5月21日の礼拝説教

使徒言行禄20:13~24

「今、私は霊にうながされてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるのか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とが私を待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています」(20:22~23)

パウロはエフェソに二年間留まり、ティラノという人が持っていた会堂で、毎日イエス・キリストの福音を語り伝えてきました。彼は、「エルサレムに行き、その後、ローマに行かなくてはならない」、という使命感を抱くようになっていました。

パウロが、まさにこれからエフェソを離れてエルサレムに行こう、という時に、エフェソの町の中で暴動が起こりました。アルテミスの女神の神殿の模型を作って利益を得ていた銀細工師が、パウロが「手で造ったものは神ではない」と言っているのを聞いて人々を煽り、エフェソの教会、パウロに対する暴動を起こしたのです。

エフェソの町の書記官が、この騒動を収めました。「訴え出たいことがあれば、正式な訴えを法廷に出しなさい。創でなければ、暴動の罪に問われる恐れがある」と言われて人々が解散するとすぐに、パウロは弟子達に別れを告げてヨーロッパのマケドニア州へと出発しました。自分がこれ以上エフェソに留まっていたらまた暴動が起こり、キリスト教会が危険にさらされることを憂慮したのでしょう。

パウロはギリシャから舟に乗ってエルサレムに向かうつもりでしたが、そこでもユダヤ人からの妨害があり、計画を変えて、陸路を行くことにしました。パウロは、自分の旅に同行していた人たちを先に行かせ、一人フィリピに残り、フィリピ教会の人たちと除酵祭・過越祭を祝いました。

今日私達が読んだのは、その後のことです。

除酵祭・過越祭が終わってエルサレムへと向かうパウロは急いでいました。

16節 「できれば五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急いだのである」

パウロとその仲間たちは、途中のアソスという港町で、合流し、パウロも船に乗りました。当時は今のように、定期航路船が出ているわけではありませんでした。商人たちの貿易船に載せてもらう、という形で海を進んでいたのです。載せてもらっているので、当然自分たちの都合で急いでもらうことはできません。商人たちの商売に合わせて、船は港から港へと進んでいきます。

船はミレトスの港に寄港しました。どうやら、少し長くここで船は停泊することになったようです。パウロはその時間を使って、ミレトスの港からエフェソに人をやり、エフェソ教会の長老たちを呼び寄せました。

これが、パウロとエフェソ教会の長老たちとの最後の別れとなります。

パウロは、これがエフェソ教会の長老たちに会える最後の機会になることを聖霊を通して知っていました。その最後の機会に、パウロは何を伝えたのか。パウロが一人の牧会者として、二度と会うことの無い信仰の友たちに、何を伝えたのか、そのことに注目したいと思います。

パウロはこれまで、教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せてきました。これは、ユダヤ人の会堂での組織の在り方、つまり、イスラエルの組織運営を踏襲したものです。エフェソ教会は、12人ほどの小さな教会でしたが、群れの運営を中心的に担う長老が任命され、信仰生活を営んでいたのです。

パウロはエフェソ教会の長老たちに、自分の使徒としてのこれまで働きがどういうものであったのかを話しました。

18節以下 「アジア州に来た最初の日以来、私があなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。」

パウロは、「試練の中で、主に仕えて来た」と言っています。「エフェソ教会の人たちのために」ではなく、「主にお仕えしてきた」と言っています。エフェソ教会の長老たちは、自分たちがパウロと過ごした日々を思い出して、パウロの言葉を頷きながら聞いたでしょう。

パウロとエフェソ教会の人たちは、イエス・キリストを証言することに自分の生活を費やしてきました。それは、キリストのために苦しむ日々でした。たった12人ほどの小さな群れが、異邦人の町でキリストを信じて生きることがどんなに大変だったか、すぐに想像できるでしょう。パウロと諸教会のキリスト者は、「成功を共にした」のではありません。イエス・キリストのための苦しみを共にしてきたのです。

パウロはエフェソ教会の長老たちとキリストのための苦しみを共にしてきたことを伝えました。それは、キリストのための苦しみを、これからも担い続けるよう伝えるためでした。パウロは、「これから自分はいなくなるが、どんなことが行く手に待ち受けていようとも、キリストの道を行く自分に倣いなさい」と、エフェソの長老たちに伝えようとしたのです。

「私はいなくなるが、これからも苦しい道をそのまま行きなさい」というパウロの教えは、一見残酷にも聞こえます。しかし、それこそ、イエス・キリストがご自分に従おうとする人たちにお求めになったことでした。

「自分の十字架を背負って、私に従いなさい」

使徒言行禄には、キリストを知らない人たちに福音を伝える「福音宣教者」としてのパウロの姿が多く記録されています。しかし、ここでは、長老を任命し、その長老を呼んで信仰の励ましを伝える「牧会者」としてのパウロの姿を見ることが出来ます。

牧会者としてのパウロの実際にどんな言葉をもって教会を励ましたり叱責したりしたのか、ということは、新約聖書に入れられているパウロの手紙を見ればわかります。パウロはいろんな問題を抱えていた諸教会、ある時は叱責し、ある時は解決策を与えようとしました。

