7月24日の説教要旨

使徒言行禄9:1~9

「サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った」(9:8)

教会の迫害者サウロは、イエス・キリストから声を掛けられ、キリストの使徒として召され、後にパウロと呼ばれるようになりました。もし、使徒パウロがいなかったら、今の教会の姿は随分違ったものになっていたのではないでしょうか。少なくとも、新約聖書の中身は全く違ったものになっていたでしょう。

サウロは、ステファノに石を投げて殺した民衆の中にいました。ステファノを殺害することを正しいことだと信じていたのです。サウロはキリスト者たちをもっと迫害しようと、ダマスコに向かう途中で復活のキリストから呼びかけられました。このことが、サウロのその後の人生を大きく変えることになりました。

迫害者サウロが使徒パウロとなり、ユダヤ人の地域を超えて異邦人へと福音を伝え、アジアからヨーロッパへとキリスト者の群れが広まっていくことになります。そのことを考えると、今日読んだサウロとキリストの出会いというのは、キリスト教会にとって、つまり私達一人一人にとって、大きな意味を持つ出来事だと言っていいでしょう。

神が誰か一人を召し出される、ということが時代を超えてどれだけ大きな意味を持っているのか、ということに、私達は思いをはせたいと思います。そして、私達が信仰者として誰かに出会う、ということ、また、私達の今の信仰生活が、実は次の時代にどれほど大きな意味を含んでいるのか、ということも考えたいと思います。

神が誰かを預言者・使徒へと召し出される時、その選びには不思議があります。聖書を読んで面白いのは、神に選ばれた人は皆、なぜ自分が選ばれたのか分かっていない、ということです。むしろ、選ばれた方の人間は神に向かって「いや、私ではないでしょう。私はあなたの働きにはふさわしくありません」と言うのです。しかし、神は「いや、あなただ。私は弱いままのあなたを求めている。私はあなたを通して働くのだ」とおっしゃって、召し出されます。

旧約聖書に預言者エレミヤという人が出てきます。エレミヤは若くして神から声を掛けられ、預言者として召されました。19か20歳ぐらいの時だったと言われています。エレミヤは、自分が神の言葉をイスラエルに伝える預言者として働くなど、自分には無理だ、と言いました。「自分は若者に過ぎない」、と。

しかし、神はおっしゃいます。「自分は若者に過ぎない、と言ってはならない・・・私はあなたが母の胎にいるときから選んでいた。」

パウロも手紙の中で、「自分は母の胎にいる時から選ばれていた」と、エレミヤと同じことを書いています。パウロも、エレミヤと同じように、なぜ自分が選ばれたのかはわかりませんでした。

「私は教会を迫害したのですから、使徒の中で最も値打ちのない者です」と書いている。確かにそうでしょう。神はなぜ教会を迫害していたサウロを使徒として選ばれたのでしょうか。神の選びの不思議は、本人たちにも、そして聖書を読む私達にも、隠されています。間違いなく言えるのは、「神にはご計画をもってその人をお選びになった」ということです。

今ここにいる私たちも「なぜ、自分が今ここにキリスト者として召されているのか」は、自分ではわかっていないでしょう。ただ神が私をご覧になり、選び分け、時を備えて、ご自分の元へと招いてくださり、私を通して・用いて何かを行おうとなさっている・・・それだけしか言えないのではないでしょうか。

教会の迫害者サウロが、どのように変えられていくのか、しっかりと見て行きたいと思います。サウロに起こったことが、私たちに起こったことでもあるからです。

キリストを知ることによって、パウロはどう変わったでしょうか。一言でいうと、パウロの中で誇るものが変わりました。キリストに出会うまで、パウロが誇りにしていたのは、「自分」でした。

パウロはいろんな手紙の中で、キリストに出会うまでの自分は、自分自身を誇っていた、とガラテヤの諸教会に書いています。

「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年頃の多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」

聖書の教えを守るのに、同じ年頃の誰よりも徹底していた、と自負しているのだから、ものすごい自信です。

フィリピ教会にはこう書いています。

「私は・・・イスラエルの民に属し・・・ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした。」

自分こそイスラエルの中で最も聖書の教えを熱心に守っている者だったと言い切っています。実際、神の教えを守るために、キリスト者・教会を迫害するほどの熱心さをもっていました。彼は、自分ではそれが正しいことだと思っていたのです。

しかし、キリストに出会った後、パウロは変わった。

「しかし・・・私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています」

キリストに出会う前は自分自身を誇りにしていたことを、パウロは「肉の誇り」と表現しています。そして、キリストを知ってからは、律法の知識をたくさん持っていることや、自分が民族的に純粋なユダヤ人であるといった「肉の誇り」など、塵芥となった、と書いています。

