12月18日の説教要旨

創世記21:1~22

「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱きしめてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」(21:17~18)

神はこれまで何度もアブラハムとサラの二人に、「あなた方の間に男の子が生まれるだろう」と予告して来られました。15章、17章、18章にそのことが記されています。神は、男の子の誕生だけでなく、「その子をイサクと名付けなさい」と、名前まで備えていらっしゃいました。

しかし、その神の言葉をきいたアブラハムもサラも、「年老いた自分たちに子供が生まれるはずがない」と、笑って来ました。笑い飛ばしてきた、と言ってもいいでしょう。

しかし、私たちが今日読んだ創世記21章で、神がおっしゃった通りアブラハムとサラの間にイサクが生まれたことが記されています。人間には考えられないことを神は成し遂げられました。年老いた夫婦の間に、命を創造されたのです。

イサクが生まれてサラは「神が私に笑いをくださった」と喜び、神の御業を讃美しています。サラのこれまでの笑いは不信仰の笑いでした。しかし今、不信仰の笑いが、信仰による笑いへと神によって変えられたのです。

アブラハムとサラという年老いた夫婦の間に神の恵みによって男の子が生まれた・・・そのことだけを見れば、これは喜びの出来事であり、私たちを神への賛美へと導く奇跡だと、手放しで言えるでしょう。

しかし、イサクの誕生は単なる喜ばしい出来事として終わるものではありませんでした。今日私たちは、イサクの誕生の場面だけでなく、その後に起こった出来事も見ました。イサクが誕生したことにより、ハガルとイシュマエルという親子がアブラハムの下から追放されることになってしまうのです。

イサクが誕生したことによって生み出される悲劇、そしてそれを超えて働いて行かれる神の御業を、視野を広くもって見ていきましょう。

さて、イサクの誕生の場面を読むと面白いことに気づきます。アブラハムが出てこないのです。イサクの誕生の際に、「アブラハムとサラが一緒に喜んだ」、という書き方はされていません。イサクが乳離れした日に、アブラハムが盛大な祝宴を開いた、ということだけが8節に書かれています。イサクが2歳か3歳になったぐらいで、ようやくアブラハムが登場するのです。

21章の最初を見ると、「主は、約束された通りサラを顧み、先に語られた通りサラのために行われた」とあります。「サラを顧み、サラのために」行われた、とあるように、聖書は、アブラハムではなくサラの方に焦点を当てています。そして、イサクが誕生して喜んだサラの言葉だけがここに記されているのです。

私たちはここで、サラという女性に注目したいと思います。それほど、このサラという人は、神の祝福に相応しい人だった、ということなのでしょうか。

サラがこれまで何をしてきたのか、どんな人だったのかを見返すと、とても「神の祝福に相応しい人だ」と断言することはできないでしょう。サラは、アブラハムの家庭をかき乱してきたような人でした。

サラは、自分に子供ができないので、自分の女奴隷であったハガルを夫のアブラハムに側女として差し出し、跡継ぎを得ようとしました。ハガルはアブラハムとの間に子供を宿すと、サラのことを軽んじるようになり、これに怒ったサラは、「ハガルが私を軽んじるのはあなたのせいだ」と夫アブラハムを非難して、ハガルに辛く当たるようになりました。あまりにサラがハガルにつらく当たったのでハガルはサラの下から逃げ出してしまったほどでした。

逃げ出したハガルはサラの下に戻ってきました、サラの下にイサクが生まれ、ハガルの息子イシュマエルがイサクをからかっているのを見ると、サラは不安になり、またハガルを追い出そうとします。

サラはアブラハムに言いました。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、私の子イサクと同じ跡継ぎなるべきではありません。」アブラハムは悩んだ末に、ハガルとイシュマエルと追放することにしました。

サラは、そのような人でした。ハガルにつらく当たったり、ハガルとイシュマエルを追い出したりするサラを見ると、妻としても母としても自己中心的で、わがままし放題の人に見えるのではないでしょうか。

それなのに、聖書をよく読んでみると、神はそのようなサラを中心にご自分の計画を進めていかれるのです。

ハガルが女主人サラにいじめられて逃げ出した時、神はハガルに出会ってこう言われた。「女主人の下に帰り、従順に仕えなさい。」神は、自分をいじめる女主人サラの下に帰りなさい、とおっしゃるのです。残酷な命令のように聞こえるのではないでしょうか。

それだけではありません。「ハガルとイシュマエルの親子を追い出してください」とサラから言われて苦しむアブラハムにも、神は「全てサラが言うことに聞き従いなさい」とおっしゃいました。サラが望む通りハガルとイシュマエルを追い出しなさい、とおっしゃるのです。

このようにして見ていくと、私たちは戸惑うのではないでしょうか。神はなぜサラのような身勝手で、残酷なことを言う女性の味方をなさるのでしょうか。私たちの目には不思議に見えます。

私たちが今日読んだアブラハムの一家に起こったことを見ると、人間の醜さや愚かさ、冷酷さが見えてきます。太古の昔の人たちの家庭は複雑で厳しいものだった、と思えるのではないでしょうか。

しかし、家族の難しさ、人間関係の複雑さというのは、昔も今も変わらないだろう。形を変えて、いろんなむつかしさがあります。家族だから当然お互い愛し合い、受け入れあうことが出来る、などということはありません。それが現実ですし、その現実を聖書は私たちに見せつけます。

