6月26日の説教要旨

使徒言行禄6:1~7

「私たちは、祈りとみ言葉の奉仕に専念することにします」(6:4)

キリストの使徒たちは、「ナザレのイエスのことを話してはいけない」と言ってくる最高法院の権力に屈しませんでした。イエス・キリストの十字架と復活を人々に伝え続けます。キリストの使徒たちの証を聞いたたくさんの人は洗礼を受け、教会に入って来ました。

2:47を見ると、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」とあります。その他にも、「その日に三千人ほどが仲間に加わった」とか、「男の数が五千人ほどになった」などと記されています。

教会は120人が祈るところに聖霊が注がれるところから始まりました。それが、短期間のうちに何千人もの信仰者の群れとなったのです。

エルサレム周辺だけでなく、ローマ帝国全域のユダヤ人が、ナザレのイエスの十字架と復活を聖書の預言の実現として信じるようになり、何千人もの人たちが使徒たちのところに来て、自分たちの財産を神への捧げものとして持ってくるようになりました。

このように見て行くと、教会の成長の勢いはものすごいものだったことがわかります。

しかし、教会にとって人が集まって大きな群れになる・豊かな財産を持つ、ということは、手放しで喜べることではありませんでした。

教会が大きくなるにつれ、当然様々な問題が起きてきます。人の数が増えれば増えるほど、今までなかった問題が生じてくるようになります。

今日読んだところを見ると、分配のことで問題が起きた、ということが書かれています。

教会の中には、ヘブライ語を話すユダヤ人とギリシャ語を話すユダヤ人がいました。

「ヘブライ語を話すユダヤ人」は、エルサレムを中心とした、ユダヤ地方に住んでいたユダヤ人たちのことです。

「ギリシャ語を話すユダヤ人」というのは、地中海全域に離散して住んでいて、当時のローマ帝国で使われていたギリシャ語を話していたユダヤ人、ということです。

エルサレムに形成されたキリスト教会には、今や、ローマ帝国全域・地中海全域に散らばって住むギリシャ語をユダヤ人たちも含む大きな信仰共同体となっていたのです。

ヘブライ語を話すユダヤ人に対して、ギリシャ語を話すユダヤ人たちから分配のことで苦情が出ました。ギリシャ語を話すユダヤ人たちのやもめたちが軽んじられ、その女性たちが受け取る分配が少なくされていた、というのです。

このように、教会の人数が増えると、当然、12人の使徒たちだけでは全体をまとめきれなくなってきます。一人一人に目が届かなくなってきました。そこで教会は新しく7人を選び出し、その人たちが教会の食事の世話などが任されることになりました。

私たちが今日読んだのは、教会の中で新しく世話係が選び出された、というところだ。読んでみると、小さな出来事のように思えます。

しかし、これは、教会が、一つの組織として形を整え始めるきっかけとなった、とても重要な出来事です。教会の成長は新しい段階を迎えたのです。

私たちは、今日読んだ出来事を通して、「教会が成長する」とはどういうことか、様々なことを考えていくことが出来ると思います。そもそも「教会の成長とは何か」、そして「教会を成長させるものは何か」、このことを改めて考えていきましょう。

ペンテコステの後、教会には多くの人がキリストへの信仰を告白し、洗礼を受け、キリストへの捧げものをもって入って来ました。短期間で教会は人数が増え、財産も増えました。

しかし、改めて「人数と財産が増える」、ということだけが教会の成長なのか、ということが問われるのではないでしょうか。確かに、洗礼者が多くいることはキリスト者としてうれしいことですし、教会の財産が潤沢にあれば、安定した運営ができます。

しかし、「教会の成長」というのは、それだけのことではないでしょう。今日の場面で私たちが見たように、人が増え、財産が増えることによる問題が出てくるのです。

「教会の成長の本質とは何か」、「信仰共同体としての成長の本質とは何か」、考えなければなりません。

教会の人数の多さや少なさ、また、教会がもつ財産の大きさや小ささ以上に、神の御心を本当に行えているかどうか、そのことの方が、私たちにとっては大切なことなのです。

イエス・キリストを信じる人たちがその教会の群の中で、正しく神を愛し、正しく隣人を愛することが出来ているかどうか、ということが何より大切なことになってきます。

ギリシャ語を話すユダヤ人のやもめたちにとって、「自分たちに正しく食べ物が分配されなかった」は問題でした。それは、彼女たちだけの問題ではありませんでした。それは、教会全体の問題だった。キリスト教会の中で重んじられる人たちと軽んじられる人たちの線引きができてしまっていた、ということです。

どんなに教会が豊かで、人数が多くても、立場の弱い人が軽んじられている、というのであれば、その教会は成熟していません。「未熟」なのです。そのような教会をご覧になってもキリストはお喜びになりません。

エルサレムの人が、エルサレム以外の人たちを、社会的に弱い人たちを軽んじる、ということが教会の中で起こりました。キリスト教会の中で、神を愛し、隣人を愛する、ということが実践できていないのであれば、教会にどれだけ人が集まり、財産を積み上げても、意味はないのだ。

イエス・キリスト以は前おっしゃいました。最も大切な律法は、「心を尽くして神を愛すること、そしてもう一つは隣人を自分のように愛することである」。全ての律法の掟は、この二つの言葉に集約される、とおっしゃいました。