なんのためか、というと教会のキリスト者たちが、正しく信仰に留まるためです。パウロがあれだけたくさん手紙を書かなければならなかったほど、当時の教会は常に問題を抱え、迫害に苦しみ、忍耐の中で歩んでいたのです。

使徒言行禄のパウロの旅の記述を読むと、「励ます」と言う言葉が何度も出てきます。パウロは、これまでの宣教活動の中で、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、キリスト者たちを励ましてきました。なぜ教会には、キリスト者には「励まし」が必要だったでしょうか。皆、キリストへの信仰ゆえに、苦しんでいたからです。

パウロは、「なんとかしんどい思いをしなくて済むやり方はないか。教会が上手く世渡りができる上手いやり方はないか」などとは考えなかった。キリスト者の信仰生活は「逃げ隠れできない」ものだからです。

主イエスご自身がおっしゃっています。

「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることが出来ない。・・・そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」

キリスト者は、隠れることが許されない光として生きることが求められているのです。

そのキリストの教えを踏まえて、パウロは呼び寄せたエフェソ教会の長老たちに「その苦難の生活を続けなさい」、と励ましました。パウロは、「エフェソの教会にはこんな問題があるから、こうして解決していきなさい」というような目先の、細かい指示を出しているのではありません。もっと根本的な、信仰の姿勢を言うのです。

イエス・キリストは弟子達におっしゃいました。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」

パウロはキリストに従う苦難の中で、キリストが自分と共にいてくださっていることを何度も体験していきました。そして苦難の中に喜びを見出していきました。このことは、パウロだけではありませんでした。使徒言行禄5章の最後を見ると、ペトロたち、キリストの使徒が鞭打たれた後釈放された際、「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜」んだ、とある。

「キリストのために苦しむほどの者にされた喜び」を、キリスト者は信仰生活の中で知って行くのです。主イエス・キリストのための苦しみを共にする、ということが教会の喜びです。そこに信仰の不思議があります。

「教会の迫害者サウロ」は、キリストに召されてからは「キリストの奴隷パウロ」として逃げ隠れせず働いてきました。後ににパウロはこう書いています。「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」

神に仕える奴隷として義に至る道の上でキリスト者は様々な痛みを与えられることがあります。教会は、「キリストのための痛み」を共にします。そこに、本当の「聖徒の交わり」があるのです。

パウロはフィリピの信徒にこう書いています。

「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」

辛い過去を辛いものとして思い出しているのではありません。キリストのために共に苦しむことができた喜びを思い出しているのです。

使徒言行禄の16章で既に見たように、フィリピ教会も、小さな群れでした。町の外の川岸にいた数人の祈りの群れから始まった教会でした。当然、その後の信仰生活には数々の試練があったでしょう。

パウロは、そのフィリピ教会の人たちに言っている。

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい・・・どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを捧げ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」

フィリピのキリスト者たちは、思い煩いを超えて、苦難を超えて、信仰の歩みの中で与えられる「神の平和」「キリストの守り」を体験し、共有していきました。それが、教会の成長だったのです。

牧会者としてのパウロは、一人の信仰者としてキリストのために痛みつつキリストの十字架に倣うものでした。

ヘブライ人への手紙にこうあります。 イエスは「ご自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、我々はイエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。」13:12~13

教会は、キリストの血によって罪の汚れを洗い清められた聖なる信仰共同体です。キリストの痛みによって今の私たちがあります。そしてキリストの痛みに倣う私たちの歩みが、次の信仰者のための道筋を残すことになり、天の御国を指し示すことになるのです。

パウロはエフェソ教会の長老たちに、これから自分が行く道についてはっきりとこう告げました。

「どんなことがこの身に起こるか、何もわかりません。ただ、投獄と苦難とが私を待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきりと告げて下さっています」22~23節

彼はこれからの自分の行く手には福音宣教の華々しい成功が待っているのではないことを知っていた。投獄と苦難が、これから行こうとしている道の先にあるものでした。しかしパウロはその道を変えようとはしません。聖霊がその道をパウロに示した「主の道」だったからです。

ロマ8:31「もし神が私たちの味方であるならば、誰が我々に敵対できますか」

私たちにも苦難があります。しかし、キリストは「勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」とおっしゃった。既に世に勝っている方が、私たちと共に歩んでくださっています。誰が、私たちに敵対できるでしょうか。

パウロの時代の教会は、小さな家の教会でした。小さな祈りの群れがなぜ苦難・試練の中を歩むことができたのでしょうか。パウロはエフェソの長老たちに、「神に対する悔い改め」と「主イエスに対する信仰」を証ししてきた、と言いました。生まれたばかりの弱いキリスト教会は、信仰の試練の中でこそ、「神は我々の味方だ」という真理を見せられていったのでしょう。

なぜパウロが「私が試練の中を歩んでいる、その道に倣いなさい」と言えたのか。その道にこそ、信仰の学び・真理の学びがあるからです。

私達もそうです。試練の中にあって、それでもキリストは信頼するに足る方である、ということを学ばされていきます。パウロは苦難が待ち受けているということを分かった上で、自分が行く道の変えようとは考えていませんでした。キリストの恵みに応えるためです。そして、自分の後に続く信仰者のために、足跡を残し、道筋をつけるためです。

私達もそうやって、次の世代の誰かのために、神の国へと続く足跡を残し続けるのです。