しかし、聖書を読む私たちが忘れてならないのは、その人間の営みの中に、神の働きが流れている、ということなのです。創世記のアブラハム物語をよく読んでいくと、悩み苦しんでいる一人一人に、神が確かに寄り添っていらっしゃることがわかります。

ハガルがサラから逃げ出した際、神はハガルを追いかけ、「あなたが生む男の子にイシュマエルと名付けなさい。イシュマエルから大きな国民が生まれる」と祝福を告げられました。その祝福と共に、ハガルはサラの元へと帰ったのです。

アブラハムの下から追い払われたハガルとイシュマエルがベエル・シェバの荒れ野で死ぬのを待ちながら泣いていた時、神がまた追いかけてきてくださいました。「ハガルよ、恐れることはない。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱きしめてやりなさい。私は、必ずあの子を大きな国民とする」と再び祝福なさいました。

神には、大きなご計画があった。

イサクとイシュマエルという二人の男の子から大きな国民を生みだす、というご計画でした。

逃げ出したハガルはサラの下に戻る必要があった、そしてハガルとイシュマエルはイサクから離れる必要があったのです。神は、悩んだり苦しんだり泣いたりするアブラハムの家族一人一人に寄り添いつつ、ご自分の計画のためにそれぞれを導かれていますハガルにもサラにも、イサクにもイシュマエルにも、それぞれに道を用意していかれるのです。

そしてその道は、イエス・キリストの誕生へとやがてつながるのです。

ヘブライ人への手紙に、こういう言葉がある。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」

そして、旧約聖書に出てくる信仰者たちの名前を挙げられ、こう書かれています。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」

「彼らは天の故郷を熱望していたのです」

アブラハムも、サラもハガルも、イサクもイシュマエルも、神のご計画の実現を自分の目で見ることはできませんでした。自分の目で、「大きな国民」を見ることはできませんでした。しかし、自分の思いをはるかに超えた神の祝福の計画を信じて、それぞれの地上での命を生き抜いたのです。

イエス・キリストは、「神の国はいつ来るのか」と尋ねられた時、こうお応えになりました。

「神の国は、見える形では来ない。ここにある、あそこにある、と言えるものでもない。実に、神の国はあなた方の間にあるのだ」

私たちは、アブラハムの家庭内で起こった醜い争いの中に、神の恵みの支配、神の国を見出すことはむつかしいでしょう。祝福されたはずのアブラハムの一家には衝突や葛藤がありました。

アブラハム自身、サラとハガルの間に立って苦しみ、イサクが生まれると、イシュマエルを追い出さなければならなくなり悩みました。皆、悩んだり泣いたり、苦しんだりしています。

しかし、神は、いろんな人間の衝突や葛藤の中、一人一人に寄り添い、その人に相応しい道を示し、導かれていらっしゃいます。

イシュマエルはやがてたくましく育ち、荒れ野に住んで弓を射る者になり、大いなる国民の初めの者となりました。そしてイサクからはやがてイスラエルの民が生まれてくることになります。

私たちは、目の前に見える景色だけで神のご計画を判断してしまいます。アブラハムの一家は醜い骨肉の争いをしていたのか、とか、サラは自分勝手な女性だ、とか、そのようなことだけに目が向いてしまいます。しかし、そのような愚かとも見える人間の業を超えて、そして何世代にもわたる広さ、大きさをもって神は全ての人をご自分の元へと集めようとなさっているのです。

イサクの誕生は、年老いた夫婦に男の子が与えられた、という不思議な出来事でした。そして、この男の子から、神が大いなる国民を生みだしていかれた不思議を聖書は描いているのです。

私たちは、新約聖書の福音書に記録されているアブラハムから続く系図を知っています。このアブラハムからイサクが生まれ、イサクからヤコブが生まれ、そのヤコブがイスラエルとなり、イスラエルの12人の子供たちから始まるイスラエルの民はやがてダビデ王を生み、やがてその系図はイエス・キリストへとつながることになります。

そしてキリストによって神の子とされた私たちにとって、アブラハムにイサクが生まれた、ということは、一歩キリストの誕生へと近づいた、という出来事であり、それはキリスト教会である私たちの誕生へと近づいた出来事だと言っていいのです。

繰り返しますが、アブラハムも、誕生したイサク自身も、神が彼らにおっしゃった「大いなる国民」の姿を見ることはありませんでした。人が生きている間に見ることが出来ないほど大きなご計画を神は持っていらっしゃいます。そしてその中で一人一人がその計画の中で必要な使命が与えられていて、その使命を果たすための力も与えられている、ということを聖書は伝えているのです。

私たちの目から見ると、アブラハムの苦しみ、ハガルとイシュマエルの絶望の涙に不条理を感じるのではないでしょうか。しかし、それぞれがそれぞれの立場で苦しむこの家族一人一人に、神は確かに寄り添い、働きかけていかれました。

アブラハム、サラ、イサク、そしてハガル、イシュマエルという家族の間にあった葛藤や涙がどのように神に用いられていったのか、私たちは今日、アドベントの中、しっかりと見つめていきたいと思います。全て、イエス・キリストへとつながっていくことになったのです。

生きる中で、アブラハムたちのように葛藤を抱える私達と共にいてくださるインマヌエルの君の誕生を喜びましょう。