旧約聖書の律法を見ると、神は「やもめ、寄留者、みなしごを守れ」、と最初に言われています。

聖霊を注がれて出来た教会なのに、早くも神の掟、律法が壊れ始めていました。先に教会の一員となっていた人たちが、後から来た人たちを軽んじる、ということが起こっていたのです。

キリストの使徒たちは、驚いたのではないでしょうか。イエス・キリストの福音を語り、それを聞いて洗礼を受けた人たちの間で、早くもそんな俗っぽい問題が起こったのです。

私たちも、ここを読んで、「キリストの十字架の救いを知った人たちの間で、どうしてこんなことが起こるのか」と不思議に思うのではないでしょうか。

しかし、これが人間なのです。この事件を通して私たちは、自分たちの教会のことを振り返る必要があるでしょう。

旧約聖書を通してイスラエルを見ても、新約聖書を通して教会を見ても、その信仰共同体の中に起こるのは全て、とても人間的で、俗っぽい問題でした。派閥争いや、嫉みあいとか、不平等といったことです。

出エジプトの際、荒れ野の旅の中、モーセだけが神と話をすることを妬んだ人たちがいました。しかも、それはモーセの兄弟たちでした。イスラエルの指導者・預言者・祭司でありながら、兄弟同士で妬みあっていたのです。

パウロの手紙を見ても、パウロの使徒としての権威を妬む人たちが教会の中にいたことがわかります。

教会の人数が増えると、「私たち」と「あの人たち」という風に、小さなきっかけで派閥が生まれ始めます。コリント教会がそうでした。同じ教会の中で、「私はペトロにつく」「私はパウロにつく」などという争いが起こっていたのです。パウロは、「イエス・キリストはいくつにも分かれてしまったのですか」と厳しく戒めています。

私たちは聖書を通して、信仰共同体の中に、どれだけ簡単に人間の思いが入り込んでくるかを見ることが出来ます。信仰共同体は本当にささいなことで、単なる人間の集まりに堕落してしまう危険性をはらんでいるのです。

さて、ここで大切なのは、キリストの使徒たちがどのようにこの問題に取り組み、乗り越えたのか、ということです。

使徒たちは、「ギリシャ語を話すユダヤ人女性が軽んじられている」という訴えを、謙虚に、神の言葉に耳を傾ける機会として捉えました。彼らが頑張れば、この問題は解決したかもしれません。

しかし、彼らが恐れたのは、食事の世話という仕事に追われて、神の言葉をないがしろにしてしまうことでした。どうすれば祈りとみ言葉の奉仕に専念することができるのかを彼らは考えました。

使徒たちは、「霊と知恵に満ちた人」を7人選ぶよう、教会の人たちに伝えました。12使徒が直接7人を選んだのではありません。使徒たちは、使徒としての権威を用いて自分たちが選ぶこともできたでしょう。しかし、そうはしませんでした。

人間としての身分や偉さではなく、ただ、霊と知恵に満ちた人を、「祈りをもって、あなたたちが選びなさい」、とゆだねたのです。

教会は、祈りを通して、7人を選び、選ばれた7人の上に、使徒たちは祈って手を置き、任命しました。

思い返したいと思います。キリストの使徒たちは、主イエスが十字架で殺される前は、「自分たちの中で誰が一番偉いのだろうか」ということを考えていたような人たちでした。しかし、彼らは今、誰一人教会を自分のものとして考えてはいません。自分がどれぐらい偉いか、なんてことは考えていません。祈りを通して、ただ、神の導きに委ねています。

使徒たちは、祈りを通して、自分たちが教会を独占するのではなく、教会員同士が、皆でキリストの使命を担いあい、互いに仕えていく仕組みを作っていきました。キリストの教会を、キリストのものとするために使徒たちは働いたのです。

教会の成長は何から始まるのでしょうか。教会の中に問題が起こり、その問題に取り組む中で教会は成長していくのです。

荒野の40年のイスラエルの旅が終わる時、モーセはイスラエルに言いました。

「主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうか知ろうとされた」(申命記8:2以下)

モーセは、荒れ野での苦しみは、神から与えられた試練だった、と言います。そしてその試練を通してイスラエルは成長しました。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出る全ての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」、と言います。

これが我々キリスト教会に与えられる試練の意味ではないでしょうか。教会の中にはいつでも問題があります。人間関係であったり、財産の問題であったり、全て人間的な、人間臭い問題です。「地上的な・この世的な」問題です。

大切なことは、私達がそれらの「この世的な」問題に対してどう「信仰的に」向き合うか、ということです。様々な試練の中でどう成長していくか、ということを神から問われています。

私達は様々な問題に対して、使徒たちがしたように、聖書の言葉と祈りによって向き合い、み言葉の奉仕に専念することで、「教会を生かすものが何か」、ということを学ばされていきます。苦難の中でこそ、嵐の中でこそ、荒れ野の中でこそ、私たちは神の声を聞き、神の導きを知るのです。

ヘブライ人への手紙に、こういう一文があります。

「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない」

キリスト者は、キリスト教会は常に試練の中にあります。悩みのない人などいないように、教会もいつも課題を抱えています。試練の中で、神を恨むこと、キリストを恨むことは簡単です。しかし、試練には必ず意味があります。試練の中で、神の民は、必ず成長させていただけるのです。

自分たちの力ではどうしようもない、その弱さの中で、祈り、み言葉を聞くことによって、教会は道を天から示されます。教会は、私たち信仰者一人一人は、そのようにして神の試練を通して強められていくのです。