パウロは、キリストを知ることによって、自分を誇る者からキリストを誇る者となりました。「自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」

これは、キリストに出会った人が皆体験することではないでしょうか。誰もが、「強くなりたい」と思い、自分を誇れるようにもがき、他者と自分を比較して思いあがったり落ち込んだりします。しかしキリストとの出会いがそれを変えます。

実際パウロは、強い人でした。「私には聖書の知識がある。ヘブライ人の中のヘブライ人だ。誰にも負けない」と言えるほどの人でした。しかし、キリストを知ってからは、自分を誇る人から、「誇る者は主を誇れ」と言う人へと変わりました。イエス・キリストを知っている・イエス・キリストに知られている、ということが、信仰者の誇りとなるのです。

サウロは後に、パウロと呼ばれるようになります。サウロはヘブライ語の名前で、イスラエルの最初の王様となったサウルと同じ名前です。

しかし、サウロは、「パウロと」いうギリシャ語で小さき者という意味の名前で呼ばれるようになります。

王様のように自信に満ちていたサウロは、キリストに出会い、「いと小さき者・パウロ」と名乗るようになったのです。パウロはキリストに出会って、小さきものへと変えられました。

私たちもそうです。キリストを知る、ということは、神の前に自分がいかに小さいか、ということを知る、ということでしょう。自分を誇ることの愚かさを恥じ、キリストを誇る喜びを知る、ということです。

今まで自分が誇りとしていたこと、価値を見出していたことが突然塵芥になってしまうと、普通は、空しさを覚えます。「今までの自分は何だったのか」、と悩むでしょう。しかし、イエス・キリストとの出会いによるその変化は、新しい誇りを見出す、ということなのです。

サウロはキリストとの出会いを通して、何を見せられたのでしょうか。キリスト者たちを迫害しようとして意気込んでいたサウロに天から光が照らされました。パウロは天からの光に向かって「あなたはどなたですか」と聞きます。

「あなたが迫害しているイエスである」

サウロは自分が正しいことをしていると思っていました。キリスト者たちの道が間違っていて、自分の道が正しいと思っていました。教会を迫害すれば神は喜んでくださると思っていました。

しかし、キリストはそのサウロの道を絶たれました。それがサウロの召命でした。神から「あなたの道は違う。あなたに私の道を歩ませる」と方向を変えられたのです。それが神の召しです。

そしてこれが、キリストとの出会いの中で私達に起こることなのです。

道を変えられる、ということ。

サウロは目が見えなくされてしまいました。人々に手を引いてもらわなければならなくなりました。

「自分が民衆の信仰を正す・導くのだ」、という自負を持っていたサウロが、逆に、誰かに導いてもらわなければならなくなりました。あの、自分を完全無欠だと自信をもっていたサウロが、自分では何もできなくなってしまったのです。

サウロは、その無力さの中で神から教えられました。「結局自分を導くのは神である」「神に導いていただかなければ、自分は正しい道を歩くことが出来ない」、ということを。サウロは、自分の誇りを無にされ、その上で、自分が神から導きが与えられなければ何もできないものである、ということを無力さの中で学ばされました。

自分を誰かに委ねる、ということは勇気がいることです。本当は全て自分の力でできるようにしておきたいのです。しかし、人は、生きる中で自分にどんなに力があってもどうにもならないものがあることを思い知らされていきます。

サウロは、使徒パウロとなるために、まず神の前に自分がどれだけ無力であるかを学ばされました。エジプトから救い出されたイスラエル人々が、神がいてくださらなければ一日たりとも荒野で生きることができない、ということを学んだように。

後にパウロは、手紙の中でこう書いている。

「神の恵みによって今日の私があるのです。・・・私は他の全ての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実は私ではなく、私とともにある神の恵みなのです」

パウロは手紙の中で、何度も自分がキリストに召された時のことを書いていろんな教会に送っている。パウロにとって、「自分が何者か」ということは、「自分がどのようにキリストに出会ったか」「自分がどのようにキリストに導かれているか」ということでした。

今、ここにいる私は何者か・・・信仰者がそれを言い表すとしたら、「このようにイエス・キリストに出会った者だ」という言い方になるでしょう。私達は無力さ・空しさの中でキリストと出会います。そして、キリストが私たちの内にある穴を満たしてくださいます。キリストに満たされた私たちは、そのキリスト無しには自分を語ることが出来ないのです。

預言者エレミヤは神の言葉を伝えている。

「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、このことを誇るがよい。目覚めて私を知ることを」

今、私たちの誇りはキリストを知っている、ということに変わりました。このことこそ、天に積まれた宝として喜ぶことなのです。