした。この朝、女性たちは驚きました。こんなことになるとは思ってもいなかったからです。

「誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合いながら墓へと向かった、と書かれている。

彼女たちは、墓が石で墓が塞がれている、ということを知っていました。つまり、墓に行っても仕方がない、ということを知っていながら、墓に向かっていました。香油を買って、主イエスの遺体を清めようとしてもその墓には入れない、ということは分かった上で、それでも行ったのだ。

この時の女性たちにとって大事なことは、石をどけることができるかどうか、ではなく、主イエスに近づく、ということでした。無駄だと分かっていても、主イエスの墓に向かわざるを得なかった、主イエスを求めざるを得なかったのです。

私たちはこの朝の女性たちに、信仰の姿勢を見ます。女性たちは「解決策」をもってキリストの墓に向かったのではありませんでした。「どうしようか」と言いながらも、ただキリストを求め、近づき、その先で彼女たちは思いもよらなかった道を示されたのです。

「墓」は、私たち肉なる存在にとっては終着点です。いずれ行きつく「絶望」のように、その先には何もない「行き止まり」のように考えられています。しかし、キリストの墓は終着点ではなく、新しい出発点でした。この方の空の墓は、新しい希望の始まりとして私たちに示されています。

私たちは、確証をもってキリストを求めるのではありません。私たちには、どかすことのできない石があります。どうにも背負えない重荷があります。それでもキリストに近づく、いや、それだからキリストに近づくのです。そして、キリストを求め、近づいた先で、私たちには考えが及びもしなかった神の御業が用意されているのを見見せられます。そうやって、私たちも、この女性たちのように信仰の証人にされていくのです。そのようにして「主は生きておられる、アーメン」という祈りへの導き入れられるのです。

この女性たちは、三日前の金曜日の午後、ゴルゴタの丘にいました。そこで確かに主イエスが十字架で息を引き取られたのを見ました。その夕方、アリマタヤのヨセフによって新しい墓に埋葬されたのを見ました。そしてこの日曜日の朝、女性たちは墓が空になっているのを見ました。

この人たちは、キリストを助けるために何かをした人たちではありません。この女性たちは、ただ、イエス・キリストを見続けた人たちでした。ただ、殺されるキリストを遠くから眺める以外、何もできなかった、無力な人たちでした。

しかし、この人たちが、キリストの死と復活の証人として神に選ばれたのです。

墓の中にいた天使の伝言を受け取り、キリストの弟子達に伝えたのはこの女性たちでした。キリストの十字架の死と復活の証人として、そして天使の言葉を受け取り、運ぶ預言者として彼女たちは、確かに神によって用いられました。

空っぽになった墓の中で、女性たちは、天使から主イエスが蘇られたこと、ガリラヤで弟子達を待っていらっしゃる、ということを告げられます。聖書には、女性たちがそこから逃げ去り、「震えあがって正気を失い、誰にも何も言わなかった」、とある。あまりの恐ろしさに、何も言わなかった、というのです。

マルコ福音書の本編は、そこで終わっています。

しかし実際には、彼女たちは、黙ったままではなかったのでしょう。黙ったままではいられなかったのです。女性たちはこの朝見たことを弟子達に、人々に伝えていきました。彼女たちの証言によって、弟子達は再び集まって祈るようになり、その祈りに聖霊が与えられることになります。

私たちは、この女性たちの姿を通して、「恐れを伴う信仰」ということを考えさせられます。福音を信じるというのは、実は「恐れるべき方を知る」ということではないでしょうか。畏れを伴わない信仰に、死を超えた喜びはありません。女性たちは、この墓の中で、死に勝るものを見たのです。墓を出て逃げ去るほどの恐れを感じました。震えあがって正気を失うほどの恐れです。

空っぽの墓に立って、天使から声をかけられて逃げ出した、この女性たちの恐れから私達の信仰は始まっています。そうであれば、私たちの信仰には恐れが伴うは当然でしょう。なんとなく信じていれば自分にいいことが起こるのではないかと期待して祈ったりするようなものではありません。信仰を通して、私たちは死を超えたものが見せられます。それは、私達の体が打ち震えるほどの希望なのです。

さて、女性たちが墓の中で天使から聞かされたのは、主イエスが以前弟子達におっしゃったことでした。

「私は復活したのち、あなたがたより先にガリラヤへ行く」

弟子達は初めにこう言われた時、この言葉が耳に入りませんでした。「君たちは私を見捨てて逃げるだろう」と言われたので、「そんなことはありません」と言うのに必死だったのです。

この日曜日の朝、弟子達はどこにいたのでしょうか。主イエスから離れ、イエスの弟子である自分はこれからどうなるのかという不安と、本当に自分は主イエスを見捨てて逃げてしまった、という苦しみの中にいました。

弟子達は、天使から言葉を受けた女性たちを通して、もう一度キリストの許しと招きの言葉を聞くことになります。

主イエスと一緒に旅をしていた時、弟子達の心を占めてたのは、「自分たちの中で誰が一番偉いのだろう」ということでした。弟子達は自分のことばかり考えていたのです。

だから、主イエスの言葉を聞けていませんでした。自分に都合のいい言葉ばかりを選別して聞こうとしていました。

自分に都合のいい言葉ばかりを求めて神の言葉を締め出してしまう人には神の言葉は聞こえてきません。自分の中から雑音が消えた時に福音は聞こえるのです。

「あの方はあなたが戻って来ることを待っていらっしゃる。あの方は罪びともう一度迎え入れてくださる」・・・世界の初め、闇の中に「光あれ」と神の声が響いたように、「あなたの命は闇の中では終わらない、光の元へと立ち返れ」という福音が与えられることになります。

天使は、「弟子達とペトロに伝えなさい」と特にペトロ名前を出しました。なぜ特別にペトロなのでしょうか。主イエスを見捨てて逃げただけでなく、三度否定してしまった、弟子達の中でも一番信仰の痛みを感じた人だったからでしょう。

ペトロは一番強い気持ちを持って、誰よりも最後まで近くに従っていきました。そしてそこで誰よりも強く主イエスのことを否定してしまいます。

信仰をもってキリストを求めれば求めるほど、自分の弱さがどんどん見えてきます。それでも主イエスは、「自分の十字架を背負って私に従いなさい」と厳しくおっしゃいます。「私の弟子というだけで君たちは迫害される」とおっしゃり、「あなたがたには世で苦難がある」ともおっしゃいました。

その通りでしょう。ペトロはその言葉通り、信仰の痛みを知りました。だからこそ、キリストは特にペトロの名前を呼んでお招きになったのです。信仰ゆえの痛みを感じる人こそ、キリストの慰めの言葉が向かいます。

「重荷を負うて苦労している者は私のもとに来なさい。休ませてあげよう」

「勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」

神の国の宣教を、今度は許しの言葉を与えられた彼らが、原点であるガリラヤから始めていきます。弟子達は試練を潜り抜けたのです。弟子達がはじめになすべきことは復活の主に会いに行くことでした。

信仰者がまずなすべきことは、いつでも、復活の主のもとに立ち返ることです。あの朝の女性たちや弟子達のように。そこから、新しい道が始まります。