2月19日の礼拝説教

使徒言行禄17:22~34

「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見出すことが出来るようにということなのです」(17:27)

ヨーロッパ大陸に入ってからのパウロの福音宣教は、迫害を受けては次の町に逃げる、ということの連続でした。

「メシアはかならず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」

「このメシアは私が伝えているイエスである」

このパウロが語る福音を聞いた一部のユダヤ人たちから迫害され、追い出されてきました。

テサロニケでも、ベレアでもそうでした。

今、パウロは一人でアテネの町へと逃げて来て、シラスとテモテが後から追いつくのを待っています。二人の仲間がアテネに来るのを待ちながら、パウロは今まで同じようにキリストの福音を語りました。

アテネの町の「いたるところに偶像があるのを見て憤慨した」パウロは、広場に行き真の神を伝えようといろんな人たちと討論しました。そこにはストア派やエピクロス派といった哲学者たちがいました。

「全てのアテネ人やそこに滞在する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていた」と聖書に書かれています。アテネの人たちはパウロが語ることに興味を覚え、パウロをアレオパゴスへと招きました。パウロは一人でアレオパゴスの丘に立ち、人々に真の神を証しすることになったのです。

今日私たちが読んだのは、その時語ったパウロの言葉です。聖書を知らない人たち・イスラエルの神を知らない人たち・イエス・キリストを知らない人たちに、パウロがどのように神を証ししたのか、見ていきたいと思います。

偶像がたくさんある町の人たちだからといって、パウロは諦めませんでした。むしろ、パウロは、アテネの人たちはそれだけ神を求めているのだ、という希望をもって福音を語っています。

パウロははじめにこう言いました。

「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなた方が信仰のあつい方であることを、私は認めます。アテネの人たちが『知られざる神』と呼んでいる神について、あなたがたが知らずに拝んでいるものをお知らせしましょう」

パウロがアテネで見た「知られざる神に」と刻まれた祭壇は、「神をこの目で見たい」という人間の思いの表れでもありました。人は自分の目に映るものに弱いのです。漠然と「神」という存在を認めて、求めてはいる、しかし、目に見える形でなければ、求めにくい・・・だから、自分たちの手で木や石などの像を作って「これが神だ」と見える形にしたがるのです。

そのことは、アテネの人たち・異邦人だけのことではありませんでした。ユダヤ人であったイエス・キリストの弟子達もそうでした。

イエス・キリストと弟子達が、エルサレムに上って来て神殿を見た時、弟子達は興奮して言いました。

「先生、ご覧ください。なんと素晴らしい石、なんと素晴らしい建物でしょう」

しかしキリストは冷めた口調で答えておっしゃいました。

「これらの大きな建物を見ているのか」

ハッとさせられる言葉ではないでしょうか。弟子達が目に映るもの・外側だけを見て、その本質を全く見ていないことを指摘されたのです。弟子達が見たのは、「神殿の石、神殿の建物」でした。神殿を通して神に心を向けたのではありませんでした。ただ、石と、建物に心を奪われたのです。そのことを主イエスは冷静に指摘なさいます。

「君たちは建物を見ているのか」

また、ヨハネ福音書にはイエス・キリストの墓が空になったのに、主の復活を信じられなかったトマスのことが記録されています。トマスは、他の弟子達から主イエスの墓が空になったと聞いても、主イエスが復活なさったということは信じませんでした。「あの方の手に釘の後を見、この指を釘後に入れて見なければ、また、この手をそのわき腹に入れて見なければ、私は決して信じない」とまで言いました。

その後、復活のキリストに会い、自分の目でその姿を見たトマスは、「私の主、私の神よ」と言いました。キリストはそのトマスにおっしゃいました。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」

「見ないで信じる人は幸いである」とは、私たちがいつ聞いても反省させられる言葉ではないでしょうか。

パウロは、「知られざる神」と刻まれた偶像を礼拝していたアテネの人たちに希望を見出しました。拝んでいるのが「知られざる神」「偶像の神」であっても、そこに神を求める心がある、ということなのです。

アテネの人たちに向かって、パウロが一番に伝えたことは、神は「世界とその中の万物を作られた神である」ということでした。神は天地の造り主である、というのは聖書が創世記で一番に伝えていることです。つまり、神を知ろうとする上で一番大切なことでした。

パウロは、この世界をお創りになった神は人間の手によって造ったものの中に納まるような存在ではない、ということから伝え始めました。繰り返しますが、人は見える物に弱いのです。パウロは、偶像を作って拝むということの恐ろしさを知っていました。聖書が伝えているイスラエルの歴史は、偶像礼拝による滅びの歴史でした。

イスラエルの王、ソロモンがエルサレム神殿を建てた時、ソロモンはこう祈りました。

「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることが出来ません。私が建てたこの神殿など、なお相応しくありません。」

ソロモンが言うように、神は天から目を注がれる方でした。人が造った建物の中に押し込められるような方ではありません。

神は、神殿を捧げて祈るソロモンにおっしゃいました。

「もしあなたたちとその子孫が私に背を向けて離れ去り、私が授けた戒めと掟を守らず、他の神々のもとに行って仕え、それにひれ伏すなら、私は与えた土地からイスラエルを断ち、私の名のために聖別した神殿も私の前から捨てる」

しかしイスラエルはその後偶像礼拝に走り、神の言葉通り、400年後にエルサレムは滅んでしまうことになります。パウロは聖書を通してその歴史を知っていました。偶像礼拝がどんな破滅をもたらすかを知っていました。だから、神は人間の手で作られるものではなく、人間を・世界をお創りになった神である、ということを一番に伝えたのです。

パウロは次に、神が人間を求めていらっしゃることを語りました。神は人をお求めになり、人に求められることをお望みになっているのです。

その招きのしるしとして、神はイエス・キリストの十字架と復活を世に示されました。パウロが伝えるのは、この方でした。

パウロは広場で語ったように、アレオパゴスでも、神が天創造の神であり、人を愛して求めていらっしゃる神であり、そのために、御子イエス・キリストを十字架に上げ、墓から復活させられたことを順を追って語りました。

アレオパゴスでパウロの言葉を聞いた人たちはどう反応したでしょうか。人々は「死者の復活」ということを聞いてあざ笑いました。そこでパウロの言葉を聞いていたのは、主に哲学者たちでした。「死者の復活」なんてことは、哲学的ではないのです。

「死者の復活」ということは、信仰の躓きとなる出来事ではないでしょうか。「そんなことは信じられない」と、誰もがトマスのように言うでしょう。

もしもパウロが、イエス・キリストの出来事を死者の復活に触れずに神について・キリストについて語っていたら、もっと受け入れられたかもしれません。しかし、パウロは、メシアの十字架と復活という、一番信じにくいこと・一番信仰の躓きとなることを抜きに神の救いを語ることはできませんでした。

これは私たちも考えることではないでしょうか。イエス・キリストの十字架と復活を語ることなく福音を伝えることが出来たらどうだったでしょうか。聖書の救いがもっと単純なご利益宗教だったら・・・「聖書の神を信じたらこんないいことが自分に起こる」と簡単に言えたら・・・もっとたくさんの人が簡単に信じてくれるのではないでしょうか。

しかし、私達は、イエス・キリストの十字架と復活を抜きにして福音を語ることはできません。神が独り子を我々人間の罪の身代わりとして十字架に上げ、三日後に墓の中から起こされた、というその不可解な救いの御業こそが、福音の中心だからです。神は、独り子の十字架を通して罪の許しを示され、独り子の復活を通して永遠の命の希望を示されたのです。

救い主が十字架で殺され、そして墓の中から蘇った、という信じがたい出来事を通して神は罪びとを招かれました。だから、キリストの使徒と同じように、私たちも、イエス・キリストの十字架と復活を抜きにして神を伝えることはできないのです。

私達は考えたいと思います。アレオパゴスで笑われたパウロの福音宣教は結局無駄だったのでしょうか。アテネの哲学者たちはパウロをあざ笑って皆、、その場から去っていきました。

しかし、34節を見ると、パウロについて行って「信仰に入った者も、何人かいた」とあります。ほとんどの人が信じない中で、何人かの人は、パウロが伝える、信じがたい神の救いの御業を受け入れたのです。

福音の種まきは、決して華々しいものではありません。キリストの使徒たちの姿を、パウロを見ればわかります。全ての種が芽を出して実を結ぶのではありません。蒔かれた中のほんのわずかな種が、少しずつ根を張っていくのです。

聖書には、「残りの者」という言葉がよくつかわれている。イスラエルの歴史の中で、偶像礼拝に走る人たちの中でも、最後まで真の神への信仰を捨てなかった少数の人たちがいました。その人たちのことを聖書は「残りの者たち」と呼ぶのです。切り株の脇から生えてくる小さな若枝、ひこばえのような人たちです。

神から離れて行く人たちの中にあって、神と共に生きる道に留まることには痛みが伴います。孤独を感じることをも、笑われることもあります。信仰の痛みを感じることもあります。

それでもキリスト教会は、キリストの十字架と復活を語ります。キリストが十字架で私たちの代わりに背負ってくださった罪の重さを、そして復活を通して示してくださった永遠の命の希望の明るさを知っているからです。

私たちには、この地上でキリストのために担う痛みがあります。パウロは手紙の中でこう書いています。

「私たちの一時の軽い艱難は、比べないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。私たちは見える物ではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」2コリ4:17

アレオパゴスにいたアテネの人たちはパウロが語る福音をあざ笑いました。使徒としてパウロは福音を語る痛みを覚えています。使徒言行禄を見ると、キリストの弟子達、使徒たちの働きは、いつでも福音を伝えるのに苦しんでいます。

しかし、この痛みこそが、キリスト者にとっての喜びでもありました。使徒たちがキリストの福音を伝えて最高法院に捕らえられて鞭で打たれた時、彼らは喜んだことが記録されています。

「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ」

パウロは手紙の中でこう言っています。

「その一人の方は全ての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分のために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」2コリ5:15

「その一人の方」とはイエス・キリストのことだ。私達は、私達のために死んでくださったイエス・キリストのために生きるようになります。そのことが、実は、一番自分らしい生き方なのです。神に造られた私達にとって、神を求めて生きる、ということが一番自然な生き方だからです。

キリストのために担う私たちの一瞬の痛みが、小さな芽を生みだし、やがて大きな天の収穫を生んでいくことになります。

神は、私達のその姿をご覧になっている。

「信仰をもって生きているかどうか自分を反省し、自分自身を吟味しなさい。」1コリ13:5

神の畑で種まきを続ける農夫であり続けたいと願います。